暴龍の花歌 作:マンコションベン
「■■ー、ただいまー」
玄関の向こうから、俺の名前を呼ぶ中年女性の声が聞こえた。母さんだ。前の人生では俺の怠惰が毒みたいに積もり積もって、父さんとも母さんとも弟とも、最後には家族と呼ぶのも躊躇するような関係になっていた。
たとえこれが走馬灯でも、最後くらいは誠実に向き合いたい。もし本当に過去へ戻ったのなら、今度こそ怠惰でこじれきる前の家族でいたい。そう思って、俺は玄関へ向かった。
「お帰り、ママ! 俺、ちょっと大変なことになって――」
扉を開けた母さんが止まった。完全に止まった。知らない女が家の中から出てきたのだから当然だし、俺もその表情を見てからようやく、自分がまだ何も着ていなかったことを思い出した。
「……どちら様?」
「待ってママ、俺だよ! ■■だよ!」
母さんは無言で鞄からガラケーを取り出した。画面を開き、迷いなく番号を押し始める。その手つきからして、一一〇番まであと数秒しかない。
「待て待て待て! 通報は待って! 本当に俺だから!」
「あのねえ! 私の息子を騙ってオレオレ詐欺するなら、せめて性別くらい合わせなさいよ!」
「それは俺だってそう思う!」
俺は反射的に床へ額をつけた。土下座である。前の人生でも工場バイト中にトイレへ籠もってスマホゲームをやっていたのがバレた時など、数々の危機で投入された俺の必殺技だった。ちなみにその時は「そのスカスカの頭下げて何の価値があるんだ」と言われて普通に許されなかった。
「頼む! せめて話だけ聞いてくれ! 俺が五歳の時に便器へ玩具を流して壊して、三日くらい説教されたこと覚えてるだろ! 俺が大きな病気した時、母さんがずっと病院に付き添ってくれたことも覚えてる! あと母の日に一回だけカーネーション送ったら、こっちが引くくらい喜んでた!」
「最後のは余計よ」
「とにかく、まだある! 家族しか知らない話ならいくらでも言える!」
俺は覚えている限りの出来事を話した。小学校の運動会、旅行先で財布をなくしたこと、父さんに内緒で母さんからゲーム代を借りたこと。話せば話すほど、子供の頃の思い出ばかり次々と出てくる。
そこで妙なことに気づいた。最近の家族との思い出が、ほとんど出てこない。子供の頃の記憶はこんなにあるのに、大人になってから家族と何をしたかと考えると、驚くほど空白ばかりだった。
そうか。この辺りからだったんだ。家族と関わるより一人でスマホを触っている方を選び、何か言われれば面倒臭がり、少しずつ自分から距離を作っていったのは。
母さんはしばらく黙って俺の話を聞いていた。ガラケーこそ閉じたが、警戒はまだ顔に残っている。
「……あなたが■■の記憶を持ってるのは分かった。でも、それだけであなたが■■本人だとはまだ信じられない。本人から聞き出した可能性だってあるでしょう」
「ああ、それは正論だ。拷問でも何でもすれば、俺の薄っぺらい人生の情報なんか簡単に取れる」
そこで母さんの表情が少し曇った。自分で言っておいて何だが、息子本人らしき相手から「薄っぺらい人生」なんて聞かされれば、そりゃ嫌な顔にもなる。
「でも一個だけ言わせてくれ。俺が詐欺師だとして、こんな見た目でわざわざ■■に成り代わる意味あるか? もっと効率よく稼げる方法いくらでもあるだろ」
「自分でそんなこと言う?」
「鏡見たからな。客観性はある」
母さんは頭を抱えた。困惑しているというより、どこか見覚えのある頭痛に襲われている顔だった。
「……その妙な図太さと、余計な一言を絶対に我慢できないところは確かに■■っぽいわね。本人認定はまだしない。でも、とりあえず警察へ突き出すのは保留にする」
「ありがとうございます!」
「それとまず服着なさい、阿呆」
投げつけられた服を受け取って、そこで初めて羞恥心が仕事を始めた。さっきまで知らない女の姿で母親と玄関先に立ち、必死に自分が息子だと主張していたことになる。今さら思い返すと、だいぶ酷い。
男物のシャツとズボンを着てみると、全体的にはぶかぶかだった。身体の形が以前とまるで違うせいで、あちこち収まりも悪い。ただ裸より百万倍マシなので文句は言わない。
その時、台所から母さんの声が飛んできた。
「ねえ■■! 台所使うのはいいけど、使ったら片付けろって何回言ったと思ってるの!」
心臓が跳ねた。見ると流しには使った食器、空になった炊飯器の釜、カップ麺の容器が散らばっている。さっきまで飢えで頭がおかしくなっていたとはいえ、食うだけ食って完全に放置していた。
「ご、ごめん。今やる」
流しへ向かい、まず釜を洗う。前の人生では、こういう洗い物すら早く終わらせてスマホを触りたい一心で適当に済ませていた。米粒が残っている、油が落ちていない、そんなことで何度注意されたか分からない。
一回一回は小さい。皿の一枚、ゴミの一つ、頼まれごとの一つ。それでも俺がやらなければ、結局は誰かが代わりにやる。
母さんは確かに俺を愛してくれていた。けれど、愛情とは有限だということも、前の人生で俺は嫌というほど思い知った。いくら家族でも、何年も一方的に負担を押しつけられれば削れていく。
俺はその愛情を、日々の小さな怠惰で少しずつ使い潰した。最後になって「家族なのに」と嘆いたところで遅かった。家族であることを理由に甘え続けたのは、俺の方だった。
だから今回はちゃんとやる。これが第二の人生だろうが、死ぬ間際に見ている長い夢だろうが関係ない。スポンジで釜の内側を洗い、指で触って米粒が残っていないことを確かめて、もう一度すすいだ。
「……あんた、ずいぶん丁寧に洗うのね」
振り返ると、母さんが妙なものを見る顔で立っていた。どうやら普段の俺なら、ここまでやらないらしい。
「まあ、色々あったんすよ」
「その色々をこれから聞くのよ。コーヒー入れるから、終わったらリビング来なさい」
五分ほどで台所を元に戻し、リビングへ向かった。母さんは昔から、大事な話をする時にはコーヒーを入れる。テーブルの上には二つのカップと、土産らしいケーキの箱が置かれていた。
「で、説明して。あなたは誰で、■■はどこにいて、何でうちにいるの」
「俺にも分からない部分が多い。あと、そのケーキ一個もらっていい? なんか異常に腹減るんだ」
「話しながら食べなさい」
「やった」
俺はケーキを口へ運びながら、起きたことを話した。これから先、俺がどんなふうに怠惰になっていったか。大学や仕事で躓き、家族との関係まで壊したこと。そして最後には公園で見知らぬ男たちに襲われ、死んだはずだったこと。
知らない男が俺を助けようとして死んだことも話した。その辺りになると、さすがにふざけた口調では話せなかった。母さんも途中から質問を挟まず、黙って聞いていた。
「それで目を覚ましたら、昔の自分の部屋にいた。日付も昔に戻ってる。でも身体は女になってるし、食欲も何かおかしい。正直、俺にも意味が分からない」
「……分からないけど、あなたがそういう記憶を持ってるってことは分かったわ。未来から戻ってきたって話まで信じろと言われても、さすがに今すぐには無理だけど」
「俺も立場逆なら信じねえよ」
「あと一番分からないのは、何で女になってるのよ」
「こっちが聞きてえよ! 俺だって好きでこうなったんじゃねえ! 見てよこの顔、無駄に完成度だけ高いんだぞ!」
「はいはい、自分で言わない」
言い返しながらケーキへ手を伸ばした。ところが、指先が空を切った。箱の中には何も残っていない。
「……ケーキは?」
「あんたが全部食べた」
「嘘だろ」
「私、一口も食べてないんだけど」
空箱を見る。一ホールあったはずなのに、本当に何も残っていない。さっき食パン十四枚と米をほぼ四合食べたばかりなのに、しかもまだ腹には余裕がある。
「……やっぱりこれ、女になったことより先に病院案件じゃない?」
「それは俺も思い始めた」
母さんが深いため息をつく。その横で、俺はテーブルに置かれたカレンダーへ目を向けた。日付だけではない。テレビも、ガラケーも、部屋の家具も、全部が記憶にある昔のものだ。
これが夢でないなら、本当に戻ってきたのかもしれない。人生が壊れ始めるより前へ。家族の愛情を使い切るより前へ。
頭の中に、これから起きる失敗が次々浮かんできた。学校で放置する課題、進学してから詰むタスク、生活習慣、仕事、人間関係。俺がどこで逃げ、どこで取り返しがつかなくなったのか、少なくとも前回よりは知っている。
口元が勝手に歪んだ。母さんが露骨に嫌そうな顔をする。
「……何よ、その顔。ろくでもないこと考えてないでしょうね」
「いや、逆だよ。俺がこの先踏む地雷、分かってる分だけ全部書き出そうと思って」
「それでその顔になる?」
「人生、やり直せるかもしれねえんだぞ。そりゃニヤけるだろ」
正面から全部乗り越えられるほど、俺は立派な人間じゃない。それは前の人生で嫌というほど分かった。なら今度は、失敗する場所が分かっているうちに避ければいい。
善人になれるかどうかなんて知らない。怠惰な性格が一晩で治るとも思っていない。それでも、前より少しくらいマシな選択ならできるかもしれない。
「……よし。まず紙とペン貸して。俺が人生でやらかしたこと、覚えてる限り全部書く」
「その前に病院」
「……はい」
第二の人生最初の予定は、人生設計ではなく病院になった。