トレセン学園――そこは、数多のウマ娘たちが夢を抱き、栄光を目指して駆ける神聖な場所だ。
歓声と熱気、そして青春のきらめきに満ちた場所。
だが、光が強ければ、影もまた濃くなる。
この学園の片隅で、あるいは心の奥底で、人知れず苦悩に沈む魂も、確かに存在した。
■
その魂の一つが、カガヤキだった。
一年と少し前まで、彼女の名前は希望そのものだった。
文字通りデビュー戦では鮮烈な勝利を収めた。異次元とも称された加速力と、しなやかで美しいフォーム。まるでターフを滑空する黒い流星。
新人ながら強豪たちを次々と打ち破り、「未来の星」「世代のエース」と呼ばれはじめていた。
ファンからの声援も熱狂的で、メディアは連日彼女の話題で持ちきりだった。学園内の廊下には、今もあの頃のカガヤキが、満面の笑みで駆け抜ける写真が飾られている。その写真は、見るもの全てが目を細めるほどの、眩しすぎるほどの輝きを放っていた。
その輝きが、唐突に、残酷な形で失われたのは、春のクラシック戦線、最も注目される一戦でのことだった。
降りしきる雨の中、重馬場と化したターフ。
張り詰めた空気の中、ゲートが開く。地鳴りのような蹄の響き。ライバルたちの息遣い。その中を悠々と走るカガヤキ。全てが完璧だったはずだった。
あの、第三コーナーを回った、まさにその時までは。
バ群を避けて少しでも内を通ろうとした、ほんの一瞬の判断の遅れ。
濡れたターフに滑った、ほんの一度の踏み外し。
その判断の遅れと、ほんの少しの不運――体勢が崩れ、隣を走っていたウマ娘と激しく接触。
バランスを失い、カガヤキの体は泥まみれのターフに叩きつけられた。打ち所が悪かったのだろう、視界がぐらつき、激しい痛みが走る。
遠くで聞こえる、悲鳴とも落胆ともつかないざわめき。起き上がろうとするが、体が言うことを聞かない。仰向けに倒れたまま見上げた、灰色の空。そして、自分を抜き去っていく、無数の蹄。
―――ああ、全てが、終わった。
その後、担ぎ込まれた病院で得た診断は、全治数ヶ月の重傷。
懸命な治療とリハビリの結果、体は確かに回復した。
医者からは、完治した、もう走っても問題ない、と言われた。
だが、カガヤキの心は、あの瞬間に、あの泥まみれのターフに、置き去りにされたままだった。
スランプだった。
それも、立つことさえ困難な、深い、深いスランプ。
練習でグラウンドに出ても、体が硬直する。
特に、カーブに差し掛かると、足が鉛のように重くなり、動かなくなる。馬群の中に他のウマ娘が入ってくると、無意識に距離を取ってしまう。
あの日の衝撃と痛みが、五感全てでフラッシュバックし、呼吸が乱れる。走ることに、恐怖を感じるようになったのだ。
当然、タイムは落ちた。同期に次々と追い抜かれ、後輩にも先を行かれる。
かつての輝きを知る周囲の視線が痛い。
「カガヤキさん、どうしちゃったんだろうね」
「もう、あの頃の走りは見られないのかな」
「やっぱり、一度ああなると難しいのかな」
そんな小さな囁きが、まるで鋭利な刃物のように心を傷つける。
友人であるマメチヨやサツキは、変わらず優しかった。
「カガヤキ、焦らなくていいんだよ」
「私たち、ずっと応援してるからね!」
「一緒に乗り越えよう!」
彼女たちは懸命にカガヤキを励まし、普通のウマ娘のように接しようとしてくれた。だがその優しさが、今のカガヤキには眩しすぎて、かえって辛かった。
こんなにも心配をかけて、自分は彼女たちの期待にも応えられない。申し訳なさと自己嫌悪から、カガヤキは次第に友人から距離を置くようになった。
「大丈夫だから」
「一人で考えたいから」
と、理由をつけて誘いを断るたび、孤独が心を侵食していく。
本来の担当トレーナーも、様々なメニューを試してくれた。
有名なメンタルトレーナーを紹介してくれたこともあった。だが、どんな物理的な練習も、どんな心理的なカウンセリングも、カガヤキの心の奥底に根付いた「恐怖」という名の鎖を断ち切ることはできなかった。
努力すればするほど、過去の自分との差に絶望し、自分がどうしようもない存在に思えた。
もう、どうすればいいのか分からない。誰にも、この苦しみは理解できないのだろうか。
このまま、私の「カガヤキ」は、あの日の泥の中に埋もれて消えていくのだろうか。
走りたい。
心の底から、あの頃のように、ただ「走る」という行為そのものを楽しみたい。風を感じて、大地を蹴って、前へ進みたい。その願いは強いのに、体は動かない。心は囚われたままだ。
そんな、出口の見えない暗闇の中で、カガヤキは学園に広がる一つの「噂」を、ふと思い出した。
「どんな願いも叶えてくれるトレーナーがいるらしい」――。
最初は、馬鹿げた話だと思った。
都市伝説だ。
信じるに値しない。でも、噂には続きがあるのだ。
「本当に困っている子の前にしか現れない」
「でもその代償に、すごく大切なものを取られる」
「黒い蝶のように現れては消えるから、『黒蝶のトレーナー』って呼ばれてるんだって」
「『ミセ』って場所で会えるらしいけど、どこにあるかは分からない」
胡散臭い。恐ろしい。
だけど、もし…もし、本当にどんな願いでも叶えてくれるのなら?
このどうしようもない恐怖から、解放してくれるのなら?
「大切なもの」を失う?
今の私に、失うほどの「大切なもの」なんて、もう残っているのだろうか?
栄光は失った。自信は砕けた。友情にも壁を作ってしまった。
絶望が、理性を麻痺させる。藁にも縋る思いが、恐怖を僅かに上回った。もし、その噂が本当なら。
■
その日、カガヤキは練習に出なかった。友人の誘いも断った。
一人で、学園の敷地の、人目のつかない場所を彷徨った。風の噂で聞いた、トレーナーが現れると囁かれる古い東屋。今は使われなくなった、外周の寂れたトレーニングコースの片隅。過去の事故について書かれた記事が貼られている、資料室の奥。どこにも、それらしい人影はない。当たり前だ。こんな、馬鹿げた噂に…。
そう思いながらも、カガヤキの足は止まらなかった。まるで何かに導かれるかのように、学園の中でも特に「縁」から取り残されたような、時間が止まったような場所へと、無意識のうちに足が向いていた。
それは、かつて一人で悩みたい時に来ていた、崩れかけた東屋だったかもしれない。
あるいは、あの事故のカーブに、ほんの少しだけ近い場所だったかもしれない。
茜色に染まり始めた空が、カガヤキの心のように、鉛色に沈んでいく。どうしようもない孤独と絶望感に、心が締め付けられる。
もう、本当に、終わりなのだ。私の「カガヤキ」は、あの日、あの場所で、永遠に失われてしまったのだ。
絶望に心を支配されようとした、その時。
ふわり、と。
どこからともなく、しかし確かにすぐ傍で、伽羅にも似た、嗅いだことのない独特の香りが鼻腔をくすぐった。それは、ただの香りのようでいて、どこか空気を震わせるような、微かな、しかし力強い「気配」を伴っていた。
そして、静かで、それでいて全てを見透かすような、含みのある声が、カガヤキの耳に届いた。
「あら、迷子の仔羊さん? こんなところで、何を悩んでいらっしゃるのかしら?」
カガヤキは、弾かれたように顔を上げた。
「縁」の物語が、今、始まったのだ。