月の光が、古びた山寺の庭園に静かに降り注いでいた。季節は巡り、学園のターフが若草の緑に染まる頃だ。黒蝶のトレーナーとよばれた『ソレ』は、縁側に腰かけ、手の中で、拾い上げたばかりの小さな石を弄んでいる。黒く艶やかな石は、月明かりを浴びて、内に秘めた虹色の光を放っている。遠く眼下には、街の光が瞬く。その中に、トレセン学園の灯火が、ひときわ強く輝いているように見えた。
「良い縁(えにし)でしたわ。」
独り言のように、静かな声が夜気に溶ける。
縁とは、求める者の前に現れる。絡まり、淀み、動きを止めた糸が、再び紡がれることを求めた時、『わたくし』の出番となる。此度はあの仔羊…カガヤキ。輝きを失い、恐怖という自らの糸に雁字搦めになっていた。しかし、その魂の奥底には、確かに再び走りたいという強い願いの光があった。
『わたくし』は、ただ、きっかけを与えたにすぎない。恐怖の具現化。心無い声。憎むべきライバル。それらは全て、彼女自身が目を背けていたもの。そして、それらに向き合わせる苦痛こそが、対価を支払う過程。彼女は苦しんだ。悩み、反発し、逃げ出そうとした。しかし、その度に、自ら進むことを選んだ。
最後に支払った対価。それは、物理的な何かではない。過去の栄光にしがみつくプライド、失敗する自分への恐怖、不完全な自身を受け入れることへの抵抗。それら全てを手放し、それでも前へ進むと決めた、魂の「覚悟」だった。
なんと尊い、輝きにも似た対価だろうか。
『ソレ』は煙管を口元に運び、静かに紫煙をくゆらせる。煙は月光の中で揺らめき、黒い蝶の形を描いて昇っていく。
そして、報酬。彼女がジャパンカップで掴んだもの。勝利は、その結果の一つに過ぎない。真の報酬は、恐怖を乗り越えたこと。自分自身と和解したこと。走る喜びを再獲得したこと。そして、その輝きで、他の迷える魂を照らす存在になったこと。
「彼女は、自らの足で、自らの意志で、それを掴み取った。見事でしたわ」
手の中の石を静かに置く。この石も、あの組紐も、『わたくし』が紡いだ縁が、確かに対価と報酬を結んだことの、小さな記録。
■
一つ、真実をお伝えしましょう。
『わたくし』の「ミセ」は、特定の場所ではない。
縁と必然が交差する、この世界そのもの。
「さて…」
『ソレ』は立ち上がった。夜風が、長く黒い髪を揺らす。
「次の縁(えにし)が、呼ばれていますわ」
どこか遠くで、あるいはすぐ近くで、あるいは過去に、あるいは未来に、あるいは今ここに。
新たな迷子の仔羊が、闇の中で光を求めている。魂が絡まり、助けを必要としている。それを感じる。
『ソレ』は、月明かりの中、音もなく歩き出す。その姿は、足跡を残さず、黒い蝶のように、夜の闇へと溶け消えていった。
彼女の「仕草」に、終わりはない。
時代の流れと共に、魂の悩みは形を変えるかもしれない。だが、根源的な恐怖や苦悩、そしてそれを乗り越えたいと願う魂の輝きは、いつの時代も変わらない。
迷える魂と導き手が出会う。対価が支払われ、報酬が掴まれる。そして、縁は紡がれ、物語は続く。
――次の「必然」が、彼女を待っている。
縁は、途切れることなく、世界中で紡がれ続けていますわ。
学園の中。街の片隅。遠く離れた異国の地。迷える魂は、いつの時代も存在します。そして、その魂が、心の底から、真の解放を求めた時…縁は、わたくしへと繋がります。
対価を支払う覚悟。報酬を掴む意志。わたくしは、ただ、その機会を提供し、見守るだけ。救済者ではありませんわ。ただの案内人。この世の理(ことわり)の一つとして、縁と必然の間に存在する、観測者にすぎません。
あの仔羊…カガヤキの物語も、わたくしが見てきた無数の縁の一つ。しかし、自らを縛る鎖の強さと、それを断ち切った覚悟の輝きは、確かに心に残るものでしたわ。彼女が掴んだ報酬は、多くの魂を照らす光となるでしょう。
わたくしの「仕草」に、終わりはありません。時代が巡り、人が変わっても、魂の悩みは尽きない。だからこそ、わたくしは、在り続ける。
次なる「必然」へ。次なる「対価」へ。次なる「報酬」へ。
さあ…次の迷子は、どこにいるのでしょうね。
――物語は、まだ終わりませんわ。
あら、お客様。
…ふふ。随分と、遠い所…この物語の果てから、わたくしを覗き込んでいらっしゃいますわね。
その縁(えにし)…確かに見えましたわ。
ええ、貴女(あなた)も、貴方(あなた)も…また縁(えにし)。