疑いもあったし、恐れもありましたから。
でも、どん底にいると、人は不思議なものに惹かれるのかもしれませんね。
ある日、私は吸い寄せられるように、学園の片隅、あの東屋に足を運んでいました。
そこで…本当に、噂のトレーナーと出会ったんです。
夜の闇を纏ったような、不思議な雰囲気のその人に、私は自分の全てを話しました。
そして、彼女が提示した「対価」
それが何かも分からず、私は、契約をしてしまったんです。
「あら、迷子の仔羊さん? こんなところで、何を悩んでいらっしゃるのかしら?」
カガヤキは、弾かれたように顔を上げた。
夕闇が色を深める中、目の前に立っていたのは、信じがたいほどに浮世離れした姿だった。
まず目に飛び込んできたのは、夜の闇そのものを切り取ったかのような、長く艶やかな黒髪だ。それは風になびくこともなく、まるで意志を持っているかのように、その人物の静謐な存在感を際立たせている。
纏うのは、古風でありながらも洗練された意匠の和装。深みのある色合いは夜の景色に溶け込むようでありながら、その人物自身の放つ妖しい光によって、はっきりと存在を主張している。
顔立ちは美麗で、恐ろしいほどに整っている。肌は白く、そこに微かな紅が差している様は、生きた人間というよりは、精巧な人形か、あるいは伝承に現れる妖(あやかし)の類を思わせる。
そして、その細い指先には、見たこともないほど長く、古風な装飾が施された煙管が挟まれている。年齢は全く分からない。まだ少女のようにも見えるし、遥か昔からそこにいる仙人のようでもあった。
そして、何よりも、先ほど嗅いだ、伽羅にも似た、一度嗅いだら忘れられない独特の香りが、その人物から確かに、そして濃厚に漂っている。
カガヤキは驚きの中、あの、自らが馬鹿げたと称した、噂話を思い出していた。
「本当に困っている子の前にしか現れない」
「黒い蝶のように現れては消えるから、『黒蝶のトレーナー』って呼ばれてるんだって」
「でもその代償に、すごく大切なものを取られる」
まさか、この人が、あの噂の…「黒蝶のトレーナー」なのかと、カガヤキは大きな疑念と、小さな希望を持って彼女を見つめていた。
■
学園内に広がる都市伝説が今、目の前に立っている。
信じがたい現実と目の前の存在が放つ、全てを見透かすような静かな圧力。
カガヤキの本能は早くこの場から立ち去れ、と警告している。警戒。混乱。恐怖が渦巻いている。だが、それら全てを塗りつぶすかのような、強い、強い「希望」が、カガヤキの感情を揺さぶっている。この人が、本当に私の願いを叶えてくれるかもしれないと、カガヤキの心臓は、警鐘のように激しく脈打った。
トレーナーは、何も答えないカガヤキを、急かすでもなく、値踏みするでもなく、ただ静かに見つめている。その瞳は、夜の闇を映し、カガヤキの表面的な動揺ではなく、心の奥底に渦巻く絶望と渇望を見透かしているかのようだった。
東屋の周囲は、遠くのグラウンドから聞こえるかすかな音を除けば、まるで世界から切り離されたように静まり返っている。二人の間に流れる空気は、重く、しかし不思議な緊張感に満ちていた。
トレーナーは、その和装の裾を乱すこともなく、音もなくカガヤキの傍らにしゃがみ込んだ。その仕草には、一点の無駄もない。
「随分と、お辛そうですわね。その瞳に宿る輝きが、深い澱(おり)に覆われている。何か、わたくしにお手伝いできることは?」
まっすぐに向けられた言葉は、先ほどの問いかけよりも、カガヤキの心の傷に深く響いた。
その言葉の裏には、カガヤキが必死に隠そうとしていた弱さや苦悩を、全て見抜いているという確信があるように感じられた。
助けてほしい。
この絶望から救い出してほしい。
その切実な願いが、喉の奥で震える。だが、噂の「代償」が脳裏をよぎり、言葉が詰まる。
「あ、あなたは…その…」
「わたくしですか?」
トレーナーは問い返す。その声は静かで、響きに深みがある。
「そうですね……縁(えにし)の導き手、とでも申しましょうか」
彼女は煙管をゆっくりと口元に運び、紫煙をくゆらせる。
「あるいは、黒蝶のトレーナー…そう呼ぶ者もいるようですわね。わたくしは、迷える魂を、その望む場所へ繋いであげるのが役目です」
煙は夜の空気に溶け込み、まるで意思を持つかのように、カガヤキの周りをゆっくりと巡り、黒い蝶のような形を描いてふわりと揺蕩った後、静かに消えていった。
「あなたの瞳には、強い願いが見えますわ。そして、それを阻む、あなた自身が作り出した澱(おり)も」
彼女はカガヤキの瞳を覗き込むように、顔を少し近づけた。ひんやりとした、それでいて不思議と温かい、別世界の温度のような感触が頬に触れるかのようだ。
その深い瞳に見つめられ、カガヤキは自分の中に隠しきれない苦しみがあることを、改めて突きつけられた。
「その苦しみから、解放されたいと願うのでしょう?」
トレーナーの声は、優しさというより、古から全てを見守ってきたような静かな肯定を含んでいた。
「もう一度、あの頃のように、風になって駆け抜けたい、と。あの日の恐怖を、過去のものにしたい、と」
図星だった。
トレーナーの言葉は、カガヤキが誰にも言えず、自分自身にさえ正直になれずに心の奥底に押し込めていた、最も切実で、最も痛みを伴う願いそのものだった。
堰を切ったように、カガヤキの口から言葉が溢れ出した。
「っ…はい…! お願いします…! 私、もう、あの時の自分が…怖くて…体が動かなくて…! どんなに練習しても、みんなに遅れを取って…もう一度、あの日のように…あの、なんの怖れもなく、ただ走るのが楽しかったあの頃に…戻りたいんですっ…! このままじゃ…私…」
言葉は嗚咽に変わり、涙が次々と溢れ落ちた。情けない自分。逃げたい自分。どうしようもない自分。全てを曝け出すような、魂からの叫びだった。
トレーナーは、カガヤキの嗚咽混じりの告白を、最後まで、一言も挟まずに静かに聞いていた。
涙を流すカガヤキを見つめるその瞳には、憐憫の色はない。あるのは、ただ深い理解と、全てを受け入れる静謐さだけだった。
カガヤキがようやく泣き止み、震える呼吸を整えたのを見て、トレーナーはゆっくりと立ち上がった。
「結構ですわ。その願い、確かに受け取りました」
彼女は再び煙管を構える。そして、夜空を見上げながら、告げた。
「その願い、叶えて差し上げましょう。再び、自由に走れるよう、導いてあげられますわ。ただし、縁(えにし)を結び直し、澱(おり)を祓うには、相応の対価が必要になります。」
対価…。噂通りの言葉に、カガヤキは身構えた。
恐怖と、僅かな希望が混ざり合う。噂では、大切なものを失うと聞いた。それは一体、何なのだろうか?
「対価…って、何を…?」
カガヤキの声は、まだ震えていた。
「そうですね…」
トレーナーは煙管の灰を、静かに地面に落とした。
その仕草一つ一つに、古(いにしえ)からの儀式のような重みがある。
「あなたが、今、この瞬間、一番『手放したくないもの』は何かしら? あるいは、一番『目を背けているもの』でも構いませんわ。それが、あなたの願いを叶えるための、対価となります」
一番手放したくないもの?
一番目を背けているもの?
過去の栄光? 友人たちの優しさ? それとも、あの日の恐怖そのもの? 完璧な自分でいたいというプライド?
カガヤキには、トレーナーの言葉が具体的に何を指しているのか、全く分からなかった。物理的な何かを差し出せばいいのか? それとも、もっと根源的な何かだろうか?
混乱する頭で、カガヤキは必死に考える。だが、どんな答えも、今のこの、どうしようもない苦しみ、走れない恐怖という現実の前では霞んでしまう。
「分かり…ました。それが、必要なんですね…。」
カガヤキは、震える声で、しかしはっきりと口にした。
差し出せるものなど何もない今の自分に、一体何が対価になるのか、それがどれほど恐ろしいものなのか、何も分からないまま。
「私…対価を…払います。だから…っ、私を…!」
トレーナーは、そんなカガヤキをじっと見つめ、その瞳の奥にある決意――それはまだ弱く、迷いを含んだものではあったが――を確認した。
やがて、満足したように、微かに頷いた。
「結構ですわ。対価の契約は成立しました。縁(えにし)は結ばれましたわ。これで、あなたは
彼女はそう言うと、再び煙管からゆったりと紫煙をくゆらせた。
夜の空気を漂う紫煙は、今度はカガヤキの周りをゆっくりと、まるで新たな繋がりを確かめるかのように巡る。
それは、彼女の魂と、トレーナーの存在、そして「対価」という見えない鎖が結ばれたことを象徴するかのようだった。そして紫煙は、複雑な模様を描いた後、静かに夜の闇に消えていった。
「では、また次の導きで。対価は、いずれお支払いいただきますわ。ご準備を」
その言葉を最後に、トレーナーの姿は、まるで最初からそこにいなかったかのように、音もなく、黒い蝶が闇に溶け込むように消え失せた。
夜の東屋に、カガヤキは一人きりになった。
微かに漂う、伽羅の残り香。肌を撫でる夜風。胸の内で騒ぎ始めた、まだ見ぬ未来への期待と、形すら見えない「対価」への恐れ。そして、確かに物語が、新しい「縁」が、今、始まったのだという、静かで確かな予感だけが残されていた。