トレセン妖譚 縁(えにし)の導き手   作:灯火011

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契約を交わしたものの、何が始まるのか、全く分かりませんでした。

そして、実際に始まったのは、その、普通のトレーニングとはかけ離れた、奇妙で理解不能な「指導」でした。

恐怖の場所でただ立ち尽くしたり、聞きたくない声を聞き続けたり……。

こんなことで、本当に変われるのか?

心の中で、何度も反発しました。

意味が分からない。苦痛なだけだ、と。

最初の、五感を通じて突きつけられる、自分自身の「澱(おり)」との戦いです。


第二章:奇妙な「指導」の始まり ~五感への試練~

 「黒蝶のトレーナー」が姿を消してから、カガヤキは毎朝、毎晩、どこか落ち着かない気持ちで過ごしていた。

 次に彼女はいつ、どこに現れるのか全く分からない。そして、最初に提示される「導き」とは、一体どのようなものなのか。期待と、得体の知れない対価への恐れが胸中でせめぎ合う。  

 

 だからであろう。トレーニングメニューをこなそうとしても、あのトレーナーの姿を無意識に探してしまい上の空になってしまう。そんなカガヤキの様子をみた友人たちは皆、心配そうな視線を彼女に向けているのだが、それすらも気づいていないようだ。

 

 数日が経った朝。カガヤキがジョギングをするためグラウンドの隅を通りかかった時、彼女は突然現れた。予兆も音もなく、ただ、そこにいた。

 朝日に輝く緑のターフの上に、夜の闇を宿したような黒髪と和装の人物。

 周囲のウマ娘たちは、その存在に気づいているのかいないのか、何事もなく通り過ぎていく。まるで、カガヤキにしか見えていないかのような、幽玄な現れ方だった。

 

「あら、迷子かしら。それとも、導きを待っていましたか」

 

 トレーナーは煙管を口元に運びながら、静かに言った。カガヤキは思わず立ち止まる。いよいよ彼女との契約が始まるのだ、と全身が緊張した。

 

「今日のあなたの課題は、あそこですわ。」

 

 トレーナーが指し示した方向。それは、トレセン学園の敷地の端、かつて、カガヤキの転倒事故が起きたレース場の方向だ。物理的な距離はあれど、カガヤキのトラウマと直結する場所に思わず体が硬直する。

 

「…あ、あそこ、ですか?」

 

 声が上ずった。足がすくむ感覚に、必死に抵抗する。

 

「ええ。あの場所に立ちなさい。そして、一日中、あの柵の傍で、目を閉じて立ち尽くしなさい。何も考えず、ただ、そこに存在する風を感じるのですわ。そして、心が動いたら、それを記憶しておいてください」

 

「一日中…? 風を…?」

 

 カガヤキは困惑した。トレーニングではない。これは、一体何の役に立つというのか。こんなことで、私の走りが元に戻るのか?

 

「あの…それは、一体どういう…?」

「導きに理由はいりませんわ」

 

 トレーナーはカガヤキの疑問を遮るように静かに答えた。

 

「これはあなた自身のための課題。対価を支払うための第一歩です。―――実行なさい」

 

 それだけ言うと、彼女は再び煙管から紫煙を一つ、静かに吐き出した。紫煙は朝の光に溶け込みながら、まるで意思を持ってカガヤキの周りをゆっくりと巡った。

 カガヤキがその煙を目で追ううちに、トレーナーの姿は、朝霧に紛れるように、あるいは黒い蝶が舞い上がったかのように、忽然と消えていた。

 

「……え?あれ、トレーナーさん?」

 

 後に残されたのは、伽羅の香りと、理解不能な「課題」、そして従わざるを得ない契約の重みだけだ。

 

 仕方なくカガヤキは、重い足取りで指定された場所へと向かった。トレセン学園の敷地の最も端に近い場所。そこに立ってみれば、かつて事故があったレース場がうっすらと見える。立ち入り禁止の柵が設けられた、荒れた外周コースの一部。そこに立ち、言われた通り目を閉じる。

 

 不意に、伽羅の香りが鼻腔を擽る。

 

 途端に、五感が、あの日の記憶を再現しようとする。遠い歓声、雨の匂い、泥の感触、そして、体を打ち付けた衝撃と激痛。 風が頬を撫でるだけなのに、全身が粟立ち、呼吸が浅くなる。恐怖が、津波のように心を襲う。逃げたい。ここから逃げ出したい。

 

「こんなことして、何になるのよ…っ!?」

 

 心の中で叫ぶ。これはトレーニングじゃない。

 

 ただの罰だ。苦痛だ。

 

 これで強くなれるわけがない。自分が置かれた状況の不可解さ、そしてトレーナーの意図が全く読めないことへの苛立ち。こんなことを続けても、何も変わらないのではないかという疑念が、カガヤキの中で渦巻き始める。

 

 それでも、カガヤキはその場に立ち続けた。トレーナーの「対価は安くない」という言葉が、足枷のように彼女を縛り付ける。「ここで逃げたら、全てが無駄になる…」。自分自身から逃げることになる。その恐怖だけが、彼女をそこに留めていた。

 

 時間は、拷問のようにゆっくりと過ぎていった。あれからも襲う恐怖の波に耐え、怒りを鎮め、虚しさに耐える。

 

 そうやって夕暮れになり、体が冷え切った頃。

 

 ふと、頬を撫でる風の感触だけを、何の感情も伴わずに感じられる瞬間があった。

 

 ただの、風だ。レースとは関係のない、あの日の事故とも関係のない、ただの風。それは、ほんの一瞬の、微かな感覚だったが、カガヤキの心の最も固い部分に、小さな、とても小さな変化を促していた。

 

 

 数日後。次にトレーナーが現れたのは、意外にも学園の資料室だった。カガヤキが、かつての栄光と現在の惨めさを対比させるように、無意識のうちにあの日の新聞記事を見ていた時のことだ。

 

「あら、ごきげんよう。今日の課題です」

 

 トレーナーが差し出したのは、ボイスレコーダーと、数枚の紙切れだった。紙には、匿名掲示板やSNS、心無い週刊誌記事などに書かれた、カガヤキの事故やその後のスランプに対する、誹謗中傷や失望の声が無数に印刷されている。

 

「このボイスレコーダーには、あなたのレースを見て、様々な言葉を浴びせた人々の声が入っていますわ。紙に書かれたものも含め、それらを毎日、寝る前に聞きなさい。そして、その声のどこに『真実』があるか、あるいは『あなた自身の声』が隠れているか、探すのですわ。」

 

「っ…! それを…毎日、聞けと…?」

 

 カガヤキは絶句した。

 

 顔を顰め、思わず後ずさる。

 

 過去の自分の失敗を突きつけられるだけでも辛いのに、傷ついた心に容赦なく塩を塗り込むような課題だ。

 

「こんなこと…どうして…!? 何の意味があるんですか!?」

「ええ、意味はありますわ」

 

 トレーナーは感情の読めない声で答える。

 

「あなたが、そこに含まれる対価を見出せたなら」

 

 彼女は煙管から紫煙を一つ吐き出す。

 

「他者の声は、時に耳を塞ぎたくなるもの。ですが、それを避けていては、あなた自身の声も聞こえなくなりますわ」

 

 再び、トレーナーは黒い蝶のように消えた。後に残されたのは、重い課題と、カガヤキ自身の拒絶反応だけだ。

 

 

 「黒蝶のトレーナー」から出された課題に取り組む日々は、文字通り、カガヤキの耳と心にとっての拷問そのものだった。

 

 ボイスレコーダーから流れてくる声は、怒り、嘲り、軽蔑、そして哀れみ。

 

 紙に並ぶ言葉は、カガヤキの心を容赦なく突き刺した。

 

 聞くたびに、見るたびに、胸が締め付けられ、怒り、悲しみ、自己嫌悪といった負の感情でいっぱいになる。時には、発狂しそうになり、ボイスレコーダーを叩き壊したくなる衝動に駆られた。

 

「こんなの、ただ私を苦しめるだけじゃないか…っ!」

 

 何度もそう思った。トレーナーを疑った。契約を破棄して逃げ出してしまおうかと考えた。だが、「対価は安くない」「自分自身から逃げることになる」という言葉が、彼女を縛り付けていた。

 

 この頃になると、カガヤキの異様な様子は友人たちにも明らかだった。練習に真剣に取り組んでいると思えば、一人で資料室に閉じこもり、何かに怯えているように見える。話しかけても上の空で、トレーナーの話題になると口を閉ざしてしまう。

 

「カガヤキ、最近変だよ? 無理してない?」

 

 マメチヨが心配そうに声をかける。

 

「トレーナーさんと、何かあったの? どんなトレーニングしてるの?」

 

 サツキが問い詰めるように聞く。

 

 カガヤキは、言葉に詰まった。どう説明すればいいのだろうか。あの奇妙な課題を。 煙管をくゆらせ神出鬼没な、あの黒蝶トレーナーを。話したところで、誰も信じないだろう。

 それに、まだ自分自身も課題の真意を理解できていないのだ。説明しようとすればするほど、自分がトレーナーに騙されている、あるいは狂ってしまったかのように思われる気がした。

 

「ごめん…大丈夫だから…。ちょっと、新しいやり方を試してるだけなんだ…」

 

 曖昧な言葉で誤魔化し、カガヤキは友人たちからさらに距離を置いた。

 心配そうな、そして少しだけ困惑した友人たちの視線から逃れるように。より一層、カガヤキは孤独になってしまう。しかし、その孤独が、皮肉なことに、彼女に自分自身と向き合う時間を強制的に与えていた。

 誰にも頼れない。誰にも理解されない。ならば、この苦痛な課題の中で、一人で答えを見つけ出すしかないのだと。

 

 

 そうして孤独に課題に取り組む中、あの日の声を聞き続ける日々の中で、カガヤキの中で僅かな変化が生まれていた。

 耳を塞ぎたくなる言葉の羅列の中に、稀に、かつてのファンからの純粋な期待や、彼女の才能を惜しむ声が混ざっていることに気づいたのだ。

 あるいは、厳しい批判の中にも、確かに自分に足りない点を指摘する「真実」の欠片が含まれていることに、感情抜きで気づける瞬間があった。

 

 それは、まだ小さく、頼りない気づきだったが、暗闇に射す一筋の光のように、カガヤキの内面に変化の兆しをもたらしていた。

 五感を通じて突きつけられる恐怖や批判は、外部からの攻撃であると同時に、自分自身の内にある弱さや、他者からの評価を過剰に恐れる心が生み出した「澱」なのだと、感覚的に理解し始めていた。

 

 この奇妙な指導は、カガヤキの縁のまだ道の初め。そして、カガヤキは、自分自身の心の最も避けたい部分と、さらに深く向き合っていくことになる。孤立を深めながら、彼女はまだ見ぬ「対価」の正体に、一歩ずつ近づいていくのだった。

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