今度は、他者と向き合うような課題です。
ライバルを見たり、かつて応援してくれた人に会ったり…。
自分が、周りの人たちをどう見ていたのか、そして、周りからどう見られることを恐れていたのか。
それが、嫌というほど突きつけられました。
友人たちが心配してくれても、私はうまく説明できない。
孤独は深まる一方で、本当に、一人でこの苦痛に耐えるしかないんだと思い知らされました。
五感を通じて自己の内に向き合う奇妙な指導は続いている。トレセン学園の端でトラウマと向き合いながら立ち尽くし、毎晩心無い言葉の読み取り、そして聞き取る。
それらの課題は苦痛だったが、僅かな変化の兆しももたらしていた。しかし、カガヤキの心はまだ揺れていた。本当にこの先に救いがあるのか? 対価とは何なのか?
あくる日、トレーナーが再び現れたのは、学園のトレーニングコースの観客席だった。普段は使われない、寂れた一角だ。トレーナーは、いつものように音もなくそこに座し、長い煙管を構えていた。
「あら、こんなところで。迷子かしら。……冗談です。今日の課題を示しに来ました」
彼女が指し示したのは、下のコースで練習に励むウマ娘たちの一人だった。その姿を見たカガヤキは、思わず息を呑む。
シラユキ
今のトレセン学園で最も勢いがあり、カガヤキがスランプに陥ってから、瞬く間に彼女のポジションを奪っていったライバルといえる存在のウマ娘だ。
タフな走りで知られ、カガヤキは無意識のうちに彼女に苦手意識と、そして強い嫉妬心を抱いていた。
「あの方ですわね。今日のあなたの課題は、彼女の練習を一日、ただ見学することです」
トレーナーの声は静かだ。
「そして、彼女の走りの『一番美しい点』と、『一番強い点』を、それぞれ10個ずつ見つけなさい」
「っ…! なぜ私が…!? シラユキさんの練習をなんて…!」
カガヤキは思わず声を荒げた。冗談ではない。自分の不甲斐なさを突きつけられるようなライバルの姿を、一日見続ける? それも、彼女の良いところを探せと?カガヤキは思わず、トレーナーを睨みつけてしまう。
「他者は、あなた自身を映す鏡ですわ」
トレーナーはカガヤキの反発を意に介さない。
「あなたが彼女から目を背けるのは、あなた自身の中にある『何か』から目を背けるのと同じ。対価は、あらゆる形をとりますわ」
トレーナーは煙管をゆったりとくゆらせ、再び黒い蝶のように消えた。カガヤキは観客席に、また、一人取り残された。唖然とする彼女の眼下では、シラユキが黙々と、しかし力強く走っている。カガヤキは苛立ちと屈辱感、そして嫉妬心に耐えながら、シラユキの姿を目で追い始めていた。
■
最初は、ただその速さ、強さを見るのが辛かった。自分にはもうできない走りだ、と心が折れそうになる。
しかし、時間をかけて、感情を抑えながら本当にただ「観察する」ことに集中し始めると、シラユキの走りの中の、細部が見えてくるようだった。
無駄のない筋肉の動き。ブレない体幹。一点を見つめる強い視線。どんな苦しい時でも、決して諦めない表情。それは、単なる「速いウマ娘」ではなく、走ることそのものに対する、純粋でひたむきな「姿勢」だった。
(これが…シラユキさんの…強さ…?)
カガヤキは、彼女の走りの「美しい点」「強い点」をノートに書き留めていくうちに、シラユキに対する感情が、嫉妬や羨望だけではない、畏敬のようなものに変わり始めていることに気づいた。それは、自分がかつて持っていたはずなのに、失ってしまったもの、あるいは目を向けようとしなかったものだったのかもしれない。
それから数日後、新たな課題が提示された。
それは、カガヤキを応援してくれていた、かつてのファンに会いに行き、当時の自分の走りについて、彼らがどう思っていたかを聞くというものだった。
「かつての輝きを知る者たちの言葉の中に、あなた自身の答えが隠されていますわ」
ファンに会うことが課題なのかと、カガヤキは絶望を持って、その言葉を受け入れていた。
事故以来、カガヤキはファンからの声援や期待が怖くなっていた。失望させてしまった、裏切ってしまったという罪悪感が重くのしかかっていたからだ。そんな彼らに、今の惨めな姿で会うなんて、考えただけでも体が勝手に震えてしまう。
「会いたくないです…! 怖い…とても、とても怖いです……!」
「恐ろしいのは、彼らの失望ですか? それとも、期待に応えられなかった、不甲斐ないご自身ですか?」
トレーナーは容赦ない言葉を投げかける。
「目を背けているのは、彼らの視線ではありませんわ。あなた自身の過去です」
……この課題も、カガヤキにとっては地獄だった。何とか連絡を取り、かつての応援団長だった人物に会うことができたが、話を聞くのは想像以上に辛かった。
「あの頃のカガヤキさんは、本当に輝いていた。夢を見させてもらった」
「きっとまた立ち直ってくれると信じているよ」
彼の言葉は温かいものだったが、今の自分との落差を突きつけられているようで、カガヤキの心をさらに深く傷つけた。
しかし、話を聞き続けるうちに、気づいたことがあった。
彼らは、カガヤキが失敗したこと、スランプに沈んでいることを知っている。それでも、彼女を見捨ててはいなかった。
ただ、彼女が「走る」ことを、そして困難に立ち向かうことを諦めないでほしいと願っていたのだ。彼らが「手放したくない」と思っていたのは、カガヤキの栄光そのものではなく、カガヤキが持つ「可能性」であり、カガヤキがレースを走ることへの「情熱」だったのかもしれない。
■
これらの他者を通じた試練は、カガヤキの心を激しく揺さぶった。シラユキの「強さ」を知り、ファンのかつての「期待」と今の「信頼」に触れることで、彼女は自分自身が他者をどう見ていたか、そして他者からどう見られることを恐れていたかを、嫌というほど思い知らされた。
それは、自分が目を背けていたプライドや、他者評価への過剰な依存、そして自分自身の価値を「勝利」にしか見出せなくなっていたことへの気づきだった。
そしてこの頃、友人であるマメチヨとサツキとの溝は、さらに深まっていた。それも仕方のない事で、カガヤキはトレーナーとの契約や課題について、ますます友人たちに語ろうとしなくなっていたからだ。
その上で、一人で突拍子もない行動をしたり、何かから逃げるように資料室やグラウンドの隅に隠れたりするカガヤキの姿に、二人は戸惑い、不安を募らせていた。
「カガヤキ、もういい加減にしてよ!」
ある日、サツキが感情的にぶつかってきた。
「私たちには何も話してくれないで、変なことばかりして! そのトレーナーさんが何をさせてるのか知らないけど、私たちには全然分からない! こんなの、カガヤキらしくないよ!」
「…ごめん…。これは、私自身でやらなくちゃいけないことなの…」
カガヤキはそれだけしか言えなかった。理解されない孤独が、心を締め付ける。
友人たちは、かつての彼女を知っているからこそ、今の彼女の「奇行」を受け入れられないのだ。それは、彼女たちがカガヤキを思ってくれるがゆえの苦悩であり、同時にカガヤキ自身の孤独を深める要因となった。
友情の中に生まれたこの「孤立感」もまた、トレーナーが仕向けた試練の一部であるかのように感じられた。誰にも頼れない。一人で、この苦痛な過程を乗り越えるしかないのだと。
駿川たづなさんも、事態を深刻に受け止めていた。カガヤキの激しい不調、奇妙な行動、そして学園に広まる「黒蝶のトレーナー」の噂。複数の生徒から断片的に集まる情報は、どれも常識では考えられないものだった。たづなさんは、学園のトレーナーを統括する立場として、そして何より一人のウマ娘の将来を憂慮し、カガヤキを職員室に呼び出した。
面談室で向かい合うたづなさんの視線は、厳しく、しかし深い心配の色を含んでいた。
「カガヤキさん。貴女の最近の様子は、看過できません。学園には、様々なサポート体制があります。専門のカウンセラーもいますし、私も力になれます。今受けているという、その…『指導』とやらは、一体どのようなものなのですか?」
たづなさんは、具体的な危険性を懸念していた。得体の知れない存在による、非公式で、常軌を逸した指導。
カガヤキの精神に、肉体に、取り返しのつかない傷を残すのではないか。
カガヤキは、たづなさんの真摯な問いに胸を打たれていた。正直に話せば、もしかしたら、助けてもらえるかもしれない。この苦痛から解放されるかもしれない。
しかし、あの黒蝶のトレーナーと契約したこと、そしてここまで苦痛に耐えてきた過程を無駄にしたくないという思いが、彼女の中で勝った。それに、トレーナーの求める「対価」の意味がまだ掴めない以上、途中で投げ出すことはできないという、何か確信めいた感覚があった。
「大丈夫です、たづなさん。ご心配おかけしてすみません」
カガヤキは頭を下げる。
「これは、私が自分で…自分で選んだことなんです。やらなければいけないことなんです。誰の力も借りられません」
たづなさんは、カガヤキの固い決意と、その瞳の奥に宿る、しかし説明できない「何か」を感じ取り、それ以上は踏み込めなかった。
「…分かりました。しかし、いつでも相談してください。貴女は、トレセン学園の大切な生徒ですから」
たづなさんの言葉には、依然として深い懸念が残っていた。
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誰にも理解されない。どこにも逃げられない。孤独は深まる一方だった。だからこそこの孤独の中で、カガヤキは自分自身と、さらに深く向き合わざるを得なくなった。
なぜ、自分は他者の評価をあれほど恐れるのか? なぜ、ライバルの強さを素直に認められなかったのか? なぜ、過去にしがみついて、未来に目を向けられなかったのか?
奇妙な指導は、カガヤキの内面を容赦なく暴き出し、彼女の心の揺らぎは頂点に達していた。
しかし、その苦痛な過程の中で、彼女は確かに、自分が「目を背けていたもの」の正体に、一歩ずつ近づいていたのだ。
そして、その先には、最も恐ろしい、最終的な試練が待っていることを、カガヤキはまだ知らなかった。