それは…あの事故の瞬間そのものを、完全に追体験するという、想像を絶する試練でした。
恐怖の絶頂。感情の爆発。
もう、自分が自分ではなくなるような、壮絶な苦痛でした。
でも、その、魂のどん底で、私は初めて、「対価」の本当の意味に気づいたんです。
それは、恐ろしいものではなく…私自身を解放するための、「鍵」でした。
「あなた自身から、永遠に逃げることになりますわ」
あの夜、トレーナーに突きつけられた言葉が、カガヤキの心に深く突き刺さっていた。
精神的な極限状態。全てを投げ出してしまいたい衝動。しかし、トレーナーの言葉は、逃げるという選択肢を、最も恐ろしいものに変えた。
ここで逃げれば、一生、弱い自分、失敗した自分、恐怖に怯える自分から逃げ続けなければならない。それでは、たとえ走れたとしても、それは偽りの自由だ。真の解放は、この苦痛の先にしかない。
まだ、「対価」の全てを理解できたわけではない。それでも、この痛みの向こうに、自分が求める「報酬」があるという予感だけが、彼女を支えていた。
カガヤキは、確かに選択したのだ。自分から逃げない、と。
■
数日後。カガヤキが、一人、学園の静かな片隅で今後のことを考えていると、突然、周囲の空気が変わった。微かな、しかし確実に存在する伽羅の香り。風もないのに揺れる長い黒髪。いつの間にか、すぐ傍にトレーナーが現れていた。彼女は、どこか厳かな雰囲気で、カガヤキを見つめている。
「覚悟は、決まりましたか」
トレーナーは問う。カガヤキは、震える声で、
「…はい」
と答えた。完全な覚悟ではない。恐怖はまだ、全身を支配している。それでも、ここで立ち止まることはできない。
「結構ですわ」
トレーナーは静かに頷いた。
「では、最後の導きを与えましょう」
トレーナーは煙管を構え、ゆっくりと紫煙をくゆらせた。
「そして、あなた自身の手で、対価を支払っていただきますわ」
紫煙は風に乗り、夜の闇を切り裂くように、カガヤキの目の前に広がっていく。
瞬く間に、学園の景色は消え失せ、代わりに、あの日のレース場がカガヤキの目の前に現れた。
観客席の熱狂。
独特の空気感。
そして、鮮やかな緑の芝生と、あの、血のように赤く見える柵が立つ、因縁の第三コーナー。
ここは、現実のレース場ではなかった。
しかし、五感全てが、あの日の「本物」であると告げているかのようだ。
過去が、トレーナーの力によって、空間として具現化されたのだ。
「…ここは…」
カガヤキの声が震える。体の震えが止まらない。足元の芝の感触、肌を撫でる風、聞こえるはずのない歓声の残響。全てが、あの日の悪夢を再現する。
「あら、驚きました? あなたの心の形が、縁(えにし)を結び、この空間を創り出したのですわ。」
トレーナーの声が響く。
「今日のあなたの課題は、あそこです」
トレーナーが指し示すのは、具現化された第三コーナーの、あの事故が起きたピンポイントの場所だ。
「そこに立ちなさい。そして…あの日のレースのスタートから、事故が起きる、その瞬間の全てを、頭の中で完璧に追体験するのです。五感の全てを使って。体の微細な動き、心臓の鼓動、思考、感情、そして、転倒する瞬間の衝撃と痛みを…全て、ありのままに」
カガヤキは絶句した。顔が青ざめる。
過去の試練で、映像を見てあの瞬間を思い出した事はある。だが、それは「見る」「書く」という行為を挟んでいたからこそ耐えられた。しかし、今目の前にあるのは、空間そのものだ。そこで、あの瞬間を、体と心で、完全に追体験しろというのか。
「…っ、無理です…! 」
「死にはしませんわ」
トレーナーの声は静かだ。
「ですが、あなたの魂が、深い傷を負うことはあるでしょうね。それでも、逃げずに、そこにある対価を支払うのですわ」
トレーナーはそれだけ言うと、カガヤキを一人残し、空間の端に立つ影となった。彼女は、カガヤキの最後の試練を、見守るつもりらしい。
カガヤキは、震える足で、あの事故が起きた場所に立った。芝の感触。あの日の湿り気を帯びた空気。目を閉じると、ゲートインの緊張感、ファンファーレ、ゲートが開く音、地鳴りのような蹄の音が、まるで現実のように耳に響く。
スタートが切られた。声援が雨のように降り注ぐ。
馬群の中を進む。ライバルたちの息遣い。ポジション争い。全てが、あの日の記憶そのままだ。心臓の鼓動が速くなる。息が切れそうになる。体があの日の動きを再現しようとする。
そして、運命の、トラウマの第三コーナーへ。
体が、あの瞬間を拒絶するように硬直する。だが、カガヤキは意志の力でその場に立ち続けた。意識を、記憶の中に深く沈める。あの日の判断。滑る足。崩れる体勢。隣のウマ娘との激しい接触。宙に投げ出される感覚。地面に叩きつけられる衝撃…!
「ああああああああああああああああっ!!!」
カガヤキは、声にならない悲鳴を上げた。全身を、あの日の激痛と衝撃が駆け巡る。息ができない。肺が張り裂けそうだ。恐怖が、心の全てを飲み込む。
見たくない!
感じたくない!
逃げたい!
ここから消えたい!
そしてトラウマの奔流の中で、彼女が心の中にしまい込んでいた、固い殻に閉じ込めていた。
―――感情が爆発した。
「なんで…! なんであの時…! 私があんなミスさえしなければ…っ! みんなを失望させて…自分を傷つけて…っ! もう、嫌だ…! 走るなんて…っ、走るなんて嫌いだああああああああああっ!!!」
自己嫌悪。後悔。怒り。悲しみ。そして、走ることへの拒絶。
全ての負の感情が、声となって、涙となって、絶叫となって、具現化された空間に木霊する。体はうずくまり、地面を掻きむしる。魂が引き裂かれるような苦痛が、彼女を襲う。
どん底だった。これ以上の絶望はない。これ以上の苦しみはない。もう、何も残っていない。
感情を全て吐き出し、声が枯れ果て、涙も涸れた時、カガヤキは、ぐったりと芝生の上に倒れ込んだ。体は震え、呼吸は乱れたままだ。
しかし同時に、心の奥底で何かが、カガヤキの心の核が、決定的に変わったのを感じた。
感情の嵐が去った後、頭の中が、奇妙なほどクリアになっていた。あの事故の光景は、まだ脳裏に焼き付いている。痛みや恐怖も消えていない。だが、それはもう、彼女を麻痺させる「鎖」ではない。過去の出来事として、そこに「ある」だけだ。
そして、あの感情の爆発の中で、トレーナーの言葉が響いていた。
「一番手放したくないもの」
「一番目を背けているもの」
それは、何?
過去の栄光?
完璧な自分?
――そんなものは、あの日の事故で壊れた幻想だった。
目を背けていたもの?
――それは、失敗への恐怖、そして、失敗しても立ち上がる自分を信じられない、不完全な自分自身だった。
そして、感情を全て吐き出した後で、心の底から湧き上がってきた、もう一つの想い。純粋な、ただただ純粋な―――ウマ娘としての願い。
「……それでも、走りたい……っ」
声は小さかったが、確かに響いていた。
恐怖を知っても。
失敗を経験しても。
完璧じゃなくても。
それでも、私は、自分の足で、風を感じて、ターフを駆けたい。
走ることを、諦めたくない。
「ああ、これだ――」
カガヤキは、理解した。トレーナーが求めた「対価」の正体を。
それは、恐ろしい何かを「奪われる」ことではない。
それは、過去の自分、失敗した自分、弱い自分、そして失敗する恐怖という、最も「目を背けていた」故に「手放したくない」、そんな自分自身の全てを受け入れ、それを乗り越えて、それでも前へ進むと「決意」する――その「覚悟」そのものだったのだ。
対価は、外から課されるものではない。それは、自分自身で、自らの内側から生み出す、魂の決断だ。
カガヤキは、ゆっくりと、しかし確かな意志で、体を起こした。まだ痛みは残っている。恐怖も消えていない。しかし、それらに囚われる自分は、もういない。過去を受け入れ、弱さを認め、それでも前へ進む。
それが、私の対価。
そして、その対価を、今、この場で、
体が、ふわり、と軽くなるのを感じた。まるで、重い鎧を脱ぎ捨てたかのような感覚。
視界はクリアになり、五感が研ぎ澄まされる。体の内側から、温かい力が湧き上がってくる。
それは、才能が再び目覚める音であり、魂が縛めを解かれ、本来の輝きを取り戻す感触だった。
「
カガヤキは、確かな声で呟いた。今、たった今、彼女を縛っていた鎖は壊れた。
自分自身が作り上げた、見えない鎖が。