『お昼抜いちゃだめだよ!』
『ちゃんと食べるよ。心配しないで』

ちょっと変わった世界での、ちょっと変わった男女の日常の一幕
あるいは馬鹿で愚かで面倒臭い男がうだうだと屁理屈こねてる話

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比翼の日常。あるいはプロローグ

 

『比翼の鳥』

 

 遠い昔に遠いどこかの国で語り継がれた伝説上の生き物。雌鳥(めんどり)雄鳥(おんどり)の二つの頭を持ちながら、一対の翼で隣り合い互いに支え合って空を飛ぶ。転じて仲睦まじい男女を表す諺の由来ともなった。

 

『比翼の魔術師』

 

 この世界の偉い人たちが僕の、僕たちの在り方を見て与え給うた称号。言わずもがな比翼の鳥から着想を得たものだ。ここでいう雄鳥である僕はこの名で呼ばれることが嫌ではないし、雌鳥たる彼女もそうだろう。事あるごとにこの呼び名を気に入っていることを公言しているのだから間違いないはずだ。

 だが、つい考えてしまうのだ。もしも雌雄が何らかの理由で仲違いをしたり永遠の別離を迫られたとき、彼らはどうすればいいのだろうか。何事も無かったように別々に生き続けるのか、あるいは分かたれた途端に死ぬのか。片翼になった鳥は空へ羽ばたくのか、地に果てて朽ちていくのか。

 それは兎も角そのような事態となった時、まずはその分不相応な称号を偉い人たちに返上することから始めるべきだろうか。いや、それよりもまずは先生に相談して──

 

 

 

──────────

 

 

 

 かつて戴いた称号について、一向に答えが出ないままグルグルと考え続けてしまった。一変してしまった生活への不安と、ようやく荷解きが終わった新居での手持ち無沙汰が綯い交ぜになって限界に達したからだろう。

 一目惚れして買ったライトグレーのソファ。柔らかい座面に深く身を沈めながらぼーっと虚空を見つめる。

 

「……はぁ」

 

 ひとつ吐いてみた溜息は未だ慣れない部屋の空気に溶けて消えた。

 この国ではありふれた集合住宅の一室。少しばかり贅沢する気持ちと如何ともしがたい事情があって、確実に持て余す広さの部屋を選んでしまった。

 

「ちょっと張り切りすぎたかな。もっと他の選択肢についても話し合うべきだったか」

 

 またもや千日手に陥りかけた思考を遮ったのは、新着メッセージを知らせる軽快な通知音だった。ローテーブルに放り出したままの携帯端末がブルブルと通知をアピールしている。

 緩慢な動きで身を起こして端末を手に取る。その間も断続的に鳴り続ける通知音に、こちらを急かさんとする相手の気持ちが透けて見えた。

 送り主なんて確認しなくても分かる。()()だ。彼女というのはつまり、比翼の雌鳥。

 

『荷解きは順調?』

『お昼抜いちゃだめだよ!』

『買い物して夕方には帰るからね』

『晩御飯に食べたいものある?』

『今度メリーゼ通りのレモンパイ食べに行こうよ!』

『さっき学校に魔象庁(ましょうちょう)の人が来て──』

 

 堰を切ったような怒涛のコンビネーションに気圧される。

 暇を持て余してソファに沈んでいたことを知っているかのようなタイミングだ。彼女のことだから、何らかの手法を用いて見抜いたのかもしれない。

 他の人と違い彼女だけに特別に設定している通知音が連続して響き渡る。正しくは有無を言わさず設定させられたというのが真相なのだが、まぁ今は関係のないことだ。

 そんなことよりも雌雄の片割れ、比翼の雄鳥として、この熾烈な波状攻撃への対抗策を考えるべきだろう。

 

 ──差し当たっては、この天真爛漫な雌鳥を満足させる返答について。

 

 

 

──────────

 

 

 

「──んッんうー」

 

 彼女との攻防が一段落して、奇妙な鳴き声を上げてストレッチをすると凝り固まった節々からポキポキと小気味のいい音が鳴った。自覚は無かったが慣れない引越し作業に伴う疲労は確かに蓄積されていたようだ。

 伸びの体勢で天井に向けて突き出した両腕もそのままに、壁掛け時計を見やる。

 

「まだまだ時間あるな。どうしよ」

 

 誰に聞かせるでもなく独り言ちる。

 時針はちょうどてっぺんに登ろうとする頃合いだ。突然気が変わりでもしない限りは彼女がここに来るまでは数時間の空きがある。

 だらりと手足を伸ばしてソファに身を預けながら、午後の予定について考えを巡らせ始めると、頭の中で心配性な自分が囁いた。

 

 ──今日の運勢最下位だし、家で大人しくしていよう。

 

『不幸になります。死ぬかもしれません』

 

 今日の自分の運勢を確認しようと星魔(せいま)占いのサイトを開いて出てきたのがこれだ。それだけが書かれていた。ほかの順位には懇切丁寧にアドバイスしていたくせに。

 長年に渡り毎朝チェックしていたが、こんなことを言われたのは初めてだった。占い結果を信奉しているわけではないが、ここまで酷いと多少なりとも心の持ちようも変わってくるというものだ。

 

「思えばここ最近、ツイてないことばかりだな」

 

 移住の原因となった騒動での苦い顛末も、荷解きが遅々として進まなかったのも、真新しい壁紙を早速汚してしまったのも、手持ちのペンが全てインク切れなのも、新しい枕がしっくりこないのも──

 大小様々な不運を挙げていくと、まさに己の命運を言い当てられたように思えて気が滅入る。

 

「いけない。しっかりしないと」

 

 彼女からのメッセージで愚かな思惟の渦から抜け出したばかりだろうに。寝起きのまま放置していた髪を後ろ手に縛って気合いを入れる。

 外食でもしようか。ちゃんと昼食を食べるようにと釘を刺されてしまったが、腹が空かず困っていたところだ。散歩でもして体を動かせばちょうど良いだろう。帰りがけに流行りのお菓子屋で二人分のデザートを買って帰っても良いかもしれない。あの店の苺ジェラートならきっと彼女も気に入るはずだ。

 

「よし、行こう」

 

 そうと決まれば鉄は熱いうちに打て、だ。

 早速出かける準備をしようとソファから立ち上がったところで、ふと今朝方に携帯端末で何気なく眺めていた天気魔報(てんきまほう)の記憶が蘇った。

 

『魔象庁は本日、相次ぐ異常魔象について──』

『日中の魔粉(まふん)飛散量は四日前と同様に、全国的に異例の高さとなることが予想されます。お出かけの際は──』

 

「よし、やめよう」

 

 心内の鉄が冷や水を浴びせられて急速に熱を失っていくのが分かる。あまりの変わり身の早さに自分でも驚いてしまった。だが天気魔報が伝えていた情報を思えば、それも納得である。

 

 ──魔粉(まふん)

 

 魔術の源たる魔素の濃度が一定の閾値を超えた結果、微細な結晶となって析出したもの。これが風に乗って魔術師の体の粘膜に付着すると酷い目の痒みやくしゃみ、鼻水に鼻づまり等の症状を引き起こすのだ。

 安寧な生活に暗い影を落とす悪魔の疾患、魔術師の敵。花粉症の次くらいに恐るべき存在。僕は立派な魔粉症罹患者だ。充血涙目の両鼻ティッシュ装備の状態で出歩く勇気はない。一向に気にせず朝から出かけて行った非罹患者の彼女が羨ましい限りだ。

 

「……はぁ」

 

 本日何発目かも分からない溜息を吐きながらソファに身を預ける。

 魔粉は年がら年中飛び散ることはないし、注意報が出るほどの魔粉が飛散するのは普通ではない。数日おきに散発的に飛散が起こっている点も異常性に拍車をかけている。

 

「傍迷惑なことしてくれるよ。ほんとに」

 

 出かかった溜息を押し留めた。

 自然発生的な現象とは思えない魔粉飛散の原因に関して、思い当たる節がある。とはいえ一介の魔術師が気づいたのだから、すでに然るべき場所で、然るべき人たちによって、然るべき措置が講じられているはずだ。わざわざ頼まれてもいないお節介を焼く必要もないだろう。

 

「また下手に首を突っ込んで迷惑かけることだけは避けないと」

 

 事なかれな呟きに対して、ここに居るはずもない先生(・・)が顰めっ面で諭してくる姿を幻視して思わず背筋が伸びる。

 やめよう。今は魔粉よりも残り半日を切った今日の自分の未来を案じるべきだ。

 

 ──差し当たっては、儚くも潰えた昼食と暇つぶしの計画について。

 

 

 

──────────

 

 

 

 相変わらずソファに身を委ねたまま考え事を続ける。

 喫緊の問題は昼食に関してだ。食べないという選択肢は無い。以前それを選択した時の恐怖は身に染み付いてる。

 

「といっても今この家にあるのは」

 

 パンだけだ。朝食用のバターロールパン。

 事情があって、この家に生活の基盤を移したのはつい昨日のことだ。以前から家具や荷物の搬入は折を見て進めていたが、ここで朝を迎えたのは今日がはじめてだった。昨日はバタバタしていたから食材の買い物は後日にと考えて取り敢えずで買ったものだ。

 

「まさかこれが命綱になるとはね」

 

 人生どうなるか分からないものだ。乾いた笑いとともに呟く。

 理想的な昼食とは言えないし、彼女もきっと良い顔をしないだろう。しかし魔粉が飛び散る中で外出するのと、家で虚しくパンを齧るのとどっちを選ぶかと聞かれたら、後者だった。魔粉嫌いでは右に出る者がいないほどなのだ。

 

「あとは順調に食欲が湧いてくれることを祈ろう」

 

 生憎と今は空腹状態にない。燃費の良すぎるこの体は未だ朝食のみの燃料で走れていた。あるいは今日に限っては精神的な疲弊が多分に影響していることも否定できないだろう。なんせ朝一から「死ぬかも」と言われたのだ。呑気に腹が減るはずもない。

 外に出て体を動かせば、気分も晴れて多少なりとも変わったかもしれないが、魔粉というどうにもならない現実に愚痴を言ったところで仕方がない。自ずと腹が減るのを待ってから食べるとしよう。

 

「昼食はそれで良いとして。あとはどうやって時間を潰すかだな」

 

 ソファの上でゴロゴロと体勢を変えながら部屋中を見渡す。

 生憎この部屋には未だテレビを置いてないし、手持ちの携帯端末は特別仕様のため、ろくな暇つぶしにも使えない。知人との連絡や写真撮影、天気魔報と趣味の星魔占いが見られる程度だ。少し前は一般的な携帯端末を使用していたのだが、彼女との約束がある以上、文句は言えない。

 

「『暇つぶしの魔術』でもあればいいのに」

 

 魔術はそんなお手軽ライフハックみたいなものではないのだ。

 もしあったとしてこの場で使おうものなら即刻、魔象庁の探知網に引っ掛かって魔法違反で刑務所送りだ。

 魔法とは読んで字の如く、魔術師の自由を制限し世の秩序を保つための最高法規。認可のない状況で魔術が行使されることはこれに違反する。こんな事であの子(・・・)の世話になってしまっては情けないにも程がある。

 もっと現実的な暇つぶしができないかと視線を彷徨わせていると、未だ手付かずのままに積み重なる段ボール箱が目に入った。特徴的なのは、それぞれに赤いハートマークが描かれている点だ。愛らしい印が意味するのはつまり彼女の私物だ。勝手に片付けるのも憚られて、ひとまずそのままにしていた。

 

「……あれ?」

 

 彼女の性格がよく表れたチャーミングなハートたちが並ぶ中に、一つだけ印がない箱を見つけた。

 立ち上がって段ボール箱の山に歩み寄る。近くで確認してみても、やはり愛の印は見当たらない。生活必需品が入ったものは全て開梱して片付けたから、娯楽品か何かだろう。

 必死に擬態を続ける愛のない憐れな無印箱に標的を定める。大きさはそれほどでも無いが両腕に抱えてみると結構な重量だ。ハサミを取りに行くのも億劫で、その場でバリバリとテープを剥がす。

 

「あぁ、そういえば忘れてた」

 

 段ボールの中身は本だった。

 大小様々、色とりどりの装丁がソフトカバーからハードカバーまでぎっしり詰まっている。見た目はバラバラな中で共通点が一つ、これらは全て小説だ。

 小説は好きだ。一人の時間に浸って文学と向き合えるから、なんて高尚な理由ではないけれど。単に自分の知らない世界や価値観を与えられることが楽しいからだ。他にも同様の体験ができる物事は世界にごまんと存在するのだろうが、幼少時代から身近にあったのは小説だった。何かを好きになる理由なんてそんなもので良いのだろう。

 

「最近は活字なんて全然追えてなかったな」

 

 古びた紙の香りに懐かしさを覚える。ぎゅうぎゅうに詰まった本たちが眠っていた淡い記憶を想起させた。

 かつては先生の研究室の一角を占拠して本に読み耽っていた。あの人はいつも困ったような、呆れたような微笑みを浮かべて頭を撫でてくれた。まだ先生の研究が脚光を浴びる前、まともな設備もなく手狭な部屋だった。片付けなんて誰もしないから、物で溢れた部屋で二人で過ごしていた。暖かくて大切な昔日の記憶、心の原風景。

 

「いや、ダメだダメだ」

 

 変な感傷に浸ってしまったのは今日という日が上手くいっていないからだろうか。首を振って思い出を振り払ってから気を取り直して物色を始める。

 

「こうして見ると随分と減ったもんだ」

 

 段ボールの中を漁りながらポツリと呟く。

 かつては一部屋が本棚で埋まって雪崩を起こすほどの蔵書があった。それが遠因となって彼女と一悶着起こした末に、既読の本は手放すことになったのだが、まぁ今は関係のないことだ。

 要するに今残っているのはいつか来たるべき日に読もうと本棚の肥やしにされた秘蔵っ子たちだ。どれを読んでも新鮮な体験を齎してくれることだろう。

 

「あっ、これ……」

 

 綺麗な亜麻色のカバーに目を惹かれて一冊の本を手に取る。

 数年前に刊行されたベストセラーだ。作者は当時無名の新人作家で、これがデビュー作だった。いくつかの著名な賞を授与されていたはずだ。

 

「先生、この本好きだって言ってたなあ」

 

 半ば押し付ける形で強引にプレゼントされたのを思い出す。

 その翌日に作者が魔薬(まやく)所持の疑いで逮捕されたのも思い出した。何だかお互い気まずくなって話題にできなかったから、記憶に蓋をして忘れてしまっていた。

 

「せっかくの貰い物だし、読んでおきたいけど……。どうするかな」

 

 この部屋で有効に時間を消化できるものと言えばもうこれしか残されていないだろう。しかし僕の悪癖(・・)を踏まえると、読書で時間を潰して空腹になったら食事というのは得策ではない。むしろ愚策。避けるべき一手だ。失敗の損失は未知数だが決して小さくはないはず。そんなリスクは冒せない。

 

『最悪を想定する必要はないの。だって必ず成功するんだから』

 

 頭をよぎったのは先生の言葉。あぁ、そうだ。そうだった。

 最近はツイてないことばかりで、今日に至っては最下位の運勢だった。だがそれがどうした。占いには「死ぬかも」だなんて書かれたが僕はまだ生きている。運が良いだとか悪いだとか、そんなものは後から分かる結果論であって、成功を否定して挑戦を拒む根拠たり得ない。起きてもいない事の成否なんて誰にも分からないのだから。

 

「そうですよね? 先生」

 

 一世一代の大博打だ。自分の可能性に全てを賭ける。敗北を恐れる必要はない。この先にあるのは華やかで美しい勝利の世界なのだ。

 本を片手にソファへ舞い戻る。さぁ虚構の世界へ漕ぎ出そう。

 表紙をめくる。周囲の音が遠ざかり外界から遮断されていくのが分かる。数頁を読み進めた頃には、時計の秒針が時を刻む音すら聞こえなくなった。

 

 

 

──────────

 

 

 

 僅かに開かれた窓からの風でレースカーテンがはためいている。ちらちらと視界の隅で舞う白色に意識を囚われて集中が途切れた。

 

(しまった。魔粉注意報のことを忘れていた。窓は閉めておくべきだった。……まあ良いか。大した症状も出ていないし、何よりもう夕方に──)

 

「──!」

 

 弾かれるように手元の本から視線を上げると、部屋に差し込む夕陽が窓辺をうっすらと橙色に染めていた。

 

「しまった……! いま何時──」

 

 続く言葉は出なかった。出せなかった。

 腰を浮かせて時計を確認するより先に動きを封じられたのだ。ソファの背もたれ越しに背後から腕が回されて首元に抱きつかれた。自分以外の体温と息遣いを感じてからようやく悟る。

 

 ──結論から言うと、賭けに負けた。盛大に失敗した。

 

 当然の結果だ。先生のあの言葉は成功の根拠を論理立てて、失敗の可能性を徹底的に排除した上でのものだ。ヤケクソになって体当たりしろという意味ではない。僕のやったことといえば、思考を棄てて全裸の素寒貧で賭場に飛び込み、天に向かってサイコロを放り投げたことに等しい。

 要するに、師の教えをギャンブラーへの教訓だと曲解して無謀な戦いを挑んだ男に運命の女神は微笑まなかった。

 まぁいい。失敗の想定はしていなかったが、こうなってしまった以上は占い通りに死ぬことさえなければ丸儲けだろう。

 さぁ虚構の世界から抜け出して現実と向き合おう。過ぎたことよりも、これから困難に立ち向かう自分の未来を案じるべきだ。

 

 ──差し当たっては、首元に絡みつく諸腕の持ち主について。

 

 

 

──────────

 

 

 

「やっと起きたんだね? 寝坊助さん」

 

 鈴を転がすような良く通る声が耳元で囁いた。柔らかな髪と甘い香りに顔や首筋をくすぐられる。

 

「……寝てはなかったよ」

「ふぅん? ほんとに〜?」

「もちろん。ただ少し、集中してただけ」

 

 ふわふわとした笑い声に揶揄いの口調。なんだか悪戯を叱られる幼子のような気分だ。気恥ずかしさを紛らわそうと読みかけの頁にスピンを挟んでそっと本を閉じる。

 

「今帰って来たの?」

「んーと……。ちょっと前かな!」

「そっか」

「気づかなかった?」

「……うん、全く」

 

 言いながら繊手の緩やかな拘束から抜け出す。

 彼女の言葉を信じるならば、人間一人がこの部屋に入って背後に立っていても気づかないほどに読書に夢中になっていたということだ。あり得ない話ではない。なぜならそれこそ僕の敗因、悪癖(・・)だからだ。満足な出迎えも出来ず彼女に気を遣わせてしまったことを申し訳なく思うとともに数時間前の自分の──

 いや、やめよう。今からの時間は内省よりも彼女と向き合うことに使おう。

 とことんナーバスになりがちな自分に蓋をして今日の苦楽を共に乗り越えたソファから腰を上げて振り返る。

 ソファを挟んで向かい合った彼女は微かに頬を染めて慈母の如き微笑みを湛えていた。窓から吹くわずかな風に攫われて、肩口で緩く巻かれた亜麻色の髪が揺れている。浅紫の瞳と視線が交わる。

 口にするべきは未来への不安や過去への愁嘆ではない。今を生きる人への言葉。ただひとつ、いつもの言葉。

 

「おかえり。──リリィ」

「うん! ただいま!」

 

 彼女との日常の中ではありふれたやり取りだ。けれどなぜか今日はいつもと違って、古い映画で見た感動の再会の場面みたいでつい笑ってしまった。

 ソファを踏み台にして飛びついてきた彼女を抱き留める。今日の自分にそれだけの漢気が残っていたことを少しくらい褒めてやっても良いはずだ。

 

 

 

──────────

 

 

 

 夕食の準備に取り掛かるまでの歓談の時間。夕日と見紛う暖色のペンダントライトが部屋を緩やかに包み込む。二人で体を寄せ合って本日の勲功賞受賞ソファで寛いでいた時にリリィは言い放った。

 

「お昼は何食べたの?」

 

 徹底して触れないように遠ざけていた話題だった。

 僕は賭けに負けた。つまりは悪癖から逃れられず昼食をとらなかった。

代償を支払わなければならない。賭け金を踏み倒すことは許されないようだ。

 

「ん?」

「お昼。何食べたの?」

「……昼?」

「もうっ! お昼は! 何食べたんですか!」

 

 往生際悪く惚けた声で返すと、揶揄われていると思ったのか、リリィは愛嬌たっぷりに声を荒げた。食べていて当然だと言わんばかりの口ぶり。

 

『お昼抜いちゃだめだよ!』

 

 ──そう、彼女にとっては食べていて当然のことなのだ。何故かって?

 

『ちゃんと食べるよ。心配しないで』

 

 彼女からのメッセージにそう返信した上で、大博打をした男が目の前で寛いでいるからである。御大層につらつらと昼食の計画だなんだと言っておきながら結局すっぽかして本を読んでいた間抜けな男。

 

「あぁ……昼ごはんね、うん。昼」

「どうしたの?」

 

 刹那の間に思考空間から現実世界へ復帰したが、このままではマズイ。

 ぎこちない顔をしているのを不思議に思ったのか、リリィは可愛らしく首を傾げている。その背後に賭け金を取り立てんとする死神の姿を見た。

 

「いやぁ。ほら、ちょっと、天気が……ね?」

「天気? 何の話?」

「うっ……いや」

 

 何か言わなければとしどろもどろに口走ると、リリィは怪訝な表情を浮かべた。

 こうまで諦め悪くジタバタと悪あがきしているのには理由がある。彼女は僕の不摂生な生活態度を嫌う。朝昼晩の食事については殊にそれが顕著だ。過去のちょっとした事件による影響ではあるのだが、まぁ今は関係のないことだ。

 問題は何かしら腹に入れてさえいれば譲歩の形で許される見込みもあるが、食事抜きの場合には慈悲も無いということ。

 

『死ぬかもしれません』

 

 今日の僕を苦しめ続ける占いが頭の中に響いた。死が齎されるとしたらそれは彼女の背後で鎌を持つ死神によってだ。

 

「……リリィは何食べたの?」

「私?」

「うん。ほら、今日は弁当作れなかったよね?」

「サンドイッチ食べたよ。学校前のパン屋さんの。結構美味しかったよ?」

 

 状況が変わるわけでもない問答を続けながら対応を考える。

 以前、同じように昼食を食べなかったときは地獄を見た。リリィがいない場での食事内容を写真と共に詳細に報告するよう義務付けられたのだ。流行最先端の現代人を上回る勢いで食事の撮影をして、当日〆のレポートを書き上げる日々を送った。虚な目をした僕を見て、あの子(・・・)は一心に慰めの言葉をかけてくれた。

 その取り決めが最近になってようやく緩和されたところだったのに。もう二度と同じ憂き目にはあいたくないのだ。一度目ですらあんな凄惨な思いをさせられたのだ、二度目がどうなるかなんて考えたくもない。

 

「それで? 何食べたの?」

「あぁ……僕は──」

「冷蔵庫は空っぽのままだから買い物には行ってなさそうだし」

「買い物は、行ってないね」

「何か食べたようなゴミも出てない」

「……そうだね」

「パンも朝食の時から減ってないよ?」

「えっ……とー」

 

 畳み掛けるような断罪の声が耳に響く。

 そのような素振りは一切なかったのに一体全体いつの間に確認したというのか。

 

 ──騙すのは忍びないが、やるしかないか。

 

 ここで死ぬわけにはいかなかった。あの忌々しい星魔占いの予言通りになるのだけは御免だ。

 食材がない以上、家から出ずに食事を済ませたという主張は無理筋だろう。唯一あるのは結局食べなかった朝食用のパンだが、リリィが言うにはその残数を把握していたようだ。殊勝なことだ。あるいは朝の時点でこうなることを予見していたのかもしれない。要するに、家の中に昼食をとった痕跡がないことは明らかだ。

 

「ねぇ、もしかして……」

「いやいや。食べたよ? しっかり、ちゃんと」

「……ねぇ」

 

 美しい瞳と柔和な視線に剣呑な色が混じる。危険なサイン。死神が今にも振り下ろさんと鎌を掲げている。

 外食したという、ちり紙にも劣る手札でゴリ押すほかない。魔粉により断念したが外食しようとした点は事実なのだ。嘘をつく時は少しの真実を混ぜると良いというのをどこかで聞いた覚えがある。さぁ、覚悟を決めろ。

 

「ほら、今日はいい天気だったよね? 散歩ついでに外しょ」

「日中は魔粉がすごかったよね。大丈夫だった?」

「あぁ! そうなんだよ、天気魔報見てなくてさ。外に出て大変な」

「あれ? 今は全然平気そうだね。いつも夜中まで辛そうなのに」

「あぁ! ずっと外にいたら急に平気になってさ。未知の抗体がで」

「あれ? 携帯の位置情報は家から動いてなかったけど」

「あぁ! うっかり端末を持って行くの忘れちゃっ」

「あれ? 生体埋込式魔信機の座標データも変わってない。故障かなぁ?」

「あぁ! それはね……。え、ん?生体うめ?う、埋込?何?」

 

 打てば響くような口撃の最中に聞いたことのない単語が飛び出てきたことに動揺を隠せない。

 いつの間にそんな魔法違反な代物を埋め込まれたというのか。どうやら保身に走って嘘を吐いた挙句に墓穴を掘って、知られざる禁断の扉まで開いてしまったようだった。

 これはダメだ。生体埋込なんたらの真偽はともかくとして彼女はもうとっくに嘘を看破している。そしてだいぶ怒っている。洗いざらい罪を自白しよう。赦しを得るまで謝罪を続けるのだ。

 ソファから降りて床に膝をつく。正面から向き合って勢いよく頭を下げた。いわゆる土下座。

 

「リリィ! ごめんなさい!」

「なにが?」

「嘘、つきました! 昼、食べてません!」

「……ぜぇんぶ知ってるよ?」

 

 頭上から降ってくる言葉。

 まぁそうだろう。あれだけオドオドした態度をしていたら誰でも気づく。明哲なリリィのことだから、一番最初にすっとぼけた反応をされた時点で察していただろう。しかし最初から知っていたならば、これまでの発言は自供を促すためのブラフだった可能性が高い。

 良かった。知らぬ間に得体の知れない機械を埋め込まれて彼女が魔法犯罪者になっていたなんて事実は無かったんだ。

 土下座を維持したまま内心ホッと胸を撫で下ろしていると、リリィはよく分からないことを口走った。

 

「だってカメラもあるんだよ?」

「カメラ?」

「うん。ねぇほら、あそこ」

 

 思わず顔を上げると彼女は妖しい顔で僕の背後を指差していた。

 奇妙な状況だ。だって、これまでの彼女の言動は自白と謝罪を引き出すためのものだろう。その目的は既に達成されたのだから、これからやるべきことは刑の執行であって一連の茶番劇を続けることではない。

 リリィの意図が掴めないままに、しなやかな指が示す先を追って振り返る。しかしそこには未だ見慣れぬ新居の光景が広がるばかりであった。カメラなんてどこにも見当たらなかった。

 

「な、何も……ないけど?」

「今日一日何をしていたのか、全部知ってるよ?だって見てたから」

 

 僕の動揺が伝わっていないのか、悦楽に浸っているようだ。

 床にへたり込む僕に対して馬乗りになりそうな勢いでソファから身を乗り出してきた。

 

「ど、どういうこと? ごめん。分からない……」

「良いの。分からなくて。これからいっぱい教えてあげるんだもん」

「教えるって、さっきから一体何を──」

 

 リリィはとうとうソファから降りて正座する僕の膝上に跨って座った。

 吐息がかかるほどの距離で見つめ合う。こんなときですらゾッとするほど綺麗な顔立ちだ。

 

「ねぇ、なにからしりたい?」

「リ、リリィ……」

「なんでもいいんだよ? なにがいい?」

 

 混乱の極地に立たされている。擦り切れそうな精神の悲鳴が聞こえる。おかしいのは僕なのか? 僕だけが知らない何かがあるのか? 彼女の目には一体何が見えているのだろうか。いや、僕の目が嘘に塗り固められているから真の世界を映し出せないのか?

 

 君には真実が見えていて、僕には見えない。そういうことか?

 

 どうすれば良い。どうすれば赦される?

 

 必死にリリィに問いかけた。

 

 ごめん、ごめんなさい。

 

 涙が頬を伝った。

 

 僕は泣いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 リリィは嗤った。

 

 

 

 

 

──────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さ、ご飯の用意しよっか!」

 

 リリィは一頻り笑って一人でに満足してしまったようで、勝手に話を進めようとしている。僕の涙は一体何だったというのだろうか。

 

「……埋め込んでないよね?」

「ないよ?」

「……カメラないよね?」

「ないない!」

 

 突き刺さる白い目を気にも留めずに、にこやかに僕の腕をグイグイと引っ張ってキッチンへ導く。

 彼女が無いと言うのだから無いのだろう。そういうことにしよう。そうでなければ先生の足元に縋り付いて、また一緒に住ませてくれと助けを乞うほかない。できればそんな無様は晒したくない。

 

「信じていいんだよね?」

「もぉ〜。信用ないなぁ……」

 

 こうして性懲りもなく疑ってしまうのは彼女の悪癖(・・)をよく知っているからなのだが、それを訴えたところでどうにもならないだろう。これ以上の疑義は胸の内にしまっておこう。

 昼食抜き罪の沙汰を下す気配がないのを見るに先ほどの一幕こそが罰なのだろう。てっきり再び食事報告刑に処されるものと思っていた。

 あるいは、あの時の僕の憔悴ぶりを誰かから伝え聞いて、やり過ぎたと思ったのかもしれない。だとしたら先ほどの罰は甘んじて受け入れるほかない。

 彼女とて嫌がらせをしてやろうと昼食のメッセージを送ってきたわけではないのだ。そこには悪意など一欠片も無く、ただ純粋な思いやりの気持ちがあるのみ。そしてそれを無碍にしたのは僕だ。

 

「ごめんね。心配してくれてたのに」

「しょうがないなあ。今回だけだからね?」

「うん。ありがとう」

 

 謝って、受け入れられたのなら、それで終わり。海より広く寛大な心に自分の狭小さを思い知らされる。歳は一つしか変わらないのに、こうも精神性に違いが出るのかと驚くばかりだ。

 

 拳二つ分くらい小さい彼女に引っ張られるがままにキッチンにたどり着いた。食材を用意しながら彼女は自信満々に言い放つ。

 

「それじゃ作ろっか! ビーフシチューは私に任せてね!」

 

 ビーフシチュー。献立の希望を尋ねるメッセージに対して僕が出したリクエストだ。嬉しいことに忠実に応えくれるようだ。

 

「ありがとう。というか買い物手伝わなくて大丈夫だった?」

「いいのいいの。せっかくのお休みなんだから」

 

 彼女にリクエストを送った際に荷物持ちを申し出たが丁重に断られてしまった。まぁ買い物に同行したところで、魔粉症に犯された僕では逆に負担を増やす結果となっていたかもしれない。

 

「仕事が再開したら、どうせまた休まず働くんでしょ?」

「まあ、それは……どうかな」

「ほら! お人好しなんだから」

 

 痛いところを突かれてしまった。

 僕たちはこの国の官公庁を相手に何でも屋のような仕事をしている。魔術絡みの雑用係みたいなものだ。かつての蓄えもあるので二人慎ましく暮らしていくだけなら働く必要はないのだが、生まれ持った才能を腐らせるのも残念に思えて始めたのだ。

 魔術師はいつの世も超過需要なのと、この国では『比翼』の名の通りが非常に良いこともあって食いっぱぐれない仕事だ。

 その仕事もここ数日は店休日とさせてもらっている。依頼は片付けているし不定休だから文句を言われる筋合いはないが、多少の機会損失はあっただろう。こちらも、先方も。今度菓子折りでも持って得意先回りをするとしよう。

 

「人助けもいいけど、まずは自分が助かってなくちゃね?」

「そうだね、気をつけるよ」

 

 リリィは手際よく調理を続けながら言う。サラダを作ろうと野菜を漁っていた手が止まる。

 彼女がよく口にする言葉だった。独特な言い回しだが、要は余計なお節介を焼く前に自分の心配をしろということだ。昨日から急遽この家に移ってきたのも、リリィがしばらくの間学校に通う羽目になったのも、余計なお節介を焼いたが故の末路だった。

 

「ごめんね。何だか君に迷惑をかけてばっかりだ」

「私のことはいいの」

 

 リリィはキッパリと言い切った。浅紫の瞳と視線がぶつかる。

 

「私は二人一緒なら他がどうなっても関係ないんだもん」

「変わらないね、昔から」

「えぇ〜。それ褒めてるの? それとも子供っぽいってこと?」

「……半々」

「その間は絶対に褒めてないよ!」

 

 彼女の在り方は出会った頃から、というより出会う前からほとんど変わっていないのだろう。一人で完結する世界が二人になっただけ。

 残念ながら僕がそれに同調することはできないが、だからといって彼女の生き方を変えようだなんて思わない。リリィはリリィの生きたいように生きるし、僕は僕の生きたいように生きる。考えることや感じることは別々でも心臓はただ一つ。

 

 ──それが『比翼の鳥』

 

 ──それが『比翼の魔術師』

 

 とはいえ、彼女に迷惑をかけてしまっているのは事実だった。最近は色々とリリィに甘える機会が多かったし今日だって昼食の件で心労をかけてしまった。しかし今は過去を悔やむよりも彼女のためにこれから何をするべきかを考えるとしよう。

 

 ──差し当たっては、ささやかな返礼に値する一品について。

 

 

──────────

 

 

 

「そういえば相変わらず夢中になってたね」

 

 リリィはオーブントースターで温めたバゲットを器に移しながら言った。

 夕方、彼女が帰ってきた時の話だろう。

 

「ごめんね、気づかなくて。つい没頭しちゃってさ」

「変わらないのは誰かさんも一緒だと思うなあ。初めて会った時もずーっと本読んでたよ?」

「……そうだったね。いい加減直ったと思ったんだけどね」

 

 幼い頃から一度小説を読み始めると、物語の世界に入り込んでしまって中々抜け出せなかった。それで夜更かしして先生に怒られた回数は両手指の数を優に超えることだろう。この悪癖は僕の魔術特性に由来するもので、読書に限ったことではないが最近はすっかり鳴りを潜めていた。だから賭けに出たのだし、だから負けたのだ。

 

「というか声を掛けてくれれば良かったのに」

 

 没頭するといっても視界で何かが動けば気になるし、何よりリリィに声をかけられれば気づかないはずがない。責を人になすりつけるよう言い方だが彼女も僕の悪癖については当然知っている。

 

「いやぁ。ごめんね? 何だか可愛くって!」

「可愛い?」

「うん! 一生懸命に読んでるところ、可愛いな〜って思うの」

 

 あまり理解できないが彼女にとってはそうなのだろう。

 

「それに私にとっては色々都合が良いから、直されると困っちゃうなぁ」

「……あぁ、そう」

 

 生返事で答える。

 長年の経験が告げたのだ。まともに取り合ってはダメだと。口ぶりからして彼女が帰ってきてから僕に声を掛けるまで、それなりに時間が経っていたのだろう。つまり、無防備に読書を続ける呑気な男に忍び寄ってから、何をするでもなくその後ろ姿を眺めていたということだ。

 邪推を切り上げてから食器を用意して配膳を終える。二人で対面する形で席に着くと、真新しい木製の椅子が軋んで音を立てた。

 

「……いっぱい堪能できちゃった」

 

 恍惚な表情でこちらをジッと見つめてくる。

 

「そう。それは良かった」

 

 一体何を堪能したのかは聞かない。それを尋ねたが最後、冗長かつ到底理解し難い説明を延々と聞かされる羽目になるのは目に見えている。もうリリィとも長い付き合いで、藪をつついて蛇を出すような蛮勇は出会ってしばらくした頃に失われた。つまりはこれこそ彼女の悪癖なのだ。

 

「うん。……うん。良かったぁ」

「そう」

 

 繊細な容貌に妖艶な熱を上乗せして視線を送ってくる。

 ここは適当にあしらって知らないふりをさせてもらおう。テーブルに並んだ料理だけを視界に入れる。温かく具沢山のビーフシチューに香ばしいバゲット、小さな器に入ったグラタンに色彩豊かな野菜サラダ。熱々の料理よりも熱い視線を受け流しつつ言葉を絞り出す。

 

「わー。きょうもおいしそーう。いただきまーす」

「……うん。自信作だから、いっぱい食べてね?」

 

 悪癖の話には努めて触れないよう心がけつつ、注がれる熱い視線を無視してビーフシチューを口に運ぶ。

 リリィの料理が口に合わない可能性は存在しない。たとえば彼女が世界一の料理下手だったとして、この世の全員が拒絶する料理を出してきても僕はそれを完食できるだろう。

 絶え間ない熱線に当てられてよく分からないことを考えてしまったが、結局のところ何が言いたいのかというと。

 

「今日も美味しいよ」 

 

 こうして真心の籠った料理を作ってくれることには頭が下がる思いだ。かれこれ十年近く彼女の料理を食べ続けてきた。これから五十年、百年先までそれが続いてくれることを願うばかりだ。

 

「本当? 良かったぁ」

「うん。流石は自信作だよ」

 

 ようやく落ち着いたのか、リリィも僕に倣って食事に入る。彼女は最初にグラタンに手をつけた。

 

「わぁ! こっちもすっごく美味しいよ!」

「それは良かった。作った甲斐があるよ」

 

 グラタンは僕が用意したもので、彼女の好物だ。主菜はビーフシチューだから副菜の一つとして。マカロニはなかったから有り合わせの野菜を使って、片手間に食べられる量で作らせてもらった。

 

「お店を出してもいいくらいだよ」

「それ、この前お寿司食べた時も言ってたよね」

「じゃあグラタンとお寿司のレストランにしよう!」

「それはまた随分と攻めた店だ」

 

 無邪気な言葉に釣られて笑みが溢れる。

 何はともあれ好評なようでなによりだ。いざ食べ始めてからは互いの料理の感想とくだらない会話を交わす程度で、静かで穏やかな時間が流れていく。場所は変わったけれど、いつもの人と、いつもの時間を過ごす。いつも通りの幸せが続いていることに今日一番安堵した。

 

 

 

──────────

 

 

 

 食事を終えて二人並んで洗い物をしていると、リリィが思い出したかのように切り出した。

 

「そういえばね、今日偶然ラベリスさんに会ったの」

「へぇ、珍しいね。何か言ってた?」

「何だかずっとブツブツ言ってたよ」

「ブツブツ?」

「あの子はいつになったら顔を出すのー? とか、たまには労いに来てくれてもいいんじゃないかなー? とか」

 

 その時の様子を真似たつもりか、小さな桃色の唇を尖らせ声色を変えたリリィに思わず苦笑が漏れる。似ても似つかぬモノマネなのに、拗ねたような口振りや態度が容易に想像できてしまった。

 

「基本的に寂しがり屋だからね、あの人。ついこの前会ったばかりなのに」

「……ふぅん。そういうものかなぁ」

「何か気になるの?」

「……べつに」

 

 話題を振ってきた割に帰ってきたのはどこか素っ気ない返答だった。

 ラベリスさん。アリシア・ラベリスは僕の先生であり、母親であり、姉であり、つまりは家族同然の人だ。身寄りの無かった僕を、自身も未だ若い身空で引き取って育ててくれた命の恩人でもある。

 聡明で学識深い人ではあるのだが、いかんせん多分に過保護なのが玉に瑕だ。僕はもう幼子ではないのだし早いところ子離れして欲しいというのが本音だった。

 

「まぁ来週の休日にでも一度会いに行こうかな。近況報告も兼ねてね」

 

 子離れして欲しいなどと言いつつ、こうしてまんまと気にかけてしまうあたり僕も同様に寂しがり屋で、とっとと親離れをするべきなのだろう。先生もきっとこうなる事を分かっていて小言をこぼしたに違いない。

 益体もないことを考えつつ乾拭きした皿を食器棚に戻していく。

 

「ねぇ、それ私もついて行っていいかな」

「もちろん。先生に何か用事?」

 

 僕とリリィがそうであるように、先生とリリィも昔から面識がある。とはいえそれは顔を合わせれば話をする程度の仲で、用も無いのに訪ねるほどではないはずだ。

 

「ええっと、用事というか……」

「用事というか?」

「伝えなきゃいけないというか、そろそろ白黒ハッキリさせに行くというか……」

「はぁ……?」

 

 珍しく要領を得ない言葉に小首を傾げつつも、野暮なことを聞くものじゃないだろうと強引に自分を納得させる。彼女が一緒だからといって何か不都合がある訳ではないし、むしろ二人で多少寄り道しつつのんびり出掛ければ良い気分転換になりそうだ。

 

「それじゃあ一緒に行こうか。ついでに例のレモンパイを食べに行こうよ。ほら、メッセージで言ってたメリーゼ通りの」

「いいね! 行こう行こう! あっ、そうだ。五番街に新しくできた雑貨屋さんにも行ってみようよ!」

 

 喜び勇んで当日のプランを練り出したリリィを横目に食後のお茶を用意する。沸かした湯をカップに注ぎながら、緻密に組まれていくデートプランを片手間に聞き流す。適切な温度管理が肝要なのだ。

 

「うーん。レモンパイは一番最後がいいから、まずは雑貨屋さんで……その次は──」

 

 何だか当初の目的からはどんどん遠くなっている気がしないでもないが、先生も甘い物の一つでも手土産に会いにいけば少しは機嫌を直してくれるだろう。

 

「──それでね! 王国ホテルの期間限定ディナーも気になってるの!」

「……そ、そうなんだ」

 

 はたして無事に先生に会いに行けるのだろうか。

 二人分のカップを手にダイニングテーブルへ向かう。リリィは頭を悩ませながらも、雛鳥のようについてくる。

 

「あそこのディナーは結構早くからやってるから、混み合う前に行っても良いかもね」

 

 席についてお茶を一口飲んで提案してみる。よし、今日も美味しい。

 このまま当日のプランを任せっきりにしては名が廃るというものだろう。ここは比翼の雌雄として、最高のデートとするべく力を合わせよう。

 

 ──差し当たっては、リリィを満足させつつ先生の機嫌を取る最適なデートプランについて。

 

 

 

──────────

 

 

 

「……ふぅ」

 

 風呂あがり。頭にタオルを巻いたまま一足先にリビングへと帰還してソファに腰を落ち着ける。

 リリィは基本長風呂だ。僕がバスルームを出た後も一人で湯船に浸かっていることが多い。僕はといえば、二人してくっついて湯船に浸かっていると先にのぼせ上がってしまう。百まで数えろだとか肩まで浸かってないから数え直しだとか言うリリィをいなしてリタイアするのが常だ。

 

「なんだか今日はどっと疲れたなぁ」

 

 乾かしきらずに湿り気が残ったままの髪をそのままに、目を閉じ思考すらも中断して体を休める。

 少しの間そうしていると、昼前にリリィから連絡を受け取って以降は沈黙を続けていた携帯端末が再び存在を主張してきた。リリィとは違う、その他大勢に設定された通知音だ。短い休息を終えてローテーブルの端末に手を伸ばす。

 

『まだ起きてますか?』

 

 あの子(・・・)からだ。

 僕は以前、教師の真似事みたいなことをしていて、その時の教え子だ。今は魔象庁捜査部に所属して多忙な業務に勤しんでいる。異例の若さの超新星に、一時とはいえ教鞭をとった僕も鼻高々である。

 

『起きてるよ』

『すみません、夜分遅くに』

『気にしないで。何かあった?』

『相談したいことがあるんです』

 

 師弟関係はすでに解消されて久しいが今でもこうして相談と銘打ってはちょくちょく顔を合わせていた。

 

『分かった。急ぎなら電話しようか?』

『いえ、会って話がしたいです』

『了解。つまり穏やかな話じゃないんだね』

『はい』

『内容を軽く教えてもらっていいかな?』

 

 どうやら人生や恋愛に関して思い悩んだ末に助けを求めてきたわけではないようだ。長い付き合いだから無味乾燥な言葉に覆われた意図も手に取るように分かった。

 事前に考えをまとめておこうと思い返信していると、頭に巻いていたタオルが外された。

 

「もぉ〜! やっぱり生乾き……!」

 

 湿った毛先を摘まれながら背後からの声に振り返る。今日は意外と早かったな。

 字面にしてみれば怒りを含んでいそうな口ぶりは、実際のところ喜びに満ちた声色だった。事実、リリィはブラシとドライヤー、そしてヘアオイルの容器を持って嬉しそうな顔をしてそこにいた。

 

「あぁ、ごめん。お願いしていい?」

「もう! しょうがないなぁ」

「ありがとう。助かるよ」

「ほんと私がいないとダメなんだから」

 

 お決まりのパターンだ。なにも怠惰が祟って湿気た髪を放置していたわけではない。リリィが喜ぶ。ただそれだけのこと。都合三千回は繰り返したであろうこの流れは、もはや日常のルーティンに過ぎない。

 

「綺麗な髪なんだから、しっかり手入れしなきゃダメだよ?」

「でも自分でやったら怒るでしょ」

「それは……まぁそうだけど」

 

 言いながら、すぐそばのコンセントにドライヤーのコードを繋いでから隣に腰かけてくる。

 綺麗な髪。だとしたらそれはリリィが毎晩丹精込めて手入れをしているからに他ならないだろう。普段は適当にまとめているが、僕の髪は彼女の好みに合わせて一般的な男性のそれよりも少し長いので傷むと手間だ。

 彼女が髪を触りやすいように体勢を変える。携帯端末は一旦ローテーブルに置いて、日常のやり取りを優先する。

 

「今日一日はどうだった?」

 

 ヘアオイルを馴染ませ終わったタイミングでリリィに尋ねる。ドライヤーの電源を入れてブラシを使いながら慎重に風を当てている。

 

「うーん。やっぱり学校はつまんないなぁ」

 

 ドライヤーの音に掻き消されそうな声でも、リリィのものならしっかり拾える。微かに滲んだ侮蔑の感情も含めて。まぁ面白くないのは当然だろう。一般の学生が教わる基礎魔術概論なんて、暇つぶしにもならないはずだ。しかし、そういう約束(・・)の元に今の生活があるのだから仕方がない。

 

「──だって一緒に居られないんだもん」

 

 そういう意味か。履き違えた。

 

「でも、帰ってからは楽しかったよ!」

 

 表情は伺えないが、きっと満面の笑みを浮かべてくれていることだろう。

 

「家に帰って、お話しして、ご飯作って、ごはん食べて、お話しして、お風呂に入って、お話しして……」

 

 丁寧に仕上げのブラッシングをされながら続く言葉を待つ。

 夕飯を作る前のお話し(・・・)にはきっと、僕にとって苦い記憶となったアレも含まれているのだろう。全てひっくるめて彼女は今日という一日にどんな評価を下すのか。

 

「──今日も幸せだった」

 

 リリィは今日もしっかり幸せでいてくれた。良かった、それならいい。十分だ。

 

「はい。終わり!」

「ありがとう」

 

 最後にさらりと手櫛を通してルーティンは終わりを迎えた。

 元々はお風呂上がりのヘアケアは僕の仕事だったが、いつの間にやら立場が逆転してしまっていた。リリィは尽くされるより、尽くす方に喜びを見出したのだろう。

 

「今日一日はどうだった?」

「僕?」

「うん」

 

 ヘアケア担当だった頃を懐かしんでいると、先ほど僕が聞いたことと全く同じ質問が飛んできた。

 身を寄せてきたリリィを抱き返して今日という一日のことを振り返ってみる。

 学校へ行く彼女を見送ってからは考え事して、考え事して、考え事して、考え事して……。

 

 ──話して、怒られて、泣いて、笑って。

 

「……そうだね。色々あったけど」

 

 ──そしてリリィが幸せだった。それならば僕は、

 

「今日も幸せだった」

 

 当然だろう。リリィが幸福であるなら僕の身に何が起ころうとも不幸であるはずがない。やはり星魔占いは参考程度にとどめるべきだ。僕は幸せだったし死ぬこともなかった。

 微かで柔らかなヘアオイルの香りが漂った。二人一緒の、お気に入りの香り。

 

「良かった。それなら十分だよ」 

 

 赤子を見守る母親のような、夜空を見守る月のような静かな笑顔。それを見て、昼前にリリィからのメッセージが届く前に考えていたことが脳裏に浮かんだ。今ならその問いに対して自分なりの答えを提示できると思った。

 

『分たれた比翼はどうするべきか』

 

 別離の悲しみの果てに羽ばたくこともせず地に堕ちて息絶えるのか。残された片翼でもう一度風を掴もうと懸命に足掻き続けるのか。これに対する僕の答えは。

 

 ──分からない。だからそうならないように最善を尽くす。

 

 出題者から殴られてもおかしくない馬鹿げた解答だが、それで良い。そうであるべきとも思う。僕にとっての結論はそうなのだ。

 つまりこれは一種の思考実験だったのだ。現実に起こり得ない状況を想定して妥当と思われる結論を導く。しかし、いくつかの仮説を立てることはできても万人を納得させる唯一の解など得られない。現実には二羽が別離を望むことはないし、二頭一体の鳥は考えることは別々ながらも共に在って大空を飛び続けるのだから。

 

 ──最悪を想定する必要はない。必ず成功するのだから。

 

 最悪の結果となる要因を完膚なきまでに排除し、望む結果を必ず手繰り寄せる。最悪なもしもが起こった想定の思考実験ではなく、成功を阻む現実的な問題について考えるべきだった。

 さぁそれが分かったのなら早速目先の問題に取り組むべきだろう。どこか遠い国の遠い昔の言葉にあるように、敵を知り己を知れば百戦危うからずだ。今日一日で己のことはよく分かった。ならば次に知るべきは。

 

 ──敵のこと。

 

 ──差し当たっては、比翼の鳥を切り離さんとする存在について。

 

 

 

──────────

 

 

 

 一日の終わり。微睡の時間。

 寒がりなリリィが体を冷やさないように二人でブラケットに包まる。彼女は僕にしなだれて頬を擦り付けてきた。もう少ししたら寝室へ移ろう。それまでに本日最後の用事を済まさなければ。彼女のメッセージにあった、学校に来たという人物について。

 

「学校に魔象庁の人が来たって言ってたね」

「ん? うん。知らない人だったよ。男の人。黒髪で背の高い人だった」

「話はしたの?」

「してないよ。遠くから見かけた(・・・・)だけ」

「……そっか」

「話はしてないけど、魔象庁の制服に特魔(とくま)の徽章を付けてた」

 

 特魔。特別等級魔術師。

 その肩書きを持つ者はこの世界に千人もいない。存命の、という括りではもっと少ない。一等級魔術師のうち、さる国際機関から特別な功績を認められた者だけが名乗ることを許される。その性質上、優秀な魔術師が誰でも特魔になれるわけではなく、認定された暁には栄誉を讃えて称号が与えられる。

 

 ──つまり、僕たち『比翼の魔術師』の同類。

 

「魔象庁に所属する特魔?」

 

 記憶にある限りでは、今もかつても該当する人物はいない。直近でそんな超大物が入庁したのだろうか。だとしたら魔象庁の万年魔術師不足も少なからず軽減されることだろう。あの子の残業時間消化の一助にでもなってくれれば幸いだ。

 

「可能性は低いけれど、一般に公表されていない人かあるいは……」

(かた)りだよ。きっと」

「騙り?」

「うん。あんなのが特魔なわけないよ」

 

 リリィは無関心な様子でさらりと言ってのけた。何が楽しいのか知らないが、僕の左手を捕まえてグニグニと触って遊んでいる。

 あんなの、というのがどんなのかは知らないが彼女の中では男が身分を偽っていることは決定事項となっているようだ。

 

「……もしそうなら重罪だね」

 

 等級を詐称してはならない。魔法により定められた絶対の掟。そして魔象庁はこの国の魔術に関する多くを管掌する大組織だ。そこに籍を置く人間が特魔を詐称するなんて、知らなかったじゃ済まされないだろう。よっぽどの愚か者か、あるいは魔象庁の人間ですらないか。

 リリィに弄ばれている左手を解放してやると、名残惜しそうな視線が絡みついた。

 

「私を探してたみたい。厄介ごとに巻き込まれる気がしたから見つかる前に逃げちゃった」

「厄介ごとねぇ」

 

 リリィの勘の鋭どさには定評がある。主に僕からの。彼女の選択は果たして正解だったのか。

 

「ビーフシチュー作らなきゃだったから」

「そっか。ありがとう」

 

 健気な想いに涙が出そうだ。

 現状のところ男の目的は不明だ。身分についても、本当に特魔かもしれないし本当に魔象庁所属かもしれない。分からないことだらけだが確かな情報がひとつ。

 

 ──たとえ何であろうと、ビーフシチュー作りが全てに優先されたということ。

 

 願わくばリリィの平穏がこの先も害されることなく続きますように。存在するかも定かではない神に祈る。

 感謝と願いを込めて彼女の頭を撫でると小さな可愛らしいあくびがひとつ。これ以上付き合わせるのも酷だし考え事は彼女が寝付いてからで良いだろう。

 

「さて、もう寝ようか」

「……うん」

 

 睡魔に誘惑されているリリィを促してソファを立つ。

 

「おっと、忘れてた」

 

 ローテーブルの携帯端末に気がついて手に取る。

 あの子からメッセージが数件届いていた。相談の内容について聞いたきり、すっかり放置してしまった。

 ちょうどいい。件の男について探りを入れてみようか。

 リリィの手を引いて寝室に向かいながらトーク画面を開いた。

 

「ねぇ、誰?」

 

 僕が端末を確認しているのを見た途端、リリィは底冷えするような声色で聞いてくる。さっきまでウトウトと蕩けていたというのに、目敏いものだ。

 

「うん?明日の星魔占いだよ」

「……」

「お、リリィは明日も絶好調だ」

「ふぅん」

 

 十中八九、誤魔化せてはいないが今はまだ伝えないほうがいい。なぜならば、あの子とリリィの関係値はゼロを通り越してマイナスだからだ。

 黙り込んでしまったリリィを尻目に返信に目を通す。

 

『雌鳥が通う学校から問い合わせがありました。魔象庁の職員を名乗る人物が訪ねてきたと』

 

 なるほど、男は少なくとも魔象庁所属ではないようだ。聞く手間が省けた。

 

『それに関連していくつか相談したいのですが』

 

 あぁ。やはりリリィの予感は正しかったようだ。つまりこれは厄介ごと。

 誰かさんによく似た言い回しがトーク画面の末尾を飾っている。

 

『──差し当たっては、ここ最近の異常な魔粉飛散について』

 


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