類似性フラクタル   作:荻谷

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[Chapter:1]

[chapter:1]

 

 2021年・初夏の某日午後。

 奈良県にある某公園にて。

 立派な角を持った一頭の鹿とベンチに腰掛ける一人の男が、広大な公園の一角で静かに睨み合っていた。

 

 他の鹿達は一歩後に下がり、睨み合いの決着がつくのを静かに眺めているようにも見える。

 普段の公園ならば観光客や、昼休みの時間ならば周囲の会社や役所から昼食を取るために出てくる人間達も多い。そんな時期や時間と重なっていたら、面白がってこの戦いを眺めただろう。だが今は感染症対策の最中であり、昼休みからも外れている。なので殆ど人はおらず、公園は閑散としていた。

 真夏ほどではないが、初夏の陽射しは男の顔や首筋に容赦無く照りつける。

 鹿の眼前に伸ばした筋肉質な腕が、黒いシャツ越しにも太陽に焼かれる感触を覚え始めた頃。ようやく両者の間で、決着が着く事となった。

 他の鹿達よりも一回り大きい体躯の鹿が、前脚を曲げて芝生の上へと腹を着ける。先程まで敵意を剥き出しだった相手が座った姿を前に、勝ちを確信した男は「よし」と短く一言呟いて頷いた。

 伸ばしていた腕を僅かに下げ、指に挟んでいた一枚の鹿せんべいを口元へと差し出す。すると鹿は鼻息で応じた後で、勢い良くせんべいを食べ始めた。

 

「……貴方は一体、何をしてるんですか」

 呆れが混じった声が男の背後から降り注いだのは、せんべいを食べ終えた鹿が立ち上がった時だ。去りゆく大きな丸い尻を眺めながら、男はのんびりと返事をする。

「最後の一枚だったから、勝負したくてな」

「随分と休暇を満喫されているようで」

「お前に話し掛けられるまでは、満喫していたさ」

「余り意地悪を言わないでください。傷付きました」

「嘘をつけ」

 そこでようやく男は振り向き、背後に立つ人物を見上げた。逆光で相手の顔こそ見えないが、こちらを見下ろす顔は相変わらず真面目なのだろう。

「久し振りだな、花輪」

「お久し振りです、浄龍」

 浄龍と呼ばれた男は声も無くフッと笑うと、ポケットから五百円玉と百円玉を一枚ずつ出して――無言で自分の上司である花輪へと渡した。

 

 

 

「休暇中の人間に仕事を持ってくるとは。相変わらずブラックだな」

「部下の使い走りに上司が応じる程度には、働きやすい職場だと思いますがね」

「そうか?」

 鹿せんべいの束を買って戻ってきた花輪は、浄龍の隣に腰掛けた。三つ買ってきたうちの二つを浄龍は受取り、再びやってきた鹿達にゆっくりと振る舞ってやる。続いて、仕事の内容を聞こうと隣を見た浄龍の目に入ったのは、文字通り鹿に舐められたりスーツを噛まれたりして焦る花輪の姿だった。

 思わず口端が上がりそうになるが、からかいを告げる前に花輪のサングラスの奥にある目から「助けてください」という視線を受ける。

 眼前の光景が余りにも面白かったので、しばらく眺めたくもあったが。後で恨まれるのも面倒だし、このままでは仕事の話も聞けそうに無い。仕方が無いので浄龍が「おい」と鹿達に声を掛けた後、残りのせんべいをフリスビー宜しく遠くへ次々投げると鹿達は走って行った。

 

「今回の仕事は貴方が最も適任だと、私も思っています」

「ということは、力で解決か」

「いいえ」

 平日昼間から人が殆ど居ない公園のベンチに座る胡散臭い男性二人は、暫く両手を上げた姿勢のまま会話を再開させていた。食べ物を持たず、媚びる必要が無いと悟った鹿たちが散会してゆく様を見届ける。

「今回の仕事は、単独で三日間のエスコートと子守です」

 ようやく鹿から開放されたと確信したのか、溜息と共にハンカチで手を拭いた後。サングラスを直して、普段の冷静さを取り戻した花輪は仕事の内容を浄龍に告げた。

 彼の口から放たれた内容は、“子守”という言葉以外は別段珍しいものでは無い。

「子供、お好きでしょう?」

「そんな事は無い」

「でも護衛に加えて子守となれば、貴方は得意なはずです」

 拒否権など存在しない上に余計な一言まで貰い、思わず舌打ちが出てしまう。浄龍は一度、視線を上へと向け、空を仰いで数度瞬きを繰り返した。頭に浮かんだ過去の記憶と感情が再び沈み込むまで少しの時間を要し、再び視線を元へと戻す。

 すると丁度、浄龍の視界に鹿の親子が目に入った。

 集団から外れている母子だろう。先程もいたので存在自体は気になったわけでは無いが、不意に子鹿と目が合ってしまった。感情が一切読めない子鹿の黒い眼差しを受け、浄龍はスラックスのポケットへと手を突っ込む。

 指先に触れた百円玉の感触が二枚は残っている事を確かめた後で、ゆっくりと浄龍はベンチから立ち上がった。

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

「今回の護衛対象は前田 凛(りん)(35)さんと、その姪である前田 慈(ちか)(8)さんの二名です」

 高速道路へ入るまでは無言で運転していた花輪だったが。本線と合流してスピードを上げたところで、助手席に座る浄龍に対してようやく口を開いた。

「前田 慈さんはS国大使館経済担当官の娘で、その叔母の凛さんがS国でダム建設プロジェクトを一手に引き受けていた大手ゼネコン・前田建設の人間です」

「みんな前田か」

「まぁ、良くある政治と財閥系企業の親戚繋がりですよ。慈さんのお父さんが、前田家の婿養子ですね」

 あくまで浄龍が知りたいのは仕事の詳細なのだが、今回は長くなりそうな話の振られ方に適当に返事をする。窓の外に目をやると、奈良の市街地が高架下に広がっていた。

「実は今年になって、S国がダム建設に関して前田建設では無くライバル企業の山城組へと委託先を変更したいと。あちらの建設省から、一方的に告げられたそうです。これを聞いた前田建設の重要取締役の前田 明氏が、急遽S国へと交渉の為に出国したのが先月の出来事です」

 花輪と浄龍の声以外はロードノイズが響くだけの車内ではあったが、花輪がエアコンの操作パネルに手を伸ばすと、少し大きめの駆動音と共に冷気を含む風が車内に巡り始めた。いつも涼しい顔をしている花輪だが、やはりスーツ姿は暑いのだろう。だが半袖の自分には少し肌寒く感じるので、浄龍はすぐさま手を伸ばすと温度を元のものよりさらに上げた。

 

「そして十五日ほど前の事です。明氏はS国の建設省関係者と山城組の代表とを交えた会合が終わり、ホテルへと戻る時に現地マフィアの襲撃に遭い殺害されました」

「暗殺か」

「普通ならば誘拐ですが、殺害となればそうでしょうね」

 眉を顰める桐生に対して、花輪は相変わらず涼しい顔のままだ。だが、エアコンの温度は再び元の温度へと下げられた。子供じみた応酬を繰り返す歳でも無いので、浄龍はエアコンの風向きを運転席の方へと向ける。その後で、助手席の窓を開けて煙草に火を付けた。

 開いた窓の隙間から流れる温かい空気が、あっという間に車内を包む。浄龍は満足気に外へ向かって煙を吐き出そうとするが、口から出た霞は駆動音と共に上がった窓ガラスにぶつかって、車内に虚しく霧散するだけだった。

「明氏の妹である凛さんは、元々現地でダム建設プロジェクトを進めていた立場でした。彼女は現地の経済担当官でもあり、義理の兄でもある慈さんのお父さんと共に、S国政府高官と建設省。山城組との癒着証拠を数ヶ月前から収集していたらしいです」

 窓の外の景色は市街地を抜け、徐々に高速道路の両脇から見える街並みが密集した住宅街へと変わってゆく。窓の開閉ボタンは、既に運転席からロックされているようだ。

「現地で取締役の明氏が殺害された事態で危険を感じた凛さんは、義兄と共に集めた全ての証拠をデータファイルへと纏めて持ち出し。今回姪の慈さんと共に緊急帰国されました」

「子供の両親は?」

「残念ながら、出国直前にS国当局の手によって拘束されたようです」

「……そうか」

 返事と共に、浄龍は視線を下へと向けて目を閉じた。まだ面識も無い名前だけを聞いた子供ではあるが、少なくも両親が共に存命している現状には素直に安堵を覚える。

「凛さんと慈さんの二人が運良くS国から帰国したのは二週間程前でしたが。御存知の通り、現在は感染症対策で帰国者に隔離期間が設けられています。その間に凛さんと我々の間で、やり取り自体は滞り無く行われておりました」

 浄龍の様子を敢えて無視したかのように、花輪の言葉はなおも続く。

「お二人の隔離期間が終わるのは明日です。午前十時、大阪市内のホテルから出て我々と合流した後、東京まで目立たないよう少人数での護衛が適切だとなりました」

 窓の外に目を向けていると、案内標識が度々浄龍の目へと入る。どうやら車は西方向へと向かっているらしく、見る度に大阪までの距離が短く表示されていた。

 

「こちらが二週間という期間で凛さんと話や計画を詰めることが出来たという事は、相手側――つまり、敵側も同じ期間が設けられたという事でもあります。なので移動の際、危険は避けられない。と上は判断したようですよ」

「なるほど、襲撃される恐れは充分にあると」

 浄龍の言葉に「ええ」と花輪は一つ頷く。

「さらに帰国先の空港が関西国際空港であった事も含め、ちょうど休暇で関西をうろついていた貴方に声が掛かったという次第です」

「何故三日なんだ?」

「凛さんが持つ証拠データはオリジナルです。それをこちら側が当日引き取ったとしても、慈さんの御両親の身柄を無事引き渡してもらうための交渉材料として使うには、凛さんの持つ証拠データがオリジナルのものであると証明する必要があります」

 最初に聞いた“三日”という制限に関して浄龍が尋ねても、花輪は言葉を止めること無く。すらすらと理由を浄龍へと述べる。

「データの解析や原本であることの裏付け、そして慈さんや御両親に対する身柄や安全保障の交渉。他にも民自党側に次回の衆院選が有利に働くよう、時限式の取引材料として。山城組との繋がりが大きい、現与党の重鎮達に向ける牽制として。様々な使い道がある貴重なものです」

「随分と夢が詰まった証拠なんだな」

「ええ、それはとても。然るべきシェフ達の手に渡れば、極上をもたらしてくれる夢の様な食材、と例えれば分かり易いですね」

「良くも悪くも料理できるわけか」

 冗談を言い合うのも、最近ではお互い随分と慣れたものだ。二人揃って軽く鼻で笑い合う。

「なので上は是が非でも有効的な利用をしたいのでしょう。お二方や慈さんの御両親の安全確保に関する最終的な交渉に加え、様々な箇所で時間を要する期間が長く見積もって三日と判断されました」

 漸く説明を終えたらしい、花輪は長い息を吐いた。

 

「他に質問は?」

「今回はやけに細かく教えてくれるんだな」

「特例ですよ」

 携帯灰皿に吸い終えた煙草を押し付けている間、耳に入った珍しい言葉に浄龍は顔を上げる。

「護衛対象の一人、慈さんは子供です。貴方はこちら側の正当性をしつこく主張しておかないと、一切の言うことを聞かない駄目エージェントに成り下がる危険があるからですよ」

「なるほど、あのジイさんの入れ知恵か」

「浄龍」

 咎めるように、花輪から名を呼ばれる。

「お願いですから、主任と言って下さい」

 返事代わりに肩を竦めてみせると、エアコンの風向きを自分へと向けられる。

「おい、俺は寒いんだ。風を向けるな」

「なら早く着替えて下さい」

 剥き出しの腕に当たる冷風を感じながら、浄龍は舌打ちと共に渋々といった風に後ろを振り向いた。車に乗った時から、敢えて視線を向けない様にしていたものがそこにはある。後部座席に置かれた、見るからに暑そうな自分のスーツを一瞥する。

 続いて浄龍は窓の外へと視線を向けると――車が目的地へと到着するまでの間、意地でも寒さを我慢する事にした。

 

 

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

 翌日の朝。

 早めに起きた浄龍は室内で行える程度の運動で身体を動かし、シャワーを浴びた後で朝食を取る。そこからスーツに着替えたのは、花輪が迎えに来ると告げていた時間の際であった。

 チェックアウトを済ませ、宿泊先のホテルを出る。もうじき梅雨ということもあり、外の空気は僅かに湿気を含んでいた。ホテルの駐車場で浄龍を迎えた車には、花輪と見知らぬ男の二人が乗っていた。

 

「おはようございます」

 浄龍は「ああ」と短く返事をして、後部座席へと乗り込む。助手席に座る花輪の挨拶に続き、ハンドルを握る男が振り返って浄龍に声を掛けた。

「初めまして浄龍」

「お前は?」

「坂東といいます」

 坂東と名乗った男は、深々とを下げた。その姿はまだ若く、三十代の前半くらいだろうか。無愛想がスーツを着て歩いているかのような一派の関係者にしては珍しく、人懐っこい笑みを浄龍へと向けている。

「今回私は、花輪と一緒にサポートさせていただきます」

「新人研修ですよ」

 続いて無愛想な花輪から、振り向くこと無く言葉を重ねられる。

「くれぐれも、お行儀良くお願いします」

「花輪さんはああ言ってますが、普段通りで結構ですよ。貴方に関しては、どちらの噂も先輩方から伺ってますから……」

「おい、花輪。大道寺っていうブラック組織には、嫌味の一つでも言わないと就職出来ない決まりでもあるのか?」

 毒づきながらも浄龍はルームミラー越しに花輪を睨むが、彼の表情は崩れてすらいない。浄龍の言葉に面食らって苦笑いを浮かべる坂東と違い、花輪は慣れたもので「じゃあ車を出して下さい」と、静かに坂東へと指示するだけだった。

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

 午前十時。

 指定されたホテルの場所で、既に浄龍は待機していた。

 

 蒼天堀近くにある高級ホテルであり、浄龍がいるのは一階のエントランスをエスカレーターで上った先である。ホテルは二階に、フロントとロビーラウンジを兼ねた造りとなっている。一階と二階は吹き抜けとなっており、両フロア分に渡って設置されている側面のガラス窓も大きく、外からの光を多めに取り込む設計が開放的な雰囲気となっていた。

 平時ならばこの時間帯は恐らく、もう少し宿泊客などで賑わっているのだろうが。時勢柄もあり、見渡しても人は少ない。

 浄龍はサングラス越しに視線だけを動かし、先程から注意深く辺りを見渡している。

 人が少ないのですぐに見付けられるかと思ったが。事前に受け取った写真の顔はおろか、子供の姿でさえ見られない。続いて、今の位置から死角となる箇所も確認するために歩く。高級な絨毯が敷き詰められたフロアなので、一歩進む度に靴底が床を叩く感触が無いと、どうにも落ち着かない。

 浄龍からの報告が無い事を疑問に思ったのか、死角を確認して丁度一周を回ったところで、名を呼ぶ花輪の声がワイヤレスイヤホンから聞こえた。

 

『お二人はおられましたか?』

「いや、どちらも見つからない」

『……おかしいですね』

 訝しむトーンの花輪に「ああ」と答えたところで、視線を動かす浄龍の目がある一点で止まった。

 今浄龍がいる場所は、入口付近のエスカレーターが設置された側だ。フロア中央にあるロビーラウンジを挟んで、視線はさらに奥。エレベーターホールの前にいる、黒いスーツ姿で並ぶ男性二人の姿を捉えていた。

 一人の姿は先程から視認していたが、もう一人は今しがた周回した時にはいなかった。さらに互いが知り合いだとしても、男性二人が横に並ぶにしては幅が余りにも狭過ぎる。まるで彼らの前に立っている子どもの姿を、他人の目から少しでも隠すかの様な並び方に見えた。

「……子供は見つけた」

 ほぼ対極に位置する男達の元へと早足で進みながら、浄龍は花輪を呼ぶ。

「今日の新人研修とやらは、今お前と一緒にいる坂東だけか?」

 多少急いでも足音が鳴らないのは有り難い。中央のフロアラウンジを大股で横切り、花輪からの返事を待つよりも早く。浄龍は男達の傍へと既に接近していた。

 男達はそれぞれがエレベーターや子供の方に注意が向いているのか、近付く浄龍の姿には気付いていない。折角のツーマンセルの意味が無いとは思いつつも、逆に相手としては非常にやり易い事に感謝を覚える。

 

 浄龍は既に二メートル程にまで近付き、おもむろに「おい」と声を放った。

 男達と少女が驚いて振り向くのと。イヤホンから聞こえる『今この付近にいる関係者は、私達だけです』という花輪の緊張した返事と。一気に床を蹴って踏み込み、一人の顔面を捉えた浄龍の拳が容赦無く放たれたのは――全てが、ほぼ同時に起こった出来事であった。

 拳を横に振り抜いて、浄龍は一人目の顔を殴り飛ばす。

 弧を描いて飛んでゆく姿には一瞥もくれず。続いて二人目の鳩尾を殴り、膝が床に着いたところを上段から顔を横に蹴る。

 他に仲間はいないか、浄龍は周囲を素早く確認する。突然の暴力沙汰にフロアに居た人間たちが驚きの声を上げるも、不審な動きをする人間は見られない。

 ざわめき立つ空気の中、ふとスーツを引っ張られる感触が訪れる。視線を降ろすと、動じること無く浄龍を静かに見上げている少女と目が合った。

 腰まで伸びたサラリとした黒髪に、薄い桃色のワンピース。見るからに愛らしくて、利発そうな顔付きの女児だ。人形のように大きな両目は、怯える事無く真っ直ぐ浄龍へと向けられていた。少し大きめのポシェットを身に付けており、それとお揃いのものを掛けているクマのぬいぐるみを片腕に抱いており、もうひとつの手は浄龍のスーツを握っていた。

「花輪」

『はい』

「子供は保護した」

 少女の方へを視線を落とし、浄龍は静かに告げる。一方の少女も大人しくこちらを見上げていたが。花輪に対して行った返答の後を見計らったのか、固く結んでいた口を開いた。

 

「あなたが、おばさまの言っていたお迎えの人ね」

「チカ、だったか」

「はい、貴方はダイドウジから来たおじさん?」

 浄龍が黙って頷くと、チカもにっこりと可愛らしい笑みを浮かべて頷いた。

 肩から掛けているポシェットにでも付けられているのか。小さな鈴の音が、少女のお辞儀と一緒に揺れる微かな音を出す。

「よかったわ。さっきは間違えちゃったけれど、今度は正解みたい」

「おばさんは? 一緒じゃないのか?」

 浄龍が彼女の叔母である前田 凛の行方を尋ねると。チカはスーツから手を離し「あっち」と、指を真っ直ぐに指す。小さな指の先にあるのは、一階へと繋がるエスカレーターだ。続いて、花輪の声がイヤホンから聞こえてくる。

『今、ホテルを出たタクシーを追って一台の車が去っていきました。そちらの状況は? 凛さんは見つかりましたか?』

「……花輪」

 ちり、と頭の隅でなにかが焦げ付いたような違和感を覚える。花輪の名を呼ぶ浄龍の声は、普段以上に低く抑えられていた。

「そのタクシーに、恐らくだが叔母が乗っている。追ってくれ」

『どういうことですか?』

「俺にも分からん。が、信じろ」

 言葉に表して説明出来る根拠は何も無いのだが、不思議と今までの経験が答えを導き出す結果となった。花輪も浄龍の勘を疑うことは無いらしい。代わりに、少し強張った口調で言葉が続く。

『分かりました、私達は車とタクシーを追います。それとたった今、近くに止まっていた不審なバンから複数の男達が降り、ホテル正面へと向かいました。気を付けて下さい』

「ああ、きっとそいつは俺が殴った奴の仲間だろうな」

『殴るって……貴方は何をやってるのですか?』

「仕事に決まっている」

 

 長年の勘が恐らく正解だと気付いた時には既に、浄龍は側にあるエレベーターホールの階層表示を睨んでいた。

 三台あるうちの一台が二階へと上がってくる事に警戒を抱き、チカの手を引いて来た道を戻る。丁度フロアの中央にある大きなラウンジソファーの前で、一度足を止める。

 チリン、と鈴の音が浄龍の耳に入り浄龍は一瞬だけ視線を降ろす。が、こちらを見上げるチカの姿に異変は無い。

 続いて、視線をエレベーターへと戻す。すると二階へと到着したエレベーターの扉が開き、中から体格の良い背広姿の四人組が降りてきた。一見、普通のサラリーマン達にも見える。だが表面だけでは拭い切れぬ、空気が張り詰めるかの様な独特の緊張を纏っていた。

 男達はエレベーターから少し離れた場所で、意識を失っている仲間を発見したようだ。クラシック音楽が静かに流れる中、場にはそぐわぬ乱暴な言葉を大声で騒ぎ始めた。

 浄龍は既にチカと共に素早く身体を屈めており、ソファーの影へと身を隠していた。恐らく発見されるまでには、まだ多少の余裕はあるだろう。

 エントランスへと続くエスカレーターに、浄龍はちらりと目を向けた。今の屈んだ位置からは見えないが、花輪の報告通りならば恐らく正面のエントランス側にも人手は回っているだろう。もしくは今の男達から報告を受け、すでにエスカレーターを昇っている途中かもしれない。

 察するところ今の状況は、前後共に挟まれて退路が完全に断たれたという事である。

 

 浄龍はサングラス越しに少女と目線を併せて「なぁ、チカ」と彼女の名を小声で呼んだ。

「高いところは平気か?」

「お庭にある木の高さくらいなら、大丈夫ですよ」

「そいつがどれ位の高さか、俺には分からんな……」

 左手首に装着している腕時計の感触を確かめながら、同じく小声で返すチカの答えに苦笑が漏れる。

「まぁ、怖いと思ったら目を瞑っておけばいいさ」

 小首を傾げるチカの小さな身体を右腕で抱き寄せ「俺の首に腕を回せ」と短く伝える。チョコのような甘い香りが漂った後で、浄龍の右頬にモゾモゾするむず痒い感覚が訪れる。熊のぬいぐるみごと腕を回されたのを我慢して、チカを利き腕だけで抱き上げると浄龍は立ち上がった。

 その場で数度足踏みをして床の感触を確かめると、浄龍は全力で二階のフロアを走り始めた。

 

 浄龍は片腕でチカを抱き上げた姿で、エントランスのある側へと向かって走り続ける。

 駆け抜ける浄龍に向けて背後からは静止を告げる乱暴な声と、ホテルにいる人達からの驚きの声。そして正面に近付くエスカレーターから駆け上がってくる男達の怒声。

 様々な声を浴びながら、浄龍はエスカレーターの方では無く。その脇に設けられている、転落防止のフェンスへと向かって駆け続けた。

 勢い良く飛び上がり、フェンスの手前に設置された石製の大型プランターの縁に足を掛けて乗り上げる。

 視線は天井から吊るされている電飾のシャンデリアを見据え、独特の動きと力加減で手首を素早く二度振り、時計に動きを伝える。続いて真っ直ぐに腕を伸ばすと、腕時計から伸びた強化ワイヤーが発射された。

 ワイヤーは天井のシャンデリアへと向かって飛んでゆく。幾重にも回り、電飾にワイヤーが固定された感触が浄龍の腕に衝撃として伝わった。

 その間もプランターから手摺へと、飛び石のように軽やかに飛んで浄龍は足を移す。

 流れるような一連の動作でこれらを行い。チカを抱えた浄龍の身体は、躊躇せず勢い良く空中へを身を投じた。

 

 ふわり、と二人の身体を浮遊感が襲う。

 背後から男達の動揺した声と、耳の傍ではチカの小さな驚きの声が聞こえた。

 一階へと向かって、二人は勢い良く落下を始める。このままだと十メートル近い高さから床に両脚が叩きつけられてしまうが、途中でガクリと浄龍の腕が上に引っ張られ、床の少し上辺りで落下は止まった。すぐさま親指の爪に仕込んであった専用の逆刃で、ワイヤーを弾いて切断すると、浄龍の身体は再び落下する。    

 今度の高さは既に自身の背丈ほども無い。着地に併せて膝を折り、訪れる衝撃を殺して素早く着地を行った。

 続けて正面玄関の扉の前で、驚きの余り立ち尽くしている男達へと向かって浄龍は走る。

 入口の前に立つ男は二人。突如二階から飛び降りてきた、浄龍の非常識な行動で男達の行動は完全に出遅れた。それでも咄嗟に、背広の内側へと手を入れる仕草が目に映る。

 浄龍は怯むこと無く全速力の勢いに任せて、自分より大きな男へ肩から体当たりをする。男の大きな体躯が吹き飛び、エントランスのガラスへと盛大に打ち付けた。

 ガラスが割れる音と、大理石の床を滑ってゆく拳銃を浄龍は確認した後。続け様に左腕を伸ばし強化ワイヤーを発射し、もう一人の身体に絡ませて動きを止める。視線を上げてエスカレーターの方へと目を向けると、慌ててこちらへと走って降りて来る男達の様子が見える。

 ワイヤーを繋げたまま、拘束した男を躊躇いなく引っ張り上げて振り抜き、勢いを付けた後でワイヤーを切断してやる。すると哀れな男は絶叫と共に勢い良く、エスカレーターの方へとすっ飛んで行った。

 

 撹乱を兼ねた攻撃を行った浄龍が、後方を一切振り返ることは無い。興奮してはしゃいだ声を出すチカを片腕に抱いたまま──再び全力疾走で、ホテルを後にした。

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

「もう大丈夫だろう」

 息はまだ僅かに弾むも、必要以上に意識を張る必要が無くなったと確認が出来たところで。浄龍はチカにそう告げると、彼女の身体を下へと降ろした。

 

 先程の相手は銃を持っていた。発砲されるリスクを考えると、地下街の方が距離も稼げて安全だろう。そう判断した浄龍は、ホテルを出た後は近くの地下街へと入り。蒼天堀通りに隣接する商店街付近まで走り抜けた。

 続いて捜索を困難にするためにも適度に観光客や地元民の往来があり、その中でも成人男性と子供が並んで歩いていても違和感は抱かれない施設の一つ。百貨店の中に入ったところで、ようやく一息をつく。

 一階は化粧品などが置かれていることが殆どで、ここも例外では無いようだ。初夏にスーツを着込んだ男性と少女という、売り場にいる存在としては非常にアンバランスな組み合わせのだが。逆にそのような二人がフロアの端で立っているという光景は『買い物中の母親を待つ親子』として見えるのか、店員も客も浄龍達の存在を全く気に掛けないので留まり易かった。

 

 最近、歳を取ったせいか。以前よりも息を整えるのに時間が掛かってしまう。浄龍は額に浮かんだ汗を拭い、未だに弾む息と軋む肺をなんとか抑えようと呼吸する。すると眼の前にいるチカが、手を差し出してきた。

「はい、どうぞ」

 浄龍へと差し出された小さな掌の上には、一粒のチョコレートが乗っていた。小さな子供の気遣いを無下には出来ず、礼を言って受け取ると口の中に放り込む。

「疲れたときには甘いものが一番なのよ」

 どうやらホテルで彼女を抱き上げた時に漂った甘い匂いの正体は、これだったようだ。チカも同じものを口に入れた後はチョコレートが入っていた袋をポシェットへと戻し、にっこりと笑う。

「さっきは、怖がらせてしまって悪かったな……」

 出会い頭から随分と乱暴な光景を見せてしまった挙げ句、細心の注意を払っていたとはいえ、相当に無茶な事をしてしまった。本来ならば怯えられても仕方が無いとは思うのだが、何故かチカは目を輝かせたまま「いいえ、いいえ」と、首をぶんぶんと振る。

「すっごく楽しかった!」

「……そいつは良かった」

「おじさん、ヒーローみたいね!」

 先程の彼女自身に例えているのか、ぬいぐるみを片手で担ぎ上げ「しゅぱー!」と、手を突き出すチカの姿を見て。浄龍の頭に手から蜘蛛の糸を飛ばす、某海外映画のヒーローが思い浮かぶ。恐らく彼女と自分は今同じものを想像しているだろうと分かり、思わず苦笑が漏れた。

 

「おじさんのお名前は?」

「浄龍だ」

「ダイドウジジョーリューさん、私は前田慈って言います。宜しくお願いします」

「ああ、改めて宜しくな」

 礼儀正しく向き直って頭を下げるチカに対して、浄龍は「ダイドウジは付けなくていいからな」と告げる。そういえば、最初チカに会った時に鳴っていた鈴の音が、いつの間にか消えていることに浄龍は気付いた。騒ぎの時にどこかで落としたのかもしれない。

「この子はティム」

「ティムも宜しく」

 熊のぬいぐるみに対しても浄龍が分け隔てなく話し掛けると、チカは少し驚いた様子で目をパチパチさせる。続いて余程嬉しかったのか、ティムに向かって「よかったね」と抱き締めて頭を撫でていた。

 浄龍はそんなチカを横目に、分厚いガラス扉越しに外の様子を伺う。

 まだ午前中だが、日本でも指折りの観光地だけはある。商店街を歩く人は意外と多く、チカの歳や背丈に近い子供の姿もちらほらと目に付く。敵側の追跡を振り切った今ならば、移動は容易く行えそうだった。

「おばさんの事とか色々聞きたい事があるんだが、取り敢えずは落ち着ける場所に移ってからだな」

 あくまでもはしゃぐチカに対して、なるべく表情を崩さないように浄龍は「チカ」と彼女の名を短く呼ぶ。

「悪いが、もう少し歩いても構わないないか?」

「うん!」

 チカは笑顔で勢い良く頷くと、両手を広げて浄龍の方へと身体を向けた。

 どうやらこのお嬢様は、先程までの移動が大変お気に召されたようだ。浄龍は黙ってチカを抱き上げる。再び顔に押し付けられるぬいぐるみの感触を感じながら、やれやれと見えないように溜息を吐いた。

 

 浄龍は気持ちを切り替え、胸中で思案する。

 護衛対象であるチカが、今すぐ移れる安全な場所はどこだろうか? 大道寺一派のセーフハウスには、流石に部外者を連れては行けない。

――となると、あそこ以外には無いか。

 気が進まないも、浄龍が頭の中で思い浮かんだ安全な場所は一つだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

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