類似性フラクタル 作:荻谷
#[chapter:2b]
『――なるほど、そちら側の事情は分かりました』
「中身は今、事情を話して赤目に確認してもらっている」
『赤目さんですか。本来ならば、部外者には決して知られる訳にはいきませんが……今回は仕方が無いでしょう。私は目を瞑ります』
苦笑と共に「すまないな」と告げる。
「そっちはどうだ?」
『坂東が車とタクシーを追跡しています。連絡は今の所まだ来てません。私はあなた方と合流しようと、途中で降りましたが……そうですね、私がホテルへと向かって彼女のスマートフォンを回収しておきます』
「ああ、頼む」
浄龍達がホテルを出てから、まださほど時間は経っていない。襲撃者達の素振りから見るに、自分とチカを探してはいるだろうが、流石に逃げ去ったホテルのロビーラウンジに注意は払われていないだろう。
「色は桃色で、鈴が付いているらしい」
『ぬいぐるみが持っていた中身が本物のデータとは限りませんし、チカさんのスマートフォンにデータが入っていることも充分に考えられますからね』
「そうだな」
『ええ、ではまた後程連絡します。貴方は引き続きチカさんの安全を第一でお願いいたします』
「分かった」
『それと、赤目さんに伝えて下さい。出来れば――』
互いの状況確認だけを行って、花輪から続く言葉も聞き終えた後で浄龍は通話を終える。両者の状況を併せ、現状で自分が起こせる行動は何も無さそうだ。
事務所の隅で通話をしていた浄龍は、戻りながらチカの方を伺い見る。
「お電話、終わり?」
「ああ」
ティムを膝に乗せて、赤目から借りたタブレット端末を観ていたチカが顔を上げた。
「おばさまは?」
「まだ探している途中らしい」
正直に告げると、チカは一言だけ「そう」と少し目を伏せて呟いた。気丈に振る舞っているのが傍目からでも判る。だが、いい加減な憶測もまだ伝えるわけにもいかない。浄龍は胸中で叔母の無事を願うだけに留めておく。
続いて浄龍は、PCで作業をしている赤目のデスクへと向かう。近付くと画面に目を落としたまま「お疲れさん」と返ってきた。後ろからPCの画面を見るも、複数の画面に映る情報は浄龍には全く理解出来ない内容であった。
「花輪さん、コレの事で何か言うてた?」
「お前だから特別に目を瞑るってさ」
「へぇ……ほな、幾らかコピーさせてもらおかな」
面白がっているのか、それとも浄龍をからかっているのか。いずれにせよ、肩肘を付いてこちらを見上げる赤目の表情は生き生きと輝いていた。
「ええ値段になるやろね、これ」
「別に駄賃代わりで、幾つかコピーしてもいいんじゃねぇか?」
自分にとってデータはさほど興味が無いので、浄龍は事も無げにそう言い放つ。
すると、それまでの表情から一転。赤目は瞬きを繰り返した後で、整った眉がハの字を形作る。目が細められ、まるでこちらを憐れむかのような視線へと変わる。無言で様変わりした彼女の表情に、流石の浄龍も戸惑いを隠せなかった。
「……花輪さんも、随分と苦労してるんやね」
「どういうことだ?」
「そのまんまの意味や」
これ以上は何も言う気が無いらしい。返事代わりに赤目は首を横に振る。続いて大きく背伸びをすると、椅子から立ち上がった。
「他には花輪さん、何か言うてた?」
「取り敢えず、夜までは大人しくしておけとさ。ここに居ても構わないか?」
「別にかまへんよ」
今度は特に困った様子はなく、快諾してくれた赤目に対して浄龍は「すまない、助かる」と礼を告げた。加えてもう一つ、花輪から預かった赤目への言伝も口にする。
「それと花輪から、チカと俺が安全に泊まれるホテルがあればお前に手配して欲しい。と言われた」
「ウチに?」
浄龍が少し訝しみながら花輪からの要件を伝えると、赤目も同じように少し首を傾げながら訪ね返してくる。花輪の意図が分からないも黙って浄龍が頷くと、赤目の方もそれ以上は追求もなく「まぁ、それもええよ」と了承が返ってきた。
「なぁ、ジョーリュー」
「何だ?」
「ウチがあんたらの言う事聞く代わりに、後でごっつい弁当買ってきてもええ?」
どうやら彼女の中では浄龍達が作った今回の貸しは、それでチャラにしようという提案らしい。浄龍も赤目の意図を察して「ああ」と頷く。
「俺とチカの分も頼む」
「お、太っ腹やな」
浄龍の返事を聞いて、赤目はニヤリとする。
どうやら交渉は成立らしい。続いて浄龍が「ちゃんと領収書を貰ってこいよ」と一言を加える。それを聞いた赤目は「自分も大概、ちゃっかりしてんなぁ」と、浄龍の肩をバシバシと叩きながら笑った。
◇ ◇ ◇
前田 慈という八歳の少女は、年齢の割には落ち着いており社交性も非常に高い。親族側の事情もあり、そうなるべく教育された賜物なのだろう。夜になるまでの間にすっかり赤目とも打ち解けて、楽しそうに二人で話をするまでになっていた。赤目の方も、元々が面倒見の良い人情派なので浄龍にとっては非常に有り難かった。
赤目が管理している蒼天堀各地に点在する防犯カメラを幾度も切り替えて、浄龍は夜まで追手の存在を確認していたが。特に怪しい人影も見当たらず、追跡は今のところは無いとの判断に至っていた。
チカの身に異変が起きたのは、夕食を食べて赤目が二人を親子として手配してくれたホテルに入ってから暫くしての事であった。
浄龍とチカが部屋で腰を降ろしたのが、つい先程の二十時頃。先にチカを風呂へと入れ、自分は目を閉じて身体を休めていた時だ。彼女がいる風呂場の方から、シャワーの音に混じって啜り泣くような声が耳に入り、浄龍は思わず顔を上げた。
「大丈夫か?」
バスルームの前へと近付き、声を掛けるも返事は無い。
一度名前を呼んだ後で「開けてもいいか?」と尋ねてみるが、これにも返事が無い。
暫くは待ってみたが、まだ泣き声は止まらない。それどころか最初の頃よりも激しくなっているので、浄龍は黙って僅かにドアを開ける。バスルームに充満している湯気がドアの隙間から溢れ、シャワーで溜めたバスタブの中で膝を抱えて泣く小さな背中が目に入った。
何があった、と尋ねるまでもない。
子供だろうが大人だろうが、ほんの些細なきっかけを端緒に感情は爆発する。幾ら冷静に振る舞うよう教育が成されていたとしても、まだ八歳の子供である。逆に今までの振る舞いが、充分過ぎる程の虚勢だったのだ。
「……今日は色々と怖かっただろ。いっぱい我慢できたチカは偉いな」
バスルームの中に入った浄龍が声を掛けて、そっと頭に触れると抱きつかれた。
服が濡れるも構わず、黙って濡れたチカの背中をあやすように擦り続ける。暫くの間そうしていると、時間の経過と共に泣きじゃくる声もしゃくり上げる肩の動きも徐々に落ち着きを取り戻す。
浄龍が「少し落ち着いたか?」と尋ねると、チカは一度だけ小さく頷いた。
「取り敢えず、体を洗って出てこれるな?」
「うん」とチカは頷く。小声で謝罪の言葉も続くが、浄龍は一度軽く頭を撫でると浴槽のドアを締めた。
部屋の中央に備え付けられている空調から流れる風が、濡れてしまったシャツに当たる。なんとも言えない不快感に襲われ、浄龍は眉を顰めた。着替えがあればよいのだが、予定外の行動により替えも無い。仕方が無いので、備え付けの館内着へと着替えることにする。
シャツをハンガーに掛けて乾きやすくなるよう、空調の位置を調整していると。脇に置かれたチカの荷物が浄龍の視界に入った。赤目に頼んで買ってきて貰った動きやすい子供用の服と、チカが身に付けていたポシェットの隣に寄り添うような形で置かれているぬいぐるみ。
無表情ながらもティムの顔はチカの戻りを黙って待ち、浴室の方を眺めているかのようだった。
「ジョーリュー」
丁度、浄龍が備え付けの館内着を羽織ろうとした時。浴室から出たらしく、チカの驚いた様な声が聞こえた。一体何を驚いているのか分からず、浄龍は振り向いてチカの方を見る。
程なくして、彼女が何故驚いていたのか。動くチカの視線を見ているうちに、浄龍は理由を遅れて察する。恐らくだが、自分ですら最近久しく忘れていた背中を目にしたのだろう。「怖がらせたか?」と試しに訪ねてみると、首を横に振られた。
まだ目は赤いが、顔も綺麗に洗ったようだ。髪は濡れているも、しっかりと着替えている。先程まで見せていた表情は影を潜めていたが、疲れた様子は伺えた。
「背中のタトゥーは、ジョーリューのリュー?」
「そうだな」
余り子供に見せるものではないと思うので、浄龍は館内着を羽織った後で一言だけ返す。こちら側の事情を知るわけも無いチカだが、それ以上は特に追求される事は無かった。視線を顔から落として見ると、チカの手にはドライヤーが握られていた。「髪、乾かしてやろうか?」と浄龍が尋ねると、彼女は「うん」と頷く。
小さな歩幅で浄龍の前を横切り、備え付けられたデスクの前へとチカは腰を降ろした。
ドライヤーの温風を当て、指で湿った髪をほぐしながら乾かしてゆく。水分が飛び、さらりと手櫛の通りが良くなる度、浄龍の心の中では遠い昔の記憶が蘇る。二十余年来、久しく忘れていた感触を味わっているうちに。目の前で座る少女の髪は乾き、元の質感を取り戻していた。
「ジョーリュー、あれはできる?」
「あれ?」
浄龍がドライヤーを片付けているうちに、チカは椅子から降りて荷物の方へと向かう。戻ってきた彼女はティムを抱いて、ポシェットの中から取ってきたらしいヘアゴムを浄龍へと差し出した。
「うさぎあたま!」
「ああ」
チカが何を言っているのか分かった浄龍は、櫛を手に取ると椅子へと腰掛けた。続いてチカを膝の上へと座らせる。乾かした髪に櫛を丁寧に入れた後で左右に分け、それぞれを耳の上で結わえて留める。これでツインテールの出来上がりだ。
「三つ編みは?」
「出来るぞ」
デスクの前にある鏡に映ったチカの口から、感嘆の声が出る。驚いて振り返った彼女に対して、浄龍は目を細めると自慢気に口端を上げた。
「パパもおばさまもできないのに、ジョーリュー凄い!」
「編み込みは、良くねだられたからな」
「だれに?」
驚いて大きくなった目が浄龍を見上げる。幼いチカが見せた動作が余りにも昔の遥に似ており、浄龍は思わず「娘だよ」と、口から言葉が出てしまっていた。
むすめさん、とチカは口の中で小さく呟く。
「今は会えないの?」
純粋なチカの問い掛けに対し、浄龍は一言だけ下を向いて「ああ」と頷く。
「おくさんは?」
「そっちはいない、片親みたいなものだな」
「複雑な家庭環境ね」
「そういうことだ」
現在は大道寺一派のエージェントとなった詳しい経緯を言える訳もなく、仮に言ったところで理解が出来る筈も無い相手ではある。チカの方から最も適切かつ、最善の回答が返ってきた事には浄龍は内心ホッとした。
「あいたい?」
「会いたいな」
「そう」
持っていたティムを強く抱きしめて「私といっしょね、ジョーリュー」と呟き、チカは黙った。二人の間に訪れた沈黙の中、やはりこの子は賢い子供だと浄龍は改めて感心する。一方のチカは風呂にも入り、泣き腫らしたこともあり。さらには時間的にも眠いのか、小さく可愛い口から欠伸が溢れていた。
「三つ編みは、明日起きてからしてやるよ」
「うん」
子供が眠くなる素振りを見せてから、夢の時間へと旅立つ早さはどんな時代になっても変わらない。チカは欠伸の後、すぐに目が半分閉じかけている状態となっていた。
「あしたはどうするの?」
「どうなんだろうなあ……」
寝癖にならない様、今しがた結えたばかりの髪を解いてやる。抱きかかえてベッドへと寝かせてやると、少し舌っ足らずの口調で明日の予定を尋ねられた。彼女が寝てから花輪へと報告と明日の計画を聞こうと思っていたので、現段階ではまだ浄龍にもどうなるかは分からない。ほんの少し沸いた感情のままに、浄龍は正直に小さな少女へと尋ねてみせる。
「どこか行きたい所でもあるのか?」
ベッドの中に入ったチカは暫く考える素振りを見せた後で、少し遠慮がちに「えっとね……」と。とある場所の名前を浄龍へと告げた。
◇ ◇ ◇
『今後の行動ですが……』
約束の時間に浄龍が電話を掛けると、花輪はすぐに本題へと入った。
『移動に関しては、凛さんもまだ発見されていない今。恐らくはデータを先に本部の人間へと引き渡して、本物かどうかの確認をした上でになりそうです』
「データを本物と確認した上で、叔母が見つからなかった場合は?」
『それらの状況を考慮した結果です。貴方が今言った事態の場合、チカさんが東京へと向かうのはその後からですね。ちなみにチカさんのスマートフォンは、無事回収しました」
「そうか」
「はい」
花輪の報告の後で、チリンと小さな鈴の音がスマートフォン越しに耳へと入る。音も相まって、チカのスマートフォンを無事回収したという話に浄龍は胸を撫で下ろした。昼間の状況で彼女が下した判断は恐らく正しかったのだろうが、それでも気軽に手放せるものではないだろう。
「なら明日はまだ大人しくしておけ、という事か」
『ええ、最低でも本部の使いが確実に到着するで夜までは』
「叔母の行方は?」
『現在警察関係者の者にも手を回して、搜索している途中です』
元々が淡々と話を一方的に進める花輪だが、今回は失敗するかもしれないという事態に陥っているせいか、声色も聞いていて随分と固く感じる。
『ホテルで貴方を襲った何人かの顔を照合した所、元近江連合の構成員だということは分かったのですが……』
「今は敵側の建設会社に、雇われているってことか」
『そういう事になりますね』
浄龍の頭に過るのは、一年半程前に大阪で起きた日本二大極道組織が同時に行った大解散だった。恐らく今話す花輪も同様だろう。
『近江連合と東城会の二大極道組織が解散した今。元々が武闘派気質の者達は、各地で半グレと化してグループを結成したり、荒事などを生業としている者も多いみたいです』
風の噂で大吾や渡瀬が立ち上げた警備会社の方は経営が難航して、最近では話を聞かない。となれば、かなりの者が職にあぶれ荒事を専門に活動していても不思議では無い。昼間にホテルで遭遇した男達の事を思い返すが、確かにそう言われると合点がゆく。
「なぁ花輪」
『何でしょう?』
「明日チカと出掛けても構わないか?」
『はい?』
今までしていた会話と全く関係の無い浄龍の言葉に、裏返った声で返事が返ってくる。
「チカが明日行きたいって言っていたんでな」
続いて関西にある水族館の名前を告げた後で、浄龍は素早くスマートフォンから耳を離す。予想していた間隔より、数秒の間が空いて特大の溜息が聞こえてきた。耳を離して直撃は避けたが、それでも溜息はスピーカー通話と変わらない程にまで大きく耳に届いた。
『貴方、御自分の立場と任務を……』
とそこで、普段ならつらつらと続く花輪の説教は来なかった。代わりに『……分かりました。いいでしょう』と了承の旨がスマートフォンの向こうから聞こえて、逆に浄龍の方が面食らってしまう。
『チカさんも意味が分からず御両親と別れて帰国して。長い隔離期間や、凛さんの安否不明に襲撃などもあった。八歳の子供にしては、余りにも精神的負担が大き過ぎる。とうに限界を迎えていることでしょう』
「ああ」
ベッドの上で眠っている少女へと視線を向け、熟睡している様子を確認する。
『それに多くの人が集う場所に潜伏するとなれば、逆に追跡の目には止まりにくい。しかも子供が多い場所ならば、充分に相手の目を欺ける可能性と機会があります』
「狙われる可能性があるのに、今回は随分と素直だな」
『貴方なら襲撃されたとしても、充分に捌き切れるでしょう。なるべく人の出入りが多い時間帯――正午を過ぎた辺りを狙ってならば、危険は少ないかと』
「なら、お前も一緒に来るか?」
花輪から返ってきたのは説教でも呆れでも無い、ただひたすらの沈黙である。無言のほうが普段の余計な一言よりも怖い。ついには沈黙に耐えきれず「ただの冗談だ」と浄龍の方が折れた。
後は必要な会話と連絡は他に無いか、互いに確認を終える。浄龍は普段と同じく、花輪の方から通話が切れるのを待っていたが。今回は『浄龍』と少し間が空いて、名前を呼ばれた。
『一番良い結果としては、凛さんが無事でかつ身柄を保護する事です。そうすれば、凛さんとチカさんはすぐにでも東京へと身柄を移動させることが出来ます』
「見つける事は出来そうか?」
『……少し、考えがあります』
浄龍は無意識のうちに背を曲げ、意識をスマートフォンの向こうにいる相手へと集中する。もう一度、花輪に名前を呼ばれた。だがその呼び方とニュアンスは、普段のものとは少し異なる類のものであった。
『身体の調子は?』
「……問題無い」
『そうですか、では頼りにしてますよ』
チカを抱いて走って逃げた時の事を思い出し、浄龍の返事は少し遅れる。だがそれに対して花輪からの追求は幸いにも無かった。おそらく当面の間は、大丈夫だと彼も判断したのだろう。
『体調に何かあれば、すぐに報告するように』
「お前はいつから、そんな過保護になったんだ?」
『単に管理者としての努めです』
浄龍は冗談めかして尋ねてみる。今度の花輪は普段と同じく憮然とした物言いの後、通話は切れてしまった。
一つ、溜息を吐いた後で浄龍はそっと座っていた椅子から立ち上がった。なるべく眠っているチカから離れて電話をしようと思い、デスクの椅子を窓際へと運んで話していたのだ。椅子を元の位置へと戻す際、ふと顔を上げる。
デスクの前に備え付けられた鏡には──苦い表情を浮かべた、名を失った男の姿が映っていた。