類似性フラクタル   作:荻谷

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[chapter:3a]

 

 

 タクシーから降り立って、まず感じたのは磯の香りだった。大阪には幾度も来たことがあったが、陸路での移動が殆どだったので漂う海の匂いに浄龍はいささか戸惑う。

 一方隣に立つチカは、海よりもタクシーが停まった先の広場に興味があるようだ。広い広場の両隣に大きな建物が二つ見える。片方はショッピングモールで、もう一つの角ばった特徴的な外観の建物が――チカが昨日行きたいと、浄龍に告げた水族館であった。

 抜けるような晴天の元、浄龍とチカの二人はゆっくりと広場を歩いて水族館へと向かう。蒼天堀と同じで、地元の人間も多く訪れる場所だからなのだろう。平日にも関わらず、広場を歩いて水族館の方へと向かう人の数は意外と多い。見れば親子連れの他、遠足のような集団の姿もある。

 

 到着してから昼食を取ろうかとも考えていたが、先に済ませておいて正解だったようだ。水族館から出てショッピングモールへと向かう人達と、これから水族館に向かう人達。それぞれが行き交う人で賑わう広場を眺めて足を進める内にチケット売り場へと辿り着く。

 チケット売り場も人が多く、列に混じって順番を待たなければならない。二人は並んでゆっくりとチケット購入の列を進んでゆく。数歩あるいては止まるを繰り返すうちに、退屈なのかチカがリズムを刻みながら身体を左右に振り始めていた。前にある売り場を伺う度に、二つに結わえた髪がゆらゆらと揺れている。肩から掛けたポシェットとティムを抱く姿は同じだが、動きやすい服に着替えて髪型も変わった事により、昨日とは印象が随分と変わって見える。

 チカを視界に収め、浄龍は列を進みながらも周囲への警戒を怠らない。今の所は怪しい人物はの姿は見られない。

 ホテルを出てから昼食中、それにタクシーで大阪港へと向かう途中も。浄龍は追跡の姿やこちらを伺う存在が無いか、常に周囲の確認は行っていた。今まで尾行されている様子は無いが、それに加えて浄龍は見知った顔の人間の姿も探していた。

 

 再び列が動き、ゆっくりと進んでゆく。浄龍は目を凝らして、手に持ったスマートフォンの画面を見た。陽の下では見づらいそれに映るのは『13:07』と時間が表示されただけの飾り気の無いロック画面だけである。

 ロック画面に映る時間と、画面に反射して映り込む自分の姿を眺め。浄龍は午前中に坂東と交わした、余り愉快ではない会話の内容を思い返した。

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

 それはチカが目を覚まして朝の用意が終わり、十時を過ぎた頃であった。

 

 チカの髪を結い終わり、荷物を纏めている時に浄龍のスマートフォンが鳴ったのだ。初めて見る番号ではあったが、浄龍は通話ボタンを押して通話に出る。

『おはようございます、浄龍』

 最初こそ声の主は分からなかったが、昨日初めて出会った男のものだと暫くして分かる。

「坂東か。何かあったのか?」

『貴方達は今、一体どちらに?』

「滞在先のホテルだ」

 何故か暫しの沈黙があり、しばらくしてから坂東の声が続く。

『そうですか。この後は?』

「正午過ぎには大阪港へ向かう」

『大阪港? そこで何かあるんですか?』

 訝しむ声の調子を聞く限り、どうやら坂東は花輪の方から何も聞かされていないようだ。説明をするのも面倒臭いが、最低限の内容だけを浄龍は伝えることにする。

「でかい水族館がある。チカが行きたいと言っていたんでな」

『……は?』

 坂東もまた花輪と同様、浄龍の言葉に驚いたようだ。数秒開いた後で、呆れた様子の溜息がスマートフォン越しに伝わってきた。

『まあそれは貴方の管理者である花輪さんが了承したのでしょうし、俺は何も追求しません。ところで、俺はその花輪さんにお伝えしたいことがあるのですが……』

「花輪に?」

 意外な用件に浄龍が聞き返すと、坂東から「はい」と言葉が返ってくる。

『こちらからの連絡には何故か出られないので、浄龍から伝えて貰えますか?』

「どういうことだ?」

 まるでボタンを掛け違えたかの様な、噛み合わない坂東との会話に気味の悪いザラつく違和感を浄龍は覚えた。坂東も同じ事を思ったのかは判らないが、暫く双方の間には無言の時間だけが経過する。

 

『……花輪さん、貴方と合流されていますよね?』

「していない」

 浄龍の返答に一瞬だが、坂東の声が強張った様に感じた。音声のみとはいえ、反応を伺う限り坂東にとっては意外な答えだったらしい。

「何故俺が花輪といると思うんだ?」

『花輪さんがそう言ったからです』

「花輪が?」

 花輪がこちらにいると坂東が一方的に決めつけている理由が、浄龍には全く理解出来なかった。違和感の元である食い違い気味の会話を少しずつ合わせようと、浄龍は思考を巡らせて質問をする。

 坂東の口調も徐々に焦りが混じり始めていたので、彼を落ち着ける意味も込めて浄龍は「花輪に何かあったのか?」とゆっくり尋ねる。落ち着き払った浄龍の態度に、坂東の方も落ち着いたらしく「実は……」と、戸惑い混じりの声がスマートフォンの向こうから続いた。

 

『昨夜から花輪さんと連絡が取れません』

 先程よりやや早口で告げた坂東の言葉は、浄龍にとっては予想外のものであった。不意打ちで告げられた内容の深刻さで、浄龍の身体に緊張が走る。

「昨夜から?」

『はい』

 昨日の花輪に最後の連絡したのは、チカが寝てから暫くしての事だ。

「俺が花輪に連絡をしたのは、確か二十一時半だった」

『はい、その後です。花輪さんは貴方と一時的に合流すると仰って、セーフハウスを出てから戻ってきていません』

 浄龍は顔をしかめた。坂東の声を聞く限り、彼が嘘を言っていない事は分かる。そも坂東が浄龍に花輪が消えたと嘘をつく理由がまず見当たらない。双方の会話が噛み合わなかった原因が分かり、今度は浄龍が戸惑う番であった。

 花輪が嘘をつく男では無ければ、無断で姿を消すような男でも無いと浄龍は知っている。しかし花輪と会う約束などしていなかったにも関わらず、どういうわけか花輪が自分と合流すると言っていたと坂東は告げてきた。

 一体どういう事だと浄龍が思考を巡らせている間にも、坂東の質問は続く。

『花輪さんから何か、連絡があったりしましたか?』

「無かった」

『そうですか……』

 少しトーンが落ちた坂東の声には、わずかな失望が混じっていた。

『では、引き続き私の方でも花輪さんを探してみます。何か分かりましたら、すぐにご連絡します』

「ああ、頼む」

 

 通話を終えた浄龍は、しばらく黙って手元にあるスマートフォンを見つめていた。何の飾り気も無い待ち受け画面が消灯してもなお、黙って目を落とし続ける。自分達が置かれている現状と情報を整理しようにも、現段階で与えられたピースは余りにも少ない。

「どうしたの?」

 思考が見えぬ答えを探る最中、不意に耳に入ったチカの声で浄龍は我に返った。画面が消えたスマートフォンから顔を上げ、隣に立っているチカへと視線を向ける。もうすぐ出発しようと服を着替え、二つに分けた髪を揺らしながらこちらを見上げるチカがいた。表情にこそ出ていないが、彼女の大きな瞳には不安の色が混じっている。

「いや、大丈夫だ」

 チカを安心させる様に、浄龍は息を深く吐いて首を横に振った。累積する懸念はなおも降り続けるが、考えあぐねているばかりでは事態は好転しない。当然ながら花輪と叔母の行方も気掛かりだが、自分が幾ら思考を巡らせたとてどうにもならないだろう。

 浄龍の胸の内に湧き上がる違和感は尽きないが、花輪と昨夜交わした会話を思い出す。今はチカの身辺警護に徹する事が自分に課せられた役目だと、浄龍はそう自分に言い聞かせ。再度かぶりを振った。

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

「どうしたの?」

 朝の会話を思い返しているうちに、先に言われたものと同じ質問が浄龍の耳へと入る。

「いや、大丈夫だ」

 浄龍は深く息を吐いて、チカを安心させるように首を横に振った。これも朝と同様だなと思うが、チカの表情にも不安の色が僅かに滲んでいる。ここに来るまでの間もはしゃいでいたが、内心は叔母の行方がまだ分からないのが本当は心配で堪らないのだろう。

 とはいっても正確な情報はおろか、現状が判らない今は用いるべく言葉は何も無い。浄龍にはチカの頭の上に手を乗せて、撫でる事でしか不安に応える術を持ち合わせていなかった。

 

 花輪が行方不明なのは確かに気掛かりだ。だが昨夜交わした会話から察するに、こういう事態の場合、花輪ならば何を第一に優先すべき事柄か? そして自分はどういう行動を取るべきか?

 憶測ながらも数年の付き合い上、察することはそう難しくは無い。ならば今はまだ自分が動くべきときではないのだろうと、朝と同様の判断を下す。

 そうしているうちにもチケット購入の列は随分と進み、自分達の番がようやく訪れた。浄龍は売り場のカウンターに向かって「大人ひとり、子供ひとり」と背伸びをして告げるチカに続き、財布と交換するかのようにスマートフォンを再びポケットへとしまうのであった。

 

 

 館内に入ってまず一言、チカが「狭いね」とボソリと呟いた。外は随分と眩しく、暑さも感じていたが中に入ると空調が効いていた。

 確かに狭いな、と浄龍も同様の感想を抱く。チカを見ると入口で手に取ったパンフレットに目を落として、そこに描かれた館内見取り図を指でなぞっていた。

「この先にエスカレーターがあるんですって」

 他の入場客と共に奥へと進んでゆくと、長いエスカレーターの登り口が見えてきた。エスカレーターは長く、乗れば外の景色もガラス張りで良く見える。高度が上がるにつれ、広場を歩いていた時には見えなかった海も徐々に姿を表した。

 浄龍は暫く外をじっと眺めていたが、中腹に差し掛かる辺りで前に立つチカが小さな声で何やら呟いていることに気付く。耳を澄ませば、どうやらパンフレットに書かれた文章を読んでいるらしい。時折、言葉が詰まるのは漢字が難しいのだろう。幾つかの漢字を飛ばしている箇所もあるようで、聞いていても内容は今ひとつ理解出来ない。

「ふとひらよう?」

「太平洋、な」

 エスカレーターが終わる直前に、チカが読んだ漢字を浄龍は思わず訂正してしまう。チカは怒りもせず、素直に「教えてくれて有難う」と礼を述べてくれた。「海外に住んでいたのに、漢字を少しでも読めるのは偉いな」と浄龍が素直に述べると「そう? でも、もっとお勉強しなきゃね」と、真面目な様子で頷いていた。

 

 この水族館は最上階から館内の中心に設置された大型水槽の周囲を回り、下層へと降りてゆく構造らしい。

 珍しい構造かもしれないが、他の場所を余り知らない浄龍には良く分からない。それでもチカから受け取った館内図を見る限り、上下ながらも一本道となっており内部の把握は簡単だった。この構造なら前後の確認を定期的に行えば、万が一不審な者がいたとしても素早く対応が行えるだろう。

 二人は手を繋ぎ、暗く薄暗い展示場にある幾つかの水槽を抜けてゆく。暫く歩いていると、通路の出口側から差す青い光が徐々に色濃くなってゆくのが分かった。

 

「……凄い!」

 通路を抜けて目に入ったのは、目前いっぱいに広がる巨大水槽だった。目の前に広がる青い光景にチカは感嘆の声を漏らす。走り出そうとしたのか、強く繋いだ手を引っ張られる。浄龍はチカの早足と共に速度を合わせて、水槽の前へと歩み寄った。

 青い光を放つ水槽は大きく、中では数多の大小様々な魚が回遊している。その中でも一番大きな二匹のジンベエザメが泳ぐ様は、まるで海の一部でも切り取ったかのような圧巻の光景であった。

「親子かな?」

「兄弟じゃないか?」

 チカは目を輝かせて浄龍に尋ねるが、浄龍も分からないのでつい適当に思ったことを返してしまっていた。浄龍の反応をみたチカは何か思いついたようにポシェットに手を掛ける。だが、その手は途中で止まってしまい、ポシェットを開けることは無かった。

 彼女が行った一連の動作は、恐らくスマホを取り出して調べようとしたのだろう。そしてチカがスマートフォンを持っていない事に気付き、諦めたのだとも察する。浄龍はポケットから自分のスマートフォンを取り出し、検索画面に文字を打ち込んだ。

「親子でも兄弟でも無いな、オスとメスらしい」

 検索して出た結果をチカに告げると、再びチカは水槽に目を向けた。彼女の目線と顔は、並んで泳いている二匹のジンベエザメと共に少しずつ動く。

「夫婦?」

「そこまでは書いてなかったな」

「でも仲良しね」

「そうだな」

 水槽を眺めるチカの表情から、先程見えていた一瞬の影は既に消えていた。泳ぐ魚の群れの中でまた別に興味をひくものを見つけたらしく、ゆっくりとチカは歩いてゆく。浄龍はただ一言だけ「走ろうとするなよ」と告げる。

 チカからは手を離さず、かといってこちらから引っ張ることはなく。適度な強さで引かれながら、浄龍はチカと共に進路を少しずつ進んで行く。

 

「本当に海の中みたい」

 回遊する魚を追ったり、説明を見ながら館内を進み。水槽の周りを丁度一周して下へと少し降りた時だった。

 最初に見た時から少し高度が下がったので、今度は泳ぐジンベエザメの姿が上に見える。それを見上げていたチカがぽつりと漏らした。続いて無意識だったのか、またもやポシェットを弄ろうとして、腰元へと手を伸ばしていた彼女の手がピタリと止まる。

 浄龍はそんな彼女の様子を見て、自分のスマートフォンを取り出した。ロックを解除すると「使い方は分かるだろ」と、カメラモードにしてチカへと差し出す。先程から周囲の人間がカメラやスマートフォンを構えて水槽を撮っている姿を見ていたので、おおよそ彼女が何をしようとしていたのか今度も見当は付いていた。

「……ありがとう」

 少し小さな声で礼を告げてくるチカの様子を見る限り、やはりスマートフォンを手放した事を後悔していたのだろう。片手だと撮りにくいだろうからと、繋いだ手を離して彼女が抱いていたティムも浄龍は受け取る。

 

「沢山わがままいって、ごめんなさい」

 浄龍から受け取ったスマートフォンを大事に持って、チカは俯き加減で小さく呟いた。

「みんなにね、見せたいなって思ったから。今日は来たかったの」

「そうだったのか」

 水槽からの青い光に照らされた小さな少女は、一つ大きく頷いた。顔を上げて、透明なガラスの向こう側に広がる海をじっと見上げている。

「パパとママと、おばさまと……」

 家族の安否を切に願っている様子は、こちらから見ても胸が痛い程伝わってくる。浄龍の口からは気休めは決して言えない以上、彼女へと伝えられる励ましは限られている。浄龍は数少ない言葉の中でも出来うる限り彼女を励ませそうなものを選び、ゆっくりと声へと乗せる。

「なら今日はゆっくり回って、沢山見て。今度みんなで来た時に、しっかりと案内出来るようにしておかないとな」

「うん」

 顔と声色に多少の明るさが戻ったチカは、もう一度浄龍に「スマホありがとう」と頭を下げた後で、スマートフォンを造り物の海へと向かって高々と掲げた。

 

 チカと浄龍は所々で立ち止まり、写真を撮りながらゆっくりと順路に沿って巨大水槽の周りを歩きながら降りる。|螺旋(らせん)状の順路は、想像していたものよりも距離があり、下層の手前でチカは少し疲れたらしい。ここに来るまでの間にも、休憩を挟みながら降りてゆく家族連れが多かったので、やはり子供にとっては結構な距離なのだろう。二人は途中に設置されたベンチへと腰掛ける事にした。

 ベンチの脇にも魚が展示されている小さな水槽がある。二人が目を向けると、仲良く同じ向きで泳いでいる熱帯魚らしき魚の群れがいた。チカは腕を伸ばして、小さな水槽の群れも写真に撮ったらしく、撮影音が浄龍の耳に届く。

 浄龍は少し離れた場所にある巨大水槽へと視線を移し、座ったまま上を見る。随分と降りてきたらしく、水面はもう見えず。代わりにもうすぐ水槽の底である層が目線の下には入っていた。

 ぼんやりと水槽の上を泳ぐ魚を眺めていると、チカの「はい」という声の後で膝の上に硬い感触が訪れた。「もういいのか?」と膝の上に乗せられたスマートフォンを手に取って浄龍が尋ねると、チカは「うん」と頷く。代わりに浄龍はずっと手に持っていたティムをチカへと返してやる。戻ってきたティムを抱き締めたチカは「また借りるかもだけどいい?」と尋ねてきたので浄龍も黙って頷いた。

 

「結構、撮ったんだな」

 写真が収められたフォルダを眺めながら、浄龍は口端を上げてチカへと話し掛ける。スマートフォンの扱いはやはり今時の子供にとっては慣れているようで、何枚も映っている写真はブレもピンボケもせず、それぞれの魚が綺麗に収まっていた。

「ジョーリューの分も撮ったの。沢山撮って、案内できるようにしておかないとだめでしょ」

「俺の分?」

 ふとチカが告げてきた言葉の意味が分からず、浄龍は眉を顰める。まさかとは思うが、チカは再び家族と合流出来た際に自分を一緒に此処へと連れてくる気なのか? と訝しむが、続くチカの言葉は浄龍の考えが及ばないものであった。

「ジョーリューは今度、娘さんと来なきゃ」

 なるほどな、と思わず浄龍は苦笑を浮かべてしまっていた。自分は八歳の子供に気遣われているのか。或いは浄龍が無意識の内に、度々チカと幼い頃の遥との面影を重ねてしまっていた気配を勘付かれていたのか。いずれにせよ、彼女は何かを見抜いていたらしい。本当に賢い子供だと、感嘆しか浮かばない。

 

「アイツとこういう場所に来た事は、殆ど無かったかもしれないな」

「水族館?」

 チカの問いに、浄龍は黙って頷いた。

 水族館もそうだが、他にも動物園や遊園地。横浜に住んでいた頃には幾度か出掛けることはあったも、沖縄に移り住んでからはそのような暇や余裕は一度も無かった。

 チカは浄龍と同じく、巨大水槽に目を向ける。こちらの方へと泳いできた二匹のジンベエザメは、並んで遥か上を飛ぶ様に泳いでいて今はもう小さく見える。悠々と泳ぐ魚達に目を向けたまま、浄龍はぽつりと独り言の様に言葉を続けていた。

「……もっと、色々と連れて行ってやればよかったのかもなぁ」

 チカからの返事は無い、それに安心している自分もいる事に浄龍は気付いていた。別人だとは重々解れど、やはり事あるごとにチカと幼い時の遥とを重ねて見てしまう自身を胸中で戒める。

 時間は戻ることもなければ、自分自身が望んで縛られた桐生一馬の死は決して覆ることも無いのだ。決して遥やあさがおの子供達とは二度と会えない、という不変の現実に徹しなければならない事実だけが残り、激しく打ち付けられる錯覚に駆られる、

 

「ジョーリュー」

 水槽の青い光と、沖縄で見た海の青さとが重なり。暫しの間思考の渦へと飲み込まれていた浄龍であったが、チカに呼びかけられて我に返る。とんだ失態だとばかりに、謝って隣に座るチカの方へと目を向ける。

 丁度ポシェットから取り出したばかりだったのか、チカは手に持った小さな袋からチョコを一つ取り出し、浄龍へと差し出してきた。浄龍は礼を言ってチョコを受け取ると、口へと放り込む。

 昨日彼女からチョコを貰った時は全力で追跡を振り切るために走り抜け、体力を使った後だった。味を感じる余裕も無く、ただひたすらに甘いとしか思わなかったが――今日のは甘みよりも、苦みを感じるものであった。

「娘さん、私と歳は近いの?」

 彼女もチョコを口に入れているのか、こちらを見上げる顔は少し頬が膨らんでいる。今度は自分が気遣われている事が、浄龍にもはっきりと分かった。

「……確か今年で二十五だな」

 浄龍の答えに、チカからの返事は無かった。遥の歳を聞いて驚きの余り口に手を当てる彼女の仕草を見て、先程まで抱いていた鬱蒼とした気持ちが晴れてゆくような気持ちになる。

「アイツの子供は今年五歳だから、チカの方が年上だな」

 もう一度、今度はチカの驚く声がはっきりと浄龍の耳へと届いた。続いてボソリと小声で「おじいちゃん……」と呟いたのが余りにも面白くて、浄龍は思わず笑ってしまっていた。声を出して笑った浄龍に驚いたのか、暫くチカは目をパチパチとさせていたが、やがて彼女も声を出して笑い始める。

 二人で顔を見合わせて笑っているうちに、口の中にあるチョコが少し溶けていたので浄龍は歯で割る。どうやらビターチョコで外を覆っていただけらしい。ようやく口の中全体に広がるミルクチョコレートの甘みが、喉奥から通じて身体や心へとじわりと染み込むように広がってゆくような様が少しばかり心地良く感じた。

 やはりチョコは甘い方が美味いし。子供も笑顔になってくれている方が自然である。

 

 

 チカと過ごすほんのひと時の休憩の後、そろそろ下へと降りようかという頃。

 浄龍は昨日花輪と交わした会話を想い出していた。

 

『一番良い結果としては、凛さんが無事でかつ身柄を保護する事です。そうすれば、凛さんとチカさんはすぐにでも東京へと身柄を移動させることが出来ます』

 通話を切る直前に、確かに花輪はそう言っていた。花輪が行方不明という坂東の言葉は気掛かりではあるも、ここで座る前にも周囲を常に確認していたが――不審な動きをする輩は、今の段階では一度も発見することは無かった。

 花輪の言葉を素直に聞くとすれば、今晩には彼が居ても居なくても、恐らく大道寺一派の方からの連絡が何かしらの形で浄龍へと寄越されるだろう。

 先程まで抱いていたチカとのやり取りを一度心の奥底へと押し込めて、浄龍は腕時計の時間を今一度確認する。

 造り物の海が照らす青白い光に照らされた時計盤の短針は、丁度三の数字を指していた。

 

 

 

 

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