類似性フラクタル 作:荻谷
浄龍とチカの二人は、巨大水槽のエリアから出たところで一旦足を止めた。
館内の中でも比較的明るく、広い場所である。ここは季節に合わせて変わる展示スペースらしい。今はどうやら、海の生物に餌やりを行える展示が開催されているようだ。
海の色と同様、青い制服を身に纏った女性飼育員がマイクで話しながら、色々と子供達に向かって水槽の中にいる魚の生態を説明している。職員は慣れており、上手い具合に子供の興味を引く話し方をしていた。チカも他の子供達と同様、飼育員の説明に聞き入り始めた。
今回はクマノミというイソギンチャクと共生している熱帯魚の説明で、子供が好きそうな橙色の魚だ。浄龍も子供向けの映画でクマノミは何度か見かけたことがある。説明の後、子供は餌やりが出来るらしい。こちらを一瞬見上げたチカに対して、浄龍は「ここで待っておくから、行けばいい」と告げてやる。
顔を輝かせて餌やりの列へ並びに行ったチカを確認した後で、浄龍は展示場全体が見渡せる位置にまで下がってゆく。チカを定期的に視界へと収め、周囲を警戒することに務めることにした。
水族館の中に入ってからも常に周囲には気を配っていたが、館内で怪しい人間の姿はここまでを通して見られなかった。子供連れよりも大人だけで訪れている人間には特に注視していたも、浄龍とチカを気にする素振りを見せる者達は誰もいない。
昨夜に花輪が言った通り、人――それも子供や親子連れの出入りが多い時間帯の上に有名な観光地だと、直接こちらを狙って行動を起こす事は難しかったのかもしれない。かといって襲撃の危険は無い、というだけだ。監視されていないという判断は容易に下せない。
注意深く周囲を浄龍は眺めているうちに、列に並んでいたチカに順番が回ってきたようだ。水槽の中に手を入れて楽しそうに笑っている彼女の姿が浄龍の目に入った。
今まで並んでいた子供達の様子を見る限り、もう少し経てば餌やりを終えてこちらへと戻ってくるだろう。そうなると浄龍の居場所が分からずに、チカが困惑するかもしれない。離れた位置に立っていた浄龍は、彼女に近付こうと足を進めようとする。その時、クマノミに餌をやり終えて列から出たチカの元へと歩み寄る人物の姿が見えた。
チカへと歩み寄ったのは、二十代前半位の若い女性であった。水族館の飼育員でもなければ、子供と一緒にいる家族や学校の教員とも違う。普通の格好をしているも、隙の無い雰囲気を纏っていた。連れはいないのか、順番が終わったチカの方へと迷い無く早足で近寄ってゆく。
浄龍は直ぐにチカの元へ駆け寄ろうとも思ったが、立ち止まって警戒する選択を敢えて取る。万が一、相手に敵意があれば浄龍が駆け出した途端、即座にチカの身に危険が及ぶ可能性の方が高いと判断した末の行動だ。
女性に話し掛けられているチカの表情を見る限り、今のところ怯えた様子は見られない。浄龍の位置からは屈む女性の顔は見えないが、彼女と話すチカの顔には笑顔が浮かんでいる。目を凝らして二人の様子を注意深く眺めていると、女性はチカに何かを渡して背を正した。そして頭を下げたチカに対して頷き、背を向ける。接触はそれで終わったらしく、後は出口の方へと歩いて行った。
一体どういう事だと、浄龍は出口の方へと向かう女性の背を眺める。女性は浄龍の方を一度も見る事は無かった。それどころか終始怪しい様子が無かったからこそ、浄龍の中で戸惑いと違和感は拭えない。
出口側に連れを待たせているのかもと、女性の姿を浄龍は目で追う。だが戻ってきたチカに声を掛けられ、一瞬だけ女性から目を離してしまう。次に目を向けた時には、既に女性の姿は消えていた。
「ジョーリュー、どうしたの?」
もう一度チカが浄龍の名を呼んだ。一旦意識をチカへと向けて、様子を確認する。まだ理由は分らないが、チカは何故か面白そうに浄龍を見上げてクスクスと笑っていた。
「さっきの人と何を話してたんだ?」
「ジョーリューはお父さんじゃなくて、もうおじいちゃんなのに。私のパパと間違えられてたの」
話しが全く見えず「何を言ってるんだ?」と、眉を顰めた浄龍がさらに尋ねると「えっとね……」とチカの言葉が続く。やはり面白いのか、その表情は明るい。
「『アナタのお父さんが、さっき歩いてた時にハンカチを落としたから、渡しておいてね』って言われたの」と、チカはそう言って手に持っていた紺色のハンカチを浄龍へと差し出してきた。
「俺が落とした?」
「うん、そう言ってたよ」
チカの言葉に違和感を感じて、浄龍は訝しむ。言葉自体は、何らおかしくは無い。恐らくチカは本当に女性からそう告げられたのだろう。だが彼女が差し出したハンカチは、まず浄龍のものでは無い。それにこれを自分が落としたと女性が言っていたのならば、第一に落とした本人の姿を探すものだろう。にも関わらず、女性は後ろにいた浄龍を探すことも見ることも無く、真っ直ぐチカの元へと向かっていたのを浄龍は知っている。
取り敢えずはと、浄龍はチカからハンカチを受取る。持った瞬間、畳まれたハンカチに挟まる小さな感触を指が感じ取った。危険物の類が入っている可能性も考慮して、ゆっくりと慎重に開いてみる。
「――これは」
どこかで聞き覚えがある小さな音と共に、開かれたハンカチの中に挟まっていたメモを見て。浄龍の目は驚きで見開かれた。
クマノミの餌やりも終え、後は水族館を出るだけだ。浄龍とチカはゆっくりと出口と書かれた表示に従い、手を繋いで歩いてゆく。
出口も兼ねた売店コーナーへと差し掛かった時。余りにも目を引く“それ”を見つけた浄龍の足は固まり、思わず立ち止まってしまった。
「なぁ、チカ」
大小様々なぬいぐるみや菓子やキーホルダーや文具。種類が豊富な土産物が並ぶ中で、レジ横に立つ妙なサメの着ぐるみが異様な存在感を放っていた。浄龍がチカの名前を呼ぶと、チカは「なぁに?」と、不思議そうに浄龍を見上げる。
「チカは、ああいうのは好きか?」
固くなった浄龍の声と共に指差した先にいるサメの着ぐるみを見て、こちらが何を言いたいのか察してくれたようだ。チカは顔を綻ばせ「あれはサメ? 可愛いね」と笑って答える。
「可愛い……?」
浄龍が戸惑いつつも放つ言葉に対して、チカはうんと頷く。どうやらチャリティーグッズを扱っているらしく、着ぐるみの前には大きな募金箱が置いてあった。箱に書かれた金額を見る限り、チャリティーでも最低金額を決めた類のようだ。傍には同じキャラのステッカーやキーホルダーが並んでいる。
「何か欲しいものはあるか?」
二人は近付き、浄龍はチカへと尋ねる。
「いいの?」
「このサメの商品を買って払うお金は、海を守る為に使われるそうだ」
浄龍がそう言って頷くと、チカも浄龍の提案に関しては納得したようだ。「それじゃあ……」とサメのグッズを選び始めた。
チカがグッズを選んでいる間、浄龍は目の前で奇妙な動きを見せる着ぐるみを眺め続ける。
幾ら環境保護へと使われるとはいえ、大きく開いた口元に鋭い歯が並んでいる捕食者側をモチーフに使用するのはいかがなものだろう。全体的に丸みを帯びており、確かにシルエット自体は可愛い。しかし鮫歯もそうだが、大きく黒い目がさらに不気味さや不穏さすらも漂わせている。だがそう思っているのはどうやら浄龍だけのようで、チカ以外の子供や若い女性も着ぐるみに群がったりグッズを選んでいたりしている。自分には分からぬ感性だが、子供や女性の目から見たら可愛く見えるのかもしれない。
「これにする」
浄龍が妙な着ぐるみを観察しているうちに、商品を選び終えたチカが浄龍の方を振り向いた。彼女が差し出したキーホルダーを受取り、浄龍は着ぐるみに向かってそれを見せる。
サメがこくりと頷いて、ヒレらしきもので傍にある箱を指差す姿を確認した後。浄龍は財布から千円札を取り出し、二つに折ると箱へと入れる。コトン、と箱に料金が落ちる音がした後で、サメは律儀に浄龍へと向かって頭を下げた。
「ジョーリューありがとう! カバンにつけてもいい?」
「ああ、出たところで付けてやるよ」
チカは浄龍の返事を聞いて「ありがとう」と言って髪を揺らして可愛く笑う。続いて振り返り、サメの着ぐるみの方をもう一度眺めて手を降っていた。
「これで海、守られるといいね」
「そうだな」
浄龍も頷き、チカと同じく子供達に囲まれるサメの着ぐるみを眺める。
「多分、有意義に使ってくれるだろうよ」
丸い身体に付いている背ビレを子供に引っ張られている間抜けな着ぐるみを眺めながら、浄龍は口端を上げて声を出さずに笑った。
◇ ◇ ◇
水族館を後にしてすぐ。どこかの店舗で炒っているのか、海の匂いに混じってバターとポップコーンの香りが漂ってきた。昼食を食べてから水族館には訪れたが、夕方が近付くにつれ腹が減ってくる。
腕時計で時間を確認すると、今は午後四時を過ぎたところだ。空は茜色にはまだ程遠いが、太陽の向きは西へと確実に向かっている。正午を過ぎた頃にはきつかった初夏の陽射しも幾分かは和らぎ、サングラスを通して見える海も輝きが控えめとなっていた。
黒いスーツを着込んでいるため、暑さは相変わらずである。だが暑さを我慢する様子を表情には一切出さず、浄龍はチカと並んで海を静かに眺めていた。
昨夜は「水族館に行きたい」とチカはハッキリと言っていたが、その後の行動に関しては浄龍は何も希望を聞いていない。
「他にどこか行きたいところはあるか?」
海を眺めているチカに尋ねるも、何も思いつかないらしく、ティムを抱いて首を傾げるだけだ。潮風に吹かれて、チカの結わえた髪が少し乱暴にたなびいている。
花輪も不在で指示が来ない以上、咎められるまでは好きに動いても構わないだろう。そう考えた上での質問だったが、大阪に関しては浄龍も今ひとつ明るくない。
現状を鑑みる限り、昨夜泊まったホテルへと今のうちに戻っておいた方が得策だろうか? などと、浄龍が思考を幾ばくか巡らせ始めた矢先の事だった。ポケットに入れていたスマートフォンが震える。浄龍は取り出して、スマートフォンを確認する。画面に映るのは朝に見た番号だったので、迷わず通話ボタンを押して耳へと当てた。
「坂東か」
向こうが声を発する前に浄龍が名を呼ぶと、受話器の向こう側から『ええ』と返事が聞こえる。
「花輪は見つかったのか?」
『いいえ、残念ながらまだです』
沈んだ坂東の声が聞こえ、浄龍の表情は険しくなる。それ以上は花輪に関して何も追求しないでおくと、坂東の話は続いた。
『ですが凛さんの方は発見しました』
昨日から行方を探していた、チカの叔母である前田 凛の名が坂東の方から告げられる。朗報ながらも、浄龍は「そうか」と一言だけ口にすると、あくまでも淡々とした態度で徹する。
『はい。実は彼女の居場所自体は、早朝の時点で見当が付いていたんです。なので人員を割いて、先程こちら側で無事に保護しました』
「それは良かった」
淡々とした態度ながらも、浄龍はこちらを心配した面持ちで見上げるチカの頭をそっと優しく撫でてやる。彼女の方に顔を向けると、ゆっくりと頷いてみせた。
『なので浄龍、お二人を無事に東京へと送るべく。今からこちら側と合流して貰いたいのですが……まだ大阪港に?』
「ああ。水族館を出て、今は広場にいる」
『分かりました。俺は今そちらに向かっている途中なので、その場で待機を』
浄龍は「分かった」と、坂東に待つ旨を伝えた後で通話を終えた。
「チカ」
ティムを抱き締めてこちらを見上げる少女に向かって、浄龍は静かに名前を呼ぶ。先程までと違う浄龍の気配に気付いたのか、チカは大きな目を真っ直ぐ浄龍の方へと向けていた。
「叔母さんは無事、見つかった。もう少し経ったら車が来るから、そいつに乗れば叔母さんとは無事会えるだろう」
ようやく気休めでは無く、声として伝えることが出来た「叔母は無事」という浄龍の言葉に、チカは安心したのかティムを強く抱き締めて小さく浄龍へと頷き返した。
下を向いたまま、潮風に煽られて舞う髪を押さえるように浄龍はもう一度チカの頭を優しく撫でてやる。
「……よし、行き先は決まったし。俺はもうひと仕事頑張ってみせるさ。だからチカも、あと少しだけ頑張れそうか?」
うん、と浄龍の質問にもう一度チカは頷く。今度は力強い頷きであった。
風に乗って届いたチカの決意と、それを後押しするかのような澄んだ音が耳に入り。浄龍はサングラスの奥の目をそっと細めた。
◇ ◇ ◇
「たった一日で、随分と仲良くなられたんですね」
車を出してから暫くして。後部座席に並んで座る浄龍とチカをミラー越しに眺めた坂東が、穏やかな声で二人に向かってそう告げた。
先程の電話から三十分程で、坂東は車に乗って一人で来た。
彼はチカに挨拶した後で「今から叔母さんと待ち合わせしている場所に行くよ」と告げた以外は、一度も話し掛けていない。
チカの方も坂東へと話し掛けること無く、かといって過剰に人見知りをしているわけでも無いようだ。知らない人間と話すことよりも、流れてゆく車外の景色を見る方が楽しいのだろう。時折、外に見えるものを浄龍に尋ねる程度で、賑やかに話すことも無かった。
――今から向かう場所で、チカの叔母である前田 凛が保護されている。
浄龍とチカが到着したら直ぐに車を乗り換え、自分を含め数名で護衛をしながら東京まで向かう手筈になっている。と浄龍に先の行動を簡潔に説明した少し後であった。
三人の間には暫く沈黙の空気が流れていたのだが、そんな時に坂東は先の言葉を浄龍へと投げ掛けてきたのである。
「子供、本当に好きだったんですね」
沈黙に耐えかねたというより、どうやら単に興味本位で尋ねてきただけのようだ。浄龍も坂東の質問に対して「ああ」と、一言だけ肯定をする。
「俺はちょっと前まで、警察関連の仕事をしていたんです」
「おまわりさん?」
興味を持って尋ねるチカに対して、坂東は「そうだよ」と頷く。
「四課周りで無くとも、まぁ……府警の人間ならば、貴方の事を知らない人間はいない程でしたからね。あちらの先輩方からは、色々と破天荒な話を聞かされたものです」
信号で停止した隙に、一度だけ坂東は振り返って浄龍の方を見た。チカも興味が窓の外から浄龍の方に向いたみたいで、こちらを静かに見上げている。
「なので、そんな人が子供好きだと花輪さんから聞かされて。てっきり冗談だと思ってた」
「お前はアイツが冗談をいう人間に見えていたのか?」
鋭い感情を乗せた浄龍の一言に対して、坂東からは「いえ」と小さい否定が溢れる。
「……花輪さん、無事だといいですね」
「ああ、そうだな」
隣にチカがいるも、こればかりは憮然とした態度を隠す事は無い。一度だけ心配そうにこちらを見るチカに対して「大丈夫だ」と告げた後で、浄龍は窓の外へと目を向けた。
どこに向かっているのかは分らないが、車は湾岸沿いの幹線道路を走り続けていた。