類似性フラクタル   作:荻谷

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[chapter:4b]

#[chapter:4b]

 

 

 

「ガジェットを使う素振りを見せたら、即撃つ。この距離からだと、お前がご自慢の道具を出すよりも早く、どちらかの腹に風穴を開ける事ができる」

 坂東はそう告げながら、浄龍と叔母へと向かって交互に銃口を揺らして脅し付けた。

 チカ達が立っている位置は、何故か先程見た時と殆ど変わっていない。

 壊れた扉の傍に、二人は立っている。坂東はそこから数メートル程離れた位置に立っていた。丁度、叔母が縛られていた椅子が横に見える。

 弾む息と早る気持ちを落ち着けながら、浄龍は坂東を正面へと捉える形で静かに向き直り対峙した。坂東が銃を突きつけている先、浄龍の右前方でチカを庇う形で立っている叔母の方へとチラリと視線を向ける。

 浄龍が向けた「何故逃げなかったのか」という意図を込めた視線に対し、彼女は震える声で「扉の向こうにも、銃を持った人が……」と力無くこちらへと首を振ってみせた。絶望と諦めが混じった叔母の消え入りそうな声の後で、浄龍は彼女達が立っている場所からさらに右側後方の壁へと視線を向けた。

 

 叔母の言葉通りならば、壁を挟んですぐ傍に誰かいるらしい。姿こそ見えないが、何者かの気配は確かに感じる。浄龍の勘を裏付けるかのように、壊れた扉の向こう側へと僅かに差す西陽が照らした影が一つ。ゆらりと大きく動いたのが、浄龍の側から伺えた。

 扉の先は外と繋がっていなかったのか、或いは既に張られていたのか。いずれにせよ二人が脱出に失敗して、今ここで坂東に銃を突きつけられている。目の前にある光景こそ、紛れもない事実であった。

 窮地の中であれ以上の選択肢は無かったと解ってはいるが、己の見通しが甘かった事に浄龍は奥歯をぎりと噛む。笑い声を響かせる坂東を睨み付けるも、今度は打開策が何一つ思い浮かばない。

 恐怖で震える叔母の後ろで、佇むチカが浄龍の方へと視線を向けている事に気付く。やはり今の状況が危険だと分かっているらしい。一言も喋らないも、こちらを静かに眺めている。何故か一昨日に奈良で見た、自分を見つめる鹿の親子の姿が浄龍の脳裏を過った。あの時に見た子鹿の黒い目に浮かんでいる感情は伺えなかったが、浄龍を見据えるチカの黒くて大きな目からは「何とかしてくれる」という期待の光が僅かながらに感じ取られた。

 

 浄龍は坂東よりも壁の向こう側にいる、影しか見えない相手を静かに睨み付ける。

 今は姿を現す様子は無いみたいだが、叔母は確かに「銃を持った人」と言っていた。何とかして浄龍が隙を作り、坂東が発砲する前に“蜘蛛”で無力化出来たとしても。後ろに潜んでいる相手からチカ達を巻き込む形で、こちらを狙われたら意味が無い。

 左には銃を構える坂東、そして右側にはチカと叔母。さらに彼女達の後方に潜んでいる相手。沈黙を貫く内で浄龍は、視線を幾度か往復させる。必死に突破口を模索している最中、一瞬だけ奥に潜む影の方角から何か小さく反射した光を浄龍は捉えた。恐らく今のは、こちらの動きを捉えるためのレンズかスコープの類だろう。

 浄龍は一度目を強く瞑り、その後で瞬きを繰り返した。目の横にまで伝ってきた額の汗を拭う。沈黙が続く状況に耐えかねたのか、再び坂東から声が上がった。

 

「最後にもう一度言います、データを渡してください」

「だから、持ってねぇよ……」

「まだそんな事を言うんですか?」

 呼吸をゆっくりと深めに行い、息を整えつつ。なるべく落ち着いた声で「――それに、」と浄龍は返事をする。

「データなら、もう渡した」

「とぼけるなっ!」

 浄龍とは対象的に坂東の方は興奮に苛立ちが拍車掛かったのか、さらに大声となっていた。工場内に響き渡る怒りの声は鼓膜にを震わせ、空気が僅かに振動する。

「よく聞け、もう一度言う。俺は確かにデータは持ってはいたが、既に渡した」

「そんな事を……」

「この状況で、まだ嘘をついてると思うか?」

 興奮している相手を宥める時には、常にこちら側は冷静さを心掛ける必要がある。相手をなるべく刺激しないように、浄龍は降参とばかりに両腕を上げる。その後で言葉を噛み砕くかの様に短く区切り、ゆっくりと坂東に言い聞かせるかのように告げた。

「……渡した、って誰に?」

「決まってる、花輪にだ」

「花輪とは合流していなかったって、朝」

「朝は、な」

 最後に告げた一言で、坂東の顔色が変わったのは明らかだった。

「……花輪との接触は無かった筈です」

「何故そう言い切れる?」

 二人が交わす会話の内容こそは、先程のものと殆ど変わら無い。だが、今は双方にとって意味合いが一変した会話として繰り出されていた。攻守逆転、とばかりに浄龍は畳み掛ける。

「坂東お前。朝の電話で行き先を聞いて、俺とチカを張っていたな」

 浄龍が水族館で警戒していたのは、あくまでチカの身の安全と襲撃の有無である。こちらに接触する機会や浄龍達の行動を注意深く観察して動向を伺うものとは異なる、ただの尾行の場合は場所も相まって気付きようが無い。

「どうした? 随分と顔色が悪いぞ」

 明らかに動揺を見せ始める坂東に対して、浄龍は口端を上げて笑みを作る。じり、と一歩足を進めようとしてみるも、つぶさに「動くな」と見抜かれ警告される。興奮の面持ちから一転、青褪めた顔色で坂東はボソリと呟いた。

「……どうやら貴方は、俺が聞いていた感じの人とは違ったようだ」

 独り言のように呟く坂東の言葉に興味を引かれた浄龍は「ほう」と、目を細めた。

「どんな風に聞いていたんだ?」

「人を疑うことを殆どしない、単純で扱いやすい人だと」

「どうせそいつも、花輪から聞いたんだろう」

 今度は返事こそ無かったも、彼が見せた態度だけで充分であった。

「……ならそいつは、花輪の冗談だ」

 自然と湧き上がる笑いを堪えずに、浄龍は小さくフッと笑う。

 今までの時間で弾んでいた息は収まり、両手を上げたままの姿勢だが幾分かの余裕は取り戻せた。「俺はもういつでも動けるぞ、後はお前次第だ」という意味合いを込めて。浄龍は僅かに動きを見せる壁向こうの相手へと向かって、声を張り上げて名を呼ぶ事にした。

 

「おい花輪!」

 先程までと打って変わって、明るく半分笑いを堪えた浄龍の声が工場内に響き渡る。呼び掛けられた声の主からの返信は、意外と早く返ってきた。

「そんなに大声を出さなくても、聞こえてますよ」

 ここ数年ですっかり聞き慣れた声は相変わらず静かで落ち着いてはいたも、ハッキリと聞こえてきた。

 チカ達の背後から姿を見せた男――花輪は西陽に照らされて姿を現した。浄龍が蹴り飛ばした扉を靴で踏むと、軋んだ鉄塊から鈍い音が鳴り埃が舞う。

 突然姿を見せた花輪を前に、驚いているのは坂東だけでは無い。振り返り後ろに立つ花輪の姿を見て、チカと叔母も呆然としている様子を見せている。

「前田 凛さん、慈さん。先程は驚かせてしまい、申し訳有りませんでした」

 二人の反応と今の花輪の様子を見る限り、逃げ出そうとした時に裏口から侵入した花輪と鉢合わせをして、咄嗟に敵と思って逃げて来たのだろうと浄龍は察する。

 

「なるほど、裏切り者は貴方でしたか」

「お前、新人に嘘ばかり吹き込むなよ」

「全部本当のことでしょう」

 呆然とする三人をよそに、花輪と浄龍は軽口を叩き合う。決して事態が好転したわけでは無いも、何故か花輪は落ち着き払って銃を構える坂東の方へと近付いてゆく。

「さて、私が何を言いたいか分かりますよね?」

「それ以上近付いてみろ、本当に撃つぞ!」

「幾ら積まれたかは知りませんが、随分と馬鹿な事をしでかしたものです」

 一通り軽口を叩き終えた後で、浄龍は坂東と花輪の様子を注意深く観察し続けていた。突然花輪が現れた事に対する驚きで、坂東は先程とは明らかに異なり、酷く動揺している。一方の花輪は「構いませんよ、|的(まと)なら四人もいます。お好きな人をどうぞ」と、臆すること無く先程から坂東を挑発する言葉を敢えて選んでいるかのような物言いだ。

 坂東は挑発の言葉を投げられるにつれ顔色と同じく情緒も不安定になっているのか、徐々に追い込まれている様子が伺える。だが先程から震える銃口が捉える先は一つだけ、チカと叔母の二人へと向けられたままだ。

 未だ予断を許さぬ状況だが、相手が坂東一人となれば浄龍にとって好機ではある。己の身さえ気にしなければ、花輪が作ってくれた隙で幾らでもチカや叔母を傷付けないようには動ける。それだけで花輪と軽口が叩ける程度には、充分な余裕とはなっていた。

 だが花輪が坂東を敢えて今も煽り続けているのは、一体どういう事だろうか。煽り文句を聞いている限りは、どうやら冷静さを失わせた上で、自分への発砲を煽っているかのように思える。

 防弾ベストでも着用していて、一瞬生まれる隙を浄龍に利用させようとしているのか。とも考えるが、幾らなんでも花輪にとってはリスクが高い。何より“らしく”無い。

 

「どうしました? 虚勢だけは一人前ですね。しかし威嚇射撃すらしないとは、どうやら貴方は口だけの腰抜けのようだ。腑抜けの余り、もしかして今まで一発も撃たせて貰えなかったんですか?」

「うるせぇっ!」

 淡々とした様子で立て続けに煽り文句を受け続けた坂東は、ついに怒りを抑えきれなくなったのか。足元にあったティムを何度も踏み抜いた後で椅子と共に蹴り飛ばした。浄龍も気付かなかったが、先の“蛇”で移動した際にチカの手から落ちていたらしい。

 蹴られて床を滑ってゆくティムを見て、チカが息を飲むのが遠くからでも分かった。咄嗟に浄龍が動こうとするも、先に花輪が手で浄龍の動きを制する。

「撃つよりも先に、動かないぬいぐるみを蹴り飛ばすとは……小物にも程がある」

 浄龍を制止して、花輪はなおも煽り続ける。だが淡々と話す花輪からは静かながらも、怒りを滲ませているのが浄龍には分かった。そして怒りに身体を震わせ「ブッ殺してやる」とつぶやき続ける坂東の銃口も、花輪の方へと向けられた。

「やれやれ、とんだ新人だ。――では、」

 やはり花輪は自分を狙うように仕向けて煽っていたらしい。

 一通りの煽り文句はようやく終わりを迎え、花輪は数歩足を進めながらも胸元に手を入れる動作を見せた。重なるように坂東の叫びと、数度の発砲音が続いて工場内に響き渡る。

 坂東の叫び声と共に響き渡った発砲音は六回、続いて同じ数だけ排莢された薬莢がコンクリートの床へと落ち続ける澄んだ音がする。だが、工場内に響き渡った音はそれだけであった。

 

 浄龍は静かに、その光景をしっかりと眺めていた。

 発砲音と共に叔母がチカを庇って抱き締める姿と、坂東が向かってくる花輪に向けて叫びながら発砲を続ける姿。

 そして花輪は一切の歩みを止めること無く、まるで何事もないかのように。胸元のポケットから、紺色のハンカチを取り出していた。

 

 

「……やれば出来るじゃないですか」

 花輪は呆然とした顔で佇んでいる坂東へと向かって、一つ頷いた。

「空砲ですよ」

 溜息の後で、花輪が静かに告げる。坂東が銃を撃つ途中にも花輪は歩いて距離を詰めていたので、既に坂東の目の前へと近付いていた。スーツに埃でも付いていたのか、花輪は取り出したハンカチで数度胸の箇所を払っている。

「あらかじめ今回の任務に参加する人間――つまり、貴方に渡しておいた銃は全て空砲にしておくように。との指示を上から受けていました」

「は? なんで……」

「決まってるじゃないですか」

 あくまでも淡々とした口調を崩さず、静かに花輪は坂東へと告げる。

「裏切り者がどこにいるのか判らない状況で、実弾入りの銃を渡すわけないでしょう」

 やれやれと言った感じで、肩を竦めると花輪は口端を上げる。浄龍も久しく見ていない花輪の笑いであった。

「間違って撃って護衛対象や一般人に弾でも当てたりしたら、|大道寺一派(うち)が迷惑を被るんです」

 普段ならば荒事が苦手な花輪に代わって浄龍が手出しを考えるところだが、今は彼に任せていても大丈夫だと判る。普段は良識的な人間として振る舞ってるが、今の花輪が纏っているのは浄龍にとっては懐かしい空気だ。それはかつて、浄龍が身を置いていた極道社会を漂わせる。鋭くも荒々しい暴力の具現であった。

「どこの組織もそうでしょうが、一応伝えておきます。大道寺は特に身内の裏切りに厳しいです、それは新人でも知ってますよね?」

 坂東にゆっくり告げると花輪は一度、チカと叔母の方へと振り向く。

「ここから先は、さらに子供の情操教育には良く無い場面だ。前田さん、チカさんには配慮の程を」

 一方的に花輪は叔母へと告げて、今度は胸元からハンカチではなく銃を取り出すと静かに構えた。至近距離で取り出した銃口は、青白い顔をしている坂東の額へと押し当てられている。

 

「お疲れ様です、坂東君」

 花輪は銃を突きつけたまま、心底楽しそうな笑顔を浮かべていた。

 芝居がかった動きでゆっくりと反対の手で、震えるだけの存在となった坂東から銃を取り上げる。

 そして額に押し当てていた自分の銃を降ろした直後。花輪は掴んでいた坂東の銃を思い切り振り上げると、グリップ部分で愚かな裏切り者の頭を殴りつけていた。

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

「身体の調子は良さそうですね」

「いや、危なかった」

「そうですか?」

 反応速度や身体能力はともかく、最近は妙に息切れを感じる事が多い。なので花輪には素直に告げる事にした。

 一人ずつ縛り直した者達の拘束を一通り眺め終えた後で、花輪はこちらへと歩み寄ると浄龍の様子を伺い、漏らした先の言葉に首を傾げていた。

 

 少し前に花輪が連絡をしていたので、じきに迎えが来るだろう。

 開け放たれた出入り口に並んで凭れ掛かり、浄龍と花輪の二人は外にいるチカと叔母の二人を眺める。固く抱き合ったまま、廃材の上へと腰掛けた二人は離れず寄り添っている。叔母の方がチカへと賢明に話し掛けているらしく、チカが時折頷く様子が伺えた。

「正直なのは、貴方にしては珍しいなと」

「お前こそ、空砲を自分へと撃たせるためとはいえ。随分と新人を煽り散らかしてたじゃないか。あれはあれで、珍しいものが見れた」

 花輪は律儀に「元・新人です」と訂正した後で、一呼吸おいて隣に立つ浄龍をチラリと見る。

「私は裏切り者が大嫌いなだけです」

 そう毒付く花輪が手に持っている熊のぬいぐるみを見て、思わず浄龍は頬が緩む。薄汚れてしまったティムは先程、坂東が踏みつけたせいで少し足と首の箇所がちぎれかけてしまっていた。今回の件で一番の功労者であり重症者は彼で、非常に痛々しい様となっている。

 一体チカに何を言ったのかは分らないが、どういうわけか花輪は彼女からティムを預かり手に持っていた。

「そういう事にしておいてやるよ」

 言葉の裏に込められた様々な意図を汲みながら、浄龍は煙草を取り出して咥える。花輪がこちらに疑り深い視線を向けるので、パッケージを見せて揺らしながら「お前も吸うか?」と尋ねるも、断られてしまった。

 

 花輪が坂東を沈めてから時間は経ち、陽はすっかり落ちて空は暗くなっていた。

 周りの工場も終業時間となったのか、来た時に聞こえていた様々な音は既に止んでいる。今は浄龍が親指で回す、ライターの着火音も耳に届く程の静けさとなっていた。

 工場地帯とはいえ、なにせ殆どが町工場である。人が多めの住宅街と大差は無い。街灯の明かりも等間隔に点いていて、随分と明るくはある。二人が背にした廃工場の中も電気は付くようになっていたので、浄龍は後ろにもチラリと目をやる。先程と変わらぬ様子で猿轡を噛まし、縛り上げた連中が床へと無様に転がっている姿が見えた。

 

「ところで浄龍」

 隣に立つ花輪から不意に声が掛かり、浄龍は隣の花輪に目を向けた。

「先程は何故、私だと分かったんですか?」

 何のことか分からず、浄龍が答えあぐねていると花輪から続きの言葉が来る。

「私が壁の後ろで、貴方達の動きを探っていた時です」

「花輪お前、一度だけ位置確認で鏡かスマホのカメラを使っただろう」

「ええ」

 花輪がスマートフォンを取り出すと、横手に持つ仕草をしてみせた。「反射してましたか?」と尋ねる花輪に対し、浄龍は「ああ」と頷いて見せる。

「坂東側の人間ならそんなものを使わなくとも、顔を出せば済む話だからな」

「なるほど、貴方もそういう考えに至る頭は持ってたんですね」

 納得した様子のあとで返ってくる花輪の余計な一言に対して、浄龍は喉元から出掛かっていた言葉を煙草の煙と共に胸へと押し込み、舌打ちで返す事にした。

 

「ところで花輪」

 今度は浄龍が、花輪を呼ぶ番であった。

「お前、なんで今は愛想と人相が悪い人間の格好をしているんだ?」

 先程の花輪と同じように名を呼んだ後、質問を投げ掛けてやる。だが花輪は怪訝そうに首を傾げるだけだ。仕方がないので、さらに浄龍は言葉を続けた。

「昼間のバカみたいなサメの格好の方が、まだ可愛気があって良かった。それならチカ達もきっと敵と間違えなかったろうに」

「一体、何のことですか?」

 今度は明らかに怪訝そうな顔をしており、サングラスの奥の目は泳いでいるのが少し背の高い浄龍からは伺える。それでも知らぬふりをする上司に向かって、浄龍は事も無げに言い放った。

「あのサメ、中身はお前だったろ」

「……確かに、水族館内で貴方にメモを渡すように頼んだのは私です」

 

 浄龍がチカと水族館にいた時、チカに接触してハンカチを渡してきた女性は花輪の協力者だったのだろう。あの時受け取ったハンカチの中には、メモとチカのスマートフォンに付けられていた鈴が入っていた。

 メモには『花は無事に咲きました。クマのお届け物はサメに』と書かれていた。浄龍には最初メモの意味が分からなかったのだが、チカの鈴が一緒に入っていたのが決定的だった。

 チカがスマートフォンに鈴を付けている話は、赤目を除いて花輪にしかしていない。昨夜から連絡が取れなくなったと坂東は朝の時点で浄龍へと告げていたが、その花輪が回収したチカのスマートフォンの鈴が入っていたという事は、浄龍が受け取ったメモは花輪からのものだと気付くきっかけとなった。そして、出口付近に差し掛かった所でチャリティグッズを売っているサメの着ぐるみを見て、同時にメモの意味も察したのである。

 

「クソ真面目なお前が、大切な証拠データーの取引を他人に任せる事はしないだろうさ」

 チカが欲しいといったキーホルダーの代金として折った千円札の間に、昨日の時点で彼女から預かったマイクロSDを挟んで代金と一緒に箱に入れたのだが。そんな重要な証拠データの受け渡しを花輪という仕事一筋の生真面目な男が、他人に任せる筈が無いだろう。

 そう確信して告げたのだが、花輪は心底嫌そうな顔をして、浄龍を睨んできた。彼の態度を見る限り、後何回かはこのネタで無愛想な上司をいじれそうだ。と、浄龍の中では些細な楽しみが一つ出来たのだが、今は何も告げずに黙っておく。

「花輪」

「はい」

「すまない、助かった」

「私は自分の仕事をしたまでです」

 代わりに先程、胸中へと収めた礼を浄龍は素直に述べたのだが。花輪から返ってきたのは、無愛想な一言だけだった。そして浄龍は一日ぶりの煙草を味わい過ぎて、すっかりフィルター付近まで灰になってしまった煙草の吸い殻を空の携帯灰皿へと捨てる。

 荒事は終わったが、もう少し騒がしい状況は続くのだろう。だがチカと叔母の身には、危険が降りかかる事は無い安心感の方が今は大きかった。

 

「――それと、」

 遠目でチカと叔母を眺めている浄龍の視線に気付いたのか、花輪はもう一度つまらなさそうに口を開いた。

「あの中、とんでもなく暑かったんですよ」

「知ってるよ」

 恐らく同じように二人を眺めている隣の上司へと向かって、浄龍は視線を移すこと無く返事する。

「着ぐるみってのは、暑いし満足に動けねぇし……」

「貴方は昔、一体何をされていたんですか……」

「言った事がなかったか?」

 少し肩を竦め、浄龍は一度だけ隣の花輪に笑い掛ける。

「ゆるキャラだ」

「……笑えない冗談だ」

 花輪も浄龍と同様に少しだけ口端が上がり、肩を竦めたかのように見えた。そして再び、互いに無言の時間だけが過ぎてゆく事となった。

 

 

「後で千円返せよ」

「お断りします」

 狭く入り組んだ路地を通って、大道寺から迎えの車が廃工場の方へとやってくる。

 丁度、大きめの角を曲がる車のヘッドライトがこちらを捉えた時に、小さく呟いた浄龍の言葉に対して花輪から否定の言葉が返ってきた後。

 二人は何事も無かったかのように。それぞれが無表情でサングラスを掛け直し、静かに迎えの車へと視線を向けるのであった。

 

 

 

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