類似性フラクタル 作:荻谷
#[chapter:5]
「今回、私達の任務は二つありました」
「二つ?」
高速道路へ入るまでは無言で運転していた花輪だったが。本線と合流してスピードを上げたところで、助手席に座る浄龍に対してようやく口を開いた。
不意に告げられた内容に対して浄龍が抱いた疑問は想定内だったらしく、花輪の言葉は続く。二人の車内はいつも静かなもので、今も花輪の声以外で聞こえてくるのはロードノイズの音だけだ。
「一つは、貴方も御存知の通り。前田 凛さん、慈さん両名の護衛と証拠データを無事に確保する事でした。そして二つ目ですが――」
窓ガラス越しに映る花輪は、ハンドルを握って前を見ている。時折トントンと指先でハンドルを叩いたり、右ウィンカーに触ろうとして手を戻したり。どうやら前の車が遅くて、少しばかり苛ついているようだ。都心はよく道路が混むが、高速道路も同じで関西と比べるとやはり車の数は多い。今走っている都内の高速道路も渋滞とまではいかないも、昼間はやはり混んでおり満足なスピードが出せないのが不満のようだ。
「大道寺一派の中、それも関西方面に裏切り者がいるとの事で。裏切り者の炙り出しを私達は命令されていました」
「なるほどな」
外へと視線を向けたまま、浄龍が返事をした。助手席に座る特権とばかりに、混んだ車に対して苛つくことも無く、外の景色を眺めている。とはいっても防音壁が途切れた時に見えるのは、特に代わり映えのない街の景色だけだ。昼間なので時折興味を引く広告が描かれた建物も目には入るも、どれも過ぎ去ってしまえば記憶の中から消えゆく程度でしかない。
「だが、俺は聞いてなかったぞ」
「逆に尋ねますが、私が貴方にその話をわざわざして。裏切り者の炙り出しに失敗する可能性を上げるとでも?」
「おい」
余りにも自然な口調でさらりと告げられ、危うく聞き流すところだった。正面切って貶された浄龍はそこで窓から目を離し、運転席の花輪を睨み付ける。
眉を顰める桐生に対して、花輪は相変わらず涼しい顔のままだ。今日も暑いのか、花輪は車の中央にあるエアコンの風向きを二人の中間から運転席の方へと向ける。そしてポケットから新品の煙草とライターを取り出した後、浄龍に手渡してきた。驚く浄龍をよそに、花輪は助手席の窓を開ける。
開いた窓の隙間から温かい初夏の空気が流れ込み、あっという間に車内を包み込む。浄龍はパッケージを開けて火を付けた煙草をゆっくりと吸い込み、満足気に外へと向かって煙を吐き出す。煙草の煙は一瞬に、開けられた隙間から外へと吸い込まれるように流れて行った。
「花輪」
煙草を味わいながら浄龍はここでひとつ、花輪へと抱いた疑問を尋ねてみることにする。
「お前、なんであの場所が分かったんだ?」
花輪の方から「あの場所?」と返ってきたので「叔母が監禁されていた廃工場だ」と、もう一度煙を外へと追いやった後で口にする。一週間前の騒ぎが過ぎ去った後でも、拭いきれなかった疑問の一つである。何故あの場に花輪が現れたのか、浄龍はずっと不思議に思っていた。
「実は任務開始の段階では、裏切り者が誰か特定できていませんでした」
特に問題無いといった風に、花輪の言葉が続く。どうやら今回も浄龍の疑問には素直に答えてくれるようだ。
「任務を遂行中にどこかで、裏切り者が尻尾を出すだろうと。私は注視に努めようと思っていたのですが……貴方が予想外に早く暴れた上、凛さんの行方まで分からなくなってしまった」
「俺のせいじゃないだろう」
「勿論、最初から敵に手を打たれていたのは、こちら側の落ち度ですよ」
何でも自分の所為にされるのは堪ったものではないとばかりに反論するが、浄龍の文句は折込済みとばかりに流される。
「ただ裏切り者に関しては、私も動きようが無かった。あの時点で一番疑わしかったのは坂東でしたが……相手が何か行動を起こさない限り、推測だけで裏切り者とは断定できません」
浄龍は何も思わなかったが。裏切り者がいる前提で事を進めていた花輪にとっては、タクシーに乗った叔母と追跡するかのように発車したバンの両方を見失う失態は、確かに疑念を向ける大きな要因となったのだろう。
「そんな時、貴方からチカさんがスマホをホテルに置いてきたという話を聞いて。罠を思い付いたんです」
「罠?」
「はい」
花輪はそこで暫く黙り込む。ようやく前の車を追い越せるようになったらしく、右ウィンカーを出して車線を変更させた後で話が続く。
「私も含め、大道寺側の人間は情報の漏洩を恐れて、凛さんがS国から持ち出した証拠データは、何の形を取っているのかを直前まで敢えて知らないようにしていました」
前を走っていた車を追い越し、花輪は説明を続ける。
追い越し様に前を走っていた車に目を向けると、自分達と同じ様に男性が二人乗った車であった。どうやら社用車らしく、見たことのある社名が入った車だ。浄龍が見たのは追い越し際の一瞬だけだったが、こちらとは対象的にあちらの車内では笑いながら楽しそうに話している様子が伺えた。
「裏切り者を炙り出すため、チカさんのスマホを回収した上で。セーフハウスで“あなたに電話するふり”をして、彼女のスマホの中にデータがあると偽情報を流しました」
「わざとセーフハウス内の人間に聞かせたのか」
「ええ。夜の報告の後ですね。暫くして、私から貴方に掛け直すフリをしました」
赤目に用意してもらったホテルで夜、花輪と交わした会話の内容を浄龍は思い出す。花輪は叔母を見つけ出す手段として『少し考えがある』と確かに言っていた。
「我々側の誰にも貴方とチカさんの潜伏先を知られないよう、赤目さんにホテルを手配して貰ったものも、同様の理由です。貴方が自分の判断で、行方をくらませたので……私から潜伏先を聞いて、合流するという風なシナリオを作らせて貰ったんです」
「なるほどな」
何故、花輪が部外者である赤目に対してそのような頼み事をしたのかもずっと疑問ではあったが、今になって漸くその謎も解けた。
「そしてお前は、俺と合流すると告げて。チカのスマホを持ち、セーフハウスを出たんだな」
浄龍は目を細め、繋がった考えを口にする。花輪は「はい」と頷いた。
「|裏切り者(坂東)がスマホを狙ってくると、あらかじめ予想していたわけか」
「はい。なので私はチカさんのスマホをわざと落として、そのまま逃げました」
だからこそ翌日、坂東から朝に浄龍の元へと電話が掛かってきたのだろう。そう考えれば、様々な箇所で引っ掛かっていた疑問が、するりと解けてゆく。
坂東の方は花輪を逃がしたからこそ。彼が浄龍側にすでに合流して、襲撃と裏切り者の話をされているのではないかと、探りを入れておきたかったのだろう。
前の車を追い越したのもつかの間。道路の案内標識に書かれた目的地の名が見えたので、花輪は再び車線を跨いだ。浄龍には花輪にもう一つ聞いておきたいことが出来たので、目的地に到着するまでに尋ねることにする。
「もう一つ、分からない事がある」
「なんでしょう?」
「チカのスマホを囮にするって決めた時には、付いていた鈴は外していたんだな?」
二本目の煙草に火を付けながら、浄龍は花輪に尋ねた。
「何故そんな真似を?」
「単に鈴が邪魔だったからです」
一際大きな案内標識が先に現れ、目的地への距離が縮まってきた事が分かる。
「音がうるさくて、相手が外す可能性が充分にありますし。それならばと子供用のスマホらしく、代わりにGPSを仕込んだ幼児向けのキャラクターストラップを付けさせて貰いました。居場所はそれで把握できましたよ」
確かに坂東は廃工場で、長いストラップを持ってチカのスマホを振り回していた。あれは元々付いていたものでは無く、花輪が取り付けたものだったのかと思い返す。
「じゃあ外した鈴を翌日、俺に渡してきたのは?」
「それは貴方に対しての保険です」
「保険?」
浄龍が聞き返すと、花輪は「ええ」と一言だけ頷いた。
「貴方が『データはぬいぐるみのポーチに入っていた』『彼女のスマホには鈴が付いていた』と言ってくださったおかげで。私はそれもヒントとして、貴方にだけ意味が分かるように、渡すメモに書きました。その二つは私と貴方しか知らない情報なので私の無事と、敢えて姿を見せない意図に気付いてもらえるかと」
どうやら今日になって花輪の口から聞いた真実と、あの日水族館で受け取ったメモを見た時に浄龍が想像していた憶測とは概ね同じだったようだ。
「俺がメモの意味と、鈴の意図に気付かなかったらどうしたんだ?」
「貴方がこちらの想像以上に察しが悪い人だったと諦めて、坂東達と接触した後でどうにかするつもりでした。どの道、裏切り者の場所はGPSからは分かっていたので、追い掛ける事になるのは同じですから」
「お前にしては、随分と好戦的な作戦だったんだな」
こちらは想像していたものとは、随分と異なっていた。浄龍が抱いた感想を素直に述べると、花輪は前を見たまま普段通りの口調で淡々と答える。
「坂東に渡していた銃は空砲でした。そこまでの人数でなければ、私と貴方で対処が出来るとは思ってましたよ。管理者だからといって、いつも交戦を忌避しているわけではありません」
花輪は普段から荒事を好まない男だが、時折こうして見せる暴力に染まった思考は浄龍にとっては非常に馴染みが深い。だがそれは敢えて、黙っておくことにした。
「管理者って、現場仕事もするんだな。俺等をこき使うだけと思ってた」
「ケース・バイ・ケース、というやつです」
「そういう事にしておいてやるよ」
丁度そこで、案内標識が目的地の空港への分岐案内を表示しているのが見える。花輪はまるで返事代わりかの様に、黙って車の左ウィンカーを点灯させた。
「――ともあれ、」
目的地である空港の名前が見え、インターチェンジに入った後で花輪は車の速度を落とす。
「一つ目の任務はともかく。二つ目に関しては、依頼主はいたく満足しておられました」
「そいつはまた……随分と性格が悪い依頼主だ」
裏切り者の件に関しては、誰の指示かは聞くまでもない。頭の中に思い浮かんだ老人の姿だけで、気が失せるというものだ。浄龍が直接的に言わなかったので花輪から咎められる事は無いが。彼の方も浄龍と同様、さぞや苦い顔をしていることだろう。
「そんなことばかり言ってると、折角の報酬も取り上げられてしまいますよ」
「報酬なんて、今まで貰ったことは殆ど無いがな」
これ以上は余計な事を言うなとばかりに、車は丁度ぐるりとカーブを曲がる。少し身体が左へと引っ張られつつ、浄龍の目は空港に止まる飛行機の姿を映していた。
花輪はなるべく、入口に近く駐車できる場所を探す気なのだろう。徐行速度で、沢山の車が止められた駐車場をぐるりと回りながら車は進む。
「何時に待ち合わせなんだ?」
「十四時です」
浄龍が車の時計を見ると『13:44』と書かれていた。寺を出た時間を考えると、余裕を持って出発したものの、約束の時間間近となってしまっていた。
「本当に見送りに行かなくても、いいんですか?」
ここに来るまでにも数度聞いていた花輪の問い掛けに対し、浄龍は「ああ」と頷く。
「もう会うことも無いだろうしな」
「その割には、私に頼み事をする程度には彼女を気にしていたじゃないですか」
花輪の物言いに少し苛立った浄龍は「花輪」と名を呼ぶ。丁度空いている場所が見つかり、バックで駐車を行う最中だったので花輪からの返事は無い。
「お前は俺に、何を言わせたいんだ」
「別に何も?」
少し棘を含む物言いになったとも思うが、サイドブレーキを引いて返ってきた花輪からの返答も似たようなものだ。
なるべく出入り口付近に停めたとはいえ、空港は広い。車を降りてから空港内の待ち合わせ場所まで、歩いてもすぐには辿り着けない。シートベルトを外して、降りる素振りを見せ始めた花輪に向かって、浄龍はそっぽを向いたまま小さく言葉を告げる。
「……俺のスマホから、チカのスマホへと写真を移してくれて助かったよ」
「お互い様です」
花輪が昨日、浄龍の元へと訪れた際。彼に頼んだ用事――自分のスマートフォンの中に入った、水族館でチカが撮った画像を彼女のスマートフォンへと転送する、という作業に対する礼は素直に告げる事にする。
一方の花輪も、チカ達が出国するという話を伝えに来るのと共に、浄龍に対しての『頼み事』を持ってきたので彼の言葉通り、お互い様といえばお互い様なのだが。
「簡単に出来ると思って安請け合いをしましたが、裁縫というものは存外難しいものですね」
「まあな……お前も独り身なら、裁縫くらい出来るようになっとけよ」
花輪が苦戦して浄龍の元に持ってきたのは、裁縫の依頼だった。先日廃工場での件で足と首が取れかけたティムをチカから預かり、自分で直そうとしたらしいが。上手に出来なかったとの事で他に頼む相手がいなかったらしく、浄龍の元へと持ってきたのだ。
僅かばかりの優越感を含めて言葉を告げると、花輪の方から少しムッとしたように返事が返ってきた。
「貴方もですよ、浄龍。仮にも大道寺一派のエージェントで最新鋭のガジェットを扱う身なら、スマホへのデータ転送位は出来るようになって下さい」
「お前は、やっぱり一言が余計だな」
浄龍は花輪を睨み付けるが、花輪は敢えて知らぬフリに徹するようだ。普段からよくやるやり取りなので、浄龍の方もそこまで腹は立たない。
「それよりも。改めて、お疲れ様でした」
「ああ」
返事をした後で「ダッシュボードを」と言われたので、浄龍は素直に従う。ダッシュボードに手を掛けて開けると、パサリと紙の擦れる音と共に少し大きめの封筒が現れた。手に取って中身を見ると、飛行機のチケットと各種の身分証明書が入っていた。
「今回の任務に対する報酬ですよ」
身分証明書に書かれた見慣れた偽名を眺めていると、花輪から説明が続く。
「鞄はトランクの方に積んであります。服もそこに」
「構わないのか?」
「ええ、休暇の延長です。場所が気に食わなければ、お好きにどうぞ」
今度は飛行機のチケットへと目を向ける。行き先を見ると、大阪と書かれていた。出発の日時は今日の夕方となっている。
「ただし、アルバイトは禁止です」
「……分かってる」
昨年見舞われた事故に関しては、浄龍の立場からは言い返す事が出来無い。先日は幾分まだ余裕はあったものの、荒事の最中に感じた違和感として自らが体調不良を伝えた。今回、花輪の口から長ったらしい小言と共に「病院に行け」と言われなかっただけでも幸運なのだ。と、胸中に留めておくことにする。
「それと、これを」
チケットを眺める浄龍に、花輪から声が掛かる。顔を向けると、タブレット端末を渡された。
「久々に動作確認をしようと思ったので。どうせ待っている間は暇でしょう?」
浄龍にそう告げた後、花輪は自分がかけているサングラスのフレームへと手を当てる。彼の指が何かを押すかのような動作の後、浄龍が持つタブレットの方も待機画面から一転して、映像が映し出された。
「では、私はそろそろ行きます」
「ああ」
もう一度、浄龍は動画を映すタブレットに目を落とす。
タブレットに表示されている画面は動き、今二人がいる車の後部座席に置いてあった大きな紙袋に伸ばす腕が映っていた。
「花輪」
「はい」
浄龍が名を呼んだのと殆ど同時に、タブレットからは違和感のある自分の声と、花輪の声が流れる。
「何でもねぇよ」
「そうですか」
普段のものよりかは少し乱暴な手付きで、車のドアを閉める花輪の腕が画面に映る。
タブレットからその様子を眺めている浄龍の口端は、サイドミラーに一瞬映った花輪と同じで、笑顔を隠し切れていなかった。
◇ ◇ ◇
車のドアを閉める直前に、普段は殆ど表情を変えない浄龍が笑っていた気がしたのだが。別段、花輪はそれを確かめようとは思わなかった。代わりに一度空を仰ぎ見る。
サングラス越しなので空の青さは分らないが、太陽の眩しさには目を細めてしまう。
続いて、少し離れた場所にある空港の入口へと目を向ける。そして紙袋を手にした花輪は、待ち合わせの場所まで少し早めに足を進める事にした。
関東に位置する某国際空港は、本来ならば国内外問わず多くの搭乗客で賑わっているのだが。国際ターミナルの方面へと向かう人間は、例の感染症周りのせいで随分と少ない。なので搭乗手続き前に、指定した場所で会う約束をしていた二人の姿はすぐに見つかった。
一週間ぶりに見る前田 凛と慈の両名は、元気そうな姿である。花輪はすぐに見つかった二人の傍へと歩み寄り、挨拶の後で頭を一つ下げた。
廃工場で件の騒ぎが終わった後。
前田 凛と姪の慈は、花輪が連絡して到着した車のうちの一台に乗り、共に東京へと戻った。その後は二人の安全が確保されるまでは大道寺一派の息が掛かった場所で、窮屈ながらも当初の予定通り三日間を共に過ごして貰った。
既に彼女達を襲おうとしていた者達は、当然ながらおらず。危険は低いとの判断で浄龍も護衛として待機はしていたが、特に問題も無く三日間を無事に終えることが出来た。
きっちり三日後には、上層部から両名の安全は無事確保されたとの連絡を受けた為、彼女達とは一旦別れたのだが。二人は再びS国へと戻る事を希望したとのことで、手続きを行っていたらしい。出発日は予め向こうから連絡があったので、こうして本日は再び会える運びとなった。
「すみません、わざわざ来ていただいて」
凛が申し訳無さそうに頭を下げるが、こちらが引き受けた仕事の内容なので、花輪は彼女に対して「大丈夫です」とやんわりと伝える。続いて隣に立つチカへと身体を向け、手に持っていた大きな紙袋を彼女へと差し出した。
「チカさん、どうぞ」
中身をあらかじめ知っているチカは少し焦った様子で紙袋を受け取り、中身を取り出す。
「少し遅くなりましたが、ちゃんと怪我は治りましたよ」
チカは紙袋から取り出した熊のぬいぐるみを手に取り、両手で持ち上げた。ちぎれかけていたティムの足と首が無事繋がっている事を確認した所で、ようやく満面の笑みを浮かべると花輪に笑い掛けた。
「ありがとう! 花輪のおじさん!」
眩しい子供の笑顔を受け、花輪は内心では戸惑いつつも「どういたしまして」と表面上は取り繕ってチカへと返事を返した。そして続けて、部下に頼まれた用事の内容を告げることにする。
「チカさん、浄龍に聞きましたが。ティム君は郵便屋さんらしいですね」
浄龍の名前を聞いて、チカの顔が更に明るくなるのが分かった。普段ならばそのような事はしないのだが、花輪は腰を屈めてしっかりと彼女の顔を見据える。
「浄龍から、チカさんにお届け物があるんですよ」
彼女にとっては意外だったようで、驚いた様に目をパチパチとさせている。その後ぬいぐるみの肩に掛けられた、お揃いのポーチへと花輪は指を差した。
チカが小さな手で、ティムのポーチの中を確かめる。中に入っていたのは、ポーチにぴったりと収まったスマートフォンであった。先程と同様、チカの顔が驚きと喜びで綻ぶ。
「水族館で貴女が撮った写真も、そこに入っているとのことです」
「これ、ジョーリューから?」
見上げて尋ねるチカに対して、花輪は大人に対する態度と変わらず「はい」と頷く。
「ジョーリューは、今日来ないの?」
「すみません、彼はああ見えて忙しいもので……」
「……ヒーローのお仕事って、大変ね」
「ええ、大変なんです」
一体何がどうなって、彼女の中であの男がヒーローになってしまったのか分かりかねるが。取り敢えず、花輪は話を合わせて頷く事にする。これ以上何か話を振られても、何を答えればいいのか分からず少々構えていたが、幸いにもチカの方からは言葉が続くことは無かった。
どうやら、スマートフォンの中に入っている写真を眺め始めたのだろう。ティムを抱いて、目線を下に落としたままチカは喋らなくなった。
一方、花輪の方もチカに対する用事は終わったので、隣にいる叔母の凛へと目を向ける。
「改めて、前田さん。数日間、不自由をおかけしましたが……無事にこの日を迎えられて、良かったです」
「本当に有難うございます」
もう一度、凛が頭を下げてこちらへと礼を述べる。
「姉夫婦も無事開放されましたし。向こうでの仕事がまだ沢山ありますので……」
花輪も「そうですね」と、凛の言葉に頷く。
「あちらでの安全が保証された以上、現地での活動の方が貴女にとっては色々と御都合は宜しいでしょうしね」
「ええ」
上が今回の件で何を懐に入れ、どこの組織と交渉をしたのか。与えられた任務を終えた以上、花輪が知る余地もなければ必要も無い。花輪が知っている事実は一つだけだ。彼女とチカが数時間後には飛行機に乗り、再びS国に向かうという事だけで充分であった。
そして無事、部下に頼まれていた彼女のスマートフォンをチカに渡したところでこちら側の用事は無事に終えた。花輪がこれ以上はいる理由もないので、数言のやりとりを凛と交わした後は空港のロビーを後にした。
外へと出る前に空港内のショップで買ったコーヒーを手に持ち、花輪は空港を後にして徒歩で駐車場へと足を進める。
空港を出た途端、湿気を含んだ風が頬を撫でる。梅雨の足音を感じる機会が減った昨今の気象だが。確実に夏は近付いているのだと、アスファルトを照り返す暑さと太陽の眩しさが物語っていた。
黒いスーツは陽の下に佇んでいるだけでも、暑くて体力を奪われてゆく。花輪はなるべく歩く距離を縮めるために、空港入口の近くへと止めた車へと足を向ける。
駐車している台数は例年よりも少ないとはいえ、それでも広大な駐車場だ。目的の車を見付け辿り着く頃までに、花輪は既に汗をかいてしまっていた。
ようやく辿り着いた車へと近付き、まずは助手席の方へと目を向ける。
だが、花輪が車を降りるまでそこに座っていた部下の姿は既に無かった。
あらかじめ予想はしていたので、花輪は特に何も思わず運転席へと戻り腰を掛ける。
座席の背凭れに身体を預け、深く息を吐いた後は胸元を緩める代わりにシャツの襟と喉元の間に指を入れ、車内の空気を少しでも入れようと隙間を開けた。
鍵は刺さったままだったが、エンジンは止まっている。戻って最初に花輪が気付いたのは、車内に漂う煙草の匂いと、普段使わない車の灰皿に吸い殻が何本か無造作に突っ込まれている光景であった。車内はまだ涼しいので、エンジンを止めてからさほど時間は経っていないのだろう。
続いて花輪は後部座席をチラリと見る。畳むのが面倒だったのか、そこには少し皺が寄ったスーツの上下だけが横たわっていた。
最後に助手席へと目を向けると、座席の上にタブレット端末が乗っていた。花輪は自分がかけているサングラスのフレーム脇に付いている小さなボタンを一度押す。すると連動して、タブレットに映っていた映像が固まって停止した。タブレットに表示されている止まった動画の画面は、運転席から見える正面の光景である。
何の特徴もない停止した画面を暫く眺めていると、やがてタブレットの液晶は待機時間を迎えて消灯した。
花輪は車のキーを回し、再びエンジンを掛ける。
時折響き渡る飛行機の轟音に掻き消されるが、こうしてエンジンの振動と規則正しい微音を感じている方が自分は落ち着く。
アイドリング状態でエアコンのスイッチを入れ、助手席に向いていた風向きをこちらへと向ける。続いて買ってきたコーヒーを眺める。
カップの上蓋を外すと、コーヒーの芳醇な香りが混じった湯気が、鼻腔を優しく|擽(くすぐ)る。
花輪は画面反射を抑えるフィルムカバーが貼られた、何も映さない黒い液晶画面を暫く眺める。
先程までそこに座っていた。不器用ながらも優しい、かつて花輪が属していた世界で伝説となった男。彼の休暇が何事も無く、平穏に過ごせるよう胸中でそっと願う。
そして一人だとやけに広く感じる車内で、静かにコーヒーを啜るのであった。