〜豊中市・千里 御堂邸〜
いつもと変わらない御堂邸の空気のはずなのに、今日に限って妙に――重い。
「……ただいま」
玄関の扉を開けた瞬間、白峰遼はふと立ち止まった。鼻をかすめるのは、古い木材と香の匂い。
そしていつものように廊下の先から誰も返事を寄越さない。薄暗い屋敷の中を、制服のまま足を踏み入れながら、遼は小さく息を吐いた。
(気のせいだ……気のせいだよな)
学校では、朱音や鷹取たちと何でもない話をして過ごした。ただ、それだけの一日。変なことなんて、何一つなかった。
――けれど。
『君にはこれから、思いもよらぬ“試練”が訪れるかもしれない』
…放課後、校門の前で鷹取に言われた言葉が、妙に心をざわつかせる。
異変は、玄関から奥へ進んだ先の居間で待っていた。
居間の障子を開けると、そこに御堂継宗がいた。畳の間に静かに座り、湯飲みを前に、まるで待っていたかのように。
「おかえり、遼くん。学校は、どうだった?」
御堂の声は穏やかだった。あまりに穏やかすぎて、逆にぞくりとする。
「あ、はい……。まぁ、普通に」
「そうか、それは何よりだ。新しい環境にも、少しは慣れてきたようだね」
御堂は薄く笑いながら、湯飲みに口をつけた。その動作は品があって、優雅ですらあるのに、遼の背筋には冷たいものが這い上がる。
「……大阪での生活には、慣れたか」
「えっ、あ……はい。一応……。」
普段ならそんな会話はなかった。無理にこちらに接触してくることも。
遼の中で小さな違和感が芽生える。御堂の表情はいつも通り冷淡だが、今は何かを探るようにこちらを見ている。
「学校では、友人はできたかね?」
「……まあ、多少は……」
ぽつぽつと質問が続く。どれも表面的で、何かを引き出そうとしているような――。
「ところで――ちょっと、キミの体を調べさせてもらってもいいかな」
「……あ、はい
……え?」
突如放たれた、突拍子も無い言葉。
何気ない風を装ったその言葉が、居間の空気を決定的に変えた。御堂が懐から取りだしたのは、細い銀の注射器だった。まるでそれが当然のように、用意されていた。
「キミの母親は……私の妹は、優秀な血筋だった。魔術の才を持ちながら、凡俗の中に身を投じた。それはそれで彼女の選択だったが、キミがどうかは別の話だ」
「……え、ちょっと……何、言ってるんですか?」
「此度の聖杯戦争、
私はこの家の長として、御堂の名のもとに勝利を納めなければならない。」
遼の言葉を遮るかのように1人語り始めた御堂は立ち上がると注射器を手に取り、ゆっくりと遼に近づく。
「怖がる必要はない。少し、血を採るだけだ。痛みは一瞬で済む。」
不気味に微笑む御堂。
その手に握られた、注射器の針先が、遼の腕に伸びる。
「嫌だっ……!」
反射的に、遼はその手を振り払い、外に向かって走り出す。
胸の鼓動が激しくなる。何が起きているのか、まるで理解が追いつかない。
「遼くん。逃げるのは――感心しないな
言っただろう。“キミの未来は私が導く”と。」
御堂の声音が変わる。何かが、ひどく冷たくなった。
遼は背を向けて走った。玄関へと飛び出し、邸の塀を乗り越え、夜の住宅街を駆け出す。
胸が痛い。息が苦しい。けれど、足を止めるわけにはいかなかった。
「……追いなさい、アーチャー。」
「御意に。
主の命あらば――例外はない。」
背後で、何かに命令するような口調が聞こえたと思えば、御堂とは別の、機械のような淡々とした口調の男性の声が聞こえる。
そしてソレがーー赤い銀線が夜風の中を切り裂くように迫る。
屋根の上を走る影。気配を殺したまま、異質な存在が自分を追ってくる。遼はわけもわからず、ただただ逃げた。
しかし、逃げるには遅すぎた。
追いつかれてしまった。
――いや、ソレが早すぎたのだ。
遼は必死に動かしていた足を急ブレーキを踏むかのように止める。
人気のない路地裏。道はそこで、行き止まりになっていた。
当然だろう。半年暮らしているとはいえ、土地勘は皆無。
そして背後から迫る猛スピードの何か。
――非常にも、彼が逃げ切れる術はなかった。
「残念だが、諦めて貰おう。」
冷たい声が響く。振り返ると、そこには赤の布が覗くデザインが施された銀の鎧を着た男が立っていた。
整った顔立ち、鋭い眼光。その右手に握られていたのは、鋭くギラリと銀色に光る、西洋剣。
アーチャー、と呼ばれる男の背後から、ゆっくりと御堂も現れる。
息一つ乱れておらず、優雅な足取りのまま、遼に向き直る。
「困るな、遼くん。キミが暴れるせいで、手間が増えてしまった」
「何……なんなんですか、あなたは……!」
遼は叫ぶが、震えは止まらない。足ががくがくと震え、背中に冷たい汗が伝う。
「より血が御堂に近ければ近いほど我々の魔術は真価を発揮する。
だが我らの誇り高き血を使うなど、言語道断。
そのための、キミなのだ。」
「意味がわからない……!」
御堂はその言葉に、心底愉しげに笑う。
「キミの体には、確かに“回路”がある。今はまだ眠っているが…。
……ああ、キミにはもう関係の無い話だったな。」
その瞬間、アーチャーは西洋剣を上に大きく振りかぶる。
「ッ――!」
思わず目を手で覆う。
「いやだ……!」
叫ぶ。遼はもう、理屈で動いていなかった。何がどうなっているのかも、理解の外だった。ただ、自分は――殺される。
死ぬ。
その絶望的な確信が、心を締め上げる。
ーーいやだ。
逃げられない。声も出ない。涙が溢れても、それすら無意味だ。
その時――
遼の掌が、ふと赤く光った。
「……ッ!?
令呪だと……ッ!?
確実に殺せ、アーチャー!」
響く御堂の驚愕する声。
「命令を確認。
対象は排除対象に指定……了解。」
主の命令通り、西洋剣をアーチャーは遼に向かって振りかぶる。
遼の左手に浮かぶ三本の赤い刻印。それが意味するものなど、彼は知るはずもない。
けれど、次の瞬間、世界が震えた。
風が逆巻き、空気が裂ける。
空間が軋む。
重力が歪む。
彼の身につけている母が渡してくれた、形見の黒いペンダントが光り輝く。
そして――
激しい金属音が聞こえたかと思えば、何かがアーチャーの剣をはじき返す。
遼はその衝撃に思わず尻もちをつけば、目の前に現れた"ソレ"を見上げる。
「召喚に応じここに現界した。
問おう、貴方が…私のマスターか?」
光の奔流の中から、ひとりの女性が現れた。
長く艶やかな黒髪をなびかせ、冷ややかな黒色の鎧を身に纏う。磨かれた黒曜石のように鈍く光るその甲冑は、戦場の嵐に鍛えられた騎士の装いだった。
その瞳は真っ直ぐに遼を見据えている。強く、鋭く、そして――どこか、悲しげな光を宿して。
「……誰、だよ……あんた……」
遼の言葉は震えていた。けれど、女性は毅然とした態度で黒色の剣を構えた。
「私はセイバー。君の願いに応じ、この地に現界した英霊――」
言いかけたところで、アーチャーが一歩前へ出る。
「……敵サーヴァントを確認。
これより対サーヴァント戦闘を始める。」
アーチャーが静かに淡々と声に出す。
その言葉に、御堂が面白そうに笑った。
「ふふ……いいね。想定外の出来事だが、面白くなってきた。ならば、キミがどれほどの力を持つか……見せてもらおうか」
御堂の周りに赤黒い球体が5つほど浮かび上がる。
「なぜ私がこの少年の呼び声に応えたのか……わからない。
だが、それでも…。」
セイバーは、一歩前に出て遼の前に立った。剣を逆手に構え、静かに、しかし確かに言い放つ。
「この者の命、私が護る。貴様らが何者であろうと……
――踏み込めば、斬る!」
それは、騎士としての宣言だった。
そして、その瞬間。
運命は、静かに動き始めた。
旋律は、ゆっくりと音を刻み始めたのだ。