禁書庫の解放から数カ月、遂に聖女が十四歳の誕生日を迎えた。
この国の聖女というのは象徴的な役割であると同時に、国の安寧を願う存在でもある。
そんな重要人物の誕生日なので、当然お祝いの場が開かれる。特に来年は成人である今年の誕生日の意味合いはそれなりに大きい。生誕祭は五歳ごとなので、自分と聖女が出会った時の様な祭りはまた来年だ。
神殿のシスターや使用人達は朝から忙しそうにパーティーの準備を進めてるのに、自分は聖女の部屋のベランダの下で待機していた。
「まさかこんな怪盗紛いのことをすることになるなんて……」
これなら、まだ巷で流行っている三文芝居の王子様役の方がマシというものだ。
今晩を過ごす為の食糧、二人分の着替えと野宿に必要な道具を詰め込んだ鞄の中身を検め、最後に帯剣した剣の具合を確認すれば準備は整ってしまった。
仕方ない。これが聖女様のお望みであれば恩のある自分は逆らえないのである。
祝福により脚力を強化。彼女の部屋のベランダへと飛び上がり、窓をコンコンと叩いた。
「待ってたよ!」
待ってましたと言わんばかりに勢いよくベランダが開かれる。
飛び出してきたのは、如何にも庶民っぽい服を纏った聖女様だった。
美少女というものは何を着ても似合うので恐ろしい。
それにしても満面の笑みなことだ、こっちは胃が痛いというのに。
「本当に今日じゃなきゃダメ?」
「うん。今日じゃなきゃダメ、今日がいいんだ」
彼女のお願いは至極単純だった。
以前話していた、一緒に少しだけ遠出をしたいというものと、誕生日に一日好きにさせて欲しいという内容の履行。だが、当然彼女は本日の主役で、神殿の人達は祝宴の準備を進めている。
主役が朝から消えてしまえば大問題どころの騒ぎではない。祝宴自体キャンセルされる可能性もある。そして、そんな彼女を連れ出した人間は大罪人とまでいかずともそれなりの悪人だ。
「あの人達は私の誕生日っていう名目で贅沢したり、利権関係を固めたいだけ。本当は私がいてもいなくても、関係なんてないんだよ」
「まあ、そうだけど」
十二歳と十三歳の彼女の誕生日は、とても楽しそうとは言えなかった。彼らは彼女の誕生日を祝いに来てるのではなく、ただ自分達が楽しむ為の場として来てる様だった。
途中からは彼女の存在は放置されて、それぞれの娯楽に興じる姿は見ていて不快感すら覚えた。
それでも、他にもやりようはあるのではとダメ元で足掻いてみる。
「騎士団の人とか」
「みんなにはもう言ったよ」
「支援してくれてる枢機卿とか」
「たまには好きなことしたらいいって」
ダメだ、用意周到過ぎる。反論する材料が見当たらない。
抜け出さずとも、早めに終わらせて騎士団のみんなや本当に仲の良い人物とだけ祝うという選択肢もあるのにと思わないこともないが、これが彼女の望みである。
「どうして僕と一緒なんですか」
ひとりで楽しんでくることだってできるだろう。
「君と一緒じゃなきゃ、意味がないんだよ」
とびきりの笑顔で、聖女様はそうおっしゃるのだった。
まあ、計画を主導してる自分が一番の共犯者なんだよな。
誕生日ですら偶像として扱われ、置物のように飾られる彼女を見るのは嫌だ。
過ごしたくない誕生日に閉じ込められるより、自由に過ごせる方が良い。
これだけ国と国民、信徒達の為に身を砕いている彼女の細やかな願いを無下にしたくない。
「ほら、待たせちゃうよ」
彼女に連れられた先には、例の抜け穴の前でなんとも言えない顔で待機する団長さんの姿がある。
今回の彼女のお願いに最終的なGO判断を下したのは団長さんでもある。
あの人、本当に聖女様に弱いんだよな。
自分も人のこと言えないけど。
「遅くても明日の朝までにはお帰りください。もし、気が向いたら夜に戻ってきていただいても……」
「じゃあ、行ってくるね!」
説明途中で聖女は背中を押しながら裏口を潜って先へ行ってしまう。団長さんはなんとも言えない顔で手を振りながら見送ってくれた。
哀れ、団長さん。多分処罰される時は自分も一緒なので安心して欲しい。
クビにされたら一緒に冒険者でもやろう。
眼下には数年前とは見違えるほどに活気付いた聖都の姿がある。
以前は見ることも少なかった国外からの人の姿や、大通りを行き交う人々。
これも彼女が頑張った成果なんだなと、少しだけ実感しながら視線を横の聖女へと移す。
「ほら、私、今日誕生日なんだよ?」
エスコートして?と言わんばかりに片手を差し出す聖女の姿に、くすりと笑ってしまう。
かつては生誕祭を抜け出した彼女を捕まえた自分が、今度は連れ出す側である。
「それじゃあ、行きますか」
あの日と違い、今度は自分から手のひらを彼女へと差し出した。
手のひらを差し出された彼女はゆっくりと、自分の手のひらの上に指先を重ねる。
「ひとつ、約束して欲しいな」
先程までのご機嫌な様子とは違う、真剣な眼差し。
いつになく真正面から見据えた彼女の表情は、力強い意思を感じさせた。
何を言い出されるのか、なんとなく見当は付いている。
逃げ出してしまいたかった。
この先の言葉を聞かず、曖昧なまま。
「今日だけでいいよ。私を見て」
ただ真っ直ぐなまでにこちらを見つめる黄金の瞳。
朝日に照らされた金の眼差しが、底にあるものまで見透かすようだった。
「お願い」
深く呼吸をして、瞬きをする。
視界の隅に浮かぶ全てを追い出して、今だけを意識する。
目の前に立つ、今日で十四歳になったばかりの少女。
これまでの人生で四年を共にした人物。
たったの四年、前世の八十年に比べれば余りに短い。
それなのに、彼女が自分に対して紡いだ言葉は重かった。
「わかった」
もう、これで今日ばかりは逃げられなくなってしまった。
この願いを受け入れた事を、流星女は怒るだろうか。それとも、語っていた通り何も気にしないだろうか。
聖女は何も取り繕わず、一歩引いた距離感もなしで自分の想いを打ち明けてきた。
ありのままを見せるのは恐ろしい、その事を自分はよく知ってる。
彼女の知らない前世のことを理由に、向き合わず否を突きつけるのは嫌だった。
ここで逃げることは、全てを否定することに他ならない。
これ以上彼女に甘え続けるのは、いっそ自分を苦しめるだけだ。
「ありがとう。一緒に最高の日にしようね」
自分が出した答えに彼女は天使のような可愛らしい笑みで応えた。
心臓の高鳴り以上に、這い上がる罪悪感に苦しみを覚える。
それらを押し殺して、自分も笑顔を見せた。
「善処するよ」
せめて、今日だけは逃げたくない。彼女にとっていい誕生日であって欲しい。
伸ばされた手をちゃんと掴み、今度こそ活気あふれる聖都へと駆け出した。
今日は事前に色々と計画していただけに、向かう場所も多い。
少し前に誕生日に抜け出したい事を相談されていたので、団長さんに事情を話して計画を練ってある。
大まかな予定としては朝の市場と本屋、昼は演劇と観光、夜は聖都の外で野宿だ。
たまに抜け出すときとそこまで変わらず、大したものを用意できなくて心苦しい。だが、中世の娯楽なんぞ祭りと演劇と賭け事ばかりなので許して欲しい。
聖女の誕生日は祝日扱いで、朝にも関わらず露店や市場は賑わっている。
人混みの多さの中ではぐれないよう、繋いだ手に自然と力を込める。
「ね、ねえ」
駆け足気味に走っていたところ、聖女から声が上がる。
足を止めて振り返れば、妙に顔が赤い。
どうかしたのだろうか。
「握るの……もうちょっと弱くして」
「ごめん、痛かった?」
そこまで強く握っていたつもりはないのだが。
聖女は少しだけ顔を逸らし、恥ずかしそうにはにかんだ。
「君に手を強く握られると、なんだかドキドキしちゃって」
こいつのこの手の言動が計算か、天然かはもう区別は付かない。
ひとつ確かなのは、この聖女様は生粋の魔性の女であるということだ。
「解きましょうか?」
「それはヤダ」
わがままな聖女様である。
適当に市場で朝ご飯を買って、そのまま書店へと向かった。
前世の頃では本はかなり貴重な品だったが、活版印刷の技術が向上したお陰で今世では書籍というものが大々的に普及し始めている。その影響で、首都などでは本屋が生まれてロマンス小説や冒険譚なんかが大流行している。
本屋に連れてきたのは流行りのものを聖女が好むからで、聖都で流行中のロマンス小説のファンだからだ。
なんなら以前続刊のお使いを頼まれてタイトルを間違えるという事件があったし、最近はベッドの上で転がりながら小説を読むという姿を目にする事もあった。
意外とミーハーなんだよな、こいつ。
「こんなに多いとどれにしようか迷っちゃうね」
「気になったもの全部でもいいんだけど」
「この本屋を丸ごと買収することになっちゃうよ」
どんだけ気になるのがあるんだよ。
流石に袋に詰められるだけの量にして欲しい。
冒険者御用達の収納鞄は持ってないのだ。
ひとつひとつ気になるものを手にとって吟味していた聖女。何か気になるものがあったのかそれを手に取りこちらへと見せてくる。
「ね、これとかどう思う?」
内容は身分の高い令嬢と騎士が恋に落ちて駆け落ちするというもの。
明らかに狙って選んでいるのが、こいつの楽しそうな笑みからわかる。
アピールか、からかって遊んでいるのかわからないのがたちが悪い。
貴族の令嬢なら兎も角、聖女を攫うとかこの国で大犯罪である。
まあまず余裕で死刑は免れないだろうな。
「僕に死ねって言ってます?」
「この小説がどうかって聞いただけだけど?」
たまにこいつを殴りたくなる。
「君がどういう意味で受け取ったのか教えてほしいな」
マジで、こういう駆け引きを何処で覚えてくるんだ。
確実に人を誑すのは自分より経験豊富だろうな。
百年以上生きてるのに経験で負けている。
普段なら誤魔化しただろうが、今日はこいつ自身を見ると決めているので正直に答える。
「この騎士と同じ様な行動をできるのか、みたいな」
「君の答え、聞きたいって言ったら怒る?」
いじらしく目線を逸らして、答えを強請ってくる。
怒りはしないが、あらゆる意味で死にたくなる。
「あなたが本当に望むなら」
正直な答えに聖女は顔を真っ赤にして口元を手で隠し、目を逸らして黙りこくってしまう。
恥ずかしいのに答え聞いてんじゃねえよ。
こちらが正直に答えたのが変みたいになってしまった。
「買わなくていいなら次行きますよ」
首を激しく横に振り、結局気になるものは殆ど買う事になった。
しおらしくなった聖女がいつもの雰囲気に戻るのには、少し時間がかかった。
次に向かった先は演劇の劇場だった。
劇場と言っても現代に存在する様な建物ではなく、簡単な建付けの小屋の舞台の上で演劇をするというもので学芸会で目にするアレに近い。ただ、この時代でもプロはプロなので案外これが面白かったりする。
内容は去年流行した小説が元のもので、確かエルフと人間の恋、寿命の差を描いたものだった気がする。去年聖女がハマってたのでこの演劇にしたが、自分は原作を知らないので内容がちゃんと面白いかは不安なところだ。
「これ、演劇もあったんだね」
「エルフと人間の恋愛って、悲恋が確定してる気しかしないな」
比較的に寿命が近い獣人ならわかるが、エルフと人間の恋は確実に苦しいものになる。
これは、残される側の思考に囚われすぎてるか?
「見てたらわかるよ」
聖女は得意気に微笑み、昼食にと買ってきたサンドイッチを頬張りながら舞台へ目を向けた。
物語は良くも悪くも捻りのないものだったが、それ故に質の高い話として完成していた。
人との交流を知らないエルフの少女と、冒険者の男が出会って恋に落ちる。
それぞれ時間を大切にしながら共に生きて、男はあっという間に寿命を迎える。
「私は、生まれ変わってまた君に会いに行こう」
「はい……何十年でも、何百年でも待っています。あなたが生まれ変わり、私の元へ帰ってくることを」
何十年でも何百年先でも変わらず誰かを愛する。
実にロマンチックな言葉であると同時に難しいものだ。
後何年先まで、一周目の事を覚えていられるだろうか。
今も流星女を愛する気持ちは心の奥底に根付いている。
そうでなければ、ここまで思い出すことも苦しむこともない。だけど、思い出は永遠じゃない。いつかは、彼女への愛を忘れる日が来るかもしれない。
「生まれ変わっても、あなたを愛そう」
「えぇ、私も。また恋に堕ちるのでしょう」
生まれ変わり。流星女は生まれ変わったのだろうか。
そうであれば、生まれ変わった彼女に会いたいと思う。でも、それは現実的に不可能だ。
簡単な計算式なので間違ってる可能性もあるが、恐らく東と西を含めれば地球の陸地よりもこの二つの大陸は大きい。そんな広大な土地の中で生まれるひとりの人物を見つける?ふざけた話だ。そもそも、彼女が人に生まれ変わる確証もない。
何処まで考えても、無意味な仮定だ。
もう、彼女は死んだのだから。
それでも、仮に、仮にだ。
彼女が生まれ変わる事が確定していれば、自分は物語のエルフの様に待ち続けることができるだろうか?
演劇の最後では、生まれ変わりを果たした人間とエルフが再会してまた恋に堕ちることで終了する。この先のことはわからないが、十二分に幸せな結末だと言えるだろう。
聖女はくだらないことを考えていた自分と違い、すっかり演劇に見入って楽しんでいるようだった。
「いいお話だったでしょ?」
「色々考えさせられたけど」
「君はさ、もし好きな人が先に死んでしまって、それよりも長い寿命があって……生まれ変わることがわかってれば、待てると思う?」
まるで、自分がさっきまで考えていたことを見透かしているようだった。
聖女のことだから、わかってるんだろう。わかった上で聞いているのだから、本当にいい性格をしている。
「それがいつかは、わからないんだよな」
「うん」
なら、無理だ。自分にはきっと耐えられない。
既にこれだけ傷付いてるのに、それ以上傷付きながら待てるわけがない。
ほんの十四年でここまで精神が壊れる思いをして、十年先の愛も保証できないのに百年や二百年なんて、約束するには遠すぎる。
それに姿形が変わっても愛することができたとして、見つけられなければ意味がない。
愛の力で見つかるなら、きっと今頃自分は生まれ変わった流星女に捕まっている。
「無理だと思う」
自分の回答に、聖女は少しだけ驚いたようだった。
残念ながら自分はそこまで我慢強い人間じゃない。
既に愛する人間がいない世界を十四年と生きて、その辛さを実感している。
「逆に、耐えられるのか?」
なんとなく、聞き返してみる。
「私も……無理、かな」
僅かな間を置いて、聖女は無理だと口にした。
何に対しても、打算的であれ愛情深く我慢強い彼女が待てないと言うのは少しだけ意外だと感じた。
それが博愛主義的なものだからか、精神的に負荷に耐えられないからなのか。
こちらの驚きを察して、理由も付け加え始めた。
「大切な人がいないことで苦しんでる人を、知ってるから」
流石に納得せざるを得ない理由である。
「あんなにも辛い思いをするなら……いつか生まれ変わってくるって知っていても私は耐えられないと思うな」
結局、軽々しく百年や二百年を語れるのは創作の中だけだ。
それが愛情で乗り越えられる問題だと豪語するやつは、是非自分と同じ体験をして欲しいものだ。
その上で耐えられたなら、もはや称賛の言葉を送る他ない。だが、少なくとも自分には無理だ。
現代で遠距離恋愛で破局するカップルがいるのに、百年越しなんて夢物語である。
数百年でも待てる強い愛情。
ある種、不可能であるからこそ美しいのだろう。
演劇を見終わり、聖都を適当に歩きながら夕焼けの景観を楽しむことにした。
聖女は外出することがあっても、その大半が視察や政務、宗教行事のせいで観光らしい観光は殆ど経験がない。抜け出しもどうしても時間的制約があり、行ける場所が限られている。
三年前は路地に入れば人攫いに遭い、夜には出歩いてはならないほど治安が悪かったのに、ここ数年で観光客が来る程度には回復した。
「ここら辺も人が増えたね」
「三年前は人混みなんてなかったから、発展した証拠か」
これも、彼女が議会や教皇に嫌われながらも権力を押し通した結果だ。
異国の観光客が、観光名所ではしゃぐ姿を眺めながら笑顔を浮かべる。
「ここまで変わってると頑張った甲斐があるな~って思うね」
「そうだな」
聖女は、どうしてここまで頑張るんだろうか。
彼女は賢いし、政治の立ち回りも理解している。それなのに、民衆の為になる行動ばかりで教会側から嫌われる行動ばかりをしている。
地位や名誉が欲しいだけなら、他にもやり方はいくらでもある。彼女であれば教会側に胡麻をすって権力を握るのだってお手の物だろう。
今日は向き合うと決めてるのだし、聞いてみるか。
「どうしてここまでする?何か自分の為にしようって、考えないのか?」
もっと、権力を自分の為だけに振りかざす事もできるはずだ。
神を心から信じてる訳でもないのに、こうも人々の期待に応える理由がわからない。
神様の威を借りて好きに過ごす教会の奴らの方が、まだ理解できる。
「私のためだよ」
聖女は自信満々に答えた。
後手を結んだまま、くるりと振り返って蠱惑的に微笑む。
細められた金の瞳は、まるでこちらの全てを見通す様で。
「全部全部、私のため」
「良い人でいたいから」
彼女の紡ぐ言葉は、願う様な切なさを孕んでいる。
まるで、そうでなければ意味がないとでも言いたげだ。
「なんで、良い人でいようとする?」
ひと呼吸置いて、彼女は思いの丈を叫ぶように口にした。
「良い聖女様、良い為政者、良い人間でいれば、良いことを沢山すれば、きっと簡単には忘れられない……そう信じてるから。でも、本当のことも知ってる。百年前に現れた魔王を倒した人を、君は知ってる?私はね、知らない」
「そう、知らないんだよ」
言葉を続ける度、火傷しそうなほどの想いが込められたそれが心の奥を突いた。
自分自身すら傷つけるそれでもって、何を伝えようとしてるのか。
何か、言葉を挟むような権利を自分は持ち合わせていなかった。
「魔王を倒して、百年前に世界を救った人の名前すら、私は知らない。だから、そんなものなの」
儚げに笑う彼女は、まるで今にも消えてしまいそうな気がした。
「きっと、私がどれだけ良い人で、良い行いをして、他人を助けても、みんなのために、何かをしても、いつかきっと忘れちゃう」
ずっと、聖女との間に隔てられてきたひとつの線。
聖女の行動原理、何故完璧な偶像を演じて、他者を救い、為政者として振る舞うか。
「忘れられたくないんだ。本当の私じゃなくたっていい、聖女って肩書でも、為政者としてでも」
「誰でもいいんだ……ただ、忘れられたくないの」
並べ立てられる言葉の数々、そのどれもが余りにも十四歳の少女の言葉にしては生き急ぎすぎている。
生涯に何かを成し遂げた証明を求める人間は多い。自分も、前世の晩年ではそう考えることもあった。
それでも、彼女のこの先の人生は長い。仮に寿命が六十年だとしても、まだ五十年近い時間が残されているはずだ。
彼女がここまで切になる理由は、何なのか。
「
掠れた声は、騒音にかき消されてしまった。
夕焼けの光で煌めいて、初めて彼女が涙を流してるのがわかった。
何故、そんなにも生き急ぐのか。
何故、忘れられたくないと望むのか。
あらん限りの切望が込められた言葉は、力強く、輝いて聞こえた。
何処かそれは、星が最後に見せる光にも似ていて。
どうしてと聞いてしまいたかった。
でも、ここで踏み込んで聞けばもう自分は戻れない気がした。
自分ひとりも背負い込めないのに、彼女の心にまで踏み込む勇気がなかった。
それでも、自分にできることはひとつだけある。
「忘れないよ」
「少なくとも僕が生きてる間は、自分という意識が生きてるなら」
こっちはこれから先何周するかもわからない人生だ。
簡単に前世を忘れられないなんてことは、既に証明している。
人生の片隅に彼女の事を刻んでおくのなんて、大した負担でもない。
「君が我儘で、飛び切り強がりな女の子だったってこと、忘れない」
「それなら、少しは安心できるだろ?」
少女は、その答えに崩れた笑みを浮かべた。
それは信徒や民衆に向けて美しく作られた笑顔じゃない。
議員達を牽制する為でも、騎士達を鼓舞するものでもない。
むしろ、グシャグシャに崩れた不器用なもので。
でも、これまで見たどんな笑顔より彼女そのもので、綺麗だった。
───
駆け寄って抱きしめられ、首元に顔を埋められる。
散々借りがあるのに、これを咎める気にはならない。
背中を擦りながら、彼女が泣き止むのを静かに待った。
ようやく泣き止んだ聖女だったが、顔を見ようとすれば見ちゃダメと胸を占拠されたままだった。
「……気にならないの?」
過去と向き合う事ができる人間であれば、きっとこの先の何故まで聖女から聞き出すことができたんだろう。
忘れられたくないと願う理由、その先にあるものまで。
未だ過去と向き合うことすらできない自分にしては、十分勇気を出したほうだと思いたい。
「いつか聞くよ」
「いくじなし」
聞き覚えのある言葉だなと、内心で苦笑する。
出会って四年も一緒だったのに、今日初めてお互いをさらけ出す事ができた。
初めて、本当に聖女自身というものを彼女から曝け出された気がするし、自分もそれをちゃんと受け止めることができた気がする。
前世の記憶、流星女への愛、今世への向き合い方、聖女への想い、色々と問題は山積みである。
まあ、結局自分は十四年間逃げ回ってきただけなんだろう。
ある時は、二度もあんな思いをするのなら誰とも関わらない方が良いとさえ考えていた。最早メンタル面だけで考えればマイナススタートであった事を考えれば、ようやくスタートラインに立てた気がする。
本当に遅すぎて笑ってしまう。それでも、上辺だけの関係性を続けるよりも良かったと信じたい。
「初めて聖都の外に出た様な気がするね」
両手を広げ、無邪気にはしゃぐ子供みたいに振り返る。歩道の白い線だけを踏む子供のように、路上の模様の上をなぞりながら彼女は進む。
独特な模様の上を無理に踏もうとして、そのたびに彼女の地面に付きそうなほど長い水色の髪が揺れる。美しく星明かりを返すそれに自然と視線を奪われる。
「この前の遠征討伐で国境まで出向いたのは?」
「それとこれとは別。言い付けを守らずこうしてるほうが、自由!って気がするから」
確かに、誰にも知られず聖都を出るなんてことは本来彼女の立場ではあってはいけないことか。
「誰にも知られず、君と二人でこうやって……悪いことしてるみたいだね?」
「祝宴をすっぽかしてるから、悪いことで間違いないんだけど」
本当、戻った時に何を言われることやら。
彼女のこの無邪気な笑顔が代金だと考えれば、悪い気はしない。
夕暮れを通り越し、周囲は既に夜の暗闇が満ち始めていた。
聖都から離れれば離れるほど、人工の光が遠のいて星空の明かりがよく見える。
運がいいことに雲ひとつない。もう少し目が慣れれば満天の星空が見れるかもしれない。
「じゃあ、私達共犯だね」
「共犯……そうだな」
今は、以前より聖女がやりたがっていた野宿をする為に聖都から離れて隣の都市への道を歩いている。聖都周辺は貿易の為にインフラが整っているので、野宿と言っても大した危険もないなんちゃってなものだ。
前世の流星女としていた様な見張り必須のものではない。あくまで気分だ。
「なんだか夢みたい」
無邪気にはしゃいでいた彼女は、ピタリと止まってこちらまで駆け寄ってくる。
そして、何を思ったのかぎゅっと硬く手を握った。
「どうかした?」
「ううん、なんとなく。こうしたかっただけ」
満足そうな微笑みと、細められた金の瞳から窺える感情は幸せそうだった。
この随分と無防備で無邪気な、何の考えもなさそうなのが彼女の素なんだろうな。
勿論、策略を巡らせて、周囲を欺き計算高く人を動かす彼女も全て嘘というわけではない。
人には誰しも二面性があるし、抑圧してきた部分がこうなのだろう。
普段の底知れなさも相まって、演技な気もしてしまうのはこれまで通りだが。
「ここら辺にしようか」
聖都から十二分に離れた頃、まだ若干自然が残る森の方へと逸れて進み野営の準備をする。
「はーい」
聖女と一緒に分担してテントを作り、夕食の準備をする。
外で食料も調達したいと言われたが、流石にこの周辺は動物が少ないので持ち込みである。
そのうち機会があれば、本当の野宿というのも経験させてやろう。前世では流星女の計画性のなさのせいで、何度野宿をさせられたことか。
用意していた具材を放ったシチューをかき混ぜながら、ふと前世のことを思い出す。
「また考えてるでしょ」
聖女は実に不満そうな表情で抗議してきた。
気が抜けて考えてしまっただけで、重ねて見てたわけではないので許して欲しい。
「別に重ねて考えてたわけじゃないよ」
「わかるけど……デートの最中に他の女の子とのこと思い出すって普通に最低だからね?」
その冷たい視線はやめて。
まだ前世のことも整理できてないので心が痛い。
とりあえず、ぐうの音も出ないので黙ることにした。
「今度は都合悪くなって黙った」
聖女は抗議の続きとして、頭をグリグリと押し付けてくる。
混ぜてる途中でちょっと危ないからやめて欲しいが、甘んじて受け入れるとする。
それにしても、本当に髪が長いなこいつ。
近距離で押し付けられれば、余計に髪の質感や美しさがわかってしまう。
「そろそろ出来るから、離れてほら」
「むぅ……」
引き剥がすと口先を尖らせてアピールしてくる。ガキか。
普段の聡明さは本当に何処に行ったんだ?
その後はなんとか聖女の機嫌を取り、ご飯となった。
「そんなに美味しい?」
日頃から神殿でもっといい食事を食べてるはずなのに、随分と美味しそうに食べている。
それこそ、祝宴に出ていればもっと美味しいものを食べられただろう。
本質がそこではないのはわかるが、それにしても美味しそうに食べる。
「ふふ、うん。凄く美味しいよ、また作ってくれる?」
「これくらいなら、いつでも」
屋台の料理も大好きだし、結構雑味のあるものが好きなのかもしれない。
やっぱ現代に生まれたらジャンクフードモンスターだったな。
そんな事を考えていると鋭い視線が飛んできた。
エスパーかよ、片付けと就寝準備に逃げよう。
満天の星空の下、同じ切り株の上に座りながら空を眺める。
予想していた通り、完全に光のない森の中では星が良く見える。
黒だけの絵画に燦然と輝く星々。そのどれもが目を奪われる輝きだった。本来は光により見えないだけでいつでもそこにあるはずなのに、今だけの存在として強く光輝いている。
もうテントの設営も終わり、いつでも眠りに就ける状態なのに不思議と今はこうしていたい気持ちに駆られる。
「ひとつ、聞きたいんだけど」
ずっと、気になっていたことがある。
「なあに?」
甘い声色は上機嫌に幸せそうで、今にも溶けそうな返事だった。
今の彼女の気分に水を差す質問になるかもと一瞬躊躇するが、ここは正直に口にすることにした。
「どうして僕だったのか、聞きたかったんだ」
これはずっと気になっていたことだ。
どうして、自分を騎士にしたのか。護衛として側に置いたのか。
最初は気になった、面白そうだから、知りたかったと言われたがそれだけではなかった気がする。
真剣な声色に、それでも視線を彼女へ戻すことはせずに。
「君じゃなきゃダメだった、なんてことないよ。誰でも良かったんだ」
「本当に、退屈凌ぎの相手が欲しかっただけ。君は見込みがあって、私のことを良く視てくれたから、面白そうだって思った」
予想してなかった返事に、面食らう。
そこまで傷付いた訳じゃないが、何かしらの理由はあると思ってた。
そうなると、結局自分が今隣りにいることは偶然でしかない。
誰でもいいというのは、案外口にされるとショックなものだ。
「でもね」
切り株の上、ひとつだけ空いていた隙間を聖女が寄せる。
彼女の体温が伝わって来ると同時に、肩に頭を預けられる。
「君で良かったって思ってる」
「卑怯な言葉だ」
そう言われてしまえば、何も言えなくなってしまう。
穏やかで、鈴の音を思わせる綺麗な声で彼女は続けた。
「嘘は言いたくないから」
「その人じゃなきゃいけないなんて、そんなの嘘だよ」
「誰でも良かった。それでも、それがあなたでよかった……運命の赤い糸で結ばれた二人より、沢山の人の中で自分で選んだ相手を愛することのほうが、私はきっと素敵だと思う。君も、そう思わない?」
彼女の言葉を聞くたびに、心臓がうるさかった。
「それにね」
恥ずかしそうに、声を殺して。
「誰でもいいから始まったけど、今は、君に隣りにいて欲しいよ」
これ以上は、ダメだな。
こいつに好きにさせ続けるとおかしくなりそうだ。
「わかったから。もう、大丈夫」
下手なことを聞くんじゃなかった。
寝る前に渡そうかと思っていたが、空気に耐えられないし今渡してしまおう。
ずっと空へと向けていた視線を、隣に座る聖女へと向ける。
「ふふ、どうしたの?」
「一応、誕生日プレゼントを用意してたので」
妙に緊張して、業務の時の敬語が戻って来てしまう。
プレゼントなんて、以前も送ってきたし前世も通せば散々やってきた行事だ。
それなのに、不思議と特別感を感じてしまう。
「ほんと!?」
大したものではないので期待を裏切らないか心配になってしまう。
「そんないいものじゃないですけど」
取り出したのは何の変哲もないネックレス。
魔法を使える人間にお願いして、少しだけ保護の魔法を掛けてあるがそれも大したことはない。本当にただのお守りだ。
元々は去年と同じで食べ物にしようかと思ったが、手元に残る物がいいと思った。
ブレスレットやイヤリングなど色々と候補はあったが、贈り物の意味も考えて本当に送りたいものは時計だった。しかし、残念ながらこの世界にはまだ手元で時間を計れるものが砂時計しかない。
散々悩んだ結果として、無難なネックレスになってしまった。前世でも記念日と誕生日のことはギリギリまで悩む性格だったので、もうこれは仕方ない。
「ううん、私のために用意してくれたんだもん」
受け取ったネックレスを嬉しそうに抱きしめる。
これだけ喜ぶ姿が見れるなら、素直に贈って良かったと思える。
「凄く嬉しい……ありがとう」
「どういたしまして」
「ね、君が付けてくれる?」
そういうのって恋人に頼むものじゃないか?と内心で思うと同時に、心の何処かで彼女の提案は嫌ではない気持ちがあった。
それでも、どうしてもその願いを簡単に受け入れることはできなかった。これは死んだ妻への義理立てでもあるし、自分の最低限の線引きだ。一ヶ月前に一緒のベッドで眠るなんて事をやらかしておいて今更ではあるのだが。
曖昧なまま、後悔する選択はしたくない。
今は、過去に向き合う時間が欲しい。
そうしたら、今度はちゃんと向き合えるはずだから。
「……来年、贈ったものを付けさせて欲しい」
その言葉に、聖女は少しだけ悲しそうに微笑んだ。
「君は意地悪だね」
いつもの蠱惑的な笑みで、彼女は自分でネックレスを付ける。
今は、これが彼女なりの強がりなのだとわかった。
結局、自分は前世を別人と受け入れられない人間だ。
聖女を突き飛ばした日に、自分は過去のあの剣士ではないのだと決めたにも関わらず流星女への想いと記憶で苦しみ、今を蔑ろにしてきた。
今を刻んで生きていこう、眼の前の相手を大切にしよう、どれだけ言い聞かせても前世の思い出が視界を曇らせてしまう。前世の母さんとのことも、逃げて逃げて、流星女に背中を押されて初めて前を向いて向き合うことができた。
つまり、前世のことも他人事に扱って逃げてもどうしようもない。
前世のことは大事で大切だ。ただ、過去が大事だからと今がどうでもいい訳では無い。
大切な思い出を、今現在から逃げる為の言い訳にする事はもうやめにしよう。
今回の人生にも、聖女にも、ちゃんと向き合おう。
決意を新たにすれば、不思議と心は平穏を取り戻していた。
「……起きてる?」
テントの外に薄っすらと人影が立っている。
もう夜更けだ、日付も変わってるのに眠れなかったんだろうか。
微かに上擦った声は、夕方の光景を想起させる。
「起きてるけど」
「入ってもいい?」
正直、どうするべきか迷った。
今と向き合うと決めたが、それは流星女への義理立てを辞める理由ではない。
いや……もう理由を過去に押し付けるのをやめた、自分がどうしたいかが全てだ。
泣いてるだろう彼女を放って置くのは、自分が嫌だ。
これを理由でいつか流星女に斬り刻まれるなら喜んで受け入れる。
「いいよ」
テントを開けば外の冷気が少し流れ込み、それと同時に聖女が入ってくる。
暗がりのせいで聖女の表情はわからないが、闇の中に浮かぶ彼女のシルエットは酷く弱々しいものに感じられた。
「今日だけでいいから……一緒に寝させて欲しいな」
やっぱり、少しだけ声は涙混じりで。
普段のイメージとは違う、弱気な声色。
「誕生日の、最後のお願い」
声から伝わる不安は、きっと本心なんだろう。
日付は変わってるけどなんて意地悪が思い浮かんだが、今の聖女に言う気はせず心にしまっておいた。
「どうぞ」
被っていた毛布を軽く上げて聖女を招き入れる。
戸惑いがちに近づいてくる彼女の動作はぎこちなく、緊張が伝わった。
近づいても暗闇で相変わらず表情はわからない。
毛布の中で何かを探る彼女の手に、自分の手が捕まる。
外にいたせいか、指先は冷たくてひんやりとしている。
余計なことを考えないようにすると、柔らかい手だなんて馬鹿みたいな感想が浮かんだ。
指先同士を合わせたかと思えば、くすりと微笑んで絡ませる。
指の隙間で感じる聖女の体温に、なんとも言えない感情を覚えた。
「君の手、あったかい」
先程までの震えた声とは違う、安心感が滲んだ声だった。
「おやすみなさい」
穏やかな眠気に誘われる様に、自分も瞼を閉じる。
すぐ側にいる聖女の息遣いと体温を感じながら、ゆっくりと意識を手放した。
「あぁ……おやすみ」
聖女に対して抱くこの感情が憐憫から生じたただの庇護欲なのか、ただの友愛、あるいは恋情なのか、それはまだはっきりとはわからない。それでも、彼女が大切な相手であることは変わらない。
薄い布越しに感じる心臓の鼓動と、彼の体温が気持ち良くて安心する。
「可愛い寝顔」
最愛の人の寝顔を見ながら、湧き上がる愛おしさに蓋をする。
昔は誰かのものであっただろうこの光景が、今は私だけのものだと思うと仄暗い感情が浮かびそうになる。
彼の心が、まだその根にある誰かのものでも。
「来年……」
本当は、今日じゃなきゃ意味がないのに。
今日が君と過ごせる最後の誕生日だから。
次を迎えることがないってわかってても、無意味な約束でも、それでもいいって思うほど幸せな誕生日だった。
「好き」
抑えられない感情を口にする。
初めて、私自身をずっと視てくれた。
「君が好き」
誰かの代わりじゃない。
ただひとりの女の子として。
「大好きだよ」
きっと、今はもう大丈夫。
君が覚えててくれる、忘れないって約束してくれたから。
私は、安心して明日からを生きていける。
「────」