聖女の誕生日からあっという間に冬は過ぎ去り、気が付けば自分の誕生日が近づき始めていた。
変わったことは幾つかある。聖女が業務を細分化して他の役職の人に任せるようになり始めたことで、自分が秘書の真似事をする必要が消えてしまった。
浮いた時間は訓練に充てることができるが、彼女と共有していたあの時間はそれはそれで嫌いではなかったのだと、なくなって初めて実感した。
訓練に充てる時間が増えたことで騎士団長と模擬戦をする機会が増えたのだが、その結果剣の指導をするようになった。事実として、純粋な剣技や実戦の経験値は圧倒しているので教えることに異論はない。
それはそれとして、年下に素直に教えを請える団長の精神性の方に驚いた。
「年齢は大した問題ではない。技術ある者に教えを願うのは当然のことで、君は私よりも適しているというだけだ。なにより、今の君は私と実力は差がないだろう」
というのが団長さんの言である。心構えが高尚すぎて、教会騎士が団長を信じる理由を改めて実感した。
未だに呪術は使いこなせないが、前世の実力に着実に近づいてきている。今の自分の実力は、前世で魔王と戦った時程度だろうか。
ひとつ、団長さんに教え始めて疑問に思ったことがある。
団長さんの大剣の扱いの癖が昔道場で指導していた弟子のひとりに酷似していた。なんとなく覚えがあったので、模擬戦でも妙にそれでアドバンテージを得ていた部分もあったり。
もしかすれば、ひとつの流派になったりしてるんだろうか。だとすれば、あの馬鹿弟子は指摘した悪癖までも残して後世の人に伝えたということである。あの野郎。
そうして、変わらず聖女の騎士として連れ回されながら日頃の訓練に身を投じていれば息を吐く間もなく十五歳の誕生日を迎えることになった。
「お誕生日おめでとう。これで成人だね」
「ありがと、まあ大して変わらないけどな」
わざわざ今日の為に休暇を作った聖女が嬉しそうに微笑んだ。
成人という誕生日の中で特別ではあるものの、自分の誕生日など大して祝われるようなものでもない。
貴重な彼女の休日を使わせてしまったという気もするが、それなりに想われている証なのだろうと前向きに捉えることにする。
「プレゼント、苦労したんだよ?」
そこまでしなくても良かったのに、という言葉はなんとか飲み込めた。
プレゼントを送られて頑張りを否定するのは、流石にノンデリが過ぎる。前世と同じ轍を踏むのはごめんだ。
「あんまり大きすぎる借りを作ると返すのが大変なんだけど」
「それを見る度に私を思い返してくれたら、それでいいよ」
ニマニマと笑う聖女様はじゃ〜んと言いながら、後ろから丁寧に装丁された横長な箱を取り出した。
聖女の体格と比較してもそれなりの大きさがあるのだが、全く中身が想像できずに首を傾げる。
「もしかしてわかんない?」
「まあ、はい」
「開けてみて」
促されるがままに箱の蓋に手をかけて開いた。
何かしらの仕掛けが施されていたのか、中身からは尋常ではない量の聖力が溢れ出してくる。
神々しいオーラを纏う純白の剣、剣の中でも一線を画する名剣であることは一目で理解できる。
こいつ、こんなもんをどうやって?
いや、それより疑問なのはこの剣自体が明らかに流星剣を意識していることだ。
流星剣には劣るだろうが、これまで目にしてきた剣でも比肩するものは殆どない。
「ごめんね。本物の場所はわからなかったから、代わりに用意したんだけど……」
指先を合わせながら、申し訳なさそうに顔を伏せる。
金で買おうと思ったら一級冒険者の稼ぎでも手を出せないものだ。
相当腕利きの工房だな。剣自体も良いものだが、付随する聖力の量が異常だ。
聖力は聖女が自分で込めたんだろう。珍しく自分を連れずに出かけていたのはこれだったのか。
人工的に物質に魔力なんかを定着させるのには相当な手間がかかる上に、貴重な鉱石や素材に人材が必要とされる。だからこそ、迷宮なんかで自然に生まれる魔剣が貴重なわけで。人工物はどうしてもムラがある。
それに反して、この剣には完璧に聖力が定着してる。完璧に定着させるには、途切れなく長時間聖力を浴びせる必要がある。どれだけの労力をかけたのか想像もつかない。
こんなものを送ってこいつは何を申し訳なさそうな顔をしてるんだろうか。
「いや……これ、作ったのか?」
「うん……気に入ってくれた?」
こちらの機嫌を窺う視線を向けてくる。
気に入らないわけないのに、何がそんな不安なんだよ。
「逆に気に入らないと思ってたのか?」
「本物じゃないし……結局代わりしか用意できなかったから」
物憂げに揺れる瞳が、やはり申し訳なさを滲ませていた。
普段の自信に満ち溢れた姿は何処へ行ったんだよ。
最近の彼女は、妙に卑屈というか不安気だ。
「代わりなんかじゃない」
「凄く嬉しいよ。本当に」
あぁ、クソ。口下手な自分が憎い。
どういう風に言葉にすれば理解してもらえるだろうか。
「ほんと?」
「本当。証明するためならなんでもする」
「じゃあ……感謝の証として抱きしめて?」
なんかそれは話が違くないか?
「ダメ?」
この表情は作ってるな。最近は聖女の表情が素か作りか大体見分けられる。
さっきまでの不安そうな雰囲気はどうしたんだよとツッコみたくなった。
「ねえ、ダメ?」
ずい、と身体を前に出して端正な顔を近付けてくる。
その顔やめろ、それで断ったらこっちが悪いやつみたいになる。
絹糸の様な前髪越しに映る瞳が揺れる。
数秒の攻防の後、結局折れることになった。
ハグは恋人じゃなくても大切な人であればすることもあるだろうと、必死に自分に言い聞かせる。
「わかった、わかったよ」
「やった!」
なんというか、結局彼女にしてやられた気がする。
そんな事を思いながら、遠慮がちに彼女の身体に腕を回した。
腕を回される時のなんとも言い難い幸せそうな表情を見れば、まあ良いかという気持ちにさせられてしまった。
「絶対、振る度に思い出してね」
「わかってるよ」
こんなもの贈られて忘れられるはずもない。
不安がらなくてもいいと伝えるように、そっと彼女の髪を梳いた。
ずっと、こんな時間が続けばいいと思ってしまった。
もう目前まで迫ってるものから、目を逸らして。
書類仕事から外された自分は、余った時間を使って書庫で災厄についての情報を集めていた。
ひとまず、調べてわかったのはこの国に封印されてる魔神はそれなりに災厄の可能性が高いということだ。それは、人の心に伝染する怪物で人から人へと感染しては、自らの信奉者や仲間を増やすのだという。
いわゆる洗脳に近い手法で仲間を増やす上に、本体の魔神自体も伝記を見る限り相当な強さがある。それこそ、周辺国家を簡単に滅ぼしてしまうほどに。魔王と同等で考えていたが、甘い見積もりは死に直結する気がした。
当然、そんな怪物に手を焼いた国は魔神を滅ぼそうとしたが結局は滅ぼしきることはできず、当代の聖女が命を賭して封印。その後も脈々と封印は受け継がれていたが、凡そ五百年前に封印が解かれてしまった事で国は大混乱に陥り致命的な打撃を受ける。そして、その時も結局聖女により封印された。
千年前の出現と、五百年前の封印の綻び、周期で考えるなら可能性は高いんだが、如何せん年代がはっきりしないのが困る。
千年前は純粋に記録が少なく、五百年前は魔神が暴れまわりこの国を壊したことで殆どの記録が紛失している。大体この頃に起きた、というのはわかるがそのせいで年代のズレが生じる可能性がある。
まあ、絶対に復活すると確定してるわけでもないんだが。
今は聖女により封印が続けられてるらしいので、問題ないと歴史では教わったが……
禁書庫であれば詳細な記録があるだろうかと足を踏み入れた時に、とある記録が目に留まった。
それは、歴代の聖女に関しての記録。
聖女は聖力が多いものから選出されるのだと、初めて知った。
自分の誕生日を超えれば次第に暖かい季節が過ぎて、寒さが世界を支配し始める。
そんな頃、ひとつの問題が起きた。
最近、聖女と距離を取られている気がする。
ようやく、自分の心にも多少の整理が付き始めたと思ったらこれだ。
元々、今年は彼女が教会の象徴としての役割に集中する行事が多かった。書類仕事も外され、秘匿した儀式では自分が呼ばれないことも多いせいで余計に会う機会が減っていた。
これまで、顔を会わせない日はない程に突き合わせていたはずなのに、最近では月に二、三度護衛としての付き添いがある程度だ。それも、専属というわけではなく騎士数名が護衛として必要な場合ばかりで、特別自分が呼ばれているわけではない。
心当たりはあるが理由がわからなかった。
彼女を傷つけるとわかっていながら、五年間も重ねていたのは最低では済まされないことだ。
突き放されるならそれは当然だが、誕生日をあれだけ盛大に祝われた後では今更過ぎる。
いっそ、やっぱり君の隣にはいられないと突きつけられれば納得できる。
顔を合わせてみれば普通に会話をするし、むしろ何処か切なげな様子で不安にさせられた。
すれ違う彼女の手を取って問いただしてしまえば、良かったのだろうか。逃げるみたいにすり抜けていく彼女を、捕まえるだけの勇気が今の自分にはなかった。
そうするにはまだ時間が足りなくて、前世の思い出を遠ざけることができない。
あの日言われた、「いくじなし」という言葉が脳内で反芻する。
無責任に聖女の人生に手を出せないと思うほどに、大切に感じていた。
もっと無責任であれたなら、流星女との思い出も糧にできたのか。
いつからか芽生えた妙な責任感は、今になっては邪魔でしかない。
季節は巡り、完全に寒さが聖都を包み込んでいた。
去年は悪くないと思えたはずの夜の雪景色は、不思議と今は心を凍えさせて暗い影を落とすだけだ。
結局聖女との距離感は戻らないまま、以前にも増して距離を取られる様になってしまった。
これまでひとりで抱え込んでいたものを他人に預け始めた彼女は、まるで何処か遠くへ行こうとしている気さえする。
随分と時間はあったのに、過去にばかり目を向けていた事を咎めるように彼女の誕生日は一週間前まで迫っていた。最近では、ろくすっぽ顔を合わせてすらいない。
「君が悩んでるのは、珍しいな」
訓練場でひとりで剣を振っていれば、団長さんが声をかけて来る。
どうやら、今の自分は傍目からでも悩んでるのがわかるらしい。
「珍しいですかね」
むしろ、ずっと悩んでばかりだ。
前世はある意味、精神的に追い詰められていたのもあって目の前に集中するしかなかった。
前世は希死念慮に殺されそうな時期が多かったが、今は罪悪感で死にたくなる。
いくら剣を振っても、この霞がかった思考は断ち切れやしない。
「年相応に悩んでいる姿は珍しい、だな。君の悩みはいつも、我々ではどうしようもないものが多い」
自分はそんなにもわかりやすい人間なのか?
団長さんは特別人の感情の機微に聡い気はしないから、フラッシュバックが続いてる時期は余程だったんだろう。そして、今もこうしてバレてるのだから、周囲に分かる程度には悩んでるわけだ。
「良ければ、教えてくれないか」
「聖女様に避けられてしまって……まあ、心当たりはあるんですけど、なんでか聞けなくて」
心当たりはあるが、理由がわからないという最低な状態。
我ながら笑ってしまう。嫌われたなら納得できるが、彼女の態度を見ればそうでもない。
ようやく、少しは向き合えた気がしただけに余計に苦しかった。
誕生日に見えたと思った彼女の本心は、ただの思い上がりだったのか。
「理由が、わからないんです」
「それは……」
団長さんはしばしの沈黙を挟んで、訓練用の剣を手に取った。
避ける理由について、心当たりがあるのか慎重な面持ちだった。
自然と手合わせをする流れになり、感情のままに団長さんに木剣を振るう。
自分らしくもない、感情に振り回された剣だった。
「何か知ってるんですか」
突き動かされる感情のまま、剣を振る。
強く、強く、一方的に感情を吐き出すかのように一心不乱に剣を振った。
本来、訓練であれば使わない祝福まで駆使して木剣を強く叩き付ける。
心の奥で、自分でも知らない激情に駆られている事に気がついた。
「あぁ、知っている」
知っているにも関わらず、理由に言及する気はない。
こちらの攻撃に防戦一方となりながらも、瞳は冷たく冴えている。
知ってるんなら教えてくれと、叫んでしまいそうだった。
「なら、教えて下さいよ」
乱れた剣筋を咎める様に、教えた通りの綺麗な返しで一太刀を浴びせられる。
衝撃を受け流すこともできずに、無様に地面に転がる。
床に転がる自分へと、静かに団長さんが剣を突きつけられる。
熱くなった感情に、冷水をかけられたような気分だった。
「断る」
向けられる木剣の先にすら、咎められている気がした。
「自分で聞くんだ……私が語るのは、不義理に当たる」
嫌だ。
自分が避けられる理由を、知りたくなかった。
予想が付いていて、不思議と確証もあったから。
確信できてしまうから、会いに行きたくなかった。
教会の権力構造も、この国の歴史も、聖女の存在意義も、全てが噛み合ってしまうから。
理由を知れば、きっと自分は耐えられない気がした。
わかっていたから、彼女も自分に何も言わなくて。
だから───
「立て」
団長さんに、胸ぐらを掴まれて立たされる。
温和な彼にしては珍しい、鬼気迫る表情だった。
「立つんだ!」
訓練の時以外で、初めて怒鳴られた。
怒っているんだろうな、当然だ。
「いつまで子供のままでいるつもりだ?君は成人だろう。そして、本当にあの方を大事に想うなら、話すべきだ」
子供のまま。
知りたくないことから耳を塞いで、見たくないものから目を逸らして、向き合いたくないことから逃げ出した。余りにも情けなくて、どうしようもない。
子供だな、確かに。どうしようもなく、子供だ。
百年以上生きてるのに、根っこは何も変わらない。むしろ、あの恐怖を知ってるからこそ余計に恐ろしい。
でも、しょうがないだろ。
喪われる大切なものの前で、どうして正気でいられる?
やっと向き合い始めたと思ったら、突然距離を置かれた。彼女の涙を思い出して、不思議と距離を置かれた理由がわかってしまった。生き急ぐ理由も、なぜ自らの存在を忘れられたくないと願うのかも。
わかってるんだ。
逃げ回って、のたうち回ってもどうしようもないって、わかってるんだよ。
何も言わず、団長の身体を突き飛ばしてふらつきながらも離れる。
降り出した雪の結晶が、服の上から溶けて染みる。
身を刺す冷たさが、まるで自分を呪ってる気さえした。
「君は、行くべきだ」
うるせえ。
わかってるんだよ。
逃げるように、降りしきる雪に責め立てられながら彼女の部屋へと向かった。
身体を伝う溶けた雫が気持ち悪い。
一歩、また一歩と部屋へと近づく度に身体が重くなる。
向き合う覚悟なんて、なにひとつできてないのに部屋の前に辿り着いてしまった。
ノックしようとして、勇気が出ずに手を降ろす。
最後にこうして彼女の部屋を尋ねたのは半年近く前だったな。
それだけ、自分は逃げ回っていたのだ。
呼吸を整えようとすれば、扉が開かれて金の瞳と目があった。
緩やかな寝間着姿の聖女は、不思議と記憶の中の姿よりずっと女性らしく成長している気がした。
「……やっと来たんだね」
何も言わず、俯いて視線から逃れる。
優しく微笑む聖女の笑顔が痛かった。
どうして、こんなにも穏やかに笑えるんだろうか。
「死にそうな顔、あの時みたいだよ」
頬に添えられた彼女の指先が、ひどく温かい。
彼女の声を聞くだけで、何故だか今にも泣いてしまいそうだった。
「部屋で話そっか」
言われるがまま、部屋へと招かれる。
暖炉の前のソファに座らされると、途端に温かさが身を包んだ。
当然みたいに隣に腰を下ろす彼女が、子供をあやすみたいに頭を撫でてくる。
「このまま来ないかと思ってた」
来たくなかったさ。
知らないままでいれば、それ以上は傷つかずに済む。
向き合わなければ、悩まずに後悔を負うだけだ。あるいは、向き合わなければ呪いになるだろうか。
「ごめんね」
「なんでそっちが謝るんだよ」
逃げ回ったのは自分だ。
どう考えても、辻褄が合ってしまうとわかっていた。
過去と向き合う事ができたと思ったら、今度は今が途端に暗くなった。
「こうした方が、君は楽かなって思ったんだけど……余計に、苦しめちゃったね」
「どうして楽だと思ったんだよ」
いっそ消えるなら、少しでも距離を空けたほうがいいと思ったのか?
ふざけるな。
やっと、少しでも前を向けたと思ったんだ。
それなのに、あの孤独に怯える日々に押し込められて。
「ごめんね……」
謝らないでくれよ、頼むから。
聖女はこちらが落ち着くまで何も言わず、ただ静かに背中をさすられた。
もう何も聞きたくもないし、知りたくもない。それでも、ここに来た以上は向き合わなければならない。
ようやく落ち着いたのを確認して、彼女はゆっくりと語り始めた。
「魔神の封印は、解かれない為に百年ごとに結界を張り替える。そのためには、莫大な聖力と結界の柱になる人が必要なの。聖女は、百年刻みで封印の柱にならなきゃいけないんだ。そして、それが───」
「十五歳の誕生日」
余りにもわかりきった、残酷なひとつの答え合わせ。
いつか聞くと言ったその言葉は、実現された。
───なぜ生きた証明を求めるのか?
老い先が短ければ当然のことだ。
忘れられたくない、それが十五歳までしか生きられない少女の細やかな願いだった。
それを、自分は心の何処かで察していた。察していて、認めたくなかった。
聖女とも、ようやく誕生日に向き合い始めたはずだった。
それなのに、残された時間の少なさを突然知らされて。
いっそ、聖女が逃げたいと言ってくれれば良かった。
それなら、彼女を連れて喜んで国外へと逃げただろう。でも、わかっていた。
彼女がこの国を捨てて逃げる選択肢を取る訳がない。
魔神が復活すれば、例え打ち倒しても確実に大量の死者が出る。
五百年前より発展したものは無数にあるだろう。それでも、大衆の犠牲とひとりの命を天秤にかければどちらを取るかなど明白だ。
そして、最も恐れていることは彼女の死が無意味になることだ。
魔神が災厄なのであれば、何らかの外的な要因───魔王に力を与えた存在が封印を破る可能性がある。そうなれば、聖女が封印の礎になろうとも、それすら意味がないことになってしまう。
災厄の出現を自分が二十歳の時と仮定して五年の猶予を持たせることも考えた。だが、この国の上層部がそれを許すわけがない。
聖女を自由にさせてきたのは、いずれこうして全てを取り上げることができるからだ。
目障りな存在を態々危険を冒してまで先延ばしにする理由がない。
「本当は、怖かったんだ」
手の甲を擦りながら、懺悔する様に。
「私も、不安だったから……死にたくないって、ずっと思ってた」
やめろ、それ以上聞きたくない。
「でも、君が私のことを忘れないって」
やめてくれ
「そう言ってくれたから……私、安心して今日まで生きてこれたよ」
こちらを安心させようとした、綺麗な笑み。
まるで、足元が崩れたみたいな感覚だった。
自分の言葉が彼女の背を押してしまった、とんだ道化だ。
いや、それとも彼女の意思に反してまで生きてほしいと願う自分こそが傲慢なのかもしれない。
乾いた笑いすら出てしまいそうで、でもそんな風に笑う元気すらも枯れ果てていた。
「──よう」
「え?」
自然と、口から溢れた言葉だった。
「逃げよう」
あの誕生日の時に言ったはずだ。
君が望むなら───
「ダメ、だよ」
宝石みたいに綺麗な目から、大粒の涙を零しながら微笑んでいた。
溢れる感情に蓋をするみたいに、言葉をひとつひとつ飲み込んで。
「私が逃げたら、沢山の人が犠牲になる」
「でも、直ぐに封印が解けるわけじゃ───」
「だとしても」
いつかされたみたいに、口を手で覆われる。
乾いた唇と、流れた水滴が彼女の手のひらに触れる。
「一緒には、いけないよ」
「君には、君の人生があって、大切なものがあって……それなのに、私の人生を、君の重荷にしたくないよ」
聖女の言葉は、正しい。
一緒に逃げれば、間違いなく総力を上げて追われることになる。
追われる身になれば、災厄を対策することは難しい。
封印が解ければ、国ひとつが崩壊するかもしれない。
それに、もし魔神が災厄に該当しなければ?
実質二つの災厄を発生させてしまう可能性すらある。
聖女は強い。途方もない奇跡の才能と多方面への才能。
人を動かす力もあり、戦略に関しても優れている。それでも、絶対に替えの利かない人材ではない。
流星女の圧倒的武力は、絶対に替えが利かない力だった。
魔王すら斬り伏せられる戦闘能力と、流星剣という全てを覆す切り札を使いこなす。それらは絶対に替えが利かないものだ。聖女の強さは、替え難い。だが、難しいだけだ。
どう考えても、聖女と一緒に逃げることは間違っていた。
「君が、立場とか地位とか……戦力を目的にしてるのは知ってるよ。だから、最後の権限で君が動かせる新しい部隊を作るつもりだったんだ」
優しい声色が、逆に恐ろしかった。
声を聞くだけで、泣きたくなるほど安心していたはずなのに。
何処か、取り繕った笑い方だった。
「ほんとは、私が直接力になってあげたかったんだけど」
「嫌だ」
彼女を喪いたくない。
それが目の前の孤独から逃げる為の答えであっても。
それでも───。
「生きたくないのか」
「そんな訳ないよ」
当然の答えだ。
でも、きっとその先に否定が待っていることを知っていた。
「なら、一緒に───」
「ばかにしないでよ」
先程よりも濃く涙を滲ませ、泣いていた。
誕生日以来、久し振りに見る彼女の涙だった。
これまで堰き止めていたものが壊れて、吐き出されるみたいだった。
「私は!」
「ずっと、十五歳で国の為に死ぬんだって教え続けられてきた!それなのに今更生きろって、生きて、生きてどうするの?君が全部責任持ってくれるの!?あの時、理由すら聞いてくれなかった、その勇気すらなかったのに!」
聖女が思いの丈を叫ぶ度に、心が深く抉られる。
彼女が塞いでいてくれていた傷が全て開いて、止め処なく血が流れる気がした。
心臓がどうしようもなく苦しい、痛い。
「逃げてどうするの?国から追われて、地位も権力も全部なくして!君が心から望むものなんてなにひとつ与えてあげられないのに!私じゃ君のこと幸せにしてあげられない!ずっとずっと!君の本当に大切な人に勝てない!代替品にすらなれない!重荷にしかなれないのに……」
「ちがっ───」
どれだけ聖女に救われてきたんだろう。
数え切れないほどに手を伸ばされて、温かさを教えられた。
聖女が存在しなければ、耐えきれずにおかしくなっていたはずなのに。
彼女を代替品にして、苦しめて。
なにがしたかったんだよ、お
「背負い込めもしないのに希望を持たせないで……期待なんて抱かせないでよ……」
全ての感情を吐き出した聖女は、あの日みたいな崩れた表情で泣いていた。
大事なものがぶっ壊れた感覚がして、言葉のひとつも吐き出せない。
ははっ。
あぁ、そうだ。
結局、自分は彼女の人生ひとつだって背負い込む覚悟がなかった。
「これまでそうやって教えられてきたのに、そうなる覚悟で生きてきたのに、無理だよ」
視線ひとつ合わず、彼女の長い髪が表情すら明かしてくれない。
「綺麗にお別れしたかったのに……ごめんね。君のこと、また傷つけちゃった」
視界が黒く淀む。
この感覚は、前世で母親が自分を刺した時に似ていた。
自分の信じていた世界が壊れる様な、そんな感覚。
「……さよなら」
呼吸ひとつ許される気がしなくて、全てから逃げ去るみたいにその場を後にした。
「きっと、出会わないほうが良かったね。わたしたち」
それから、どれだけ時間が経過したかわからない。
部屋に逃げ込んで、何も見ず、聞かず、知らず。全ての選択を放棄した。
ただ全てが過ぎ去ることを祈りながら、部屋の隅で過ごした。
全て手のひらから溢れてしまえば、まだ楽になれると思った。
いや、違うな。もう何も考えたくないだけだ。
過去のこと、未来のこと、今のこと、何も考えたくない。
何日経ったかもわからない、もう全部終わったのだろうか。
そもそもなんでこんな事してるんだ?
これから転生を繰り返して、何になるんだ?
仮にこの周回を乗り越えて、後何度繰り返す?
終わりの見えないこの世界を、耐えられるのか?
最初は現実に帰るのが目標だった。
確かに、今でも帰りたい気持ちはある。
そんなものは自分を誤魔化す為の方便のひとつに過ぎない。
本当に安心できる場所には帰れなくて、目の前にある大切なものは見落として。
きっと死人と変わらない。
なんの意味もないだろ。
何の為に生きてきたんだ?
彼女の言う通り、出会わないほうが良かったのかもしれない。
前世に縛られて、自分を慰めるばかりで彼女を不幸にしただけだ。
ははっ、最低だな。
あぁ、死ね、死んでしまえ。
本当に最悪だ、お前は何の為に生まれてきたんだ?ええ?
死ね、死ね、死ねよ。
ありったけの呪詛を吐き捨てる、この世にも、自分自身にも。
自分の一生にあったのは体の良い自己保身だけだ。
言い訳を重ねながら目の前から目を逸らして、逸らして、逸らし続けた。
前世があるから、過去の思い出が辛いから。
そうして前世すら、そのまた前世すら穢した。
過去と隔てていた何かが壊れた気がして、またひとつ泥沼に沈む。
本当に大切なものってなんだ?俺は何を求めてたんだ?
ロールプレイをして前世と切り離そうとした、過去との連続性を否定して、それなのにどこまでも記憶は付いてきて、俺を逃がしてくれなかった。
どうすればよかったんだ?
誰か教えてくれ。
誰でもいいんだよ。
誰でも……誰でもいんだ。
いっそ悪い夢であってくれ。
もう、許してくれ。
許して、ください。
何度目かの夜を越した朝日が差し込む。
水一滴すら飲んでいない。いい加減、そろそろ死ねるだろうか。
いや、死ぬなら別に剣を使えばいいな。
俺は、傍らにあった剣に手を伸ばした。
薄暗い冬の朝に純白の剣は美しく輝いている。
漂う気配が、慣れ親しんだもので心地良い。
まあ、今から死ぬのにはどうでもいいんだが、そんなこと。
首筋に剣を当てた時、違和感を感じた。
後はこれを引くだけで楽になれるのに。
脳裏で何かが掠める。
この世界を生きると心に誓った包帯の剣士のこと。
頑張る誰かが好きだと言った勇者の様な少年のこと。
目の前だけを見て生きろと言った流星のような少女のこと。
走馬灯みたいに流れる様々な景色が、剣を引く手を留まらせた。
気が付けば、白い空間に立っていて。
「なにやってんの?」
覚えのある声があって。
「立て、立って、すべきことをしろ。逃げるな、言い訳するな。どうしたいかなんてはっきりしてるのに、何をウジウジと迷ってくだらない芝居を打ってるの?」
もう疲れたんだよ。
「私は、好きな女ひとり救い出せないやつを愛した覚えはないわよ」
置いていった癖に。
「うるさい。自分の旦那が情けなく落ちぶれる姿を見せられる側の気持ちにもなりなさいよ」
そりゃあ、悪かったな。
「本当にただ何もできない腑抜けだって言うなら、私がこの場で殺してやるわ。そして、永遠に本当に私のものにしてやる。それでいいでしょ」
……それは、困るな。
あいつは、生きていたいと泣いていた。
生きたくないのかという問いに、そんな訳ないと答えた。
これまで散々に俺の拒絶すら通り越して、救われた。
なら、今度はそれを返さなきゃいけない。
「あなた、本当に待たせるのが好きね」
今から急ぐんだよ。
「じゃ、さっさと行きなさい」
思いっきり、後ろから蹴られた気がして地面を転がる。
気が付けば、俺は自分の部屋の前でぶっ倒れていた。
今日は何日かなんて、確認するまでもなかった。
うるさいほどに打ち上げられる花火や、派手な飾り付け。
今日が、儀式当日だと嫌になるほど知らせている。
さっきまでのが女神が見せた現実か、はたまた極限状態が作り出した妄想かはどうでもいい。
逆に本当だったらとんでもなく情けないことになるから、妄想であってくれ。
彼女は、俺の手を拒むかもしれない。
今更だと、怒るかもしれない。
それでもいい、俺は彼女の本当の言葉が聞きたいだけだ。
聖女として飾られたものじゃない、彼女自身の本当の言葉を。
「行くか」
聖女から贈られた剣を手に、聖堂へと走り出した。
もう、これ以上は待たせられない。