【書籍化】異世界転生周回プレイもの   作:にーしち

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あなただけ

 

 あの買い出しの日からまた先生との距離は縮まった気がする。

 勉強以外の他愛のない会話をしたり、先生自身の昔の事を話してくれる機会が増えた。

 たまにであれば料理も手伝ってくれるし、いつも俺が作る料理を嬉しそうに食べてくれる。

 

 秘密主義というほどではないが、以前は自分の過去やパーソナルな部分を他人に明かすことは明確に避けていた。それを教えてくれるということは、それだけ距離が縮まった証だろう。

 

 先生は打算があるとは言ったが、本質的に優しい善人だ。

 

 ただ、それでも俺はたまにこの人の底知れない諦念の感情を恐ろしく感じてしまう。

 食事、睡眠、性欲、おおよそ人らしいものが、先生からは読み取れない。

 あるのはいつも、底のない虚無感と絡み合った棘のような感情。

 

 それも殆どは覆い隠されてしまって見えない。

 

 第一目標は魂を修復して記憶を取り戻すことだ。

 恩はいずれ返すけれど、責任が取れない範囲まで手を伸ばすつもりはない。

 

 俗世と関わらず隠れて生きるのも、俺に恩を売ろうとするのも。

 きっと本当の理由を知ればお互いに傷つく事になる気がする。

 

「勉強中に考え事ですか?」

 

「すみません」

 

「構いませんが……他のことに気を向けている余裕があるんですか?あなたはもっと利己的に生きたほうが良いですよ。優しすぎますから」

 

 多分、優しすぎるのは俺じゃなくて先生のほうだと思うんだ。

 

「そのうち、後ろから刺されちゃいますよ」

 

 怖いこと言うじゃん。

 

「ぜ、善処します」

 

「なら、私に憐憫の感情を向けないでください。意味もなく期待させる行為は、あなたも相手も、傷つくだけですよ」

 

 本当に、彼女の言う通りだ。そういう経験をした記憶はないが、下手に誰かに期待をさせたり、踏み込まないのに相手の心を掻き乱す行為は絶対に駄目だと感覚的に告げている。

 

 けれど、ひとつ思うのは誰よりも期待したいと願っているのは先生だ。

 

 誰よりも期待したいのに、何かに縋りたいのに、いつも彼女は自らそれを遠ざける。

 記憶を取り戻すことへの対価に、自らを優先して何かを求めてもいいはずなのに。

 

 この人がくれる優しさは、温かすぎて時折めまいがしそうになる。

 

 本当に、ひどく不器用な人だ。

 純粋な優しさを目にしたからこそ、助けられたことに関係なく彼女の力になりたいと思う。

 

「でも……これは意味のない期待じゃないので。確かに今はまだ自分のことで手一杯ですけど。いずれ先生が困った時は、必ず手を差し伸べると約束します。先生が最初にそうしてくれましたから」

 

 先生がいなければ今頃自分は来世を迎えていたかもしれない。記憶を取り戻す手立てもなにひとつなかった。

 あまりに大きすぎるものを先生から貰ってしまった。この恩はいつか必ず返さなければ行けない。

 

「あなたという人は……はぁ。本当に刺しちゃいますよ」

 

 ため息を吐かれるような言葉を言ったつもりはないんだけどな。

 

「冗談ですよね?」

 

 俺の言葉に先生はにこりと美しい笑みを返した。

 

「どうでしょうね?」

 

 流石に冗談だよね?冗談だと言ってほしい。

 

「刺されたくないのであれば、そういう軽率な言葉は謹んでください」

 

 先生に聞こえないようにぽつりとつぶやく。

 

「軽率なつもりはないんだけどな……」

 

 現状の自分にとってこの世界で大切な相手が誰かと言われれば、それは当然先生だ。

 家族がいれば違ったかもしれないが、生憎と自分は奴隷として売り飛ばされて縁は切れている。

 

 記憶を取り戻せば違う可能性もあるが、過去の記憶の存在にできることは多くない。記憶のことが最優先だが、命を救い目標への道も手伝ってくれる相手を大切に想うのは自然なことだと思う。

 

「いつか、後悔しますよ」

 

 帽子のふちで顔を隠した先生は、唇を軽く噛んでいた。

 

 隠された表情を見ようと、俺は自然と先生の帽子のふちへと手を伸ばしていた。

 けれど、それは先生の華奢な手で制されてしまう。

 

「勝手に乙女の素顔を見ようとは、破廉恥な人ですね」

 

 さっきまで普通に向き合って話してたのに。

 

「目の前から逃げ続けると、それはそれで後悔すると思うから。自分や相手の想いから逃げ出したくないんです」

 

 これは俺の正直な本音だ。

 

 嫌な現実から逃げ続けても、いつか必ず追いつかれてしまう。だから、後悔するとしても先延ばしにするよりきちんと向き合ったほうが良い。そうしたほうが、せめて多少は悔いのない最期を迎えられる気がする。

 

「……なら、あなたが本当に全てに向き合う準備ができて、それでもまだ私のためになにかしてくれる気持ちが残っていたのなら、その時また改めて私に言ってください。今の記憶のないあなたの善意に付け込むのは、流石の私でもいささか心が痛みます」

 

 帽子のふちを上げ直せば、先生の表情はいつも通りに落ち着いている。

 普段よりも大きく開かれた紫紺の瞳が美しかった。

 

「わかりました」

 

 返事をすれば、先生は顔を耳元までそっと近づけてきた。

 香ってくる花と混じった彼女の匂いが鼻腔をくすぐる。

 

「あなたの気持ちが嬉しいということだけは、ちゃんと伝えておきます」

 

 くすりと微笑み離れた彼女は、その笑みが幻だったかのようにいつも通りに戻り授業を再開しましょうと言ってきた。

 

 その後の授業は、心臓がうるさくて全く集中できなかった。

 

 

 

 ひと振り、研ぎ澄まされた剣閃が落ち葉を舞い上げるのを見ながら俺はゆっくりと剣を鞘へと収める。

 奇跡の練習も重要だが、暇を見つけては剣の練習にも時間を割いていた。

 

 結局、俺の使えるもので最も強力なのはこの剣術だ。

 剣を取れば、記憶が消し去られても脳が勝手に動き始める。

 

 身体が覚えてるわけじゃない。記憶もない。

 それでもこの魂に染み付いた剣技だけは、根を張りこうして残り続けている。

 

「あなたの剣技はいつ見ても綺麗ですね」

 

 いつもは窓越しに眺めるばかりなのを、今日は珍しく近くまでやってきた。

 

「綺麗……か?」

 

 自分でも上手い自覚はあるが、それが綺麗かどうかはわからない。

 強さと綺麗さは別物だ。それに、自分はどちらかと言えば泥臭いタイプだと思う。

 

「確かに、流麗とは言えないかもしれません。でも、長い間剣を握ってきた重みを感じて、私は好きですよ」

 

 剣を握る手へと、白磁ように白くしなやかな指先が伸びる。

 

「自由で、定型に囚われず、常により上を求めて剣を振るう」

 

 マメが潰れて硬くなった自分の手とは違う、細く柔らかい手のひら。

 

「格好良くて、私は好きです」

 

「二回も言わないでください」

 

 明らかにからかわれてるのに童貞過ぎて顔に熱が集まってしまう。

 

「そういえば身長も伸びましたね。もうあんまり私と変わりません」

 

 隣に立つようにして近づいてくれば、頭の上に手をかざしてお互いの身長を比較する。

 先生の身長は大体150cm後半だろうか、160cmはないと思う。そして、自分の身長は先生とほぼ変わらない。

 

「もう十二歳ですからね」

 

「二年前はこんなに小さかったのに、生意気ですね」

 

 腰の半分程度の位置に手を配置するが、流石に二年前はそこまで小さくない。

 

「そこまで小さくない……追い越すのもすぐですよ」

 

 この時期の男子は本当に急激に背が伸びる。おかげで最近成長痛が凄い。

 

「そのうち教え子を見上げる事になると思うと憂鬱ですね。20cmくらい縮んでくれてもいいんですよ?」

 

「無茶言うな」

 

 最近の先生はちょくちょくこういう小ボケを挟んでくる。

 

 

 庭で本を読み進める先生の隣で、俺は変わらずに剣の練習に励み続けた。

 休憩を取ろうと思った時、ふとひとつ思い出したことを聞いてみる。

 

「ちょっと質問なんですけど」

 

「はい、なんでしょう?」

 

「今の俺って、先生から見てどの程度強いですか?」

 

 この結界内から出ることが少ないから、正直自分の精確な強さの分析ができない。

 一級クラスには達しているとは思うが、その中でも上澄みに位置するかはわからない。

 

「今の時代の強さの水準がわからないのでなんとも言えませんが、私の生きた時代……神魔入り乱れたあの時代でも、十二分に通用する強さだと思います。ただ、今はまだ子供ですからこれからもっと伸びるでしょうね」

 

 ある程度の強さを身につけられてる事にほっと安堵する。

 でもこの程度で満足していてはダメだ。もっともっと強くならなければいけない。

 

 もう、なにも取りこぼさないように。

 

「ありがとうございます。もうひとつ聞きたいことがあるんですけど、先生は武器や身体に透明なオーラを纏わせる技術を知ってますか?」

 

 記憶は定かじゃないが、そういった技術があったと思う。

 武器や己の肉体の本質を捉え、使いこなす。みたいなものだったはずだ。

 ただ、今世でそれらしい記述や技術は見つけることができなかった。

 

「知っています。が、技術と呼ぶには属人的過ぎて、私も使用者は十数人しか見たことがないので」

 

「知ってるんですか?」

 

 調べても全くわからなかったので、自分の記憶が曖昧すぎるせいかと思っていた。

 

「はい。ひとりはあなたも知っていますし、歴史上の有名人もいます」

 

 あぁ、ひとりは六百年前の例の流星女のことだろう。

 彼女が扱う技術であれば、同行していた自分が潜在的に記憶していたことも説明できる。

 

「ひとりはわかりますけど、有名人?」

 

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 最初の魔王を討った英雄であり、全ての冒険者の頂点である階位第一位に位置する存在。

 先生は最初の魔王の討伐に協力した人だから、初代勇者と面識があるのは当然といえど驚いてしまった。

 

「近いレベルのものは見てきましたが、初代勇者以上のものを目にしたのは六百年前が最後です。そもそもあれ以来殆ど戦ってないというのもありますが」

 

 この世界の前衛は肉体を鍛えて技を磨く以外は魔具の扱いを習熟するしかなく、もっと直接的に強くなろうと思えば祝福の奇跡や身体強化魔法を習得するしかない。

 そもそも、そんな遠回りをするより殆どの場合は真面目に鍛錬を重ねて、身体を鍛えた方が大抵の場合は伸びる。自分の場合は技術的な伸びしろはまだあるが、飛躍的な強化は望めない。

 

 それに、いつか自分は頭打ちになる。

 直感がある。

 

 それにしてもこんな技術がちゃんと存在するなら、この世界の前衛職達の中で技術が確立されてないのは変だ。

 

「私の推測で良ければ話せます。その力については昔当人と話し合ったことがありますから」

 

 当人というのは初代勇者のことか。

 

「あれは言ってしまえば『魂の漏出』の再利用です」

 

 先生は魔法で一体の土人形を作ると、それに魔力を込めて動かし始めた。

 そして、魔法で動かされる土人形は当然に魔力をその身から流している。

 

「この人形が魔力で動く時に魔力を散らすように、人間は魂を元にして動き、そのエネルギーを微かにですが漏出させています。そして、そのエネルギーを知覚して操り、自らの身や武器に纏う力が無色のオーラの正体……だと考えてます」

 

 先生はさらに説明を付け加えていく。

 

「使用者には大まかに二つの例があります。ひとつは世の理を逸脱するほどの強者。もうひとつは自らの魂を深く知覚する何かしらの出来事に遭遇した者です。後者の場合は本人の強さは関係ありません。そして、後者の多くは自らが死に瀕することで片鱗を掴むことが多いです」

 

「つまり、死に瀕する経験を積めば割と誰でも使える技術?」

 

 思ったより便利かもしれない。習得条件が鬼過ぎるというのは置いておこう。

 

「はい、知覚できるかは本人の素質もありますし、死に瀕する経験に耐えられる事を『誰でも』と表現するのは憚られますが、前者に比べれば格段にハードルは低いです。ですが確実なのは、この世界の『理』を破るほどに武芸や魔法が研ぎ澄まされていることです」

 

 ん?俺はこれって武器は身体に使う前提で考えてたけど、魔法でも使えるのか?

 

「魔法や奇跡でも使えるのか……」

 

 どうやら近接専用ではなかったらしい。

 

「ただ、魔法や奇跡の場合はもっとこの『魂を利用する』という行為の本質に近づき、漏れ出たものだけでなく自ら魂を削り糧とします」

 

「それって危険な行為なのでは」

 

「二度と戻らない範囲で削るわけじゃありません。言うなら、表面を少しこするだけです。あなたの魂の傷は表面を丸ごとえぐった痕です」

 

 なんか棘を感じる言い回しである。記憶はないが、魂を削るという行為を進んでやるはずがないので、やむを得ない事情があったんだと思いたい。

 

「それに魂に負荷がかかるレベルまで引き上げれば、防衛反応で普通は止まります」

 

 この人が普通はっていう場合は大体自分のことが含まれないんだよな。

 

「先生は?」

 

「私でも無理です。魂に自分で傷をつけるのはほとんどの存在はできませんし、実行できるのは人じゃありません」

 

 どうやら記憶を失う前の自分は人じゃなかったらしい。

 

「先に言っておきますが、この技術ばかりは教えることはできません。奇跡以上に感覚的なもので、魂が知覚できない限りは無理です。あと、あなたに教えると死にそうなので」

 

 なんて事言うんだと思ったけど、生きているのが不思議な状態らしいので何も言い返せない。

 

「治るまでは使わないです。流石に死にたくないので」

 

 先生はむぅ、と微かに頬を膨らませた。

 とても可愛らしいけど、これが千歳かあ。

 

「もしそこまで力が必要な場合は、素直に私を頼ってくださいね」

 

 厄災を倒す為に打算的に立ち回るなら、絶対に彼女を利用したほうが良い。

 でも、恩を仇で返すような真似だけはしたくない。だから、俺はその言葉には曖昧に返すことしかできなかった。

 

 

 

「初代勇者ってどんな人だったんですか?」

 

 ある日の昼下がり、昼食の締めのコーヒーを美味しそうにすする先生に聞いてみる。

 最近はコーヒーや紅茶も自分で淹れるのだが、味が改善してきたので先生も気に入って飲んでくれる。

 

 なんか料理とか洗濯とか、家の中での活動内容が勉強と訓練以外主夫みたいになってしまった。

 

「そうですねぇ……変な人で、ダメダメでしたよ。ビビりでしたし、挑んでみて負けを悟ると一目散に逃げ出すんです」

 

 歴史で学ぶ姿とかけ離れすぎている。歴史書では剣と魔法の才能に溢れ、道徳的にも優れて賢者のごとく知恵のある人物。おまけにイケメンな完璧超人と教えられた。

 

「後衛の私を置いて真っ先に逃げ出すんですよ、信じられます?」

 

 正気か?

 

「自他共に認めるビビりでしたね。才能もありませんでしたし、魔法の腕も私に追いつく気配はまるでなかったです。剣術は当時の剣聖の足元にも及びませんし、奇跡は軽い怪我を治せる程度です」

 

 まあ、歴史の裏側なんて暴いてみたらこんなものだ。

 それにしても盛られすぎて酷いことになっている。

 

 とはいえ初代勇者の気持ちもわかる。俺だって勝てなきゃ逃げ出す。

 

「でも……そんな人が、そんな人だけが、あの時代でただひとりの勇者でした」

 

 昔の話をする時、この人の表情はいつも楽しそうで幸せそうだ。

 今ではなく、過去に浸っている時だけ。

 

「当時、人間側はジリジリと防衛戦を押し込まれるだけで、西も東もひどい損耗状態でした。後は死を待つだけだなんて言う人も沢山いました……私も、正直遠くない内に人族は滅びるだろうと思ってましたよ。でも、所詮それは遠くない内であって自分の生きている間の出来事じゃないからって、傍観していたんです」

 

 実際、歴史でも人族と魔族の戦争は魔族側が圧倒的に有利で、いかなる傑物を以てしても戦況は覆らなかったと言われている。

 

「だけど、彼だけは諦めませんでした。何度死にかけても諦めず、何度でも立ち上がり、何度でも挑みました。泥水をすすっても、往生際悪く足掻き続けました。そうして、いつからかみんなその後ろ姿に心を動かされました」

 

 強くもないのにそこまでできるのは、確かに『勇者』だと素直に思う。

 何度も打ちのめされれば、自分は確実に折れてしまう。

 

「ある時、私のもとに現れてこう言ってきたんです『僕はこれから魔王を倒しに向かうんだ。僕は非力でひ弱で、とても魔王の討伐なんてできそうにない。だから、どうか一緒に来てほしい』って」

 

 勇者が仲間をパーティーに誘うセリフとはとても思えない。

 

「魔王を倒しに行くっていうのにふざけた人でしょう?でも、そんな彼の周りには不思議と人が集まるんです。私も最初は首を横に振りましたが、気がつけば何度も敗走を繰り返す情けない救世の旅に付き合わされていました」

 

 先生の話振りからしても強さはともかく、勇者には確かなカリスマがあったのだと伝わってくる。

 

「『別に自分は特別な存在なんかじゃないんだ。代わりなんて五万といるし、自分じゃなきゃできないことじゃない。ただ、誰でもできるからって、眺めてるだけだと格好が付かないだろ?だからこうしてるだけなんだよ』」

 

 珈琲の水面に浮かぶ自らの姿を見ながら先生は口ずさむ。

 

「凄く格好つけたセリフですよね。でも、彼はいつもこんな言葉を本心から言っていたんです」

 

 本当に格好良いけれど、さっき聞いた話のせいで感動が半減している。

 

「敗北を悟った瞬間に仲間を捨て置いて逃げ出す人のセリフとは思えないんですけど」

 

「まあ、仲間達の中で一番弱いのは彼でしたから。ある意味合理的でしたよ?」

 

 俺の中の勇者像が凄まじい勢いで瓦解していくのを感じる。

 階位冒険者第一位だからといって強い訳では無い現実が若干悲しい。

 階位の順位はあくまで実績による比例だから致し方ないのだが。

 

「彼は誰よりも臆病で弱虫でしたけど、誰より勇気がある人だったんです」

 

 それほど強くなかった勇者が立ち上がった事で昔の人々が力を合わせて魔王を倒したというのは本当に凄い話だと思う。

 自分だったら強くもないのにそんな勇気は抱けない。というか、強くても世界を救うなんて大任はまっぴらごめんだ。今だってそう思ってる。

 

「先生、その人のことが好きだったんですね」

 

 これは異性的な意味合いではなく、純粋に人としてという意味だ。

 昔の話をする時の先生はいつも笑顔を絶やさないが、今は余計に声が弾んでいた。

 

「えぇ……みんな、大好きでしたよ」

 

 心に満ちたものが溢れた様な、穏やかで温もりを感じる声音。

 

 過去のことを話すのは楽しそうだ。けれど、いつだって過去に想いを馳せる時は苦痛の色が混じっている。それが、ひと際強く感じられた。

 

「あなたは、少しだけ彼に似ている気がしますね」

 

 弱くとも精神が高潔な勇者と一緒にしないで欲しい。自分にそんな度胸はない。

 

 

 

 先生は時折、例の初代勇者が使っていた剣をぼーっと眺めている時がある。

 

 夜明け前の地平線を想起させる暁の刀身と、日が昇りきらぬ頃の暗闇を宿した刃。剣の腹部分には魔法陣が刻まれたそれは、彫刻品の如き美しさと兵器としての危うさを内包していて不思議と目を引きつけられる。

 

 懐かしさと切なさを滲ませた横顔は、いつも声をかけるべきかどうか悩んでしまう。

 

「どうかしましたか?」

 

「先生、たまにこの剣を眺めてますよね」

 

 少しだけ見惚れてしまっていた事を誤魔化しながら、自分も改めて剣へと目を向けた。

 

「『夜明けの剣』」

 

 ぽつりとつぶやかれた剣の名前、『夜明けの剣』。

 初代勇者は混沌の時代を切り開き、魔王を倒して戦乱の世を終わらせた。

 長い長い夜に、夜明けをもたらした剣。

 

 実にぴったりな名前だ。

 安直なネーミングだけれど嫌いじゃない。

 付けた人と自分の厨二センスは合う気がする。

 

「昔の仲間と共に作り上げた剣なんです」

 

 そんな気がしていた。そして、この剣を通して何を考えてるのかもなんとなく想像ができる。

 記憶のない己と過去を剣術が繋いでくれるように、先生も昔をこの剣を通して過去を見ているんだろう。

 

「私が直接魔力を注ぎ、魔具にしました。間違いなくあの時代に作られた最高の武器です。人の身で神器を超える武器を生み出そうというのだから、生半可な覚悟では挑めませんでした」

 

 神器。聞き覚えのある言葉だけど、どこで聞いたのか思い出せない。

 

「神器って、なんなんですか?神が作った武器?」

 

「逆ですよ。神器は、黄金の時代よりもずっと前。神がこの世界に降り立つ前から存在する、故に今の『理』を歪める力を宿した武器です。そして、『夜明けの剣』は、この世で唯一、女神よりも後に生まれた」

 

 ずきりと、頭に痛みが走った。

 

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 女神の死。果たして、俺を転生させた女神は生きているのか?

 明らかに転生システムに欠陥が起こっているのに現れない以上、行動できない状態なのは確かだ。

 本当、何をやってるんだろうなあの女神様。

 

「どうして、そんな武器を……」

 

 女神は人類の味方で、先生や初代勇者は人族側で魔王を討ち倒した人間のはずだ。

 なのに、女神を殺せる武器を作り上げたというのは何か辻褄が合わない。

 

「初代魔王は、女神の呪いを受けて不滅の存在になっていました。故に、あれを殺すには女神の権能を殺す力を有する武器が必要でした。『光の剣』という神器を剣聖が使っていましたが、あの剣は魔法を退けることに特化して、魔王を殺し切るには新しい神器が必要だったんです」

 

 またひとつとんでもない歴史の裏側を知ってしまった。

 

「私達にとって、あの時代は明けることのない暗闇でした。だからこそ、私やみんなは夜が明けることを願って、こんな名前を付けたんです」

 

 ひどく優しい眼差しは、痛ましさすら感じてしまうほどに儚い。

 いつも彼女の存在は千年前に縛られている。

 

 かつての仲間との日々、家の中にある冒険の品々に、夜明けの剣。

 どれもが遠い昔を思わせるものばかり。

 

 俗世と関わりを断ち、ここで暮らす姿はひとりだけ時間に取り残されたようだ。

 時折想いを馳せる過去にすら、心を痛めている。

 

 同じだと思った。

 

 過去ばかりに目を向けて、今を生きることを諦める。

 今と向き合わず、時間に流されることだけを選ぶ。

 過去ばかりに目を奪われて、痛みに苛まれる。

 

 この人を成り立たせるものはこの場に存在せず、過去だけが今を形作っている。

 

 『私を見て』

 

 バラバラに崩れてしまった記憶の中でひとつだけ浮かび上がった言葉。

 

 過去ばかりに目を向ける馬鹿と、その馬鹿の手を離さなかった誰よりも優しくて素敵な人を俺は知っている気がした。

 

「先生」

 

 俺は変わらずに夜明けの剣を眺める彼女の手を掴んだ。

 それは以前の自然と手を繋いでしまった時と違う。

 

 自らの意思で手を伸ばして、掴んだ。

 なんでこんな事をしたのか。

 

 理由は単純で、今を見てほしいからだ。

 

 記憶を失う前の自分のことはわからないけど、先生の姿が他人事に思えないのは自分が似た経験をしたからに違いない。だとすれば、その時手を掴んでくれた人には感謝してもしきれない。

 

「あのっ」

 

「今日は一緒に出かけましょう」

 

 先生の目と想いが、過去から自分(いま)へと向けられる。

 

「ど、どこに行くんですか?」

 

「今から一緒に決めるってことで」

 

 共に時間を重ねる相手でありながら、ひとりだけ都合の良い傍観者でいさせられるものか。

 先生だって共にこの世界で、今この瞬間を生きる人だ。

 例え永遠に時間を重ねられる存在でも、彼女にも、俺にも全く同じ日はやってこない。

 

 だからこそ、今目の前の瞬間、この一瞬を魂に刻みつける。

 

「あなたは本当に、私の心を掻き乱すのが得意ですね」

 

「今そう言われるのは褒め言葉なんだけどな」

 

 先生の心がそれだけ今に集中しているということだ。

 勿論、怒らせるとか嫌な気持ちにさせるのはダメだけど。

 

「先生は、どうしたいですか?」

 

「私は……何でもいいですよ。そこまで言うなら付き合います」

 

 俺に合わせる形で付き合わせてしまっては意味がない。

 

「先生の気持ちも大事ですから」

 

 正直、押し付けがましいエゴだとは自覚している。

 でも、繰り返しの毎日を彼女が心から望んでるとは思わない。

 

 何も知ろうとせず、既知の範囲で過ごすのは楽だ。

 楽だけど、楽なだけだと知っているから。

 

 思い出せずとも、踏み出す恐怖にかまけた結末は恐ろしいと知っている。

 だからこそ、せめて毎日に向き合わないといけない。

 

「あなたは……卑怯ですね。私がどうして、こうも閉じこもっているかも知っているでしょう?」

 

 彼女が踏みとどまる理由はなんとなくにしかわからない。

 正直、今の会話も行動も薄氷の上で成り立っている気がしてしまう。

 

 踏み込めば、何処かで先生を深く傷つけてしまう気がして恐ろしい。

 先生との関係は記憶を取り戻すまでは、曖昧なままでしか存在し得ない。

 

 俺はどこまで行っても先生との関係に胸を張って責任が取れない。

 

「先生が辛くならないように、全ての物事から距離を取ってるのは知ってます」

 

 拒否する自由はある。

 今繋いでいる手を振り払われてしまえば、それまで。

 

 無理強いする気はない、それはもう仕方ないことだ。

 それでも、先生がこの手を離さないでいてくれるなら。

 

「せめて俺といる間だけは、俺との関係だけは、時間を止めないでください」

 

 俺も半ば不死みたいなものだ。必ず周囲にはいつか置いていかれてしまう。

 生きれば生きる程に昔の自分を知る存在は消えて行って、存在そのものも変わってしまう。

 果たして厄災を何度討伐すればいいかは不明だ。だが、長い旅であることは確実だ。

 

 だからこそ、その旅路で彼女と時間を共有する程度はできるはずだ。

 例え周囲の全てに置き去りにされても、互いだけは時間を共有できる。

 

「こうして数百年振りに会えたように。あなたに、生まれ変わる度に会いに来ます」

 

 今はこの程度の保証しかできないけれど。

 

「だから、少しだけでも、一緒に時間を進めてくれませんか」

 

「本当に、あなたは───」

 

 大きく見開かれた愛紫の瞳の中にある時計にも似た模様の魔法陣。

 

 その中にある時計の長針が、少しだけ進んだ気がした。

 

「ズルい人ですね」

 

 夕暮れの光が白い髪を彩って、茜色へと染めてゆく。

 

 先生の表情は夕焼けの逆光と帽子のふちで遮られてわからなかった。それでも、口元の笑みだけは緩んでいて、その姿からは欠片たりともいつもの諦念の感情は感じなかった。

 

 

 

 気がつけば、先生の元で過ごして三年と半年が経過していた。

 季節が巡ってこの身体で十三度目の冬を迎えた。

 

 いつも、この季節は胸が苦しくなる。

 

 窓の外でしんしんと降り積もる雪を見ながら、自然と自分の胸を抑えた。

 

 会いたいという感情。

 断ち切れない後悔と強い恋しさ。

 

 冬の夜の雪景色には、恐ろしいほど心をかき乱される。

 

 もう生きてはいないと知ってもなお、捨てきれない願いが心の奥には根付いている。

 もしかすればまた会えるのではないかと、記憶を取り戻してないからこそ淡い期待にすがりそうになる。

 

 理性では先生に説明された時点で理解しているのに、感情はいつまでも整理ができない。

 

 たわいない会話をして、笑顔を見て、その手に触れて。

 あるはずのない記憶を回想しては、果てしない虚しさが胸中を埋め尽くす。

 

 死んでいるとしても、悲しむ権利すら存在しない。

 

「苦しい……」

 

 胸を抑えながら、自然と口から言葉が漏れていた。

 

 この苦しさは、記憶を取り戻せば自然と解消されるのか?

 結果さえもわからないのに、それしか逃れる為の術がない。

 

 満天の星空を前にしても、ここまで胸を締め付けられることはないのに。

 雪が降る夜だけは、どうしても自分を許してくれそうにない。

 

「大丈夫ですか?」

 

 声の方へ振り返れば、魔法の照明をかざしながら立つ先生の姿があった。

 

「大丈夫です」

 

 大丈夫という言葉をまるっと無視して、暖炉の前で縮こまる俺の隣へと近づいてきた。

 自らの長い白髪が邪魔にならぬように気をかけながら腰を下ろした彼女は、魔法でティーカップを呼び寄せてミルクを淹れて暖炉の火で温め始めた。

 

 甘いミルクと、先生が身に付けている花の香りが混ざり合って漂う。

 

「大丈夫じゃない人間はそんな真っ青な顔はしないものですよ」

 

「はは……そんな顔してました?」

 

 昔から結構顔に出るタイプではあったが、そこまでだったらしい。

 

「去年の冬も、雪が降る度にあなたは苦しそうでしたから。今日は珍しく料理だって焦がして」

 

 毎年だ。冬が訪れる度に、雪が降る度に。この想いはとどまることを知らず雪崩みたいに押し寄せてくる。

 

「受け売りですけど、こうして意味もなく隣りにいるだけでも、気が楽になるものです」

 

 先生はそういいながら一枚の毛布を取り出し、互いに包まった。

 

「誰に教わったんですか?」

 

「昔の仲間です。ほら、寄らないと幅が足りないですから」

 

 そう言いながら毛布を手にこちらへと身を寄せた先生の姿が、誰かと重なる。

 

「こうすれば、あったかいですよ」

 

 毛布の中で距離が縮まったことで先生の素肌に触れる。

 伝わってくるその体温を皮切りに、なにかが溢れ出してきた。

 

 後悔がこれ以上遅くならぬようにと手を伸ばした日。

 初めて確かに手を掴み、もう二度と離さないと心に決めた。

 

 全てが終わって始まった。雪の降る聖夜に、馬車の中で同じ毛布に包まれた記憶。

 

 ざらついたノイズ混じりの映像が、脳裏を流れる。

 

 身を寄せ合った時の肌の感覚、共有された体温、嬉しそうに細められた金の瞳。

 

「泣いているんですか」

 

 這わされた指先が触れて初めて、瞳から溢れた雫の跡に気がついた。

 

 未だにどうしたって思い出せない。記憶も、名前も。

 ただ微かに記憶の隅を掠めるだけで、呼び起こそうとすれば霧みたいに消えてしまう。

 

 堰き止めていた感情の蓋が外れたように、涙が溢れて止まらなかった。

 

 毛布の中で、微かに躊躇して伸ばされた手。

 それ以上伸ばすべきか思案して、数秒彷徨った小さな手のひらはゆっくりと背中に回された。

 

 今世で初めて、ここまで強く誰かの体温を感じたと思う。

 抱きしめられた手のひらから伝わる感触から、強く安堵を感じてしまう。

 

「意味もなく期待させるななんて言ったのに、私のほうがズルい人になってしまいましたね」

 

 本当にその通りだと思う。

 

「でもいいんです。私は悪い魔女ですから」

 

 口元に弧を浮かべた先生は、俺の手を取ったかと思えば抱き寄せるようにして手を引いた。

 小さな手に導かれて伸びた手は先生の身体へと回されて、自然と抱きしめる形になる。

 

 普段はローブに隠された身体は、抱きしめればこんなにも頼りない少女のものなのだと実感させられる。弱々しく線の細い四肢に、繊細な身体付き。密着して触れ合えば、柔らかなものが押し当てられた。

 

 咄嗟に離れようとするが、頭を撫でられたことでその動きが止まってしまう。

 

「好きなだけ泣いていいですよ」

 

 涙を止めようとしても、抑えきれない想いが雫として流れて止まらなかった。

 

 そうして、情けない姿を数分間晒すことで俺はようやく落ち着きを取り戻すことができた。

 埋まらない空虚が積み重なって、無自覚に精神に限界が来ていたのを全く自覚していなかった。

 

 以前と違い、大切な相手が死んでいるという事実が積もる感情をより大きなものにしていた。

 前世の大切な人は死んで、それすら忘れてしまっている。薄情なんてものじゃない。

 

「落ち着きましたか?」

 

 耳元で囁く声は柔らかく、穏やかで、身を預けてしまいたくなる。

 

「ありがとうございます」

 

 彼女にここまでしてもらう義理はないというか、心の距離を詰めるのを嫌がっていた人間の行動にしては大胆過ぎて驚いている。

 

 代わり映えのない日常を過ごす相手で、日常に多少の彩りを贈ることはできたかもしれない。そして、数百年後の未来でも、再会することができる友人。

 

 それでも、それだけだ。

 

 言葉にしてしまえば余りにも呆気ない事で、何も特別なことなんてない。

 先生の心の底にある、かつての仲間たちへの郷愁の念に比べれば大したことはないはずだ。

 

「わからないんですか?」

 

 互いの吐息が触れ合うほどに近い距離だった。

 至近距離に映る宝石のような紫紺の瞳、刻まれた時計の印が鮮明に認識できる。

 

 夜の暗闇の中で、照明の魔法が彼女の感情を示すみたいに微かに揺らいでいた。

 

「私は不死です、不変です。呪われた私は、もうずっと千年と五百年前から、変わらないんです」

 

 抱きしめていた手が解かれれば、腕が胸の辺りへと伸ばされてさらりと撫でられる。

 とん、と軽い調子で小突かれて身体が後ろに倒れて、視界が天井を映した。

 

 彼女の動きに合わせて揺れる彼女の長い髪が頬をくすぐる。

 濃く、甘い、くらりとするほどの花の香が身体を覆う。

 

 鈍い思考が警鐘を鳴らしていた。

 回していた腕を解いて、自分の上に覆いかぶさる彼女を退かそうとする。けれど───

 

()()()()()

 

 そのひと言で、俺は動きを止めてしまった。

 

「逆なんです」

 

 伸ばされた指先が頬をさらりと撫でる。

 彼女の言葉、指先の動きひとつで、心臓が早鐘を打った。

 

「ずっと逃げてるのはあなたじゃなくて私なんですよ」

 

 それは異性としての喜びではなく、どこかから湧き出した警戒心からだった。

 

「私があなたを遠ざけるのは、きっと私があなたを手放せなくなってしまうからなんです」

 

 明らかに危険な兆候だった。

 

「あなただけが特別なんです。あなただけが、この世界で唯一、何年でも、何十年でも、何百年でも、時間を超えて、一緒にいられる相手なんです。わかりますか?あなただけ、あなただけなんですよ」

 

 先生の中で抑えられていた感情を、自分は軽視していたのかもしれない。

 

「私は変わらないようにしていたのに、停滞したままにしていたのに、あなたが変えたんです」

 

 どろどろとした感情が込められた瞳から目を逸らすことができなかった。

 目を逸らして逃げようとすれば、今にも彼女が壊れてしまいそうで。

 

「あなたが私を頼る関係なら構いません。でも……私があなたに甘えてしまったら、ダメなんですよ」

 

 俺は彼女の存在を見誤っていたのだと思う。

 千年生きた経験がある。数百年の孤独を経験している。

 

 それがなんだというんだ?

 

 強くきつく抱きしめられたまま、言葉が紡がれる。

 

「側にいてほしい、離れないでほしい。もう誰かに取り残されるのは嫌なんです。進まないままでいいんです。止まったまま、停滞したまま、どこにも行けないまま、永遠に私の隣りにいてください。ひとりじゃないだけでいいんです、一緒に息をして、言葉を交わして、私と生きてください」

 

 熱い吐息が耳元に掛かる。

 言葉をひとつ重ねる度に感情が燃え上がる。そして、願いが懇願へと変わる。

 

「私が今こうやって言葉にしている理由も、私がこうして本音を吐露して甘えれば、あなたが逃げないでいてくれるんじゃないかって。記憶を取り戻すことを捨てて私を受け入れてくれるかもしれないって、そう考えてるんです。あなたに今迫っているのも、今の弱ったあなたなら籠絡してしまえるんじゃないかと、そんな風に考えてるからですよ」

 

 身体を密着させたまま、愛を囁くようにして呪いを刻んでくる。

 

「慰めが必要なら、こんな身体で良ければ使っていただいても構いません。あなたが私の、こんな甘えを全て受け入れてくれるなら、私も喜んで全て差し出します。全部全部あなたにあげます。私の願いを受け入れてくれるなら、私もあなたの願いを叶えます。だからもうどこにも行かないで」

 

 純粋で情熱的な愛のようでありながら、どこまでも狂っている。

 千五百年という時間は、きっとひとりの少女を壊すには十分過ぎる時間だった。

 

永遠に側にいてください(私をひとりにしないで)

 

 その言葉を最後に狂気的な愛憎がぴたりと止まって、底のない諦念がまた顔を出した。

 

「こんな風に、困らせてしまうんですよ」

 

 時間が流れただけで精神的に成熟したり、成長するわけじゃないのは自分が良く知っているはずだ。自分だって三十年を超える時間を生きている。でも、精神的に成熟した大人だなんて口が裂けても言えない。 

 

 積み上げがなければ流れるだけの時間は、毒でしかない。

 

「それとも」

 

 区切られた言葉の先で、紫紺の瞳が細められた。

 

 優しさのヴェールで覆い隠された感情が顔を出す。

 重く大きく、泥沼のように濁り、永い間煮詰められた情念の色。

 目を合わせているだけで息苦しさを覚えるほど、張り詰めた空気。

 

 

「───あなたは、期待させてくれるのですか?」

 

 

 妙なデジャヴ感が頭を過る。

 この手の問答を、俺は何故か既に数度繰り返している気がした。

 

 女性経験なんてないに等しいのに、重苦しく粘ついた感情を差し向けられることに既視感がある。

 

「俺、は」

 

 記憶がなければなんてものは、彼女からすれば言い訳に過ぎない。

 期待して欲しくない訳じゃない。甘えられるのだって構わない。

 

 『あなたを絶対に置いていかない』

 

 そう口にするだけでいいのに、できなかった。

 

 先生のことは好きだけれど、自分のこれからの未来を約束できるかと言われれば嘘だ。

 都合の良い嘘を言って不誠実な事をこの人にしたくない。安易な嘘で傷つけたくない。

 永遠も絶対も、簡単に捧げられるのは物語の中だけだ。

 

 でも、この場で黙りこくって逃げることこそ、何よりも彼女の期待を裏切っている。

 

「ふふ、冗談ですよ」

 

 途端に密着していた身体を離して、込められていた激情をいつもの笑顔で隠し始める。

 

 『あくまで試し行為で、からかいだった。だから気にしないで』

 

 そんな風な言葉に同意すれば、全部丸く収まるだろう。

 

 彼女の優しさに、甘えた上で。

 

「こうやって困らせ───」

 

 

 強引に身体を起こした俺は、先生の白くか細い両の手首を掴む。

 そして、起きた勢いのままにソファの反対側へと先生の身体を押し倒した。

 

「ぇ」

 

 バサリと毛布が剥がれ落ちて、絹糸の如く白く透明な長髪が塗り拡げられた。

 綺麗な丸を描いた瞳孔。ローブも取り払われた色白の肢体が、ひどく艶めかしい。

 

「期待に応えられるかはわからないです。でも、()()に逃げません」

 

 この場で期待に応えることはできないし、ここを離れないとも言えない。

 永遠に一緒だとか、ずっと好きだとか、夢心地な言葉も吐けない。

 拒否するかもしれない、受け入れるかもしれない。それはわからない。

 

 目を白黒とさせたままの先生に、続けて言葉を浴びせる。

 

「先生の想いに全て沿うことができないとしても、先生が向けてくれる想い……それが怒りや恨みであっても、俺は逃げません」

 

 けれど、向けられる期待から、先生の想いから逃げないことだけは誓う事ができる。

 

「例え、それを受け止めるのにどれだけの時間を費やそうとも」

 

 踏み込んで彼女を変えた責任は俺にある。

 

「だから、どうか先生も逃げないでください」

 

 先生がいつも本音を隠す時に壁となる帽子も、ふわりと揺られて床に落ちる。

 瞳から流れる大粒の雫を拭いながら、頬に手を添える。

 

「私は、ちゃんと遠ざけましたよ」

 

「はい、知ってます」

 

「私は、あんな想いを抱えて、あなたを利用しようとしてるんですよ」

 

「あなたの時計の針を進めたのは俺だから」

 

「どうして、放っておいてくれないんですか」

 

 こればっかりは少し困る質問だった。

 多分、明確な理由はなくした記憶の中にあるんだろう。

 でも、確かなのはひとつある。

 

「あなたに今を見つめて、幸せに生きて欲しかったから」

 

 暖炉の炎で薄く照らされた先生の顔は、耳まで赤く染まっていた。

 きっと、暖炉の炎の明るさのせいだ。

 

「ズルい人」

 

 その言葉は、どうあがいても否定しようがない。

 

「好きだからって、言ってくれても良かったんですけどね」

 

 独り言みたいなふりをして、はっきりと聞こえる声量だった。

 

 ズルいのは、お互い様だ。

 

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