ギルドへ報告を終えた後、俺は野犬くんに強引に誘われて訓練室で以前のリベンジマッチを挑まれた。
借り物感のある自分の力には忌避感があるので断りたかったが、先生にも勧められて受ける流れに。
「舐めたことはするなよ、全力でやれ」
「わかってるよ」
下手な事をすれば怒らせてしまうのは流石に学習した。
流石に負ける事はないが、あの風魔法は機動力と火力を担保されて厄介だ。
どうしたものか、と悩んでいれば楽しげに眺めていた先生が近寄って来た。
耳を貸せというというジェスチャーに従い、顔を寄せる。
「どうか格好良いところを見せてくださいね、私の教え子なのですから」
耳元で囁やけば、最後にはふーっと息を吹きかける悪戯をしてベンチへ戻っていった。
「お前ら、付き合ってんのか?」
一連のやり取りを見ていた野犬くんがなんとも言えない顔で見てくる。
やめて、そんな目で見ないで。からかわれてるだけだからこれ。
「違う、からかわれてるだけだ」
「どっちでも良いけどな、彼女の前で格好つけられると思ってんじゃねえぞ」
完全に彼女認定されてしまった。
それを見て先生は楽しそうにしている。
あぁ、完全に余計な勘違いが加速してしまった。
その後の決闘は野犬くんの風魔法に多少苦戦させられたが無事に勝利できた。
普通に身体を切断する勢いで魔法を使ってくるので容赦がない。風魔法は厄介だったし、自爆覚悟の魔法を貰いそうになって冷や汗を流したが、流石に才能による暴力もあって負ける事はない。
記憶が戻ってるわけではないが、基本相手が剣士なら剣筋がひと通り読めるので負ける気がしない。
「ムカつくくらいお前は俺の上を行くな」
野犬くんは不貞腐れたようにそっぽを向いている。
「結構危ない場面もあったぞ」
彼のこの上を目指す姿勢は素直に尊敬できると同時に、危うさも感じる。
強さへの強烈な執着、勝利へひたむきに突き進む愚直さ。
自らの危険すら厭わない向上心は戦い方にも現れている。
自爆覚悟の風魔法や、自分への攻撃を厭わない攻撃へ偏った剣術。
魔物に囲まれていた時も捌けてはいたが冷や汗ものだった。
正直、戦い方がイカれている。
「まだ足りないんだよ。もっと、もっと強くなるんだよ、俺は……強くならなきゃ、勝てなきゃ意味がない」
狂気的な勝利と強さへの執念が宿った瞳。
「勝つ強さを手に入れる為に、手段なんて選んでいられるか」
以前強さを求める理由を聞いた時は、他人に指図されたくない、見下されたくないと言っていた。
だが、野犬くんはもう誰かに指図される奴隷ではない。
既に四級冒険者という称賛される地位と、見下されない強さがある。
それなのに自らを犠牲にして、ここまで執着できる理由が俺にはわからなかった。
「もう奴隷でもないし、誰にも指図なんてされないだろ。それなのに、まだ強くならないとダメなのか?」
「ハッ」
乾いた笑い声。馬鹿にしたような笑みから転じて、恨みを込めた表情で力強く睨まれる。
「自分より当然って顔で上に立つ人間を這いつくばらせたいと思うのは、別におかしかないだろ」
気持ちはわからなくはないが、その為にここまでできるのはどこか異常だと感じてしまう。
「奴隷としての刻印を消した日に誓った。俺の前に立ちふさがる奴、俺の上に立つ奴、そいつらをねじ伏せるってな。そして、今日まで俺を見下す奴は全員その言葉通りにしてきた、だから、お前もいつかねじ伏せる。今日、明日、一週間、一ヶ月、一年だって負けてもいい。でも、最後に上に立つのは俺だ」
本当に果てしない執念。
向上心があるのは良いことだし、他人を羨んだりするのは当然のことだ。
別に、それ自体は否定しない。生き方を変えろと強要もしない。
「おかしくはないな。でも、上を目指す過程で死んでちゃ意味ないし、危ないだろ」
もう少し身体を大事にして欲しい。
それに、上ばかりを見ていれば目の前のことを見落としてしまう。
「なんでお前がそんなの気にするんだ?記憶を取り戻すのと、自分の女のことだけ気にすればいいだろうが」
まるで意味がわからないと言いたげだったが、それはこっちのセリフだ。
「友達なんだから、心配くらいするっての」
ツンケンしてるし力と勝利への執着が凄い人間ではあるが、根が悪人ではないことも知っている。
奴隷になったばかりの頃は助けてくれたし、弱いと思っていた俺に戦い方を教えようとしてくれた。
何より、自分の借り物に近い力でも、多少は肯定できる理由をもらった。
俺の言葉にギョッとして目を見開いたかと思えば、舌打ちして立ち上がる。
「っ!勝手に言っとけ。俺はもう行く」
ふんっと顔も合わせずに訓練室から飛び出して行ってしまう。
いつものツンデレ仕草だとは思うが、地雷を踏んでしまったのだろうか。
「仲がいいんですね」
遠くなる野犬くんの後ろ姿を見ていれば、先生が後ろから声をかけられる。
「仲がいいというか、仲良くしたいというか」
向こうにはあまりその気がないのが悲しい。
現代日本では友達ゼロ人だったので、自分からすれば数少ない友人だ。
「でも、悲しい人です」
冷たく静かな声。先生の眼には哀れみが浮かんでいた。
「ものを入れる箱に穴が空いていれば、何をどれだけ詰め込んだって底から抜け落ちるだけなんです。私が以前あなたの優しさを受け入れられず、逃げ回ったように」
先生の言いたいことは、なんとなくわかる気がする。
自分の前に立ちはだかる相手を、自分より上の相手を倒し続けて、その先はどうするのか。
誰かに負けたままでは、誰かより弱いままでは自分を許せない。でも、勝って、勝って、勝ち続けて。そうして仮に世界最強になったとしても、残るのはきっと空虚さだけだ。
誰にも追いついて貰えず、誰にも追いかけてもらえない。
天に昇る星の如く存在しても、それは虚しさが募るだけだと知っている。
そして、満ち足りることを知らないなら、その次を求め続けるしかない。
勝ったとしても心が満たされないなら、頂点に立ってもそれは変わらない。
全てを下して最強になろうとも、幸せな野犬くんの姿がまるで想像できなかった。
「壊れた箱を治すには、どうしたらいいんでしょうね」
その言葉は何処か先生自身にも向けられているような気がした。
優しい先生らしからぬ姿が印象的で、やけにその言葉だけが記憶に残った。
「さて、準備はいいですか?」
野犬くんとの迷宮での再会からひと月が経過した頃。
俺は魔法陣の中に立ち、高ぶりそうな心をなんとか落ち着かせていた。
何が起こるかと言えば、先週ついに先生から言われていた魂の知覚というのに成功したのだ。
これから記憶の復元を行うのだが、以前聞かされていた通りにこれは自らを解体するが如き所業だ。
正直理論はふんわりとして理解できてないが、要は魂の一部を生地みたいに切り取って伸ばす。伸ばした部分を外側に張り付けて、治ったと魂に錯覚させる。
切り取るのは内側部分で、内側に関しては永い時間がかかるが自然治癒できるらしい。
魂を張り付けた部分を治ったと錯覚すれば、記憶が取り戻される可能性があるとのこと。
「はい、いつでもいけます」
「今回取り戻されるのは、恐らくあなたが最も忘れたくない、大事に思う記憶です。全てが急に戻るわけじゃありません。いいですね?」
先生の合図を待って、自身の身体に奇跡を行使する。
それは、自らの魔力で以て、自身の身体の内側を切り開くような感覚だった。
不快感はない。ただ、余りにも人間から逸脱した行為で抵抗感を覚える。
自らの魂。
それを自覚した途端、先生の言っていた言葉の意味を理解した。
歪な形のそれはまるで脈打つ心臓に近い。違うのは、本来
剥き出しで傷ついた心臓。
それが、自分の魂に最もふさわしい言葉だった。
自分の魂の傷つき具合にドン引きはしたが、今はどうでもいい。
俺は再度神経を研ぎ澄まして集中すれば、自らの魂の内側を切り開いていく。
肉体が、魂が、与えられる情報全てがこの行為を拒絶していたが、それでも俺は記憶を取り戻す為に。
この癒えず、満たされない心の在り処を知る為に、切り開き、それを強引に切り分ける。
切り分けた途端、強い魔力の流れ。先生の魔力が身体を満たし、干渉する為の土壌を整えていく。
魔法では魂に干渉できないと先生は言っていたが、自らのその不可能を可能にしてゆく。
魔法により、切り離された一部が強引に引き伸ばされる。
先生の魔法が終わった瞬間、勢いよく自らの魂へと覆うように張り付けた。
「はっ……はあ……キツかった……」
「お疲れ様でした」
マジで死ぬかと思った。
こう、具体的には水中で無限に息を止めるのに近い感じだった。
魂に干渉する瞬間の激痛もキツかったが、その後も奇跡を維持しなければいけない方がヤバかった。
「あれ……?」
というか、この手術もとい奇跡が終わったのに記憶が戻る感じがない。
「そんなすぐには戻りませんよ。要は張り付けた部分が馴染む必要があるわけですから」
あ、そういう。まあ失敗したわけではないならそれでいい。
「今日の夜にでも夢に見るんじゃないでしょうか?」
自分の過去を夢に……会いたかった人のことも思い出せるだろうか。
以前の流星女の話も気になる。いずれ全ての記憶を取り戻せれば良いのだが。
「あなたはホッとしていますが、私は正直不安ですよ。記憶を取り戻した途端、ここを出ていく気がして」
正直、そればかりは否定できない。
自分を突き動かすこの衝動の正体を暴いた時、それにまだ意味があったなら、自分は止まれない気がする。
「愛弟子が出ていってしまうかもしれないのに、その手伝いをしてあげるなんて、私ってなんてできた女なんでしょう」
よよよと泣き真似をしながら、こちらをからかってくる。
正直、この件は自分は先生に譲歩できる部分がないので申し訳なさしかない。
「あぁ、もう。そんな困った顔しないでください、冗談ですから。冗談」
困り顔になった先生はよしよしと少し手を伸ばして頭を撫でてくる。
気がつけば、去年の冬で同じ程度だった身長を僅かではあるが抜いてしまった。
「もし出ていくとなったら、付いてきてはくれないんですか?」
自分勝手な話だと思う。でも、先生は閉じた世界で止まったまま生きるより、外の世界で生きた方がきっと幸せだ。それは、過去の幸せそうな思い出話を聞いたり、先生が人と交流する姿を見る度に過る。
「勇気がないんです」
先生はまたいつかのように帽子で視線を遮ろうとして、俺はそれを人差し指で縁を押し上げた。
「俺が一緒でもですか?」
「はい。情けなくて、あなたには合わせる顔もありません」
申し訳なく、悲しそうに先生は顔を伏せる。
「あなたと時間を刻むのは構いません。でも、外の世界に馴染んで、変わることは、怖いんです」
恐怖が滲んだ声色で、それは偽りない本心だとわかる。
そっと伸ばされた手が、俺の両手を握った。
微かに汗ばんだ先生のしなやかな手が両手を包む。
「……嫌な言い方ですが、最初にあなたに見初められた人が羨ましいですね」
微かな迷いを孕んだ手つきで、先生は俺の身体に手を回した。
俺も少しだけ抱きしめ返すか迷ってから、優しく抱きしめ返した。
「私が最初の相手だったら、私だけを好きでいてくださいって、あなたの心を独り占めにできたのに」
聞いているだけでむず痒くなる言葉だった。そして、頷けない状況の自分が憎い。
「今日がきっと最後です。あなたが過去を思い出せば、明日からは違うあなたになってしまうから」
どくん、どくんと、高鳴る心臓の音は、自分のものか先生のものかわからなかった。
でも、緊張したり恥ずかしがっているのが自分だけではないことはよくわかる。
「これからもあなたを独り占めできないなら、せめて今日までのあなたを独り占めにさせてください」
切なさに満ちた声に胸を締め付けられた。
別に、今の先生へ向ける感情が変わるわけではない。
それでも、記憶が戻れば間違いなく過去を何も知らない今の状態とは変わってしまう。
「答えることができないのに、無遠慮に好意をぶつけるのも、ズルいですよ」
「あなたが無責任になってくれれば良いんですよ」
甘い誘惑だけれど、それはダメだ。
無責任にここで先生の期待に沿う言葉を選べば、記憶を取り戻して絶対的な目標が生まれた時に返って傷つけてしまう。そうなれば、俺はなんで安易な言葉を返したのかと後悔する。
「嘘ですよ」
背中に回されていた手が離され、今度は頬を撫でられる。
熱っぽい先生の指先がくすぐったい。
「そうやって私を想って、言葉を、行動を選んでくれるから余計に欲しいと思ってしまう。これは私のわがままなんです」
優しく袖を引かれて、先生の寝室へと招かれる。
殆ど入ったことのない寝室は、薬草や植物の香りではなく甘い花の香りがした。
「先生?」
「性格の悪い女ですみません。でも、私って結構あなたの困っている顔を見るのが好きみたいです」
楽しいよりも、愉しいという言葉が似合うような妖艶な笑みだった。
「今日が最後ですから。どうか私にいっぱい困らされてください」
魔法で強引にベッドの上へと押し倒されて、流石に危機感を覚える。
でも、剣は手元にないし奇跡で彼女を傷つける気にもなれない。
「これは、流石に駄目です」
「……?」
俺の制止に先生はきょとんとした表情を浮かべる。
「一緒に寝るだけですよ」
完全にそういうことだと勘違いしていたが、この人は三大欲求がないんだった。
「一体何を考えてたんですかね……?あ、でも今日が最後ですから、一緒に寝てほしいのは本当ですよ。まあ、あなたが私にしたいことがあるなら、それでも構いませんが」
くすっと、妖美な笑みにドキリとしてしまう。
その後は特に何もなく、一緒に本を読んだりしてただ眠るだけだった。
童貞をからかうのもほどほどにしてほしい。
窓から差し込む薄い月明かり。
照らされた寝顔を、頬を突きながら眺める。
もうすぐ十四歳になる、あどけなさの残る可愛らしい寝顔。
「あなたが何処かへ行ってしまうとしても、私の心はずっとあなたに囚われたままなんですから、ズルい人です」
これまで終わりに向かう為だけだった日々は、彼のせいで彩られてしまった。
深い底にあった心を救われたこの想いは、どんな形で、どんな言葉でも表しきれない。
「あなたが悪いんですよ。あなたのせいです」
本当はどこにも行けない様に縛り付けてしまいたい。
ひとりにならないよう、側においておきたい。
それでも、あなたが私の優しさを信じるから、笑って手放すしかない。
だから、これは私が差し出す優しさの代償です。
大きな帽子が月光も遮る中で、身勝手な契をひとつ交わす。
夢を見る。意識が薄れて、無意識の中、そのさらに深い場所へと落ちる。
魂に刻まれた、忘れ難い記憶の欠片達。
情報として再生されるのとは違う。はっきりと思い出す。
『あなた、私と剣を賭けて勝負しなさい』
流れ星のような、金の髪を靡かせた少女との出会い。
『誰でもいいんだ……ただ、忘れられたくないの』
『
誕生日に見せてくれた。雪みたいに儚い、崩れた彼女の素顔。
そして、忘れてはいけなかったあの言葉を思い出す。
『ねぇ、待ってる!私ずっと待ってる!未来で、君のこと……何年でも、何十年でも、おばあちゃんになっても、待ってるから……!』
『私、未来で待ってるから!』
殆ど意識のない中で、最後まで残された聴覚に確かに届いた声だった。
理由のわからなかった焦燥感の正体が暴かれる。
きっと今も彼女はあの言葉通りに待ち続けている。
名前も思い出も思い出せない。
それでも、会いに行かないと行けない。
もしかすれば、死んでいるかもしれない。
だが、会いに行かなければ、永遠に待たせ続けたままだ。
魂に焼き付いた感情だけが残されて、その焦燥感に突き動かされてきた。
理由が、意味が、わかってしまった。
確かに、先生の危惧していた通りだ。
行き先を失っていたはずの感情が、行き先を見つけてしまった。
これを知ってしまった以上は、立ち止まり続ける事はできない。
記憶の中の少女に、あの水色髪の少女に、会いに行かなければ行けない。
取り戻せた記憶は三つのはずだった。
しかし、不思議と夢から覚める事はない。
意識はさらに深いまどろみへと、
それは自分自身の視点でありながらまるで当事者としての感覚がない。
記憶も、経験も、自分の中に存在しないはずのものだった。
自分のものではない記憶が、断片的に流れ込んでくる
荒廃した戦場、無数の剣が突き立てられた荒野で、先ほどの流れ星を思わせる金髪の少女と対峙していた。ただ、先程と違うのは彼女の髪の先が黒く侵食されて、異様な存在感を放っていることだ。
「ごめん……待たせたな。今度こそ、終わらせよう」
自分が剣を抜いて、対峙する。
知らない。わからない。知らないはずなのに、
こうして彼女と
そして、その度に殺されて、生まれ変わり、また挑んだ。
「ただあなたを取り戻したいだけだったのに……なんでこうなったのかしらね」
繰り広げられた戦いは人知の及ばぬもの。
互いに先の先を読み、わずかな無駄もない。
空間を断ち切るような超越した剣技。神域の戦いだった。
記憶の中の自分は剣術、魔法、奇跡、呪術、全てを異常なレベルで使いこなしている。
それなのに、少女はたったひと振りの剣で渡り合っていた。
自分も少女も、傷つけ合いながら笑っている。
無数の剣戟を交わしながら、それが互いにとっての愛の言葉のように。
長い戦いの末、少女の手から剣が零れ落ちて、首に剣が添えられた。
「遅くなって、ごめん」
「……もう、いいのよ。こうやって、追いついてくれたから。いままで、いっぱい苦しめて、ごめんなさい」
泣いている。記憶の中の自分は大粒の涙を流していた。
「大好きよ」
「あぁ……愛してる」
記憶は厄災に堕ちた、かつて愛した少女を自らの手にかけたところで終わった。
次の記憶は、始まりこそは穏やかなものだった。
小さな山小屋で、あの水色髪の少女と二人で暮らしている。
幸せな生活の断片。けれど、漂う不穏の影だけが鮮明に映される。
日に日に悪化する情勢と、聞こえてくる魔物の活発化。
魔神の復活に、東の大陸では新たな魔王の誕生が囁かれた。
「本当に、これでよかったのかな……」
少女は後悔が滲んだ表情で、不安を漏らした。
「俺は、お前が生きてくれればそれでいいよ」
けれど、記憶の中の自分は目の前の幸せさえ守れれば構わないと嘯いた。
「うん。私も、君が生きて私の隣りにいてくれれば、それでいいんだけどね」
必死に現実から目を逸らして、互いだけを見つめていた。
例え今が幸せでも、向き合わずに過ごせば、喪った後にどうなるかわかってたはずなのに。
「あの時私を強引に連れ出してくれて、ありがとう。もっと色々できたのかもって後悔はあるよ、色んな事を中途半端に逃げ出したから……でも、これだけは本当、今こうして君の隣で生きてることが」
最初に見た記憶の時と同じ、何の偽りもない笑顔。
「ほんっとうに幸せだよ」
あぁ、違うな。この笑顔を見て自分の考えがわかってしまった。
どうなるかわかってても、この笑顔の為に俺は全てから逃げることを選んだんだ。
次の記憶は、酷くノイズがかかっていて、深く認識できない。
顔にはモザイクのようなものがかかり、言葉も微かにしか聞き取れない。
それでも、感情だけを魂が覚えている。
深い後悔と苦痛、向き合えなかった。重みから逃げた。
魔王になった。なってしまった少女が泣き笑う。
黒い長髪を振り乱しながら、怨嗟を纏う黒い大鎌を力強く握りしめて。
「ボクは、信じてた。ずっとずっと信じてた」
月明かりのない夜よりも暗い、深淵にも似た漆黒の瞳に憤怒が灯る。
「それなのに、お前にさえボクの存在が否定されるなら……ボクも
愛憎入り混じった瞳に、記憶の中の自分は後悔を載せて剣で応えた。
全ての記憶の中で、この記憶が最も強い悲しみを感じた。
知らない記憶で混乱続きなのに、まだこの記憶の濁流は終わらない。
けれど、最後は少しだけ安心して見れるものだった。
激しい後悔の感情も、苦しみも湧いては来ない。
気になるのは、周囲の家具や小物に大きな技術の進歩を感じられること。
目の前には、満月を眺めるいつもと変わらない先生の姿がある。
「
「それ、大分昔に俺の元の世界での意味教えたよな?」
こちらの指摘にニコリと微笑んで返す姿は、本当に今と同じだ。
「愛の告白を『月が綺麗ですね』と訳するなんて、素敵ですよね。それで、お返事はいただけないんですか?」
「覚悟が揺れそうになるんだよ……」
どうやら、この夢の中の自分と先生は付き合っているらしい。
よく知っている人との記憶だからこそ、むず痒い気持ちになる。
「乙女心がわかってないですね、会えなくなるからこそですよ。この世界のあなたを、最後に独り占めしておきたいんです」
あぁ、先生はいつも言うことは変わらない。
「きっと次も変わらず好きになるから……これが返事じゃダメか?」
「ふふっ、ダメです」
仕草も言動も変わらない。違うのは、幸せな感情を隠そうともしない笑顔。
「すべてが過去に戻っても、きっと私があなたの初めての女になれないのは嫌ですね」
「それは……」
言い淀んで困る姿に彼女はまた笑みを深めた。
「今度は私だけを選んでくれますよね?だって、こんなに末永く付き添ってあげたのですから」
自分が頷けない事をわかった上での言葉。つまり、困らせる為だけのもの。
でも、そこに微かな期待が込められてるのもわかる。
「しょうがない人ですね。また、必ず幸せにしてください」
背伸びをして、口付けをされる。
花が咲いたみたいに綺麗な笑顔だった。
「それで、許してあげます」
「わかった……約束する」
そこで、ようやく長い長い記憶を辿る旅が終りを迎える。
今度こそ、意識が深い闇の中へと堕ちていった。
目が覚めたのは夜だと、窓から差し込む明かりの薄暗さで気づいた。
最初に思い出した三つの記憶は、間違いなく過去の自分のものだと断言できる。
あれらは、間違いなく自分が忘れてしまった記憶の断片だ。
取り戻したかった記憶、誰に会いたかったのかもはっきりした。
だが、後から思い出したあれらは何だ?
自分のことのはずなのに、自分のことだと思えない。
いや、そもそも先生とあんな関係になった覚えはない。
あの流星女ともあんな風に殺し合う関係性じゃないはずだ。
先生との記憶は、まあ未来と言えば納得できる範疇だ。
あの大鎌を持った黒髪の少女のことは本当にわからない。
自分の記憶なのに誰よその女状態である。
冗談をかましてる余裕がないほど、頭の中が混乱する。
まだ夜なのは寝ている途中に目が覚めたのか。
しかし、同じベッドで眠ったはずの先生の姿がない。
頭が混乱して、妙な不安に駆り立てられる。
あの記憶は本当に自分の記憶なのか?
最初に思い出した記憶も、実は自分のものじゃないんじゃないのか?
自分で自分を信じられない。
夜の先の見えない暗闇が、なおさら不安を加速させる。
一刻も早く約束を果たさなければいけないのに。
頭が混乱したまま先生の姿を探すと、バルコニーで月を眺める先生の姿があった。
月光に照らされた白い髪が、仄かに薄明かりを反射している。
「起きましたか?丸一日寝るなんて、お寝坊さんですね」
先程まで頭の中でグルグルと回っていた思考は、先生の声を聞けば驚くほど落ち着いた。
そうか、その日の夜の間に起きたんじゃなくて丸一日寝てたのか。
「あの、色々と話したいことが」
情報量が多すぎて、話したいこと沢山ある。
「焦らなくても、ちゃんと聞きますよ。それより見てください、今日は一段と───」
先生は視線を空へと向けて、微笑んだ。
言われて見上げれば、夜の闇にくっきりと浮かぶ綺麗な満月だった。
「月が綺麗ですね」
今の先生の姿とさっきの記憶の中の姿が、重なった気がした。