※作者も投稿後に推敲するので物語に少しの変更がある可能性があります。
少年が感情の再発露を呈してから少し。精神医学の知識をふんだんに修得したために、彼も一介の精神科医に匹敵するほどの知識と技術を内包していた。
「先生、結局、ぼくの『不可逆性不幸不全症』はどうなったんですか。悪化しているとは言っていましたけど」
「あぁ、それね。きみは気にしなくてもいいよ。そのうち分かるから」
その言い方に、少年はわずかながらではあるが不満を覚えた。大抵、彼がそのうち分かるとか気にしなくてもいいというときは、どうでも良くないときだ。あとから重大なことが発覚して、なんてことを、と思わされる。
そして、そう思うようになってしまったとも言える。あの時以来、少しずつ、だが着実に少年には感情が見えてきつつある。不幸を愛する少年だからこそ、その病の悪化は喜ばしいはずなのだが、同時に焦りに近いような感情もあった。そう、
副作用ではなく、副産物。その言葉回しに違和感を抱きつつも、少年は篠宮の後ろの方に立つ。今日は、一人の特殊な症状の患者が来ているらしい。
「一筆茜さんだね。僕は篠宮、篠宮先生とでも呼んでくれ」
その相手は、心が読める少女──一筆。その面持ちはとても暗いものだった。篠宮の目の前に座っているが、全く視線を合わせようとしない。
「……最近、変な声が聞こえるんです。人の声が二重になって聞こえると言うか、その人の肉声とは別で、同じ声音の、同じ口調のもう一つの声が聞こえると言うか」
「へぇ、じゃあ、僕はどう? なにか聞こえる?」
「──はい。なんか、幻聴関連の精神疾患を口にしている……んですかね。聞いたことがあるいろんな精神病の名前が聞こえます」
目も、合わせてすらいない。声だけで、一筆は目の前の男の心の声を読み取った。そして、篠宮の推理も的確だった。すぐに、それが心の声を読んでいると判断する。
「どうやら心の声を読んでいるらしい。僕が考えていることが、そのままきみに聞こえているみたいだね」
「あぁ……そうですか。私があんなことを望んでしまったばかりに……」
ちらと、篠宮の後ろ盗み見るように視線を送っている少年と少女の視線がかちあった。ほんのわずか、驚いたように少女が目を見開くと、すぐに篠宮から声がかかる。
「心の声か……ちなみに、いつから? もしかしてスピリチュアルなものだったりはしない? ほら、いるじゃない。犬と会話できる人とか、人の未来を見通す占い師とか」
「いえ……かなり最近です。つい、二週間ほど前だと思います。その頃から、やたらとまわりがうるさくなってきたので」
「なら精神疾患の一種で間違いないな」
篠宮は、確信を持った声で言い切った。精神病──つい最近認められたれっきとした人の病だ。ストレス社会で、人間の心が限界を迎えてしまったときに陥る病。
この世に超能力は存在しない。ここがフィクションの世界ならいざ知らず、科学と論理が支配する現実の世界だ。大抵のことは、説明がつく。それが未解明の人の心であろうと、元をたどれば人間の脳が発する脳内物質の化学反応。つまり、論理的な説明がつく。極めて理性的で、冷静な説明が、この心を読めるという超常的な力を支配できるはずなのだ。
その後は、篠宮と少女の対談が続いた。心が読めるという少女だからか、心を開こうとはしなかった。あくまで篠宮は医者であり、彼女は患者の一人だ。家族のように、あるいは親友のように親身になることは難しい。それを、彼女には見抜かれてしまう。簡単な質問には答えるが、核心に迫るようなものには閉口していた。篠宮が信頼に足る人間ではないと悟ったのだろう。
……いや、それは、当たり前なのかもしれない。
背後で立ち見をしていた少年はそう考察した。なんせ、あいてはあの篠宮だ。少年を平気で利用し、果てには涼しい顔で彼を川に突き落とすことができる紛れもない狂人だ。篠宮は今何を考えているのだろうか。なんとなく、少年はその答えを掴んでいた。『不可逆性不幸不全症』という極めて稀有な病を持った少年を喜んで受け入れ利用したのだ。彼の頭には、きっと──
そうこうしているうちに、少女と篠宮の診察は終わった。話が進まなくなってしまったので、その日は一時切り上げということになったのだ。
「あの子は利用できる」
家につくなり、篠宮は少年にそういった。
「心を読める能力か……あれは利用価値があるね。うまく使えたなら、精神死を再現できるかもしれない」
「どうでしょうね。そもそもあの病の再現性がないですよ。ほら、ぼくのときみたいに、どうやってもその病を他人に発症させることができないってことになるのかも」
「それなんだよねぇ……さらにめんどくさいのは、まだ彼女の病が精神死に至るほど強力なものかすらわかっていないということだよ。これが、きみのときみたいにわかりきっていたのならもう少しやる気が出るんだけどな」
ぼすん、と音を立てながら篠宮は椅子に腰を落とした。荷物はそのあたりに乱雑に投げられている。いつものことなので、少年はその荷物を適当に彼の部屋に戻す。
「そもそも、原因がわからないじゃないですか。心が読める病だなんて……ぼくよりよっぽど非科学的なものに見えますけど」
「僕としてはきみの方がよっぽどファンタジーだよ。死体が動いて喋るなんて、まさか現実で見ることになるとは思わなかった」
「じゃあ、あの病の原因を掴んでいるんですか?」
「もちろん。もうバッチリだよ。治療法も思いついてはいるけど、流石にちょっともったいないな。これで「はい完治~めでたしめでたし」ってのはいかがなものか」
「あなたそれでも医者ですか」
「あぁ、残念ながらね」
彼は椅子でギシギシと軋ませながら体を揺らしていた。深く考え込むかのようにして、ずっと天井の一点を見つめている。あの病の利用方法を考えているのだろう。そのうちに、少年は夕食の準備を始める。ここに居着いてから長いので、元々一人暮らしの篠宮よりもずっと料理は上手になっていた。
「きみは、あの病をどう考えてる?」
「どうって……ぼくには原因すらわかっていないんですよ。あれは、超能力とかそういう類のものにしか見えてないですって」
「本当に?」
その念押しは、確信からくるものだった。『不可逆性不幸不全症』を患い、心の死を通して空白の心を持った少年だ。その彼が、同じく特殊な疾患の少女を目にして、何も抱かないわけがない。
そして、その予測は見事にあたっている。
「……はぁ、まぁ、そうですね。第一印象としては、針山でした」
「針山?」
「えぇ、警戒心とか猜疑心。とにかく、他人に対する不信感が常人のそれじゃない」
「なんだ、もう大体わかってるじゃない」
「大体わかってるって……」
はっと、そこで何かを思いついたかのように少年は声を出した。一筆と言う少女は、確実に幻聴を聞いていることは間違いない。篠宮や少年が聞こえていない声が聞こえているのだ。超能力的なものでないのなら、幻聴にほかならない。なら、残りは心の幻聴が聞こえてしまう理由だが──
「……あぁ、なんだ、そういうことですか。いや、でもありえるんですか? それこそファンタジーみたいですけど」
「そりゃそうだけどね。そんなことを言ったらきみもそのイレギュラーの一人だよ」
篠宮は、おもむろに椅子から立ち上がった。
「さっきも言っただろ。きみの方がよっぽどファンタジーだって」
「じゃあやっぱり……あの人の疾患は……」
ぱん、と大きく音を立てて篠宮はその先を制した。それよりも聞きたいことがあると言ったように、急かすようにして少年に詰め寄る。
「これで、彼女の病の構造はある程度わかっただろう。だから一緒に考えようよ、あの珍しい病の利用方法をさ」
「いやいや……構造がわかったとしても関係ないですよ。まだ先生だってあの病のことほとんどわからないでしょう」
「え? 病の原因以外になにか知る必要ある?」
本当にこれでも精神科医なのか、そんなことを思いながら、少年は小さくため息をついてから軽く説明をした。最初の頃と比べたら、ずいぶん人間味のあふれるようになったものだ。
「例えばほら……その生い立ちとかその人の人生観とか」
「そこまで深く知る必要ないだろう。構造と原因がわかるなら、その人そのものにはあまり価値はない」
「そうとも限りませんよ。ぼくのときみたいに、ぼく自身の能力や背景で再現性の有無が左右されるかもしれませんし」
「むぅ……そう言われればたしかにそうだな……仕方ない。また後日あの子に話を詳しく訊くとしよう」
「あぁ、そのことなんですけど」
少年は、また空虚な目を彼に向けた。まさしく動く死体。一条の光すら入らない、死せる者の瞳。最近はどういうわけか彼に感情が宿りつつあるから忘れていたが、やはり彼は紛れもない理外の化け物。
そして、だからこそ期待できる。
「──今度、あの子と話すのはぼくにしてくれませんか」
「ダメだ」
その提案を、篠宮はバッサリと切り捨てた。あまりにもきつい言い方だったので、少年は目を大きく見開いている。今まで、ここまで篠宮が感情をあらわにさせることはすくなかった。よくいえば打算的、悪く言えば情のない人だ。少年の提案も、さして興味がないのかこれまでならば二つ返事で通していただろう。だが、今回は違う。
「魅力的な提案ではある。精神の死体たるきみなら、彼女の中から何かを見いだせるかもしれない」
「……なら」
「ダメダメ。悪いけど、僕も僕できみに仕掛けていることがある。その仕掛けがちゃあんと成就するまでは他人との深い接触はさせたくない」
「──え? そんな話初耳なんですけど」
「言ってなかったからね。だけど、別に隠したいわけでもない。そのうち絶対にわかるんだから。そんでもって、その時きみは絶対に不幸になる。その時のサプライズになると思って何も聞かずに、ここは僕の言う事を聞いてくれよ? 必ず、あの少女と対話するのは僕だ。その後ろできみは彼女を観察してくれればいい。もしもなにか妙案が思いついたのなら、そのときはまた僕に言ってくれ」
結局、読心少女の対応は篠宮になるということでその日以来彼女が話に上がることもなかった。──彼女が、篠宮の下に現れなくなったのだ。彼を不審に思ったのかもしれない。はじめから病の利用について考えていた男だ。そんな相手に、自分の身を預けられるわけもないだろう。そう思っていた頃だった。彼女が、また篠宮のところへやってきたのだ。
「やぁ、久しぶりだね。最近顔を見せてくれなかったけど、どうかした?」
「あなたは、信用ならないから」
「ははぁ、それはそれは。じゃあ、またここに来たのはただの気まぐれ?」
「原因と治療法を思いついていたのも、あなただけだったから。他のところは、わからないでおしまい」
「ははは、使えないのが多いと大変だね」
心が読める少女だからこそ、そこまでを見抜いてしまっている。篠宮がどういう人間なのか、そして、どうやって彼女をみているのか。あくまで患者ではなく、稀有な病を保持した興味深い素材。彼の視点では、それ以上でも以下でもない。
──だから。
「だから、私をいくらでも利用していい。けど、最後には治すと誓って」
「患者からその申し出をしてくれるとはね。願ったりかなったりだ」
それからの少女は、とても協力的だったと言える。篠宮の質問に従順に答えるのはもちろん、聞かれていない答えすら漏らし始める。症状についての詳細──読心の有効範囲、条件、声量など。症状発症の原因たる事件──中学校での投身自殺の詳細。その事件を境目に、症状を除く彼女自身の状態にどうお変化をもたらしたのか──心境はどうねじ曲がったのか。どうやって狂ったのか。人生観と死生観の土台はどう崩れたのか。
篠宮は、事細かに聞き、あるいは訊く前には少女が回答していた。そう、彼女自身が答えたくないような質問は、彼女が先読みして回答している。わざわざ他人にそれを掘り返されたくないから。蒸し返されたくないから。この──病の利用が念頭にある男に訊かれて話したくないから。
篠宮の質問は、尋問は、同時にその程度の詳細を探っていた。その頭の片隅にあるのは、少年の姿。彼はどんな情報を欲しているのか。彼にどのような情報を与えてやれば、何かをひらめくことができるのか。彼女の病の、最大の利用方法を彼に提示してもらうために。
「──はー、そんなことが。ふむふむ、そりゃあ、まぁ、すごいな」
「慰めの言葉とかをかけるところでしょうに」
「きみにはそんな言葉意味ないだろう」
「よくわかってる。もしも薄っぺらい慰み言葉を吐いてたら殴りかかってた」
篠宮が興味を示し、少女が最も長く話したのが中学での事件だった。落命少女の投身自殺事件。昇降口直上から、コンクリートの地面に向かって自由落下。第一発見者は一筆。
「一番つらかったのは、その小鳥遊さんの投身自殺?」
「えぇ、もちろん。それ以外にない。小鳥遊は、生きてなくちゃいけなかった。私のことなんて、忘れてくれても良かった。だから、私は小鳥遊のことを忘れない。ずっと、私の記憶で生かし続ける。あの悲劇もろともね」
なにか含みのある言い方だったが、篠宮にはそれは些末な問題だった。いちいち、そんな小さな違和感までを拾っていたら延々と質問が繰り返される羽目になる。そうなれば、ただでさえ不安定な一筆の精神状態もどうなるかわかったものではない。
「次」とだけ言って篠宮は引き出しを漁っていた。が、きつい口調で一筆がそれを止める。
「やめて。鏡は絶対に見ない」
「ってことは自分の心の声も読めるのか。予想通りだ」
「わかっててやろうとしたの」
「ごめんね。ただ、確認のためだったんだ。気を悪くしたのなら謝るよ」
一通り検査を終えると、その結果を全て彼はまとめる。恐ろしいほど丁寧に、いやらしいほど詳細に。その結果は、治療のためなのか利用のためなのか。残念ながら、少女には見えてしまっていた。
「……気持ちが悪い」
「ん? あぁ、僕の思考を読んでいるからか。あまり見ないほうがいいよ。常人と呼ぶには色々と欠如している自覚があるからね」
「見ないで心の声が聞こえなくなるなら、わざわざここには来てない」
「それもそうだ……んーけれどまぁ、対策はできるかもね」
クスクスと笑っていた篠宮の顔から、表情が消えた。口が一文字になり、無表情に──いや、ほんの少しだけ彼の口の端は上がっているだろうか。本当に少し。よく観察すればわかる。無表情と言うよりも、まるで──
「……聞こえなくなった」
「単純な話だよ~、思考を、空にすればいいからね~、ただ~、こうすると、僕もうまく喋れないんだ~」
「思考を空にするって、そう簡単じゃないと思うけれど」
「それは~」
「普通に喋って」
「それは、お手本が同居人にいるからね。いやでもそういうのは真似られるんだよ」
ちら、と二人揃って篠宮の背後に隠れている少年に視線を飛ばした。
「まぁ、きみの症状の対策はこんなもんでもいいでしょ。そのうち僕も慣れてくるよ。思考を空にして喋るくらい、訓練すれば造作もない」
「はぁ、そうですか。じゃあ、私はこれで」
「もう帰るのかい」
「あなたが聞きたいことはもう全部答えたでしょう」
「ははは、それもそうだ。よわったな。やっぱり、きみに隠し事はできないらしい」
心を読まれるとわかっていたくせに。それとも、それをわかっているうえで思考を見せたのだろうか。思考を空にできるくらいだ。その、空の思考に何かを上書きすれば一筆が垣間見る情報を操作することもできる。疑心暗鬼になりながら、彼女は篠宮を睨んだ。
「僕は正直者だぜ」
見透かしたように、彼はそう答えた。居心地が悪くなったのか、一筆は足早と退出する。彼女が完全に姿を消し、彼女の症状の有効範囲から出たであろうことも確認すると篠宮は背後の少年に声をかけた。
「どう? きみがほしそうな情報もろともいろいろすっぱ抜いたけど」
「……ホント、患者に対するデリカシーとかはないんですか」
「情報提供に全面協力すると言ったのは彼女の方だ」
「利用してもいいから治すことであって、全面協力とは言ってないですけど」
「細かいことはいいんだよ。それで? どう? あの子の病は利用できそう?」
その質問に、少年は長考する。彼の欲した”情報”は全て与えた。彼女の背景、病の原因、人生観。おそらく、すでに何かを思いついている。だって彼は──すでに壊れている。だから、倫理観や常識には縛られない存在であるはずなのだ。どんな畜生な手段でも、彼なら躊躇せず発想できる。
きっと、今悩んでいるのはそれを口に出すべきか否か。小さくだが、本当に、非常に小さく篠宮は舌打ちをした。感情の再発露は彼の計算の内。だがその計算の中に、再発露した感情、あるいは良心による躊躇が発生するとは考えなかった。
彼の本質。死体である思考はすでに思いついている。外面である人間的な部分が、それを抑え込んでしまっていた。
「遠慮はしないで。いっただろう。あの子の病は利用して、治療する。逆に言えば、利用しない限り僕は治療しない。きみが彼女に何か後ろめたさを感じているのなら、それは間違いだ。助けるつもりで思ったことは言っていい」
その言葉の圧に負けたのか、少年はぽつりぽつりと話し始めた。
「……まず、あの人──一筆さんの病の根幹にあるのは、小鳥遊という少女の自殺ですよね」
そう、彼女の病の明確なトリガーはそれだ。彼女自身が吐露した、悲惨な事件。その事件を悲惨と感じられるほど、篠宮も少年も心が常識的ではないが、そう称するほかあるまい。そして、彼女自身が明言したのだ。それが、一番つらい事件であると。
「そのショッキングな事件をきっかけに色々な精神疾患を抱えてしまっていそうですけど──それだけだ。先生が目標とするような、精神の死には程遠い」
「やっぱり……」
「いえ、幸い、彼女にはあの症状がある。人の、心を読む症状。あれを利用すれば、精神の死は再現できるかもしれない」
少年の言葉に、篠宮は目を輝かせた。
「どうやるんだい?」
「あの人、鏡を見ることを嫌いましたよね。まぁ、それは当たり前といえば当たり前でしょう。自分が考えていることより奥の深層心理を見て、自分の認識とかけ離れた浅ましい欲望なんかが見えたら気持ちが悪くてたまったもんじゃないでしょうし」
「それを、彼女にやると?」
「いいえ、彼女に読み取ってもらうのは事件当時の記憶──そこに登場する人物全員です」
その言葉に、篠宮は初めて冷や汗をかいた。脊髄を直接なぶられるような悪寒。篠宮自身とて、常識から外れている人間である自覚はあったが、少年はさらにその上を行く。
事件当時の記憶に登場する人物の読心──つまり、
彼女は明確に述べている。テレビや雑誌に載っている人物でも、その瞬間の心象を読み取れる。なら、映像記録である記憶でもそれは適応される。なるほど筋が通っている。だから、彼女にわざわざ最悪たる中学の一連の事件を想起させ読心させることで、リアルタイムよりも没入感があり、当人たちよりもその人のことを理解し、親友──自殺した小鳥遊の心の変遷すら詳細に読み取ることができる。
拷問。ただの、拷問だ。最悪の記憶を、さらに詳細に緻密にリアリティをもって再体験させる。しかも、彼女の力は回数制限がない。無制限に当時のことを思い出させれば、短期間で効率的に精神にダメージを与えることができる。
「ただ、あの人はその時のことを進んで思い出すことはないでしょう。鏡を一瞥もしなかったくらいですし、徹底して当時のことを避けているように見えます」
精神医学でも、それは説明のできることだ。トラウマ体験に対して、回避行動を取るようになる。
「僕らが鏡を無理やり見せても無駄でしょうね。思いっきり割られるオチが見えます」
「そう、そこだよ。どうやって彼女にそのトラウマを想起させればいいんだい。とても難しくてかなわなそうだけれど……」
「それについてもある程度アイデアがあります」
頼もしいものだ。あるいは、悪魔的といえばよいのだろうか。少年は、人の精神を効率的に破壊するすべを直感で理解している。相手が最も嫌がるだろうことを、的確に見抜くことができる。一種の才能とも呼べるような、最悪の観察眼だ。
「そもそも、精神の死を再現するなら、鏡を見なければならないなんて条件はどうにかしてなくすべきだ。理想的なのは、どんな状況、どんなときでもトラウマのことを想起して読心してしまうような状態を作り上げること」
すなわち、と少年は一息ついた。
「──もう一人の彼女を作りましょうよ」
その提案は、あっけらかんと繰り出された。
「もう一人って……いや、そうか。解離性を誘発させれば、あるいは」
「えぇ、その程度、ぼくと先生なら可能ですよね。そして、彼女の解離性を誘発して、もう一つの視点を確保できたのなら」
「常に自分自身を読心することができる」
──過去の事例、とある犯罪者のこと。かの者は、幼少期の経験から人格に関する精神疾患を患っていたという。その症状を詳細に何に分類し、名称をつけるのかは定かではない。だが、その者は自分が幼女を犯しているときの状況を以下のように語る。
……自分が、彼女を犯しているのを後ろから見ていた。その光景を、ただただ眺めることしかできず、善悪を判断することもできず。ある種の拷問かのように見せられていた。
彼の視点は、その時肉体にはなかった。意識だけが、独り歩きしている。こういう事例は解離症などで精神医学的に説明がつくのだが、それを少年は利用しようと考えた。そう、一筆に
鏡を見せてやれないのなら、常に自分自身を見つめてしまうようになってしまえばいい。常に自分自身に自分で後ろ指を指せばいい。そうすれば、おおよそすべての条件を突破できる。彼女には無条件に自分自身を見せることができるし、常時というのもクリアーしている。
幸いというべきか、最悪というべきか。彼女の精神状態は現在とても不安定で、解離症の傾向は見られている。単純な話だ。ちょっと、彼女の認識をいじくればいい。そう、例えば彼女に本を書かせてみるとか。治療の一環と称して、当時のことを三人称視点で書かせてみるとか。そうすれば、彼女は自分を俯瞰してみる意識を獲得する。そういう小さな亀裂をたくさん彼女につけることで、きっとそれはなされてしまう。
「騙そうと思えば僕はいくらでも彼女を騙せるしね。きみのおかげで、自分の思考を空白にする手段を得た。それに、表層だけなら思考の上書きも自分でできるだろうし」
「最悪の場合は、ぼくを使ってください」
「そうだね。この状況だ、それも検討することにしよう」
さしあたっては、彼女にそういう日記を、あるいは物語を書かせることが先決だ。当時のことを記録として残したいだとか、あるいは治療の一環として必要な行為だとか。そういう口からでまかせを吹いていればいい。そういうことは篠宮の得意分野だ。
大切なのは、当時のことを思い出させること。記憶を思い出させてやれば、必ず彼女はその記憶の中の人物の心を読む。マトリョーシカだ。記憶の中の心。それを、読み取る。今から彼らは一人の少女のルービックキューブを壊すのだ。キューブを複製して、もう一つをばらばらにする。丁寧にキューブを一つ一つ外すのではない。勝手にキューブが、ぐちゃぐちゃになってくれるように、そういうシステムを盛り込む。自壊するキューブ。
──ルービックキューブは、いつ壊れるのか。普通、壊そうと思えば、それはいつでも壊せるだろう。だが、今回彼らが試みるのは自壊するルービックキューブだ。数日と経たないで壊れるのか。あるいは、数年は保つのか。
さぁ、さっさと作業に取り掛かろう。
三度目、一筆が篠宮のところへやってきた。そうして篠宮は即座に行動に移す。思考の盗聴の対策はできている。もしそれを乗り越えられ、思考を読まれていたとしても、彼女は篠宮を拒めない。彼女の病を治せるのは、篠宮だけだから。
かの物語の書き出しはこうしよう。「中学一年生の夏。蒸し暑い日が延々と続く」と。