ルービックキューブはいつ壊れるのか   作:最中庵

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※本文は推敲前の小説です。誤字脱字があれば遠慮せず指摘をいただければ幸いです。
※作者も投稿後に推敲するので物語に少しの変更がある可能性があります。


少女 第七章 誰でも

 精神科に向かったのは、もう二年も前のことだった。

 そこで出会ったのは、篠宮という精神科医とその隣にいた少年だった。だが、篠宮という医者は一筆を治すことはなかった。そもそも、治す気すらなかったのだろう。

 

「あぁ、もう! こんなもの! いやだ、いやだ、いやだ! 私はもう二度と表には出ない!」

 

 最後の検診──というよりも、篠宮の()()の際、彼女は手記を破壊した。別人格から、主人格に戻る手段。だが、それでよかった。肉体の奥の奥で、主人格は死んだように生き続ける。そうして小鳥遊という女生徒の記憶を保持できる。もう、疲れた──一筆の主人格は、現実というものから完全に逃避してしまいたかった。

 なのに、家で保管していたアルバムは彼女の主人格を呼び寄せた。別人格が主導権を握っている間に、中学のアルバムを見て、その中の小鳥遊を目撃してしまえば肉体の主導権は主人格に移る。まるで、ぐっすりと眠っていたのに叩き起こされてしまったような最悪の気分で、主人格はアルバムを叩きつけた。

 こんな物があるから、まだ私は苦労しなければならない──追い詰められた彼女は、小鳥遊を正しいままに記憶するという本懐すら忘れ、カッターナイフでガリガリと小鳥遊の映る写真を切り出した。これがあるから、思い出す。この人が、私を呼び覚ます。ほとんど狂気に飲まれ、その写真を焼却処分してしまった。家の庭で、ぱっとマッチで燃やした。その業を背負った炎は、何よりも冷たかった。脊髄を引っこ抜いたかのように、冷たい。

 気づいたときに彼女に残っていたのは目の前の灰と後悔だけだ。なぜ彼女を切ったのか、なぜ彼女を燃やしたのか。正気に戻った彼女は、とうとう自殺すら考えた。だが、それを引き止めるのもまた、小鳥遊だった。あの子があれだけ不幸になってしまったのは、他ならぬ自分が幸福を掴んだから。だったら、そのなけなしの幸福を捨てることは許されない。なんせ、親友一人分の命の乗った幸福なのだから。

 

「私は……どうすればいいの」

 

 思い詰めているうちに、再度彼女は別人格へと肉体の主導権が切り替わる。これ以降、彼女の人格の転換が起こることはめっきりと減った。とはいえ、時折その転換は起こってしまっていた。篠宮の手によって人格の転換を強制させられた影響で、肉体がそれを記憶してしまったのだ。やがて高校入学し、その後に葉山と出会い、人格の転換と心が読める力のことを打ち明ける。そうして一年が経ち、篠宮を名乗る男が現れた。

 

「けれど、私の記憶が正しければあなたは篠宮じゃない」

 

 場所は移り、篠宮が用意した話し合いの場は彼の自宅だった。マンションで、いつものようにものが散らかっている場所。普段なら少年が掃除をしているところではあるが、どうも中途半端というか、あまり整頓が行き届いていないようだった。背格好が高校生くらいの篠宮なら、一筆を自宅に連れ込んでも近隣住民に疑われることはない。せいぜい、高校生のカップルが遊んでいるという認識程度だろう。実際はもっと殺伐とした空間が広がっているわけだが。

 

「はは、僕が篠宮じゃない、ね。いい線行ってるとは思うよ」

 

 散らかっていて申し訳ない、と言いながら篠宮はコーヒーを準備し始めた。

 

「あぁ、主人格のきみは砂糖多めがいいんだっけか。極度の甘党だったよね。別人格の方は小鳥遊さんの趣向に合わせてブラックなのに」

 

 ざーっと砂糖をカップに流し込んだ。ミルクやガムシロもいれる。主人格の一筆がコーヒーを飲むときの飲み方だ。それを知っているのは、間違いなく篠宮であることを後押ししている。

 

「……あなた、誰」

「僕は篠宮だよ。きみの元担当医、篠宮先生だ」

「確かに、その口調、表情、しぐさに歩き方から何から何まで、篠宮先生のそれだよ。けど、同じなのはそれだけ」

 

 一筆は、恐怖を抱いていた。目の前に、とてつもなく気持ちの悪いものを見せつけられているかのよう。顔色は青白く、頬は引きつっていた。()()()()()()()()()()()()()()()彼女は──いや、実際、小鳥遊の死体を目の当たりにしているからこそ、正しい直感を持っている。

 目の前にいるのは、紛れもない死体。

 

「──あなたの容姿、間違いない。あの時篠宮先生の後ろにいた男の子でしょ」

 

 あの時──最初に篠宮のところへ訪れた時、物語を強制して書かされていた時、人格を分裂させられた時、その時全てにいた人間。篠宮のすぐそばで、どれだけ直視しても心を読めなかった人間。

 

「よく覚えてるね」

「覚えてるに決まってる。あなただけは、どれだけ見ても心を読めなかったんだもの。気味が悪かったのを覚えてる。何も考えていないんじゃない。何かを考えているふうなのに、中身が空っぽだった。心を失った、がらんどうの肉塊」

 

 その言葉に、怒るわけでもなく少年は薄っぺらい笑みで答えた。

 

「ご明察。ぼくは心を喪失した『不可逆性不幸不全症』の成れの果てだよ」

 

 彼の雰囲気がガラリと変わる。篠宮を正確に模倣していたあの挙動から、全く別のものへ。だが、一人間が持っているような動きじゃない。見ているだけで生気を削がれるような。それでいてもっと見ていたいと思うような悪魔的な所作。

 ──目の前の人間は、不幸だ。おそらく、世界で誰よりも不幸を理解して、その上で許容している異常者。その不幸な人間を見てしまう。彼を見ていれば、相対的に自分が幸福だと思えてしまうような、不思議な説得力がある。

 一筆は、そこで確信した。やはり、あのときの少年だ。これだけの存在感があるのに、何も掴めない。そこにいるはずなのに、どこにもいないみたいな虚しい人間。冷や汗が頬を伝うのを感じた。命の危険すら感じるのに、反対に彼を見ているからこそ自分の幸福を肯定できるような矛盾。

 

「心が読めないのは当然だよね。ぼくには心がないんだから。多分、篠宮先生に診てもらっていたときから読めなかったでしょ」

 

 小さく、一筆は首肯した。読めない。どれだけ彼を観察しても、一切。

 

「はは、だから、これはぼくに適任だと思ったんだ。というよりも、もとよりあの人はこの責務をぼくに押し付けるつもりだったのかもしれないね」

 

 苦笑しながら篠宮──いや、少年はコーヒーを自分と一筆の前に差し出した。カウンターで隣り合わせになるみたいに、二人はリビングテーブルに腰をかける。一筆は視線を合わせようとはしない。彼の異常性を見抜いてから、徹して彼を見ないようにと外している。対して少年は彼女をよくよく観察するように、体を机と平行に向ける。

 

「どういうことなの、さっきのは、絶対に篠宮先生のそれだった。容姿以外は、全部」

「きみと似たようなものだよ」

 

 彼は、説明すらしなかった。言葉通りに解釈をするのなら、彼も多重人格者の一人だ。だが、それでは何かが引っかかる。彼は彼のままの意思があった。篠宮の人格を表出していても、少年の意思で肉体を動かしていたはずだ。現に、人格が少年に移っても彼はなんの異常もきたしていない。記憶が混濁しているだとかそういう異常がない。……そもそも、彼に人格が移る、という表現も正しくはないのだろう。彼に人格はない。心がない。だから、正しくは篠宮の人格をデリートした状態。空白の、最も真っ白に近い人間の状態。

 ──人格を、使役している? 

 そんな思考をよぎらせたところで、少年から声がかかる。

 

「さて、一筆さん、きみは現状をちゃんと把握できてるかな」

「……昔関わった悪魔が蘇ってやってきた」

「もっと自分のことを心配したほうがいいよ。そろそろ、きみの人格は消失するかもしれないんだから」

 

 さらに気持ち悪がるように、一筆は顔を歪めた。もう、彼女の整った顔がぐちゃぐちゃだった。

 

「今さら、何を言ってるの。いいよもう、どうせ、私は死ぬんだから」

「小鳥遊さんのことは忘れてもいいってこと?」

「それは……」

 

 少年は、いじわるな笑い方をする。

 

「きみは、小鳥遊さんを忘れたくないんだろう?」

「それは、もちろん」

 

 優しい声音の少年に、一筆はいやに素直に答えることができた。嫌味のない、かといってなにか良い雰囲気をまとっているわけでもない完全な虚無の彼には、何もかも吐き出せる。むしろ、吸い込まれるかのような。真空に空気が流れ込むように、一筆の感情や本音が彼に吸い出されていた。彼には感情がない。だから、他者が彼に感情を吐き捨てる。

 

「ぼくが、きみに死に方を選ばせてあげるよ」

 

 その言葉に、不思議と一筆は落ち着いていた。怒ることもなく、呆れるわけでもなく、ただただあるのは涅槃のような落ち着きでさえあった。

 

「悪いけど、ぼくはきみら二人を助ける術を持ち合わせていない。だけど、片方だけを生かしも殺しもしない状態にすることはできる」

「……どういうこと?」

「篠宮先生と同じような状態になってもらうんだよ」

 

 平坦に、少年は説明する。ただし、面倒だからと端折って説明を始めた。

 

「ぼくは空白だ。何にもない、何も入力されていないまっさらな心を持った人間。だからこそ、というべきだね。ぼくは他者の人格を容易に、正確に模倣できる。多重人格とはまた違う、人格のストックと見てもらえればいいかな。洋服の延長線上みたいな感じだよ。人格を着替えて使うの。服を変えたって、その人の形そのものが変質するわけじゃないでしょ?」

「……つまり、篠宮先生は、あなたの洋服のうちの一つになっている」

「正解。そして、きみらから一つ人格を寄越してくれれば、『極不安型パラノイア』の症状は寛解する。ぼくの予想なら、うまく行けば別人格側にはなんの後遺症も残らないはず。心が読めるなんてこともないと思う」

 

 彼女が今ぶち当たっている問題は、人格の転換による対消滅だ。どちらとも取れない人格は、消えてしまうという問題。だが、少年がそのどちらかを抽出してしまえば解決する。同時にトラウマと『極不安型パラノイア』の本質でもある人間不信を取り除けばそれも解消できる。

 

「……欠陥があるよね。あなたが人格を模倣したとして、オリジナルの人格は結局私の中にある」

「ぼくは、心の構造をある程度掴んでいる」

 

 少年は、薄ら笑いを浮かべた。

 

「心を喪失して、篠宮先生の技術と知識を人格もろとも手に入れた。だから、何をどうすれば人の心が壊れるのか知っている。安心しなよ。ただのカットとペーストだ。オリジナルの人格は、かけら一つ残さず沈めるさ。もっとも、きみの病が手に入ったのならより確実になるけど」

 

 彼は、引き出しからルービックキューブを取り出した。愛おしそうに、その玩具をいじっている。

 

「昔、篠宮先生から説明を受けたことがあった」

 

 その時と同じ説明を彼女に施す。彼はまず、色面をぐちゃぐちゃに混ぜたルービックキューブを彼女の前においた。

 

「これは、壊れてる?」

「これ、なんの問答?」

「いいから」

「……壊れてないでしょ。どう見たって」

「でも、初期状態からは崩れてる」

「そういうおもちゃだし」

「はは、そうだね。これは想定されている使い方だ」

 

 次に、少年はルービックキューブを分解した。軸と、複数のキューブに散らばる。

 

「これは?」

「……壊れてるんじゃ?」

「だけど、これも想定されている使い方だ。設計者は、こうして分解して掃除なりメンテナンスなりができるようにしてある」

「…………」

「はは、意味わからないよね。ぼくも、先生に言われたときは何が言いたいのかわからなかった」

 

 だけど、今は自分の解釈がある──と少年は言った。

 

「これは心で、本質は()()()()()()()()()()()()()。もちろん、これを粉々に砕いたらそれは完全に壊れていると言える。じゃあ、この分解されているだけの状態と破壊された状態の差ってなんだろうね」

「私に、今そういう哲学的なことを考える余裕はない」

「少しは付き合ってよ……ほら、ぼくのルービックキューブは気づかないうちに壊れちゃって、先生のは最初から歪んでた。きみは、順当に壊れていった」

「だから、私ならいつ人の心が壊れるかわかるんじゃないかって?」

「そう」

 

 答えなければ治療を始めてくれそうにもないので、一筆は渋々答え始めた。考えた時間は少しもない。ほぼ、即答だった。まるで、最初から答えが用意されていたみたいに。

 

「……感じなくなったら」

「え?」

「ご飯を食べて美味しいとか、夕焼けをみてキレイだとか、友達が死んで悲しいだとか。そういう感想が、感情が、感動が──全く感じられなくなったら」

「…………へぇ」

「当てつけとかじゃない。ただ、あなたはきっと、もう何も感じられなくなったんでしょ。私が心を読めなくなるくらいには。そして、篠宮先生もそうだった。悲劇のヒロインを演じたいわけじゃないけど、あの人は私を痛めつけても何も思わなかった。だから、多分壊れてる」

 

 あっさりとした答えに、少年は満足そうだった。どこか納得のいった様子で、うんうんと頷いている。

 

「はは、ありがとう」

「別に、そういうのはいい。さっさとして」

 

 急かすように彼女は少年を睨みつけた。

 

「うん、積極的なのはいいことだ。まぁさっきの話の続きになるけど、ぼく独自の手法でやるつもりだよ。最悪失敗しても、投薬で精神的に安定させ人格の統合を待てばいい。こっちはこっちでちょっとリスキーにはなるよ。人格の転換を即座に完全に封じられるわけじゃない。ぼくの方は、独自というリスクがあるけど完全にきみの人格を片方殺せる。保証するよ」

 

 あとは、きみがどちらの人格を残して、どちらをぼくに渡すか選ぶだけだ──少年は、また薄く笑った。意外にも、一筆の答えは早かった。

 

「私を殺してください」

 

 一切の迷いがない──良い返事だった。

 

「へぇ、進んでぼくの服になってくれるのか。その心は?」

「私は、小鳥遊を覚えていられるのならそれでいい。あなたは、私を着こなしてくれるんでしょう。適切に長く使ってくれるのなら、それだけ私も覚えていられる」

 

 だけど、一番の理由は──

 

「私は、もう終わった。生きるのに疲れちゃった。小鳥遊がくれた幸福は、もうひとりの私に譲るよ。高校での親友、葉山さんだって、きっと私よりももうひとりの一筆茜を求めているはずだしね。私は所詮、もう誰からも必要とされない人だから」

 

 それに、と彼女は付け加えた。

 

「あなたは、ここまで予測してたんでしょう。おそらく、あなた自身の目的を達成するために」

「はて、きみの病じゃぼくの心は読めないはずだけど」

「読めなくてもわかる。空白で、人格の模倣ができるあなた。精神医学の知識をふんだんに持ち、倫理観を排した思考を平然とできる篠宮先生。心が読める症状をもった私。シナジーがありすぎると思わない? あなたは、まさか何者でもあり、何者でもない人になるつもりなの?」

 

 篠宮の持つどす黒い精神性、空白の人格、人格の模倣を補助する心が読める病。全て揃ってしまったのなら、彼はこの世で模倣できない人間などいないだろう。それこそ、彼の言う心の構造を完全に理解できるかもしれない。ルービックキューブなどという、篠宮の提示したモデルではなく、少年がその不定形なものをとうとう完全な形として提示するかもしれない。

 だが、おどけた調子で少年は言葉を返す。

 

「……いいやぁ? ぼくはただ、人間らしく在りたいだけだよ。憧れだったんだ、ずっと。昔から、ずっとずっと屍みたいに生きてきたからね。いろんな人を模倣して人間らしく生きたいと思ってた」

 

 それは、本心でもあった。物心ついたときから不幸とともに生きて、しまいには幸福しか感じられない精神になってしまった。そして、不幸を求めるように。ありきたりで、普通で、一般人が感じ過ごすような日常が、彼にとっての最終目標。

 悪用すれば、いくらでもできるものを──一筆はそれを末恐ろしく感じるしかなかった。一筆の力は、画面越しにでも発揮される。テレビに写った芸能人、技術者、専門家……もし、それらプロフェッショナルの技能を全て修得したら彼はどれだけの叡智を手に入れることができるのか。

 レオナルド・ダ・ヴィンチすら軽く凌駕できるほどの偉人になることは間違いない。それを、彼はドブに捨てる気だ。

 

「本当に、あなたは、いかれてる」

「褒め言葉として受け取っておくよ。さぁ、もう覚悟は決まった? ぼくは、きみの人格を奪う準備はとっくに整ってるんだけど」

「……そんなに、私って人間はわかりやすいものなの?」

「いいや、あの時、きみの物語を見たからね。きみの精神の土台は、とっくに把握できている」

 

 とはいえ、特別なことをするわけではない。ここから会話や生活を少しだけともにして、いくらかの質問をぶつけてやれば、少年の白紙の人格は彼女を映し出す。

 

「最後に、一つだけ聞いてもいい?」

「答えられることなら」

「どうして、あなたは私を助けに来たの。放っておいても良かったはずなのに」

「言ったでしょ、ぼくはきみを助けられない。どちらを殺すかの選択を──」

「そういう屁理屈はいいから」

 

 いつの間にか、少女の視線は彼を向いていた。生気をもぎ取られるような、彼の視線。それにかち合わせながら、彼女は嘘を見逃すまいと凝視しする。根負けしたように、少年は少しずつ話し始めた。

 

「あの時──篠宮先生はきみに約束したでしょ。利用したら、きみの病を治すって」

「そうだね」

「それだよ。ぼくは、篠宮先生の人格も持っているんだ。あの約束は、まだ有効だった」

「でも、あの人は私を治す気はなかった」

 

 心が読めるから、最後にそれを見た。篠宮が、完全に一筆への興味を失った。その瞬間。だからこそわからなかった。少年に主導権は移っているとはいえ、篠宮の人格だ。一筆を治す理由が一切ない。

 

「いいや、有効だったよ。あの人もあの人なりに考えていたことがあったらしい。確かに、きみを見捨てたように見せかけたけど、それも精神的に追い詰めるつもりだったみたいだよ」

「……それ、本当?」

「うん。どうやら、きみに興味は全く失っていたようではあるけどね。あの約束だけは遂行するつもりだったらしい。あの人、ぼくを不幸にするっていう約束も果たしたしね。どうやら、変なところは義理深いらしい」

 

 ただ、ここまで来るのには時間を要した。彼女のことは聞き知っていたものの、彼は本当の篠宮ではない。彼が保管していた患者の情報にアクセスできるのは彼だけだ。地道に、一筆のことを探してここまでたどり着いた。

 

「ま、ぼくが間に合ったのはほとんど奇跡だよ。後一週間も遅れていたら、それこそきみは本当にこの世にいなかったんじゃないかな」

「……そう、運が、良かったんだ」

 

 運命が皮肉を言っているかのように、そして、それを憎むように一筆は声を絞り出していた。小鳥遊から受け取った幸福な未来は、ここまで一筆を生かしてきた。だが、これで、もう終わり。

 

「最後にさ」

「何度目の最後なのさ」

「……あなたの名前を教えてほしいな。あなたは、篠宮先生じゃないんでしょ? だったら、最後の最後に私を奪う人の名前を知りたい」

 

 相手は、ただの少年だ。篠宮の人格を宿しているが、こうして一筆を案じてやってきた少年。彼を、実にまっすぐと一筆は見つめた。彼なら、どれだけ見ても心の声は聞こえない。だから、彼の口から言葉を聞く。

 

「ぼくは……」

 

 ずっと、言っていなかった名前を口に出した。それは、彼にとっての転機でもあった。人間として生まれて、不幸とともに添い遂げ──死体になって。それからようやくだ。墓標に名を刻むかのように、粛々とその名を告げた。

 

「あはっ、素敵な名前」

 

 最期に、少女は可憐に笑った。氷解する彼女の心は、錆びついたキューブを動かした。

 

 □□□

 

 少年による正確な人格の模倣と、コピーの大元である一筆の主人格の破壊。どちらも滞りなく行われた。彼が彼女の人格を模倣した段階で、トラウマを正確にコピー。その後は、例に従って技能を譲り受け『極不安型パラノイア』を発症。心が読めるようになった彼は、丁寧に彼女の人格を統合した。

 これにより少年の中に一筆の主人格が生き続け、一筆の肉体には別人格が居座ることになった。病の原因でもあるトラウマと人間不信を人格ごと抜き取ったので完治。一筆は、あらゆる精神疾患を克服して()()日常生活へと復帰した。

 病が再発する様子も見られず、正常で健全な精神状態を保っている……しかし、人格の対消滅が近い頃の記憶を欠落している。主人格との境界が曖昧になっていた影響だ。少年のことすらも忘れている。死体は、誰にも記憶されない。

 

「うーん、なんで急に心が読めなくなったんだろう。いや、いいことなんだけどさ」

「……さぁ? 子どものときにだけ使える超能力だったんじゃない?」

「いつ私は大人になったんだろう……」

 

 葉山は、一筆に起こった一部始終をしらない。だが全てが解決していることだけを篠宮から置き手紙で告げられている。故に、少年という存在がいたことはつゆほども知らない。不必要で混乱を起こすものを一筆に伝えるわけもなく、適当な言い訳をいつも並べていた。

 

「というか、未だに慣れないね。一筆のタメ口」

「あれ、私ってタメ口じゃなかったっけ」

「違うよ~! もっと固い口調だったよ!」

「う~ん? そう言われればそうだったような」

 

 人間不信が解消されれば、他人と距離を取るために使っていた敬語口調も解消される。どうやら、彼女の中で軽い記憶の改竄がされているようではあったが、主要な記憶には一切の支障はない。それも、篠宮──の人格を通して少年が確認済みだ。

 

「まぁ何にせよ、あの力がなくなってよかったよ。あれがあるとうるさかったからね。こんなに静かな教室は初めてかも」

「だいぶ人いるからうるさいとは思うけど……」

「そう? そうかも」

 

 くすくすと彼女は笑っていた。

 

「でもまぁ……」

「まぁ、なに?」

「んー、ううん……なんでもない!」

「なにそれ! めっちゃ気になるんだけど!」

「気にしなくていいよ~。気になるなら、心を読んでみるがいい」

「それもう一筆もできないでしょ!」

 

 二人は大きく口を開けて笑いあった。なんだか、お互い初めて心から笑っているようだった。どちらも気を遣わず、気を張らず。なんにも気にしない、ただただ普通の女子高生。それがおかしくて、葉山はまた笑った。ひーひーと声を上げている。

 

「うん、うん、いいよね。こういう静かなのって」

 

 一筆は教室を眺めた。同年代の学生が、それぞれ話している。前のように心を読む必要はない。読めない。静かでいい。それに、誰も疑わなくていい。あの人は実際はこう思っているだとか、ああ思っているだとか。変に勘ぐる必要がない。素晴らしい世界だ。

 

「こわいな」

 

 一筆は小さく呟いた。

 もう、人の心は見えない。完全な不透明。前がわかっている分、変に思ってしまう。この人は実はこう思っているのだろう。ああ思っているのだろう。だから、一筆は心から喜ぶことができない。この景色の裏側には、必ず灰色の感情がある。なんのぬくもりも感じられないような、冷たく無機質な感情だ。

 病は、完治した。あの異常なまでの人間不信がなくなった。だからこれは──健常な不信感だ。ごくごく普通の女子高生にも、普通の人にでも備わっている、健常で正常な不信だ。

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