※作者も投稿後に推敲するので物語に少しの変更がある可能性があります。
空白の人格というのは、恐ろしい。どんな色でも受け入れてしまう恐ろしさがあり、どんな色とも調和する力を持っていた。だから、篠宮は彼の空白に目をつけた。彼の中に、自分を植え付けることができる可能性。それを見出し、実行した。できる限り外部の人間には接触させないようにして、純粋な篠宮だけの人格の学習をさせる。実際、少年は彼の目論見通りに人格を学習した。今は、篠宮の人格が表出している。
「ううん、違和感がすごいな。僕自身が僕をみるのは気持ち悪いよ」
「そう言うなよ。同じ僕だろ」
身体制御を完全に掌握している。仕草も、姿勢も、歩き方も──全てが篠宮のものだった。他人から見ても奇妙な光景だろう。二人の男が歩いているのは間違いないのだが、その容姿の違う二人が全く同じ歩幅と姿勢と歩き方なのだ。シュールとも気味が悪いとも見える。
「ところで、僕よ」
少年がその口調で喋り続ける。
「まさか、これで
その言葉に、篠宮は鋭く反応した。
「……おいおい、まさかとは思うけど、まだ少年の意識が残ってるのか?」
「もちろんだよ。まぁ確かに、ほぼ
笑いながら、少年は自分の手をみた。わずかに震えている。肉体の主導権が完全に奪えていない証拠だ。
「だけどなんで……彼の人格はもとよりない。彼が自分の意思を持つことさえありえないんだ。主導権を握れるわけがない」
「それが僕の見立てだった……けど実際は違う。僕は、吸い込まれたんだ」
篠宮の表情で、少年は目の前の人物を見つめる。初めて、気味が悪そうに篠宮は顔を歪めた。彼がそこまで露骨に感情をあらわにするのは珍しかった。
「僕は死に魅入られた。そして、彼に魅入られたんだよ。死を享受し、共存し、生者のように死んでいる彼にね」
「何が言いたい」
「絵の具で考えればわかりやすいさ」
少年は、雄弁に語る。篠宮がいつもやって見せるように、彼は大げさに身振り手振りをして見せる。
「彼は白紙だと、僕は思った。実際、そうだ。彼は人格がない。真っ白なキャンバス。白紙の紙だ。何にでも染まることができる死体」
「だったらやはり、僕は彼を乗っ取れるはずなんだけど?」
「甘く見すぎたんだよ。僕は」
その笑みは、どこか少年のものも混じっているような気がした。下から覗き見るような目は、三白眼に。背筋からヘビが登ってくるかのような悪寒。篠宮は、わずかに表情を硬直させる。
「彼の
「……はははっ、マジか! 最高だよ!」
「そう、僕は彼にとっての絵の一部になったんだ。キャンバスの、端っこにあるような色の一つ。彼は多分、これからあらゆる人間を掌握して一つの絵になる。きっと、誰もが目を奪われるような、あるいは目を背けたくなるような
僕の企みを逆手に取るきだよ──少年の中の篠宮は言い切った。だが、それでも篠宮は笑っていた。誤算──だが、それでいい。篠宮の人格が薄れているわけじゃない。篠宮の色は、そのままでキャンバスに乗っている。
「「それなら、無問題だ」」
「あーあ、心配して損したよ」
笑いながら、篠宮は街を歩く。二人で、死に場所を探しているのだ。篠宮の人格を操っている少年は、それに対抗しない。至って従順に、死に場所を探していた。
──彼の目的は、納得のいく死を遂げること。そして、そのために『不可逆性不幸不全症』を利用しようと企み、失敗し、抜け道を見つけた。それが、これだ。彼に篠宮本人の人格を定着させ、この世に二人の篠宮を作り出す。片方は死んでもいい。だって、もう片方も篠宮なのだから。そうすることで、少年の精神死と同じ状態を作り出せる。
死んでいるのに、動いている。人生という物語の幕引きを迎えたのに、後日談を紡ぐことができる。篠宮の死と生存を両立させられる、唯一の手段。
「だけど、驚いてるみたいだよ、彼。まさかそんな手段をとれるほどの人だったなんてね」
「彼も僕を甘く見ていたみたいだね。ま、この勝負引き分けだ」
この手段に最大の欠点があるとすれば、オリジナルの篠宮が自決をしなければならないというところだ。
──自決、自殺、自死……これを平気で実行できる人間は、まずいない。どんな人間でも最低限、死に対する恐怖があり生に対する執着がある。この国は残酷だ。自殺という形で命が終わる人間が多い。それでも、全員なにかの事情を持っている。そして、精神的に追い詰められ、自分を引き止めることができなくなって果てには死に至る。たちの悪い病、それが精神病。
だが、篠宮は例外。最初から心が破綻している彼は、死への抵抗がない。憧憬であり、悲願。彼岸。その欠点は欠点足り得ない。彼の望む死を遂げる裏技は、ノーリスクで実行できる。
「というか彼、僕と話したがらないの? 今生の別れになるのに、悲しいぜ」
「僕と共存している状態だからね。そういう感情もないんだろう。というかそもそも、心がない彼にはそういう感傷はないでしょ」
「それもそうか」
あたりは夕暮れ。日が短い時期だ。あと一時間も経たないうちにこのあたりは夜に包まれるだろう。そんな折に、篠宮は廃病院へと入った。あらゆるものが朽ち果てている。内壁もボロボロで、灰色のコンクリートがむき出しだ。備品もほぼ撤去されていて、殺風景な部屋ばかりが並んでいる。死ぬのにふさわしい場所でもあった。無機質で余計な感情を抱かないで済む。それに、人の出入りも少ない場所だ。かといって全く無いわけではない。不良やホームレスがたまに出入りする。そのうち、篠宮はれっきとした死体として発見されるだろう。少年のように、動く死体としてではなく動かざる死体として。
「彼にそのつもりがないのはわかるけどさ。最期なんだ、本人と話してみたい」
ボロボロになった備え付けの椅子に篠宮は腰掛けた。目の前には少年が見下ろす形で立っている。周りには同じ椅子が並んでいるだけ。彼が篠宮の言葉を受け取ると、AIがモードを切り替えるみたいにすっと出で立ちが変わった。見ただけで生気を削り取られるような、その死体の風貌に。一瞬忘れていた篠宮は身が引き締まるような思いになる。足を組み直した。
「……なんです」
「や、感想を聞きたかった。ほら、サプライズだから」
くしゃと顔を歪めて篠宮は笑った。
「感想ですか。まぁ、してやられたって感じですよ。ここ最近、ぼくの感情が再発露したり趣向が変わっていたのも篠宮先生の人格が入っていたからですよね」
「そう、全く持ってその通り」
「いつからぼくがあなたの人格を学習していると気づいてたんですか」
「いや、気づけていなかったよ。最初はほぼ賭けだった」
にっこりと、篠宮は笑顔を見せた。
「僕ときみは似てるから」
少年は、不幸を望んだ。幸福は不幸なくして生まれないという理念の下生きて、不幸をこよなく愛し、『不可逆性不幸不全症』を発症し、落命。
篠宮は、不幸を望んだ。生まれながらに死を愛し、人間の本能に反するその矛盾を解消するために不幸を探し、最初から破綻していた精神は、ここまで彼を生かしてきた。
「だから、空白のきみなら僕を学習する可能性があると思った。核心に至ったのはそこそこ前かな。きみを川に突き落としたときとか、そのあたり。段々と、変化の起こり得るハズのないきみに変化が生まれているのを見ていたから」
あぁ、そういえば──と篠宮は口にした。
「不幸になりたいってきみの願い、叶えられたかな」
「えぇ、まぁ……ですが少し残念ですね。この程度ですか。もしかして、育ての親でもある自分が死ねばぼくが不幸になるとか思いました? その程度じゃ、まだ甘いですよ」
「僕の人格を植え付けて、きみの意識を完全に乗っ取るつもりだったんだよ。それなら、絶対に不幸にできると思った。僕の意思で動く世界を、きみは肉体の内側から眺めることしかできないから」
「あぁ……残念です。ぼくにとっても、先生にとっても。不幸になりきれなかった」
悲しむわけでもない。少年は、表情一つ崩さない。もう、彼に再発露した感情はない。篠宮の人格から発生していた感情と、彼本人の空白の人格とは棲み分けができている。以前のように、その境界が曖昧になって混同することはない。
本当に、それだけを聞きたかったのか、篠宮は自殺の準備を始めた。持ってきたのは中太の紐。両端に手際よく輪っかを作り、片方をまだ状態の良いドアノブにくくりつけた。絶対に外れないように、さらに固く結ぶ。
「首つりですか」
「今どき一番インスタントでコンスタントに死ねる自殺だ。最初からこれで死ぬつもりではいたよ。死に場所だけ決めてなかった。きみへのサプライズが済んだらすぐ実行しようと思ってたから、この紐だけ常日頃から持ち歩いてどこでも死ねるようにしてた」
近場から適当な大きさの瓦礫を持ってくる。首つりをするときの台代わりだ。先程の紐は、ドアノブからドア上部へと伸ばし、引っ掛ける。ドアの上から紐が垂れ下がっている形だ。扉がある場所なら、どこでも誰でもできる方法。
「じゃ、僕死ぬけど、どっか行ってくれる?」
「なんでです。死に目くらい見ておきますけど」
「いいよ別に。自殺幇助とかで捕まるよ?」
「あなたそういうの気遣える人じゃないでしょ。本音は?」
「死んだら下に糞尿が撒き散らされるじゃん。いやだよそれ人に見られるの」
あまりにも篠宮が不快そうな顔をするので、少年も張り合わずに踵を返す。とても、数年をともにした人の自殺を見送る場面ではなかった。なんの感情も感傷も持つことができない彼は、虚しいだけの気持ちを抱えて、その場を去ろうとした。
「あぁそうだ。最期に一個だけ言おうと思ってたんだ」
明るい声で、篠宮が少年を呼び止める。振り返れば、満面の笑みの篠宮がいた。今すぐにでも足場の瓦礫を蹴り飛ばして、天高く昇る──あるいは地の底に落ちること待ちわびているようだった。彼にとって、行く先が天国だろうが地獄だろうがどちらでも構わないのだろう。彼にとって、肝要なのは死ぬという行為そのものだ。その先には一切の興味などない。
そんな、直後には死ぬと思えない様相で、彼は告げた。
「きみ、もう死ねないよ!」
「……はい?」
「川に突き落としたときに確認済みだ。きみは、精神が先に死んだ影響で身体も死んだと脳が勘違いしている」
その説明には、あまりにも現実味がなかった。だが、少年はその言葉を真摯に受け止める。
「今のきみは不老であることは間違いない。ずっと、一生、その高校生の姿のままで、それも死にづらい身体になってる。致命的な
「……じゃあ、ぼくは」
「うん! きみが最上の不幸だと考えたように、きみは全壊するまで一生ありもしない不幸を追い求めて生き続ける!」
篠宮は今までで最も無邪気な笑顔をしていた。それこそ、子どものような笑顔だった。子供の頃からの夢でもある死を目前にしたというのもあるのだろうが、それと、あの少年を出し抜いてみせたという感情も含まれている気がした。
──だって。
「はは、あははは」
少年は、笑っていた。感情がない骸なのに、篠宮の人格とも棲み分けができているのに──彼は高らかに笑っていた。
「あぁやっぱり、あなたについて行って正解だった。あなたは、ぼくを不幸にしてくれてた」
本当に幸せそうに、彼は笑っていた。
──この廃病院に、人間が一人と死体が一つ。人間の方はもう首つりの準備を済ませている。死体の方は、彼を見捨てるつもりだ。だがしかし、二人はこの時きっと本心から笑い合っていた。初めて、ここまで大笑いをしただろう。清々しいほどに、今から死ぬとは思えない彼は、もう少年に言葉をかけなかった。少年も、今度こそ踵を返してその場を後にする。
タッ──軽快な足音がした。軽やかで、調子の良いジャンプの音。運動会で子どもたちが駆け回り飛び回っているかのような、そんな青い音。
──この廃病院に、死体が二つ。
□□□
それからの少年は、順調な人生を送れていた。篠宮の人格を手に入れた影響で、実に常人的な──とはいっても、篠宮という人間は最初から破綻していたのだが……それでも、ただの動く死体から壊れた人間程度の昇格はした。
「やぁ、一筆さん。心が読めるという噂は本当かい」
篠宮の心残り──というよりも少年に押し付けた責務である少女の治療。それを目的に彼女の動向を探り訪れる。紆余曲折はあれど、彼はとうとう彼女の病を寛解させることに成功する。
一筆の人格を一つ奪うという形で。
「ま、これで全部解決かな。ぼくはぼくで、心が読める力が手に入った」
それがあれば、超安易に人格の模倣ができるようになる。篠宮のときのように、長い時間をかけることも──一筆のときのように、彼女の人生観や背景を知る必要もない。どちらも、心が読める力があれば即座に終了する。
……だが、少年には目的がない。彼には心も、人格も、生き様もない。あるのは死に様だけで、死んだ後の後日談だけ。そんな彼が目的を持つことはない。それ以上、何をすれば良いのかわからないというのが彼だ。本来の人間なら、たとえ何も理由がなくても当たり前のように明日を生きようと考える。それがない彼には、今日を生きるための理由がないと動くことすらできないのだ。感情という、特大の動力を失っているから。
だが、ほんの少しだけ。本当に、少しだけ。
「少し、絵を書きたいな」
少年は、自分自身のルービックキューブを把握していた。その形は、少々いびつかもしれない。だが色ははっきりとしている。全面が白色の、なにもないルービックキューブ。どう動かしても色面は揃うが、どう動かしても最初の状態には戻せない。なんとも悲しい造りの心。
そして、ここに至るまでに二つだけ色をつけることができた。真っ白のキャンバスに、色を二つだけ乗せた。極彩色の、たった二色。これから、全面を染め上げる。この真っ白のキャンバスを埋め尽くす。篠宮が例に上げたように、少年は自分という白のキャンバスに絵を完成させる。
──完成したのなら、それで終わり。
少年が持っていた空白の人格は──真っ白なキャンバスは埋め尽くされてその本質を失ってしまう。
「もしかしたら、ぼくの病も治るのかもね」
人は、誰でも心に病を抱えている。そして、誰でも治せる病を持っている。きっと、その方法を知らなかっただけで。