※作者も投稿後に推敲するので物語に少しの変更がある可能性があります。
少年は、親に連れられて精神科に連れて行かれた。
近場にあった精神科。そこに、少年は引きずられて連れられた。案外、引きずられて、というのは比喩ではなく事実だ。彼の親が、少年の手首を握りしめ、人形を引きずるかのようにしてやってきたのだから。
「おい、座れ」
厳しい言い方だった。親にしては、あまりにも冷たい言い方。少年は言われるがまま椅子に座らされた。医者の男と視線が合うと、少年は小さく微笑んだ。中学生くらいの少年にしては、あまりにも痛々しい作り物の笑みだった。頭に巻かれた包帯と、体中に貼られた大きい四角の絆創膏が目に入る。
「あー、えと、本日はー……どのような、ご要件で?」
まず医者は虐待を疑った。あからさますぎると思ったから。そして実際、少年は虐待されている。ずっと、ずっとだ。それを悟られたくないのか、母親が声を大きくした。まるで、反論や弁護をするかのように。
「この子、自殺を繰り返すんです! 何度も何度も! 本当にもう嫌になる!」
「自殺未遂を何度もですか。この包帯は──」
「ついこの間転落死を図ったときのものです」
食い気味に答える母親へ冷ややかな視線を送りながら、ひとまず医者は退出を促した。正しい診断をするためにも、正しい情報を少年から聞き取るためにも。その母親は障壁として大きすぎる。
「なぜですか。親である私はここにいてもいいでしょう。それとも、その親に見られると困ることでもするつもりでしょうか」
「親がいると言いにくいこともあるでしょうし、できるだけフラットな状態で診断を──」
「そんなことないわよね? 私の前じゃ言いにくことある? ないでしょ?」
母親は、息子の頭を強く抑えながら低い声で言う。包帯の巻かれている頭部だ。押さえつけられれば痛いはずなのに、表情一つ変えることなく、少年はこくりと小さく頷いた。
「ほら息子もこう言ってるんです。早く始めてください」
「いや、でも……」
「早くしてくれませんか。この後私予定があるんですよ。お金を払っているのだから、あなたは診察をする。それが当然のことでしょ?」
「はぁ、まぁ、そうですねぇ」
「じゃあやっぱり早くしてくださいよ。何なら、別に診断書を適当に出してくれてもいいんですよ? 病名とかどうでもいいんです。一応病院に連れて行ったことにしないと、警察がうるさいから」
「はぁ~、なるほどぉ」
適当な態度の医者に、更に母親はヒートアップする。苛ついた声音で医者を怒鳴りつけた。「さっさとしないとヤブ医者だって言いふらすわよ」だとか「できないだけなのかこの無能」なんてなじる。呆れたように、医者は緩慢な動きでもろもろの筆記具などを取り出してカウンセリングを始めた。簡単な質問から始まる、はじめもはじめの診察。
「じゃあまず……」
「まどろっこしいのはいいから、ほら、あんたなんで自殺してるのか言え。手っ取り早く済ませるのよ」
「喋っていいの?」
少年の声は、とてもか細かった。声を出すという行為自体に慣れていないのか、それとも声帯になにかダメージがあるのか。男子にしては女性的とも取れるような声音だった。それよりも医者が気にかけたのはその言葉だった。喋ることにすら、いちいち許可を取る必要があるのか。そして、それに疑問を感じていないような無垢な瞳。
(コレは……難航しそうだな)
幼い頃からそういう教育を刷り込まれていなければ、否、だとしても異常である。反抗の意思すら完全に封殺されている状況。自殺の理由は、医者にはおおよその予想ができた。というよりも、医者だろうがそうでなかろうが関係なく予想はできるだろう。この親のもとで育てられた人間がまともな死生観を獲得できるわけがない。
──さぁ、言うんだ。医者の目はそう訴える。そして、ここで少年が親の悪事を吐露したのならば、きっと医者も覚悟を伴って子を親から引き剥がしたと思う。そうでなくとも、何かしらのSOSサインが出たのなら話は変わっていたはずだ。
「ぼくは……なんというか、不幸にならなきゃいけないんです」
「は?」
予想外の言葉に、医者は口を開いた。
「えぇと……説明が難し──」
「あんた馬鹿なんだから、そういうのは事前に考えとけって言ったでしょ」
「ごめんなさい」
起こられながら、少年はぽつりぽつりと言葉をつなげていく。ほつれた糸をかき集めてまた紡ぎ直していくように、地道な作業だった。審問を始めてから約一時間半がかかっただろうか。彼は喋ること自体に慣れていないのだ、それだけの時間をかけるのも当然だった。やがて聞き出せた”本質”は以下の通りだった。
「ぼく、幸せものだから、不幸にならないといけないんです。『慎ましく生きなさい』って、大人はいうから」
人間として、破綻している。医者が恣意的にカルテを書いていたのなら、最初の書き出しはそれだったろう。はたから見ても圧倒的に劣悪な環境。どうあがいても重圧と制限がつきまとう日々。ストレスを抱くことさえ許されない。その環境下で、「自分は幸せものだから」といえる精神状態。
その言葉が本心から出たものだというのは、医者が最も理解していた。人の心を扱う職業だからこそ、そこに間違いはない。少年は、本心から自分が幸せだと”錯覚している”のだ。
「ちょっと、まさか、きみ……」
「これでもういいですか。私、忙しいので」
医者がその子に近づいたところで、親が引き剥がすように子どもを引っ張り上げた。席から無理やり立たせ、少年がうめき声を上げると睨みつけてそれを制する。その声音すら、母親にとっては苛立ちの対象らしい。医者の言う事を聞くこともなく、母親は「診断書をさっさとだして」とだけ言ってすぐに部屋をあとにした。
そして、それ以降、この親子は精神科医の前に姿を表すことはなかった。
医者の脳裏には、人形のような少年の姿がこびりついて。
──時が経ち、あれから二年ほどが経過した。
医者の記憶から、あの少年が消え去った……というわけではない。だが、仕事に没頭しているうちにその少年のことを考える割合は少なくなっていた。特に罪悪感のようなものを抱くわけでもなく、「あの病は一体どういうものだったのだろうか」という好奇心が殆どを占めていた。
食事の時も、入浴の時も、入眠する直前にも。いろいろな患者のことが頭に浮かんで、最後に浮かび上がってくるのは明らかに異常性を呈していたあの少年。
玄関の鍵を締め忘れたときみたいに、少年は僅かな気がかりとして医者の記憶にしがみついていた。だから、その日豪雨に塗れ、ぼろきれを身にまとっていたあの少年を見つけられたのも、ただの偶然だ。
「今日も、疲れたなぁ」
日も沈んで暗くなった街。駅前には人が掃けて雨が地面を殴る音だけが満たされている。用事を済ませて、医者は大きな鞄を右手に駅を出てきた。傘を開くも、コートの端が濡れるのを気にしながら明かりの少ない方へと進む。やがて極端に明かりが少なくなったところで、視界の端になにか蠢くものを見た。
「──きみは」
そこで、あの少年の名前を呼んだ。カルテに書いてあった苗字を呼んだ。珍しい姓だったから、医者が思い出すことに苦労することはなかった。声に反応するように、蠢くものは、濡れた毛布を剥いで視線を飛ばす。
「……あぁ、精神科の。こんばんは」
あの時と変わらず、少年はにこやかに挨拶をした。髪は皮脂や汚れで不衛生な光を反射し、肌は薄汚れていた。四肢がそのまま羽織っているぼろきれから伸びているところをみるに、まともな服もないらしい。
「何してるのさ。こんなところで」
「まぁ……ご覧の通りって感じですかね。根無し草です」
「警察に保護されないのかい?」
「ぼくは不幸にならないとですから」
「またそれか」
医者はしかめっ面をしながら、少年に近づいた。傘を差し出すと、彼の手を引っ張って立ち上がらせる。その行為に慣れているからだろう。少年は、すっと腰を上げて滑らかに直立した。だというのに、筋肉がないのか直立している割にはふらついている。少し風が吹いただけで倒れてしまいそうだった。
「えと、何を?」
「僕の家に来なよ。少しくらいなら、面倒をみてあげるから」
「あの、だからぼくは……」
「不幸になりたいというのなら、後悔はさせないよ」
折りたたみ傘を鞄から取り出すと、医者は先行していく。徒歩十分もしないところで、二人は到着したマンションを登り医者の部屋へと入った。医者は濡れたコートを干した後、玄関に待たせていた少年をタオルで拭き、ある程度きれいになったところで家にあげると、すぐさま浴室へと押し込んだ。
しばらくすると、綺麗になった少年が出てくる。ただ、医者が二年前に診察をした時よりも小綺麗になっているところを見ると、虐待の程度がうかがえた。サイズが合わないからというのもあるが、あまりにも痩せ細った身体に着せられた服はずり落ち、白い肌が見え隠れしている。同時に、生傷やアザなんかも。
「お風呂、ありがとうございました」
「捨て猫を拾ったら、汚れたままリビングにあげると思う?」
「『礼には及ばない』ということでしょうか」
「どうも、頭を下げられるのも下げるのも慣れてなくてね。ほら、世の中助け合いって言うだろう」
「ではぼくは、何をすればいいのでしょうか」
呆れて医者はため息をついた。染み付いた奴隷根性に痺れを切らして、立ったままの少年を座らせる。じっとしていろとだけ言うと、医者は手際よく料理を作り始めた。作り置きの品を温めながら、あまりものの野菜で味噌汁を作る。何日も食事をしていないことを考慮して、薄味に。粥も用意すると、少年の前に差し出した。書類なんかで散らかった机の、小さなスペースにねじ込むようにして皿を突き出す。隣に医者は腰を下ろした。
「……あの」
「痩せ細った捨て猫を拾ったとするだろう」
例え話をまたペラペラと話し始める。
「仮に食事を与えず、僕の家で餓死したらその死骸はどう処理する? 死骸がひとりでに埋まってくれるのか?」
「『礼には及ばない』ということでしょうか」
どこか冷たい例え話をする医者には怯まず、少年は先ほどと全く同じトーン、同じセリフで応答した。そして、医者の意図を汲み取ったように食事に手をつけると、出された分を全て平らげる。その時すらも、表情ひとつ変えることはなかった。ずっと、最初のにこやかな表情のまま。久方ぶりの食事であることは間違いない。それにもかかわらずだ。人形のように口を開いて、箸を動かし食事を済ませて箸を置く。その動作の“ぎこちなさ”に、医者は訝しむような視線を終始むけていた。
「ありがとうございました。美味しかったです」
「それなら、もっと美味しそうに食べて欲しかったね」
「……仏頂面をしていましたか」
「いや、にこやかだったよ。とても穏やかな表情だ。能面みたいで美しいなとさえ思ったよ」
実際、『人形』という表現が適切なほどに。痩せ細った身体と、白い肌。未成熟ゆえに小柄で華奢な肉体。能面のような表情。女性と間違われたとしてもおかしくはなかった。
「母からは嫌味のない笑顔を絶やすなと言われていたので」
「いい教育してるぜほんと。そのおかげで、きみの精神は完璧に破綻してそうで何よりって感じだよ」
「ぼくって、普通じゃないんですかね」
「断言しよう。普通じゃないね」
医者は、机の上に置いてあったルービックキューブを手に取った。色面は揃っておらず、ぐちゃぐちゃのままで放置されているものだ。慣れた手つきでいじり出す。軽快な音を鳴らしながら、滑らかにキューブは回転する。
「僕は、まだこのルービックキューブを六面揃えたことはない」
「ずいぶん慣れた手つきですけど」
「解けなくとも、知恵の輪をいじっていたらその扱いには慣れるだろう。なんでもずっとやってれば最初よりは巧みに使いこなせるはずだ」
すぐに一面を揃えて、医者はキューブを差し出した。
「ふむ、我ながら早い」
「一面ですけどね」
「一言余計だな、きみは」
「すみません」
まぁ、いいと言って医者はルービックキューブを指差した。少年をまっすぐと見つめながら、キューブを押さえつける。
「さてこのルービックキューブだが、壊れていると言えるだろうか、言えないだろうか」
「え、壊れていないんじゃないですか」
「だが六面揃っていない。“初期状態からは程遠い状態にある”」
「……それでも、やっぱり壊れていないとは思いますけど」
「ま、そうだろうな。結局、想定された設計の範疇だ」
さらに医者が力を込めると、ルービックキューブは瓦解した。ポロッと小さなキューブがひとつ取れて、それを皮切りに医者が全て崩した。残っているのは、バラバラになったルービックキューブとそれをはめ込んでいた軸だけ。
「さて、これは壊れていると言えるだろうか、言えないだろうか」
「……壊れている?」
「だが修復可能な状態だ。と言うより、この玩具の性質として“最初から備わっている機能”だ。これは分解できる設計の玩具、だろう?」
「不躾な質問ですけど、この問答、なんですか。前みたいな、医者としての診察?」
「うん? それは関係ないかな。僕の得意な例え話だよ」
すると、医者はキューブをはめ直していく。手際よく軸にキューブを全てはめこむと、先ほどと同じようにキューブを回転させる。また、色面がひとつだけ揃った。
「ま、僕が言いたいのは『心の病とは』みたいなところかな」
キューブを、少年の目線まで持ち上げる。
「このキューブは、そうだな。さっききみが“壊れている”と言った状態から回復した。心が異常な状態──精神疾患から快復したと見立てよう」
しかし、と逆説から入る。
「このキューブはしっかりとダメージを負っている。軸はすり減って、少し遊びができてしまった。外れやすくなった。しかも、僕は色面を気にせずかなり適当にキューブをはめたからね。六面が揃うことは、もうない」
そう言いながら、医者はキューブを再度外し始めた。確かに、先ほどよりも弱い力だった。軽く摘んで、引っ張る。それで次々と中心の軸からキューブを外していく。また、バラバラの状態になる。
「心の傷は一生残るとはよく言ったものだが、半分は不適切だと僕は思っている。時間と共に防衛本能で忘れるし、あるいは笑い話にしてどうにか消化しようとする。とはいえ『心の病に完治はない』というのもそうだろう。なんらかの形で、やはり不調は残る。さっきのルービックキューブみたいに、玩具を玩具たらしめる要素が外れやすくなったり、正しく機能しない可能性がある」
なかなか結論を喋らない医者の言葉が気になったのか、少年は口を開いた。小さな声で、医者の演説に割り込む。
「じゃあ、ぼくは、時間をかければある程度は回復するけど、完治は見込めないと」
「そうじゃないよ」
医者は、引き出しを開いた。工具がそこにしまってあったようで、ドライバーなどが見える。ネジや釘だったり、普段は使わないだろうが、たまに家具なんかの補修で使うような道具が。そこから、医者は金槌をゆっくりと引き抜いた。ゲームの勇者が聖剣を引き抜くような、緩慢な動作で。だが、纏う雰囲気はそれとはあまりにも乖離して。
「次が最後の質問だ」
──医者は、大きく振りかぶり、ルービックキューブを砕いた。机の天板がへこむことすら気にする様子もなく、ルービックキューブを壊すことにも躊躇せず、振り抜いた。ドガンドガンと鈍く低い音。跳ねるように机と上の物が振動し、キューブの破片が床にも飛び散った。殺人犯が人を殺しているのなら、その破片は血飛沫だったろう。鬼気迫るというよりも、あまりにも淡々として、医者はキューブを砕き終えた。その様子が、より異常さを浮き彫りにする。少年は、未だにこやかにそれを見届ける。
「──さて、これは壊れていると言えるだろうか、言えないだろうか」
「壊れています」
「そう、疑う余地なんてないね。ここから修復はまず不可能だ。アロンアルファを使ったとして、完治どころかちょっぴり治すことすらできるわけがない。というか僕不器用だし。ルービックキューブ六面揃えられないし」
金槌を引き出しにしまいながら、医者は腰を掛け直す。
「まぁ、そうだな。これから僕がやろうとしているのは、それくらい無謀なことってことだ」
「……と言いますと?」
不敵な笑みを浮かべながら、医者は顎を上げ、少年を見下ろすように。
「──今後の生活の延長線上で、きみの“不治の心の病”を検査する。おそらく治すことは無理だ。諦めるんだ。それでも、原因や仕組みなんかはわかるかもしれない。粉々になったプラスチック片から、元の形はルービックキューブだったって推測するように」
医者らしくない医者は、そうして病と相対する。一目するだけで、わかってしまうほどに。粉々になったルービックキューブをみて、修復不可能を判定するように。すでに治療不可能と判定した少年の病に対峙する。
「僕のことは“篠宮”と呼んでくれ。これからよろしく、少年」
医者は、少年の前に手を差し出した。プラスチック片だらけの、その手を。