「篠宮? 多分今いるけど……呼んでくる?」
「お願いします」
「おーい、篠宮、お前に用があるらしいぞ〜」
先日体育館近くにて篠宮と接触した一筆は、後日葉山も交えて各教室に聞き込みをしていた。嘘か本当か定かではないが、同じ学年と言っていたので同学年のクラスを網羅するように聞き込みをする。総クラスは八つ。一筆と葉山は一組から聞き込みをはじめ、最後の八クラス目でようやく篠宮姓の生徒を見つけた。高校生の短く貴重な休み時間を消費しながら探し続けた末、二人の前に現れたのは──
「あ、え……? 俺に、何の御用で……?」
「……誰?」
昨日話した“篠宮”とは似ても似つかない別人だった。背の高い男子。メガネをつけていて、身長差も相まって猫背が強く強調されている弱気な男子生徒だった。嘘を淡々とつけるような肝の据わっている様子はまるで見受けられない。葉山から見ても、事前に聞いていた篠宮の印象と乖離しているため、すぐに「人違いでした!」と叫んだ。
すぐさま二人は教室を後にして、自クラスへとんぼ帰りをする。長い廊下を早歩きで抜ける。すでに予鈴の近い生徒たちが席についているのを横目に教室へ入る。そそくさと席につくと、隣同士の二人は顔を突き合わせた。葉山が一筆に迫るような形だ。
「ちょっと……言ってた人と全然違くない? もっと飄々としてるのかと……咄嗟に人違いですって言っちゃったけどよかったの?」
「よかったですよ……あれは間違いなく別人ですから」
間違いなく間違いであることを肯定しながら、一筆は上体を起こした。
「昨日は言いそびれていましたけど、篠宮さんは“心が読めなかったんです”。あの別人は読めました。間違いないですよ。別人です」
「え」
ここで遅ればせながらではあるが、葉山は一筆の秘密を知る数少ない人物だ。家族を除けば、現状彼女にその能力が備わっていることを知っているのは暫定的に葉山──そして篠宮もおそらくそうである。このことはすでに帰り道でざっくりと共有済み。葉山の反応はかなり強いものであり、より懐疑的な感情を募らせていた。
葉山は高校入学当初、心が読めてしまうことで少し不安定気味な一筆に最初に声をかけた人物である。それをきっかけにして入学初期の交友関係の不安をお互いに埋めるようにして仲を深め、昨年夏季休暇での旅行の時にはその秘密を打ち明けられていた。
「でも、だったら篠宮姓の生徒はもういないよ? 同学年の教室は全部聞き回ったし、篠宮って人は同い年、って言ってたんでしょ」
「う〜ん……となると、なんなんですかね。真っ先に思い浮かぶのは学年か姓で嘘を吐かれていたとかですけど」
出会って早々「心が読めるという噂を聞いた」などと口八丁を食らわせる男だ。学年や苗字くらい適当を言っていてもおかしくはないし、もっと言えば存在自体が嘘であると言われても納得できてしまうような奇妙な雰囲気すらある。直接対面していない葉山にそれを理解するのは土台無理な話だが、一筆はその可能性を真剣に考慮していた。状況的にもそれが筋が通る。
「仮に偽名を使われていたとして、じゃあなんで『篠宮』の彼に面影を感じたのかってなるけどね」
「……もう一度、昼休み同じ場所に行ってみましょうか。いつも同じところに出没するかは分かりませんけど、本人に会うのが一番手っ取り早そうです」
いつもよりも昼休みがくるのを待ち遠しく感じながら、授業を受ける。四限が終わると、葉山は他の友人の誘いを断ってまで一筆についていった。二人で弁当を抱え、体育館近くのベンチへと。
「……よかったんですか」
「何が?」
「友達、お昼誘われてたでしょ」
「いーの、一番仲良いのは結局一筆だしね。というか、そのくらい心を読めばわかるでしょ」
「……そういうのは、できるだけ読まないようにしてるんです」
面はゆい思いで一筆は顔を背けながら、葉山と並走する。肩と髪が揺れ、時折通る学生の横を通り抜け、渡り廊下に出ると乾いた日差しが出迎えた。その先には、人影が一つ。ベンチに腰掛けている男子生徒が目に入った。
篠宮だ。先日と同じ場所、同じ風貌で座っている。二人は近づき、背後から声をかけた。緩慢な動作で、篠宮は首を反らせる。首を空に曝け出すような体勢で、髪が重力に従って落ち、白い額を見せていた。
「ん? あぁ、一筆さんか。隣にいるのは誰だい」
「どうも〜、私は四組の葉山。一筆の友達やってます!」
「それはそれは、よろしくね葉山さん」
座っている篠宮の手の中を見ると、ルービックキューブが握られていた。くるくると回転させ、一面だけが揃っている。今は白色の面が上を向いていた。
「先日は本で、今日はおもちゃですか。忙しい人ですね」
「前にルービックキューブをよく使っていたことを思い出してさ。たまには頭を使った遊びをしたくて」
手際よくキューブを回転させると、また別の一面が綺麗に揃った。今度は緑色だ。
「あー、座れば? きみたちまだお昼もまだでしょ」
「そういうあなたはどうなんですか? 随分早くからここに来ていたみたいですけど、食事はまだじゃ?」
「動物の中には、数ヶ月食事をしないやつもいるらしいよ」
「あなたは人間ですけど」
「そりゃそうだけどさ……」
言いかけたところで、篠宮はわざとらしく何かを考え込むように顎に手を添えて上を向く。やがて彼はルービックキューブを一筆に押し付けた。「持ってて」とだけ言って、その場を去る。何か買ってくるらしかった。
二人になったところで、静寂が訪れる。先に口を開いたのは葉山だった。
「……ひゃ〜、ほんと、一筆の言ってた通りに掴み所のない人だね。というか、なんでこんなところでルービックキューブ? ちょっと変な人じゃない?」
「ちょっとというかかなりの変わり者だと思いますよ。あいかわらず心が読めませんからね。何考えてるのか全くわからないですし」
「昨日の不調とかじゃなく、やっぱり読めないんだ。どうして読めないのかはわかるの?」
「全くわかりません。今までこんなことはなかったですし、まさかまさかとは思いますけど、本当に何も考えてない人とかなのかも」
二人は空席となったベンチに腰を下ろした。端に篠宮が座れるだけのスペースは確保し、身を寄せ合う。四人がけのベンチだから、それほど窮屈ではなかった。時間もそう多くはないのでさっさと弁当を食べ始める。
「……いや、何も考えてないことはないでしょうね。嘘をつけるだけ頭を使っている。それなら、やっぱり心が読めないとおかしい」
「でも読めない。うーん、本当に読めないの? というか、今までこんなことはあったの?」
「ないない。物心ついた時から心は読めましたけど、こんなことは一度もなかった」
未だ一筆本人でさえ謎が多い能力だ。心が読めるだけではあるが、その悪影響は計り知れない。人の内面を全て垣間見ることができるのだ、本来は存在するはずの遠慮やオブラートなどといった婉曲的な表現、行動も関係がない。誰かが悪意を抱いたのならそれが直に伝わってしまう。そんな人生を生まれた時から続けている。
「……強いよね、一筆は」
「はい? 急に何?」
「いや……ちょっと思っただけ。その能力はさ、一筆にとって大変な物だったんだろうなって」
「……確かに、こんな力なくなればいいのにって思ったことはありましたよ」
日々流れ込んでくる情報量は常人の倍以上。話し声に上乗せされて心の声が響いてくる。多種多様な声で、人間の欲望に忠実な声。暴力性や性的なもの、悲観的なものや希死念慮。聞いているだけで心がおかしくなりそうなものばかりだ。
「前に、駅のホームで並んでいた時でした」
一筆は、一度箸を置いて渡されたルービックキューブを回しながら話を始めた。かちゃかちゃと、慣れない手つきでキューブを回している。視線はそちらに向いていて、あえて葉山を見ないようにしているようだった。
「私の前の人が、自殺をしようとしていたんです。心の声が、鮮明に聞こえてきた。気持ちの強い人ほど、大きくクリアに聞こえるんですよ。その人は、死にたがっていた。強く、強く、本当に強く願っていた」
どうやらその人物は、職場環境の悪さと人間関係の破綻。さらに財産を恋人に全て持ち逃げされたということで鬱症状を呈していたらしい。心の声が聞こえるデメリットは、こういうところにもある。人の辛い過去に、必要以上に踏み行って共感してしまう。他人事でいられるはずのところを、自分のことのように捉えてしまう。
「心の声を聞けば聞くほど、その人のことを死なせてあげたほうがいいと思ったんです。死ぬ以上に生きることが辛い、って言う感情が強かったのを覚えています。死なせたら電車が止まって困るとは思いましたけど」
当時の一筆の感情はその人物に共鳴していた。心臓が早鐘を打ち、額からは汗が噴き出す。視界は瞠目として、色彩を欠いていく。必要以上に感情移入した先にあったのは、「死なせてやらなければ」という使命感にも近いものだったという。
死刑執行人のような、あるいは死の見届け人たる死神のような。自分の前に横たわる生死の境目。行動次第で生かすも殺すも自由な悪質トロッコ問題。実際はトロッコではなく電車である訳だが。
「その気持ちを無視して、結局私はその人を助けました」
「……助けたんだ」
「飛び込みそうになった時に、手を引っ張りました。あの時は、体格に似合わない怪力が出てたかも」
しかし、案の定というべきかその人物からは感謝されることはなかった。むしろ、罵られた。涙を拭い、うわずった声を上げながら途切れ途切れの言葉で、一筆を罵倒した。「なぜ死なせてくれなかった」「お前に私の気持ちがわかるわけない」と、その人は警備員に連れていかれるその時まで泣いて、喚いて、一筆を罵った。
「でもやっぱり、私は助けてよかった。この力があってよかった。エゴなのはわかってますけどね。それでも、人は報われるために生きなきゃならないから」
世界は残酷で、醜い。そんなところに生まれてきてしまった以上、幸福とは自ら迎えにいかなければ手に入れることはできないのだ。
「……一筆は──」
葉山が言いかけたところで、通路出入り口の方に篠宮が歩いてくるのを見た。一筆の頭ごしにそれを確認すると、ひとまず葉山は言葉を飲み込む。
「大丈夫ですよ。言われなくとも、私はわかってます」
親友の言葉に頬を緩ませながら、一筆は戻ってきた篠宮を隣に座らせる。彼は質素な携帯食を持っていた。一筆は預かっていた玩具を彼に返す。
「お、ガールズトーク? 僕も混ぜてよ。あの女が嫌いだとか彼氏の数とか実家の太さの自慢大会するやつだろ?」
「あなたひねくれすぎじゃありません? 女子をなんだと思っているんですか」
「天使かな」
「悪辣な天使もいたものですね」
そう言いながら、一筆はルービックキューブを篠宮へ押し返した。
「ところで、僕に用があったんじゃないの? わざわざ食事のためだけにきた訳じゃないでしょ?」
「ん、そうですね。ちょっと、確かめたいことが色々とありまして」
口に含んでいるものを嚥下すると、一筆は箸を置いて篠宮へ体を向ける。葉山は耳だけそちらに意識を向けていた。
「最初に聞きたいのは、まずあなたの苗字は篠宮なのかということです。各クラスに聞いて回りましたけど、篠宮姓の人は一人しかいませんでした」
「僕は篠宮だよ」
「……真面目に回答する気はないんですね」
「いや大真面目さ。僕は、篠宮だ。それは間違いない」
「まぁいいです」とだけ言って、一筆は呆れたように息をついた。
「本題は別ですから」
「何?」
「ずばり、私の忘れているものというのは『あなた自身』かということです」
姓が偽りであろうがなかろうが、一筆は目の前の人物の振る舞いに既視感を覚えていた。飄々とした口調、ペラペラな性格。特徴的だからこそ、間違えようがない。
だが、篠宮の答えは一筆の欲するものではなかった。
「んー……そういう発想になるのか。残念だよ」
「それは、間違っているということでしょうか」
「そう。けど、なるほどな、解けるだろうという問題を生徒に提示して間違えられた時の教師の気持ちはこんな感じか。悲しいよ」
「だったら、なんだって言うんですか。私の忘れているものって、一体」
詰め寄るように、一筆は篠宮に迫った。膝に乗せていた弁当の上方から、あらゆる変化を逃すまいと彼の顔を観察する。だが、そんな彼の表情は全く変わることはなかった。泰然自若としている。それどころか、一筆のことを無視して残りの携帯食を平らげてしまった。「ご馳走様」とだけ言うと、彼は立ち上がる。一筆の正面に立った。演説でもするかのように、二人がちょうど視野に収まるように。
「ま、そこまで気になるのなら教えてあげようか」
「ちょっと待って」
そこで口を挟んだのは、葉山だった。食事を終え、すでに弁当箱を畳んでいる。
「どうしたの?」
「根本的な話、なんで篠宮は一筆の知らない記憶を知ってるわけ?」
「その知らない記憶に含まれている人物の一人だからだよ」
「……どんな記憶にしろ、どうして思い出してほしいの? それは、あなたにとってそこまで重要なこと?」
「大切なことだよ…………というか、言い振りからして──きみも何か知ってるんじゃないの?」
「………………」
黙りこむ葉山。その表情には、一筆が今まで見たことのない明確なほどの──敵意。いつも快活な少女だからこそ、その無表情が他ならぬ敵意の示唆であることが強調されていた。恐る恐るといった様子で、一筆は彼女の名前を小さく呼んだ。意識朦朧としている友人を呼び止めるように、引き戻すように。すぐに、葉山はパッと表情を明るくして普段通りに振る舞う。
──その切り替えは、一筆に心を読まれないようにする努力にも見えた。
「じゃあ、一筆さんの質問に答えようか。まず間違いを正すのなら、きみの思いだすべき記憶は
「よかったですよ。あなたみたいなのが元カレじゃなくて」
「だけど……そうだな……どうやらきみは、“記憶を失っていない”と勘違いしているらしい。解離性健忘に近いかもね。その後に都合よく解釈して記憶が補完されている感じだ」
精神科医を気取ったように、篠宮は自信たっぷりに語った。掴みどころのない回答に、一筆も葉山も怪訝な表情を浮かべる。
「なら、その”勘違いしている記憶”ってなんですか」
「それを考えるのはきみの仕事じゃないのかい。クイズ番組のヒントがほぼ答えだとシラケるだろう。ほら、ゲストとかが大物だとやりがち」
「私、テレビ見ないので」
「時代だねぇ」
露骨に悲しむような動作をする。はたから見れば、劇場の役が演技しているような、わかりやすい感情表現だった。現実で目の当たりにするとわざとらしい。
「まぁ、焦る必要はないよ。僕としては、徐々に徐々に思い出してくれる方が嬉しいからね」
「他人に自分の記憶を知られているというのは、いい気分じゃないですね」
「だったら自分のものにしてみなよ。必死こいて思い出すことだね」
それだけいうと、篠宮はベンチ横を通り抜けた。もう話はないと言わんばかりに、手を振って姿を消す。それにもかかわらず、葉山は依然として彼に対しての敵意を拭いきれていなかった。漏れ出ている敵意を、一筆は鋭敏に拾う。心配するように、葉山に手を添えた。
「葉山? どうしたの。さっきから、篠宮さんに悪意が……」
「──あ、いや、ちょっとね」
「なんで私がいいように言いなりになっているかが、心配なんだよね」
「隠し事はできないね。さすが」
「気にしなくても、大丈夫ですよ。私はただ、忘れているらしいものを思い出したいだけです」
人間として自然な本能。自分から欠落しているものを取り戻したいという感情。だが、世の中には”知らないほうがいいこと”も少なからず存在する。それが今回のケースに適応されるかは定かでないとしても、知らぬが仏という言葉は、そういうことが言いたいはずなのだ。
そして葉山は、それを理解している。よくよくわかっている。知らぬが仏──”だからこそ”、彼女は立ち上がった。昼食を食べきっていない一筆を置いて、彼女は駆け足で篠宮を追った。そう遠く離れていない。篠宮と再開したのは、薄暗い場所だった。校舎でも人の通りが少ないところで、使われていない小汚いトイレがある場所の前。幅広の廊下で、葉山は声をかけた。
「ん? あぁ、葉山さんか。”都合が良かった”よ。さっきの感じからして、ちょっと二人で話したいと思っていたところだったから」
「奇遇だね。私もだよ。もしかしたら私達、相性がいいのかもね」
葉山は頬を張った。できるだけ自然にみえるように。彼女が友人たちに見せる笑顔を遜色のない、当たり障りのない無垢な表情。眼の前にいる人物が、”敵”ではなく友人として。寛容な心を持てるように、彼女は自分に言い聞かせる。一度深呼吸を挟まなければならないくらい、感情が煮えたぎっていたから。
「話す準備はできたかな」
それすら見透かしたかのように、篠宮は確認をする。「おっけー」とだけ言って、葉山から言葉を切り出した。
「じゃあ言わせてもらうよ──あんた誰。わざわざ”一筆の記憶を掘り起こそうとするなんて、いい性格してるよね?”」
塞ぎ込めないほどの敵意が、漏れ出した。それを受け止めても、篠宮は動じずに対話する。
「こっちが聞き返したいくらいだぜ。やっぱり、きみ、彼女が心を読めることと”記憶”の両方を知ってるでしょ」
「そっくりそのままお返しするよ。そんでもって、”記憶”のことを知ったうえで、なんで思い出させるなんて非道な真似ができるわけ?」
それは、一筆すら知り得ない事情だった。本来、一筆が喪失している記憶は誰も知らない。本人すら”忘れているということ自体を忘れている”のだから。そして、だからこそ記憶についての足がかりを保持している篠宮を猜疑的に感じていた。
同時に、それは葉山にも言えることである。葉山も、要素としてだけは篠宮に近い。心が読めるということを知っていて、かつ記憶についても知っている。一筆が気にかけないのは、ひとえに葉山がそれを明かしていないから。
──というより、明かそうとしないから。
「なかなかきみも冷たいよね。友達なら、記憶を思い出そうとしている彼女に協力して上げればいいのに」
「”結果何が起こるか”を、あなたは知らないの?」
「いいや、知っているとも。よーく知っている」
二人の距離は、紙一重だった。一歩踏み出せば、お互いに手の届く距離。近いとも、遠いとも言えない。葉山の敵意の表れでも会った。臨戦態勢でもあり、逃走できる耐性でもある。原始の時代から培われてきた抗争の間合いが、二人の間に生じている。篠宮が一歩近づくと、磁石のように一瞬遅れて葉山が後ずさった。
「だったらなんで、一筆の記憶を掘り起こしたがるの」
「化石の埋まっている場所がわかったら、そこを一生懸命掘るだろう。ダイナマイトや掘削機を使わず、丁寧に時間をかけてゆっくりと」
「あなたには、“アレ”が化石に見えるの?」
「ある意味そうだとは思うけどね」
くすくすと笑いながら、篠宮はさらに葉山に近づいた。
「いいかい。よく聞いておくんだ」
後退りする葉山は、背中に冷たい感触を得る。壁に衝突したのだ。慣性に従って、頭部がコツンと壁にぶつかる。眼前まで迫った篠宮の目を見た。そこで初めてまじまじと見たその男の目は、感情を読み取ることができない。葉山を敵対視するような感情も、歓迎するような感情も。無関心という割には、あまりにもよく喋るその口で。
「このまま記憶を取り戻せないのなら、一筆さんは死ぬよ」
「──は? 何を言って……」
「遅効性の毒ってのは、飲んですぐには気づけないもんだろう」
葉山の耳から、音が遠のく。葉が打つ音、鳥のさえずり、生徒の声音、その全てが遠くへと消えていく。ただし心臓が早鐘を打つ音は近づいてくる。一音一音ごとに、耳のそばまで迫ってくる。
篠宮の言っていることは事実だ。葉山は、それを直感で理解した。理由は何よりも単純で、最低だ。
「毒は、いつ回り切るのだろうね」
──篠宮は、その状況を楽しんでいるようだったから。