ルービックキューブはいつ壊れるのか   作:最中庵

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※本文は推敲前の小説です。誤字脱字があれば遠慮せず指摘をいただければ幸いです。
※作者も投稿後に推敲するので物語に少しの変更がある可能性があります。


少年 第二章 幸福とは

 肉親から虐待をされ、果てには路上生活をしていた少年。体中に包帯や生傷が目立っていた彼は、精神科医の男──篠宮に保護された後、快復した。二ヶ月近い時間を要したものの、負っていた物理的な裂傷や擦り傷は全て跡も残すことなく消えた。

 そして二ヶ月という時間で、二人の間には奇妙な関係が生まれつつあった。不幸を無意識的に求める少年は、幸福の家である篠宮の元を離れようとする。しかも、篠宮が取り逃せば自殺未遂に走る危険性が非常に高かった。実際、療養中に数回ほど自殺未遂を起こし、新たに傷を作ることも珍しくはなかった。

 そんな精神状態の少年を、篠宮はあえて放置。彼の持つ”不治の精神疾患”の現状維持に努め、その調査を繰り返していた。

 

「ところで少年、あの日どうして路上生活をしていたんだ」

「親に捨てられたんです」

「そうじゃなくて、ほら、捨てられた理由だよ」

「邪魔くさかったらしいです。慎ましく生きられない人は、邪魔だって」

 

 中学生が終われば、義務教育が修了するからというのもあるのかもしれない。そう篠宮は推測しながら、コーヒーを啜った。彼の生活環境も大きく改善されていて、少年が彼の世話をするような形だった。散らかっていた机の上もある程度きれいに整頓され、部屋の掃除も定期的に。食事や給仕も的確にこなし、まるで使用人のような立ち位置になっている。本人が志願したことであり、それを篠宮が止めたものの「あまりにも幸福が続くならまた自殺衝動を抑えきれなくなりますよ」と脅されこき使うことにしている。それで満足そうにしている本人に複雑な表情を浮かべながら、篠宮はコーヒーのおかわりを指示した。

 テキパキと少年は用意を始める。

 

「きみも随分ここに馴染んだよねぇ。喋りも大分流暢になったし、動きもぎこちなさが減ってきた」

「何でもずっとやっていれば、最初よりは巧みに使いこなせるはずだ」

「僕の言葉か。二ヶ月前に言ったことをよく覚えてるね」

 

 少年からコーヒーの入ったマグカップを受け取りながら、篠宮は書類を整理していく。その中には患者を管理する書類。精神科医として必要になってくる学術書や診断基準の記されているモノ、郵便受けから引っ張り出してきだだけであろうチラシなどが散見された。その中でも、丁寧にまとめられた書類束が少年の目に留まる。ひときわ分厚い書類で、上には赤ペンが置かれていた。メモも大量に書かれている。さっとそれを篠宮が下げると、少年を隣に座らせる。少年を蝕んでいる”不治の病”の調査の一環だ。対話形式で少年の情報を篠宮が引き出す。

 

「まぁ、そろそろ色々わかってきたけどね。この日課を欠かすことはできないから」

「ちなみに何がわかったんですか」

「治せないこと」

 

 はじめから分かっていたことを口にしながら、篠宮は紙とペンを用意する。

 

「色々きみのもっている精神疾患の可能性は考慮できる。少なからず、PTSDは患っているとみていいだろう」

「少なからず、ですか。併発している可能性があると」

「まぁ~ね~……」

 

 カタカタとパソコンを弄りながら、少年に関連する資料にも目を通す。

 

「そ、う、だ、ね~……きみの場合、特殊だからどのくらいの程度の精神疾患をどのくらいの数もっているのかは丁寧に検討する余地がありそうだ」

 

 二ヶ月という時間を用いても篠宮がその程度の情報しか確定できていないのには複数の理由があった。その中でも、最も大きな障害となっていたのは少年自身にかけられたマインドやバイアスが大きく影響していた。特に少年がことあるごとに口にするのが『慎ましく生きなさい』という言葉。幸福に驕らず、苦労を理解できるような人間に──という、少年独自の解釈なのか親から仕込まれた観念なのか区別のつかない答えを好んで使っていた。幼少期から親に仕込まれてきたものであろうそのバイアスによって、篠宮の質問に直接的な回答を避けがちな傾向が強い。つまり、”少年の本心が語られることは極端に少ない”のだ。慎ましく生きろと親に言われたことが影響しているのか、感情を殺していろと言われたことが影響しているのか。どちらにせよ、少年にかけられたバイアスは強固なものだった。

 

「なんでもいいから正直に話してほしいところではあるんだけど……好きな食べ物とか何?」

「口にしても血がでないものなら」

「トゲ鉄球でも食べてる? ガボンかよ」

「なんですか、それ」

「マリオっておっさんがピーチって姫を助けるゲームの敵キャラ」

 

 狙いすまし回答が得られない。悲しいほどに自己決定の意思がもがれた少年を篠宮は見た。さながら露頭に迷う雛鳥のように。しかも、その羽根はもがれて。どこに飛ぶことも決めることができず、飛ぶことすら叶わない。そんな状態の少年は、近いようで遠い。そこにいるはずなのに、全く違う世界で生きているかのような感傷を覚える。

 

「まぁきみのことだし、世界一有名なゲームも知らないか」

「……チェス?」

「そうだけどそうじゃないな。というかチェスはわかるんだ」

「二ヶ月の間に、少し」

「ルールわかるならやってみようか。今チェス盤引っ張り出してくるよ」

 

 もう少年のカウンセリングはやめにしたのか、篠宮は机上のものを片付け始める。すぐに少年がそれを引き継ぐと、これまたテキパキと書類やパソコンを丁寧にまとめわかりやすいよう、机の端に寄せた。篠宮は普段使わない物入れからホコリを被ったチェス盤を取り出してきた。ホコリを払うと、盤を机の上に広げ、コマを並べ始めた。白いコマを少年側に、黒いコマを篠宮に。篠宮が先手を譲るという意思表示だった。

 

「チェス盤なんてもってたんですか」

「昔友達と遊んでたんだよ。毎回僕の負けだった。得意じゃなくてね」

 

 少年からコマを動かし始め、快調に盤面が展開されていく。ただ、展開の速度が早かった。篠宮の長考に対しても、その半分以下の時間でコマを的確に動かしてくる。おおよそ二ヶ月程度の初心者とは思えないほどの、美しいとまで感じられる打ち筋。

 

「ずいぶん、うまいね。まるで三手先が読まれているみたいだよ」

「いえ……なんというか、暇な時ネットでチェスAIとやっていたので、そこで出てきた盤面はある程度覚えてるんです」

「記憶力が化け物じみてるな」

 

 手番を進めれば進めるほど、少年の手は加速する。篠宮が主要なコマを取られたところで、一気に前線を押し上げる。持ち時間を設定している公式な勝負ではないが、篠宮も焦って素早く対応しようとし、ミスが増える。最終的にはビショップでのチェックメイトにより篠宮の敗北だった。

 

「──嘘だろ。こんなに早く負けたのは初めてだ」

「先生はAIのレベルで言うと大体七くらいでしたかね」

「最大いくつなの?」

「十」

「きみが勝ったことあるのは?」

「九までです」

「ちくしょう……」

 

 篠宮は項垂れながら、もう一度コマを並べる。「もう一回だ」と言いながら、今度は篠宮が先手をとる。文句を言うこともなく、少年は再度勝負を受け、早指しのような展開の速さを披露。先手で有利を保持している篠宮に対して圧倒的な速度と的確さで追い詰め、先ほどよりも早く勝利した。

 

「待て待て……さっきよりも強くないか?」

「さっきより先生の使っているオープニングが弱かったので」

「オープニング……? あぁ、将棋で言う“囲い“みたいなやつか……」

「もう一戦やりますか」

「やらせてくれ。世界一有名なゲームで負けっぱなしってのは、ちょっと癪だ」

 

 珍しく篠宮が感情を露骨に表現しているのに目を瞬かせながら、少年はコマを再配置した。ハンデと言わんばかりに、篠宮に先手を譲る。最初は少し不服そうにしていた篠宮でも、コマに指をかけると真剣な表情になった。両者とも、定石通りの攻撃の応酬がされる。

 攻撃が苛烈になり始めた中盤戦。お互いのコマの射線が入り乱れる盤面で、少年の手が止まった。

 

「……先生は、怖くないんでしょうか」

 

 二ヶ月。その期間で、初めて少年の方から話題を切り出した。少年のコマをつまむ指先がわずかに揺れる。

 

「怖いって、どうして?」

「ぼくは、こうして定石から外れた手を打つのが苦手です。先生は、自信に満ちた動きをする」

「単純に僕が下手くそだからじゃないのかな。バカは自信たっぷりなんだぜ。考える脳みそは空っぽなくせに」

 

 少年の置いたコマは、篠宮からでもわかるほどの悪手だった。タダで討ち取れるコマの配置。孤立無援で、サクリファイスの可能性もない。わかりやすく例えるのなら、壊れたネズミ捕りに特大のチーズをおいているようなもの。迷わず篠宮はコマを取る。盤面は一気に篠宮優勢となる。

 

「ほら、やっぱり」

「今のはきみの悪手だ。わかっててやったの?」

「打った後に悪手だと気づきましたよ。やっぱり、中盤戦は苦手で」

 

 ウロウロとコマを掴んだ手を彷徨わせている少年を見据えながら、篠宮はチェスプレイヤーとしての思考から精神科医としての思考へとシフトする。目の前にいるプレイヤーではなく、患者を見て、冷静に分析する。八×八よりも大きな盤面。心という、広大な未知に挑む。

 

「……『慎ましく生きなさい』。それは、きみの口癖だった。不幸を求める時、きみは必ずそう口にした」

「親にそう言われたもので」

()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 二人のコマは、雑然と並ぶ。長期化しているゲームで、盤面が複雑化して来ていた。

 

「最初、きみがその言葉を口にするのは単純な理由だと思っていた。おおよそ、誰かの言いなりになる以外の生き方を知らないだとか、思考を放棄するための奴隷願望だとか。それならまだよかったのかもしれないね」

 

 それも間違いではないのだろう。少年は幼少期から母親による身体的・精神的な虐待を受け、自由意志を全て剥奪されている。言いなりになることが彼にとっての普通であり、自由は先ほど言ったように恐怖の対照でもある。彼にとっての異常であり未知なのだ。

 

「だが、きみは破滅願望を口にするときも必ずセットで『慎ましく生きなさい』という言葉を口にする」

 

 前述の通り、慎ましく生きるという解釈が『幸福に驕らず、苦労(不幸)を理解できるように』という意味なのかもしれない。しかしその解釈は本来の“慎ましさ”の意味から外れている。謙虚さを重んじるための慎ましさなら、幸福に驕らないだけでいいはずだ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()() 

 

「慎ましさという部分が、かなり曲解されているように思う。不幸をその身で理解しようとする必要はないはずだし」

「親からは、そう言われたもので」

「自殺未遂と言う不幸を繰り返すきみに、親は辟易していたようだったけどね」

 

 少年のコマが一つ取られた。

 

「だけど、疑問が残るんだよ。単純だけど、一番大きな疑問だ」

 

 もったいぶらずに、篠宮は少年に疑問をぶつけた。

 

「どうして、そんな後付けの解釈を親の教えに盛り込む必要があったのか?」

 

 少年の環境は、反抗心すらも尽く削ぎ落とされてしまう劣悪な環境。それに伴い奴隷願望がこびりつき、少年は親の言いなりになることこそが正しいことであると思い込まされていた。

 ──にもかかわらず、奴隷の主である親の教えを曲解するには何かしらの動機がある。

 そしてその動機に、篠宮はある程度の検討をつけていた。詳細までを特定できるほどの情報量は手元にない。しかし、その曲解された親の教えの底には、少年独自の解釈が──()()()眠っているのだ。想定される中で最も最有力となるものは、劣悪な環境への適応。

 

「きみは、不幸だった。耐えかねるほどの不幸が、日常に溢れかえっていた。そして、それを正当化できるだけの概念を用意したかった。違う?」

 

 不幸を不幸のまま許容できるだけのメンタリティを作りたかった。そのために、彼にとって最も力のある──母親の教えに要素を盛り込むことで、許容せざるを得ない状態にまで追い込んだ。

 不幸を理解することが親の教えであると自分に言い聞かせることで、そうやって適応しようとした。

 果たして、少年の沈黙は続いた。チェス盤を眺め、先のニ戦からは目も当てられないほどに、少年の盤面は劣悪になっていた。自由度の増した中盤戦での脆さが彼には如実に出ている。

 たっぷり三分、時計の秒針が百八十回音を鳴らしたところで、少年は口を開いた。それこそ、秒針と同じくらいの声量で。篠宮と彼が二度目の邂逅を果たした時のような、か細い力のない声で。

 

「大体、先生の言う通りです。きっと、ぼくはそうやって自分に言い聞かせた。親の教えなら、無条件で従えるから」

 

 そしてそんなことをせざるを得なかったきっかけを、少年は話し始める。二ヶ月では一度も語られなかった、彼の本心が紡がれる。

 

「ぼくだって、最初からこんな感じじゃなかったと思います。昔は、不幸が苦しかった。とても、とても苦しかった。寒空の下で、誰の迷惑にもならないように、声を押し殺して泣いていたのをよく覚えています」

 

 懐かしむような、憐れむような目をした少年の目は、白黒のコントラストが強かった。白目に対して、どす黒い濁りのある黒目が際立っている。あらゆる人間の詮索を拒絶するような目。

 

「先生は、なんのために人は生きていると思いますか?」

「人間に生きる意味も理由もない」

「本当に、そうでしょうか。ぼくは、そう思いませんよ」

 

 少年の頬が少しだけ緩んだ。慈愛に満ちた、優しい笑みだった。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 誰よりも不幸を求め、不幸を知っているであろう少年は言い切った。曖昧にはせず、断定する。

 

「どんな人間でも、そこは譲れないはずです。恋をする人は、結婚という幸福に向かっている。仕事をする人は、財産という幸福に向かっている」

「けれどきみは不幸を求めている。ちゃんちゃらおかしな話だとは思うけど」

「別に、ぼくの言っていることは矛盾しませんよ」

 

 篠宮の提言にも物怖じしない。初めて、それが初めて篠宮の見た少年の”意思”だった。

 

「人が幸せになる方法は二つしかない」

 

 整然とした声で、少年は力強く言い放った。

 

「二つだけなんです。一つは『環境を変える方法』。もう一つは『自分を変える方法』のたった二つ」

「きみは、どっちを選んだの?」

「ぼくが取れたのは後者しかありませんよ。環境は、変えようがなかった」

 

「コップと水を、取ってきます」と少年が言うと、キッチンの方へと足早に向かった。彼が腕に抱えて持ってきたのは、冷蔵庫にしまってある二リットルペットボトル。それと、四つのコップだった。三つは同じ容量だが、一つだけ二回りほど小さい。

 

「そんなもの、何に使うの?」

「先生の得意な、譬え話ですよ」

 

 少年は、同じ容量のコップ三つに水を注いでいった。一つは二割程度、一つは半分ほど、一つは八割程度まで水を注ぐ。便宜上、少年はその水量の異なるコップをそれぞれ『ラージ』『ミディアム』『スモール』とした。ファストフード店なんかでも使われる、ドリンクなどのサイズで馴染みのある呼称。そのうち、少年は『スモール』を手で覆って隠した。

 

「さて、今見えているコップで、量が多いのはどちらでしょう」

「そりゃ、『ラージ』でしょ。”ラージ(多い)”なんだから」

 

 次に、少年は『ラージ』のコップを手で覆って隠した。

 

「では、今見えているコップで量が多いのは?」

「そりゃあ、『ミディアム』に決まってる。”スモール(少ない)”じゃないんだから」

「さっきは、『ミディアム』のほうが少ないって言っていましたよね」

「サイズ規格ってのは、そう決まってる。当たり前のことだし」

「そう、当たり前なんですよ」

 

 まず、改めて『幸福の定義』からおさらいすると言って、少年は学校の先生のような仕草を見せた。だが、どうにもディティールが雑というか、ぎこちないその真似は、篠宮の顔をわずかに険しくさせる。

 

「幸せの定義は簡単です。さっき見せたように、幸せは『事象の相対評価』──『スモール(不幸な人)』からは『ミディアム(普通)』が満たされているように見えて、『ラージ(幸福な人)』からは『ミディアム(普通)』は不足しているように見える」

 

 少年は、『ラージ』に水を注いだ。少しずつ、水量を増していく。

 

「『環境を変える』ことで幸せになるのは、大抵のことに言えることだと思います。例えば、お金に困っているのなら、貯金や節約を積極的にするとか。あるいは人間関係で困っているのなら、相手との縁をいっそ切ってしまうとか、改善できるように努めるとか」

 

 その全てに共通しているのは、能動性があることだと少年は言った。発生している問題に対して、自分から積極的に処置を施していく。未来性を担保した、フィードバックを修正するような手法。

 その能動性を、彼は水で表現した。『環境を変える方法』で求められる、自分を満たすための要項として、(幸福)をどんどんと注ぎ込む。不足分を自ら追加していく能動性。最終的には表面張力でコップのフチギリギリまで水を注ぐ。誰がどう見ても満たされている状態だった。

 

「当人の努力によって心というコップをどうにか満たそうとする。そうやって、際限なく幸福を目指すのがこのやり方です」

「まぁ、ごく一般的なことだね。『自分を変える方法』っていうのは?」

 

 ようやく、ここでもう一つのコップを机に出した。二回りほど小さなコップ。それを『スモール』の隣においた。

 

「ぼくは、その方法を表現として”心を貧しくする”とも言っています」

 

 小さなコップに、全体の二割程度しか入っていない『スモール』の水を移していく。一滴たりともこぼすことなく、その全てを移し替える。そうすると、小さなコップはおよそ半分ほどまで水が入ることになった。

 

(幸福)を増やせないから、コップ()を小さくする。水量は変わらないでしょうが、先ほどよりも満たされている」

 

 先ほどとは対照的に、これは消極的な方法だと少年は述べた。自ら幸せになろうとする意思を完全に捨てて、不幸を不幸のまま受け入れるだけ。心を限りなくすり減らして、貧相にして、ひもじくさせることで幸福の蜜を甘くする。

 限界以上に心を貧しくすることができれば、あらゆる事象に対して満足できるように進化する。

 

「水の量は変わっていないのに、割合だけで言えば『スモール』は『ミディアム』と遜色なくなった」

「ただ……これは……」

 

 あまりにも報われなさすぎる。他人に肩入れすることの少ない篠宮でも、絶句する他なかった。贅沢は知るもんではないとよく言ったものだが、彼はその逆。不幸も不幸、どん底の更に奥深く。深淵に近づくことで、存在感の増した天から差す一条の光をありがたむ。深淵から仰ぎ見た空は、点よりも小さくていつしか何色だったかも忘れてしまう。

 矛盾はしない。少年が幸せになるために不幸を求めるのは、心を貧しくするため。相対的な幸福を得るために、彼は苦汁をなめている。先の例を借りるのなら、恋は結婚のためのタスクであり、仕事は財産のためのタスク。不幸は幸福のためのタスクとなるわけだ。

 

「もっと言うのなら」

 

 少年は、凛とした声で話していた。初めて述べる自分の意見だからか、それとも、ずっと秘めていたことを吐露できるからか。

 

「幸せになる方法は、究極的には一つだけしかないと思ってます」

 

 少年は『スモール』から視線を外し、『ラージ』と『ミディアム』に誘導する。溢れんばかりの『ラージ』を見て、篠宮は先んじて口を開く。

 

「……『幸福になるためには不幸になるしかない』ってことか」

「さすが先生ですね」

 

 『自分を変える』──心を貧しくする方法は言わずもがな不幸を呼び、『環境を変える』やり方でも、最終的には不幸になる。『ミディアム(普通)』の幸福では満足のいかない心が出来上がる。人間の欲望は青天井なのだ。水をどれだけ足しても、いつまでも満たされない。

 篠宮は、チェス盤に視線を戻した。白黒が散在する、複雑な盤面。

 

「なんとなく、きみのことを理解できた気がするよ。不幸をこよなく愛する姿勢は、幸福への布石だったってことか」

「えぇ、だから、ぼくは今でも不幸を求めています。いつか幸せになれるから、そのいつかのために不幸になる」

 

 そのいつかを盲目的に信じているのか、それともいっそ諦めてしまっているのか。自ら不幸を求め続ける以上、幸福が訪れない。篠宮は、あえてそれを指摘せず、何気なくチェス盤のコマを動かした。チェックがかかる。

 篠宮が顔をあげると、少年は普段通りの笑顔に戻っていた。ほのかに悲しみの色をにじませた笑顔。痛みを知っている人間のそれだった。

 

「よーくよくわかった。いいづらいことを言ってくれて助かったよ」

「久しぶりに沢山喋って疲れました」

「それで、おおよその精神疾患の予想はついてきた」

 

 少年もコマを動かすが、すでに手遅れ。残り数手で決着がつくところまで、彼の目には見えてしまっていた。

 

「まず、PTSDは患っていると言ったが、それは正しい。間違いない。それ以外にはパーソナリティ症も懸念される。更に言うなら──」

 

 精神科医らしい事務的なことを一通り述べると、最後に「そして、それは全て既知の病での診断だ」と制する。凪いだように、音が消え、少年の動きも止まる。

 

「きみの状態は最悪。徐々に回復させようとしたのなら、まずきみにこびりついているそのバイアスを解く必要がある。けれど、そんなことをしたらトラウマを受け止めきれるか不確かだ。というより、おそらく不可能だ」

 

 少年は、自らで不幸を蓄積させすぎた。不幸に適応できる精神に作り変えたのに、それを無理にでも正せば心が保たない。コップに一滴程度の水しか入っていなかったら、誰だってショックだ。それも、すぐに枯れてなくなる。

 つまり放置するしかないのだが、そんなことをすれば病はこれ以上に悪化する。再度、篠宮は「これは治療不可能の病だ」と念押し。

 

「本来、こんなひどい状態になるわけがないんだ。心が、すでに損傷しすぎている。致命傷だ」

「そこまでですか」

「沸騰した鍋に手を入れたら熱いだろう?」

 

 突飛な話題に、少年は首をかしげるも、すぐに篠宮の譬え話だと理解する。

 

「熱いから、反射的に手を引っ込める。これは人間の当然の防衛本能だね。火傷をしてしまうから、回避するためにそういう機能が備わっている」

「ぼくの場合、それがなかった」

「そう。きみは、迫り来る心への攻撃に対して鈍感すぎた。それは、ひとえにきみのバイアスによるものだ。不幸を許容し、あらゆるものが相対的な幸福に見えてしまう以上、どんな最悪でも受け入れてしまう。結果的に、きみは気付けないうちに大火傷。心が回復不可能な状態までに爛れた」

 

 心の傷なら、それこそうつ症状や統合失調症など、様々な精神疾患で現れる。だが、少年の場合諸症状が顕在化することなく、それら疾患の最重度まで病が進行している。

 

「大抵の人間だったら耐えかねて自殺を選んでいるところだよ。……いやまぁ、きみも自殺未遂をしているわけだけど。不幸を求める以上、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 死ねば、楽になれる。それを否定したいところではあるが、少年の場合そうはいかない。最低最悪の環境下で、手っ取り早く解放される方法はそれしかない。だから()()()()()()()()()()()()

 死んでしまえば、それは求める不幸ではなく、幸福になるから。

 

「先生は、ぼくのどこまでを理解しているんでしょうか」

「恐ろしいかい」

「……わかりません。心を貧相にしてきましたから、そういう感情は、よくわかりません」

「僕は恐ろしいよ」

 

 悲しそうに、篠宮は言い放った。

 

「あまりにも、きみの病は特殊な例だ。特別に僕が呼称をつけるとするなら『不可逆性不幸不全症』とでも名付けようか」

「”不”が三つも入ってますね」

「おしゃれポイントだよ」

 

 冗談を言いながら、篠宮は一度言葉を飲み込んだ。吐き出そうか迷っているうちに、少年と視線がかち合う。少年は、変わらない笑みだ。親に言いつけられて張り付いた、いつもの表情。絞り出したような、にじみ出てきたような──コーヒーを連想させる、抽出されたその笑顔は篠宮に言葉を選ばせなかった。オブラートも何も必要ない、婉曲的にも迂遠に伝える必要もない。

 

「──きみは、すでに死んでいる」

 

 心とは、見えない臓器である。感情という見えない手足を制御し、時には暴走させたがる臓器。見えないが、何よりも重要な器官。少年は、その臓器を切り売りしてしまった。心を削り出し、相対的な幸福と引き換えに明け渡した。悪魔との契約で心臓が要求されるように、少年は幸福の悪魔との契約で心を差し出した。

 重要な臓器を失えば、人は死ぬ。

 

「心の死だ。どんなたとえでもない、そのままの意味の死。老衰、病死、戦死、事故死、自殺──そういういろんな死の形があるうちの一つ」

 

 篠宮の目の前にいるのは、人間ではなく骸。比喩でもなんでもなく、ただ動くだけの死体だ。あくまで医者として、できるだけ感情を殺しながら、篠宮は平然を装って告げる。

 

「『不可逆性不幸不全症』は、これ以上治療できる余地はない」

 

 不治の病は、治療が不可能。しかし、対処療法は可能だ。病の進行を遅らせるとか、延命処置を施すとか。だが、死んでしまった人間には適応できない。

 もう、残されたのは後ろへ進むだけ。不幸を愛するという道に進んで、後戻りができないところまできてしまった。死んだままに、動く死体のままに動き続ける方法は、悪化するしかない。

 ルービックキューブは、すでに壊れている。あと粉微塵になったプラスチックを、もっともっと破砕するだけ。最初から、何もなかったと言い張るために。

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