解離性健忘──心的外傷やストレスによって記憶障害が生じている状態。
篠宮は確かに、一筆に向かって解離性健忘の可能性を示唆していた。忘れている事自体を忘れている──これが、れっきとした精神病の可能性がある。
「つまり、一筆は思い出さなくていいってこと」
篠宮と二度目の邂逅を果たした放課後。誰もいなくなった教室で、葉山は教壇に立っていた。チョークを手に取り、解離性健忘についてネットに書いてあったことを記すと、さながら先生のようにトントンと黒板を叩く。心なしか調子がいい。普段は味わえない立場にテンションが上っているらしい。豊満な胸を張って、かけてもいないメガネをクイとあげる動作を見せる。
「そもそも、本当に解離性健忘なんですか」
「なんで?」
「たしかに、篠宮さんは私に対して解離性健忘とは言ってましたけど、学生ですからね。精神科医に言われたわけでもないし、鵜呑みにはできないですよ」
「それ、は」
一筆に心を読まれ悟られないよう、葉山は想起を止める。続きを思い出していたのなら、以下の通りになる。
◆◆◆
「なんで、そんなにヘラヘラ笑ってるんだよ!」
篠宮が『遅効性の毒』を比喩に使い、その毒がまわり切ることを期待している──その事実に、葉山は怒りをあらわにしていた。言葉には出していないが、親友が死んでもいいと嘲笑っている人間に、心穏やかでいられるほど葉山は腐った心を持ってはいなかった。
篠宮の胸ぐらを掴み、持ち上げる。小柄な体格の彼は、葉山の腕力でちょうど持ち上げられる程軽かった。爪が食い込むほどに力を拳に握り、シャツ越しに手のひらがうっ血する。大量分泌されるアドレナリンでその痛みに気づくこともなく、葉山は持ち上げたまま睨みつける。
「おいおい、死ぬなんていう非現実的なことは信じてくれるのかい。僕のことはやたらと疑っていたみたいだけど」
「わかるよ。わかるに決まってる。だって、お前も、一筆のあの状態を──」
「熱くなるなよ」
篠宮は力の込められている葉山の細腕に触れる。体温の低い、手のひらのひんやりとした感触。そこに込められる力は、全くと行っていいほどなかった。振りほどく気はない。
「というか、きみもわかっているのならやっぱり
「お断り。一人で勝手にやってれば? もし一筆を殺す気なら、全力で止めるけど」
「人聞きが悪いぜ。僕がやろうとしていることは殺人じゃない。それに、きみが想像しているような手法で僕が彼女を殺しても、僕を法的に裁く手段はない」
篠宮は劣勢にあるとは思えないほどの迫力を持っていた。
──まるで、そういう殺し方を一度したことがあるみたいな。
「彼女は、
「やっぱり……!」
「そして僕は、それを止めに来た」
「は?」
篠宮は、ようやく腕に力を込め始めた。男の力で、女子の細腕を退かす。地面に足をつけると、首の跡を気にする様子もなく、変わらない調子で話し始める。
「──僕は、精神科医だぜ。ああいう類の病を治すための医者だ」
「なに、いってるの」
背丈は葉山と変わらない。小柄な男子。とても想像はできなかった。
「チビで悪いね。どうやら成長期が遅れているらしくてさ。声変わりすらしてないし」
男子にしては高めの声で、彼は笑っている。
「ま、そのおかげで僕はこの歳になっても高校生に擬態できるってわけだ」
あらゆる教室にいなかったのはそれが理由。偽名をつかっているとか、そういう話ではなく──
然るべきところに通報すれば確実にそちらで法的な処置を下す事ができる。まず、葉山の脳裏に浮かんだのは目の前の異物を排除すること、ただそれだけだった。溢れんばかりの敵意が、また漏れ出す。
「無断で高校に入ってるわけないよね」
先手を打たれる。精神科医としての権限。資格のある者の、治療の一環としての潜入。葉山は唇を強く噛んだ。
「だけど悲しいな。こちらの身分を明かしても協力する気にはなってくれないのか」
「悪魔みたいなことをやろうとしている人に協力できるわけない」
「まるで、僕が悪役みたいだね」
「そうでしょ。記憶を取り戻しても、あの子は死ぬだろうから」
「取り戻せなくても、死ぬよ」
「……
「うん」
あっけらかんと、篠宮は言った。
「記憶を取り戻しても、取り戻せなくても死ぬ。手遅れ──というか、複雑なんだよね。あの子」
「でたらめいってんじゃ……!」
「でたらめなもんか。
「は……? 病?」
思っても見なかった単語に、葉山は首をかしげた。
「あぁ、まさか、あの読心能力を犬猫の声を聞く占い師の力みたいなものだと思ってたの? そんなわけないでしょ。ここはノンフィクションだぜ」
「だとしても、そんな病があるわけない」
「新種だよ。新種」
「都合よく新種が見つかるわけない。まして、なんであの子に」
「おいおい、精神疾患が正式に人の病として認められたのだって最近だぜ。誰にだって新型の病を持つ可能性はあるだろう」
手を叩くと、篠宮は強制的に会話を打ち切った。それ以上の問答は無駄だと切り捨て、跡の残る白い首をさすりながら踵を返す。
「ま、そうだな。あの能力が強まったり、あるいはきみがどうしようもなくなったらまた声をかけてくれ。電話番号は、今度一筆さんにでも教えておくよ。彼女から訊いておいてくれ」
◆◆◆
そうして、精神科医である篠宮は言いたいことだけを一方的に言い切ってその場を去った。彼の正体をいっそ一筆に明かしてしまうという選択肢も葉山にはあったが、何が一筆の記憶のトリガーになるかわからない。努めて想起は可能な限り控える。
(そもそも、一筆の読心能力がどこまで強まっているのかもわからない。篠宮のことについて踏み込んでこないってことは、人の記憶までは読み取れないんだろうけど……)
精神科医が、一筆の能力を病だと言い切った。しかも、彼は『失われた記憶の中の人物』を自称している。過去に一筆を担当していた可能性は否定できない。何が引き金になって記憶を取り戻すのかわからない以上、記憶に関連しそうな事項を秘匿しきることを再度決意する。
「急に黙り込んでどうしたんですか」
「お腹空いちゃって」
「相変わらず消化早いですね」
誤魔化しながら、本題に話を戻す。一筆の解離性健忘についてだ。
「ともかく、覚えてないことは思い出さなくていいってこと。どうでもいいことなんだよ」
「どうでもいいことだとしても、私は思い出すべきですよ」
気力に満ちた声で、一筆は教壇の前の席から声を飛ばす。見上げるような形で、葉山をじっと見つめた。
「記憶は、失われるものです。脳は最大容量が──メモリが決まっている。だから、不要な記憶はどんどんと消えていく」
「だったら、やっぱり覚えてないものは思い出さなくていいじゃん」
「普通はそうですよ。けれど、その不要な記憶はもっと些細なもののはずでしょう。失われた記憶の中にいた当人と会って、それでも思い出せないのは、異常です」
その顔には、陰りが見えていた。
「異常は、修正すべきです」
「え──」
「そもそも、私の読心能力自体がおかしいんですから。記憶の一つや二つ、間違っていてもおかしくないんじゃないですか。さっきは解離性健忘の可能性を疑いましたけど、絶対にないとは言い切れませんからね」
友人が普段見せないような表情を見せた。葉山は、わずかに瞠目する。前から、一筆は自分自身の能力に対して辟易はしていた。人混みの多い場所に行けば、無条件で心の声を拾ってしまう都合上体調が悪くなる。その上人間関係でも不都合が多かったとたまに愚痴ることすらあった。だが、この決意はなんだ。一筆は、そういう不都合を不都合として受け止められるだけの強さがある。だがこれは──そんな不都合に真っ向から勝負している。普段ならありえない。
「まぁ、別に葉山がこの件に協力する必要は皆無ですよ。完全に私の問題ですしね」
それは、「邪魔をするな」という意思表示でもあった。葉山は、たじろぐように一歩下がる。黒板に腰があたった。チョークなどをおける銀色のレールだ。制服に赤い粉がつく。
「……いや、協力はするよ。友人として、一筆の記憶を取り戻す手伝いはさせてほしい」
「ずいぶん、手のひら返しが早くないですか」
「一筆の力になりたいっていうのは本当。けど同時に、思い出してほしくないっていうのも本当」
隠せないと判断して、葉山は赤裸々に自分の思いの丈を話す。
「ただ、さっき一筆は鵜呑みにできないって言ってたけど、解離性健忘の可能性は高い。それは理解できてる?」
精神疾患を患っている可能性。それは、篠宮という人間の正体をよく知っている葉山だからこそ担保できる。彼女も、また失われた記憶の内容を知る一人。一筆からしてみても、記憶喪失であることすら認識できていない現状を考えれば、その可能性は否定できなかった。
そして、解離性健忘の可能性を否定できないということは、思い出すべき記憶は全くもって良いものではないということ。強いショックなどに対して、人間の防衛本能が自動的に封印する機能ゆえに。
「思い出したところで、それが最悪なものなのはわかりきってる。だから、私は思い出させたくない」
「わかってますよ。わかってます」
うんざりするように、一筆はその言葉を受け止める。
「それでも、私は思い出したいんです」
異常は、修正すべきだから。再度口にしたその言葉に、葉山は首をかしげた。
「その、異常は修正するべきって、なに。今までそんなこと一度も言ってなかったじゃん」
「……えぇ、それは、そうですね」
再度、一筆の顔に影が落ちるような気がした。
「けれど、人間ってのは普通であるべきなんですよ。多数と足並みを揃えて、出る杭にならないように、されど埋まりすぎないように。そういう生き方をしなきゃ、社会で生き残れない」
その言い方は、なんとも悲痛なものだった。
──失われた記憶の中になにかあったのだろうか。葉山は、彼女の記憶の全容を把握しているわけじゃない。だからこそ、思いを馳せてしまう。過去の彼女が体験したであろう、その悲痛な記憶を。
諦めたように、葉山は手を挙げた。降参を示すと、大きくため息を吐く。
「まさか、親友がそこまでおバカだったとは」
「バカだから忘れたんですよ」
軽く冗談を言い合うと、二人は荷物を持って教室を後にした。下校時刻も近づいていたため、そのまま校門を出る。東の空が青暗く、西がほんのりと日の色に染まっている。
「ひとまず、私は家に帰って色々と精査してみます。昔の話とか、写真とか。そういうのは家に全部ありますからね」
「……わかった。くれぐれも気をつけて」
その言葉に違和感を覚えながらも、一筆は葉山に手を振った。校門の前ですぐに別れると、二人は反対の方向へ自転車を漕ぎ始める。すでに日の届かない街を走り抜けながら、一筆は思考を巡らせる。
(私の記憶は、勘違いをしている。そう、あくまで
記録なら確かな形でたどる手段がいくつもある。母子手帳や両親の持っているであろう幼少期のアルバムを含め、幼稚園・小学校・中学校の卒業時のアルバムも残っているはずだ。
自転車を転がして十数分。一戸建ての自宅に到着すると、はやる気持ちを抑えきれないように玄関扉を勢いよく開けて転がり込む。共働きの親は、まだ家にいない。しんとした家の階段を駆け上がり、部屋に荷物を投げ込むと、古い教材の置いてある本棚を探す。
幸いにも、幼稚園・小学校のアルバムは残っていた。パラパラと中を見る。確かに懐かしい感傷にはなる。その証拠に、一筆の頬はわずかだが緩んでいる。だが、ただそれだけ。その頃から他人の記憶は読めたし、その記憶もある。どのような人がネガティブなことを想像しがちで、誰が強気だったか、一筆はよく覚えている。そういう人間の内面までよく見えていたから、人一倍人のことはよく覚えていた。
(そう、よく覚えている──昔仲の良かった男の子は、みんなに優しかった。私の初恋の人だった気がする。親友の女の子にその子の話をよくしていて──)
そこで、一筆の脳内に大きな疑問が生まれた。
──親友の顔が出てこない。ただ、思い出せないのなら忘れただけだと納得ができる。だが、男子の方は思い出せる。背丈はクラスでもかなり高く、顔立ちが整っていた。運動神経が抜群に良くて、体育の授業ではいつもリーダーのように動いていた。性格はあまり良くなかった。
だが女子の方は? 顔すら思い出せない。小学校のアルバムを見る。よく見てみると、ボールペンで塗りつぶされている箇所がある。集合写真なんかで、ある女の子の顔が塗りつぶされている。黒塗りを全て確認してみると、同じ背格好の女子だ。同一人物だとわかる。
「この人が──私の、親友?」
いくら黒塗りの少女を見ても思い出せない。確かに、その黒塗りの少女は多くの写真で一筆の隣にいる。やはり、親友で間違いない。アルバム更にめくり、全員の顔写真が載っているページまで飛ぶ。パラパラと軽快な音を立て、止まる。青い画面を背にカメラを向いているクラスメイトが並んでいる。
いびつな形で、一箇所だけくり抜かれていた。カッターナイフで切り取られたのだろう。次ページまで傷が付いている。ビンゴカードみたいになっているページを持ち上げる。穴の向こうがよく見える。
「なんでここだけ……」
名前の部分すら丁寧に切り取られている。順番を確認すれば、苗字の最初の文字くらいは特定できる。しかし、その程度で個人を特定できるほどではない。
「いやでも……確かその人とは中学まで一緒だったはずで……」
少なからず忘れている親友のことを探そうと試みる。有力なのは、中学のアルバム。だが、その肝心のアルバムだけが見つからない。
「いや、いやいや……アルバムなんてなくても。中学のことは、古くてもほんの三年くらい前。さすがに覚えてる。一年生のことも、二年生のことも──」
三年生のできごとは──?
「……」
学友の名前は? 声は? 背丈は?
「覚えてない」
篠宮の提示した『失われた記憶』を特定できたような気がしながら、再考する。小学生のときから、もう一度ビデオテープを再生するように。
「小学生のことはよく覚えてますよ。覚えてる。六年生のときなら、クラスメイトの名前は全員言えますし、なんなら初恋の男子に関しては小三くらいの──」
言葉が止まる。自分に言い聞かせるように吐いていたその言葉が、かっちりと止められる。嫌悪感が、肚の内から湧き上がり口元に脂ぎった膜を張る。
「なんで、私は彼のことを好きになったんでしたっけ?」
嫌悪感の正体は──初恋の人の、内面。自己中心的で、他人を常に下に見ている男子。小学生らしい、欲望と本能の噴出。それをずる賢く隠しているのがその男子だった。心が読める一筆は、よく覚えている。幼いながらに人として最低な精神を宿していた男子。
──なぜそんな相手に惚れ込んだのか?
「好きになるわけがない。だって、当時の感性でも相手は最低だってわかるはずで……」
なぜ好きになったのか? 思い出せないわけではない。むしろ、当時好きになった理由はすぐに思い当たる。
──人柄が良かった。
誰にでも分け隔てなく接していて、優しかった。しかし、矛盾している。頭が熱を帯びるのを感じながら、一筆はアルバムを眺めた。視線の先には、当時恋をしていた男子。見れば見るほど、外見に似合わない醜悪な心の声が思い出される。
(どうして……? 外ヅラが良くても、私は絶対に見抜ける。驕りでもなんでもなく、絶対、確実に)
人を見る目があるという問題ではない。心が読めてしまうのだ。人の内面は醜悪だ。それもその男子は一際醜い声を持っていた。百歩譲って外見や能力に惹かれたとしても、絶対に好意的に捉えることができないほどに。
徹底的に情報が排除されている親友と、好きになるはずのない初恋の人。二つの謎を抱えながら、一筆はアルバムを持って立ち上がる。気分転換にとそのまま自室を出た。
(二つに直接的な関連性はないだろうけど、どっちも
だが、親友の少女の方は執着とも呼べるような抹消のされ方だ。小学生のアルバムには黒塗りがされ、切り取られ。ともに進学したはずの中学のアルバムは、それごと消えてしまっている。学校に関連するものを保管している彼女の本棚にないのなら、家にはない。どこか特別に別の場所に隠されているのか、すでに灰になってしまっているか。
どちらにせよ、一筆の抱える
(関連が強いからこそ、そちらから手をつけたいところではありますけどね……)
あらゆる足跡が消されている。すぐに答えにたどり着くのは難しいと判断し、彼女は再度初恋の男子のいるページを開いた。その男子のような醜悪な精神を持っていた人物に自身が惹かれていた、という事実に嫌悪感を抱きながらもじっくりと見つめる。
「ほんと、こんな人どうして好きになったんでしょうかね。心が読めなかったのならまだしも……」
心が読めなかったのなら。その可能性を、真剣に考え始める。
(いや……私は物心ついたときから心が読めていた。色んな人の内面も見てきたし、考えていることがずっと私に入ってきた)
思い返せば、矛盾がポロポロと見つかっていく。
幼稚園でなぜじゃんけんに負けた? 小学生の時、大人の思考を常に読み取って健全に成長できるのか? テストの答案で毎回満点を取れなかったのはなぜ? 親が自分に向けていた感情の遷移は? 対応の仕方は?
一筆の両親は共働き。だが、そうなったのはつい最近のことだ。一筆が小学生のときは少なくとも母が専業主婦だった。中学以降、学費関連の話を出して共働きを始め、あまり顔を突き合わせる機会がなくなった。
シナリオは容易に想像できる。心を読む力が生まれた一筆の目を回避するために、学費の工面を盾にして仕事に出ているというシナリオ。だが、矛盾が発生する。
(私は物心ついたときから心が読める……ハズ。でないと、なんで過去の人の心の声を覚えて──)
家を歩き回っていた一筆は、リビングルームにたどり着いた。喉も乾いていたために、アルバムを置いてコップに水を注ぐ。仰ぐようにしてそれを飲み干すと、何かを確かめるようにしてテレビを付けた。ニュースだ。とある芸能人のスキャンダルを取り上げ、切り取り、専門家なんかが独自の視点から批判したりしている。
(心は、読める)
現在、一筆の能力は変わらずだ。人の心を読める。範囲としては自分の周囲数メートルの中にいる人間の心をほぼ自動で読み取る。テレビのように実際に動いている様子を確認できるのならそれも対象内。相変わらず不便だと顔をしかめながら、一筆は電源を切る。
「ならやっぱり、私は
導き出される結論は、それだけだった。
好きになろうはずもない初恋の男子に恋したのも、単純に
矛盾は、それで全て解消する。決定的なのは両親の態度の変化だ。それを鑑みれば、能力の芽生えた時期が中学生ごろだということも特定できる。冷静にその結論までたどり着いたものの、一筆は重力に負けるようにして机に手をつく。解けていた髪が、顔を囲むようにして垂れる。
「私は……私の、過去は、偽りだったと」
努めて冷静に。失われたわけじゃない。ただ、自分の信じていたものが違っただけ。そう言い聞かせ、正気を保つ。
彼女の心が読めるという能力は、思い出すら対象となる。映像内の人物でも力が適応されるように、思い出という映像記録にすら、彼女の力は適応されてしまったのだ。結果的に、物心ついた時──最初の記憶から、他人の思考が読み取れてしまうという欠陥を抱えた。そして、どういうわけかそれは誤認された。物心ついたその時から能力が備わっているというように、彼女の認識が書き換わった。
狙うべき対象が、定まる。
黒塗りの少女、残されていないアルバム、能力発現の時期──その全てが重なっているのは、中学時期。変わらず、彼女はその頃の記憶を思い出せない。靄がかかっているという表現ならまだいい。そんな生易しいものではなく、
トラウマを抱えた人間の本能か、否か。それを、一筆本人が知る由もない。解離性健忘を患った人間が、その記憶に自ら触れようとするとどうなるのか。
「……耳鳴りが──」
篠宮は葉山へと伝えた。彼女の能力が強まることがあるのなら。すなわち、
それは、恐るべき予兆となる。葉山が危惧した、精神的な死の予兆。
『あ……を、わす……たくない』
声が、聞こえる。一筆が最も聞き慣れている声。誰よりも長く聞いていて、誰よりもその主に詳しい。だが、愛くるしいとは思えない声音。
『あの人を、忘れたくない』
それは、紛れもなく
『忘れてしまうのなら』
鳴り止まない自分の声音。響くのは怨嗟。堕ちゆく心は誰にも止められない。
『──私は、あなたを許さない』
ルービックキューブは、きしみ始める。不安で怪しく、回り始める。