ルービックキューブはいつ壊れるのか   作:最中庵

6 / 14
※本文は推敲前の小説です。誤字脱字があれば遠慮せず指摘をいただければ幸いです。
※作者も投稿後に推敲するので物語に少しの変更がある可能性があります。


少年 第三章 死の宮

 少年の状態は安定へと向いていた。彼の持つ『不可逆性不幸不全症』というあまりにも残酷な病。あらゆる不幸を幸福としてしか知覚できなくなり、その澄んだ毒は精神を蝕んで痛みに鈍くなってしまった。

 とは言え、篠宮の治療と健康で健全な生活を続けているうちに、その傾向は緩んでいた。精神的に死んでいると診断されたものの、健常者の動きを正確にトレースして、社会に溶け込めるようになりつつあった。

 

 冬、篠宮は帰りが遅くなった。新月の夜。いつよりも暗い闇を照らす街を歩いた。ポケットからスマホを取り出すと、少年の現在位置を確認した。篠宮が少年を置いて家を離れなければ行けないときは、常に位置情報をつけている。場所は篠宮のマンションから離れている。ふらふらと、目的地がないかのように──実際、ないのだろう。右往左往と動いている。

 こういうときは、たいてい彼が自殺するための場所を探している証拠だった。幸いにも、今回はわかりやすい。安堵したように篠宮は白い息を吐く。マンション屋上からの飛び降りなどを計画されていたのでは、高さを表示できない位置情報では把握に限界がある。

 

 ──前述の通り、彼は安定してきている。他者との会話も円滑に行うことができるようになってきた。患っている精神疾患が不治の病である以上、回復とは呼べない。だから、安定してきている。そして、それこそが彼にとって最悪の状況だった。

 『不可逆性不幸不全症』は、少年自身のマインドと共鳴して、常に不幸を求めるようになっている。病のせいで不幸を正しく不幸として認識することができないのに、本人はこよなく不幸を愛している。その歪な愛と認識は、破滅を呼び寄せる。

 

 右往左往としている彼の位置情報を頼りに、すぐ篠宮はタクシーを捕まえた。少年の下までは少し距離がある。十分と少しタクシーが走ると、廃病院の近くへと出た。少年が中へ入っていくのが見える。廃病院の真隣でタクシーを止めさせると、篠宮はゆっくりと扉を開ける。急ぐ素振りも見せずに、朝散歩をするかのような歩みで入口に回ると、廃病院へと入っていった。スマホのライトをつけ、正面を照らす。

 あまり評判の良くない廃病院だ。不良や、浮浪者が寄り付くことの多い場所。治安の良い街ではあるが、その影の部分がこの建物。今、その人の気配はしないが十分に警戒をして進む。階段を登ろうとしている少年を見つける。自我を失っているかのように、足取りはおぼつかない。踏み面を空振り、ころんだ少年に追いついた。

 

「やぁ、少年。大丈夫かい」

「………………あぁ、はい。先生ですか」

 

 鈍い反応だったが、意識はしっかりとしている。篠宮が少年の手を取ると、ぐいと持ち上げた。

 

「少し、上に行こうか。たまには、きみの気分を味わうっていうのも悪くない」

 

 ライトを足元に向けると、二人は登り始めた。廃病院屋上まで登って、建付けの悪い扉をこじ開ける。結果的に扉が使い物にならなくなるが、所詮廃病院だ。気にもせず篠宮は屋上の端まで進んだ。フェンスがボロボロになっており、人一人は余裕で通れてしまいそうなほどの穴が空いている。歪んだ柵を掴みながら、少年は街を一望する。冷気をはらんだ風が彼を撫でる。

 

「飛び降りないでよ」

「流石に、先生がいますしやりませんよ。それに、飛び降りようとしたら本気で止めるでしょう」

 

 篠宮は、少年の隣に立った。街を眺めながら、まどろむように光を一つ一つ凝視する。

 

「うつ症状や、心的外傷後ストレス障害を持っている人は危険な行動を取りやすい、なんていう話がある」

 

 誰に語りかけるでもなく、優しい声音で言葉を紡ぐ。

 

「わざとやってるんじゃないんだよ? 無意識のうちに、事故の起きやすいところとかに行くんだ」

「ぼくがここに来たのは、完全に自分の意思ですよ」

「そうかもね」

 

 けれど、と言って篠宮はフェンスから離れた。夜風を背に受けながら、階段の方へと向かう。

 

「でも、その意思ですら病からくるものと考えることができる。病のせいで、そういう希死念慮を抱いてしまう、ってね」

「何がいいたんでしょうか」

「精神疾患は、ときに何よりも恐ろしい病だということだよ」

 

 篠宮の後を少年が追う。

 

「大体、十五歳から三十歳くらいまでの死因として最大の割合を誇っていうのは自殺だ。しかも、年齢帯によっては最大五割くらいを占めていたりする」

「有名な話ですね。若者最大の死因が自殺っていうのは」

「別に、割合が多いから危険と言いたいわけじゃない」

 

 廃病院を進みながら、篠宮は話を進める。ライトで障害物を照らしながら、背後の少年にも警告する。

 

「精神疾患の最も恐ろしいところは、世間との認識齟齬だよ」

 

 聴き慣れない言葉に、少年は首をかしげる。

 

「風邪とかインフルエンザは、誰が見ても辛いとわかるだろう。熱出てるし、咳出てるし、喉痛いし、みたいにさ。誰だって知っている痛みだ。ただ、精神疾患は全くの別だ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 一度うつ症状を抱えた人しか、朝起き上がれない辛さとか、勝手に涙が出てくる意味不明さとか、常に抱える吐き気や息苦しさに共感はできない。強迫性障害を抱えた人にしか、何もしないことに対する不安感を分かち合うことはできない。統合失調症を抱えた人にしか、現実を信じることができないと言う感覚を理解することができない。

 

「精神疾患は、多種多様だ。それぞれにそれぞれの苦しみと痛みがあって、どれかが楽なんてことはない」

 

 ただ、未だ世間では精神疾患を軽視する人間は多くいる。中には「甘え」だとか「気の持ちよう」だとか言えてしまう人だっている。まさにそれが世間との認識齟齬だと篠宮は言った。当事者の感じている苦しみと、世間が考える苦しみには大きな乖離がある。過去の震災や災害でもそうだ。当事者たちが真に望んでいる支援とは別で、傍観者が千羽鶴なんかを送ったりした。無駄だとは言えないだろうが、必要ではない。

 

「ところで少年、もし、きみが腹を刺されたらどのような痛みを想像するかな」

「さぁ、ぼくは、そういう経験がないので」

「そりゃ僕だってそうだよ。人生で腹を刺されることなんてない。だけど、ある程度想像はできる」

 

 ナイフや包丁のような刃物で刺されると想像する。まず皮膚を破り、内臓まで到達。刃物の切れ味によっては、この段階で痛みをあまり感じないだろう。遅れるようにして、痣を押し込むような痛みを何倍にもした激痛。あるいは熱い、冷たいと言った熱で表現できるだろう。同時に吐き気のような息苦しさのようなものが痛みでこみあげてくるはずだ。アニメのように血はあまり出ないのかもしれない。悶えるような、あえぐような呼吸で酸素を求め、反対に涙が出てくる。呼吸で腹が膨らみそうになると、痛みで押し戻される。

 意識を飛ばしたくても痛みで引き戻される。患部を見れば予想よりもグロテスクではないかもしれない。ただ、締め切っていない蛇口のようにじわじわと漏れ出てくる血液にゾッとするだろう。いつ死ぬのか、もう死ぬのか、後どれくらいか。そんなことを考え始める。

 

「ほら、こんな感じにさ」

「ちょっと、生々しいですね。本当に刺されたことがあるんですか?」

「だからないって。全部僕の想像。多分、これも本当に刺されたことがある人からは「そうじゃない」って言われるのかもしれないけどさ」

 

 ただ、やっぱり想像はできると思うんだ、と彼は言った。

 

「肉体の痛みは誰でも感じたことがある。転んだり、さっき言ったみたいに痣を押すような痛み、なんて誰でも経験のあることだろう」

 

 肉体の痛みは、日常の延長線上である程度の想像が効く。だが、精神疾患はその範疇を超えていると篠宮は主張した。

 

「寝たくても眠れないことがどれだけ辛いか。誰かに言われたことが呪詛のように聞こえることがどれだけ苦痛か。幻聴がどのくらい日常を狂わせるのか。想像は難しい」

「心筋梗塞とか、狭心症みたいな類の病も想像が難しいですけど」

「きみは優しい人間だからね」

 

 廃病院の出口が見えたところで、篠宮は振り返った。

 

「優しい人間だから、心の痛みがわかる。親にあれだけ虐げられて、正気を保っている……とは言い難いけど。まぁ、なんにせよきみとって心の痛みは何よりもわかりやすい痛みだろう」

「それは、そうですね」

()()()()は、わからないからさ」

 

 自らも異常だと自虐するように笑うと、二人は廃病院を出た。月明かりの美しい夜だ。温かい光が、道を照らしている。目が暗闇に慣れているので、その明かりだけでも十分に明るく見えた。夜だと言うのに地面に影もできている。

 

「いい夜だね。月が綺麗で、晴れていて、夜風も澄んでる」

 

 篠宮は歩き始める。どこを目指すわけでもなく、廃病院の敷地から出て住宅街の方向へ進んでいく。街頭は更に減り、暗がりが二人を包んだ。見上げれば星が視界を埋め尽くし、月は大きく輝いている。

 

「先生」

 

 篠宮は振り返る。少年は、暗がりを踏んでいた。建物で影になっている箇所で、最も夜が深い場所。顔には陰りがある。いや、少年に感情らしいものはない。陰り、というのは物理的なものに近い。瞳に光が入っていない、重心が、姿勢が、目線が、その全てが彼を語るような異質さ。

 目で何を語りたいのか、篠宮は理解した。

 とどのつまり、限界が近いということだ。なにか。少年の堪忍袋の緒と呼べばよいだろうか。退屈も怒りも感じない彼には、本能的な意識とも呼ぶべきか。──不幸を求める彼は、この生活に限界が来ているのだ。

 病院を出てからも、彼の足取りはおぼつかなかった。本能的に、あるいは『不可逆性不幸不全症』がそうさせるように、彼は死に場所を探してしまっていた。そこが、彼の限界。

 

『不幸になりたいというのなら、後悔はさせないよ』

 

 少年を家に招く時、篠宮はそういった。それを信じた少年は、もう、信じられなくなりそうになっている。表情は変わらない。病のせいで、心が死んでいる。彼を突き動かすのは、とにかく特大の不幸を求めるだけ。いつか訪れる幸せだけを夢見て。心の変わりに詰められた、その歪な夢を燃料に。

 

「まぁ、そろそろ頃合いだとは思ってたけどね」

 

 また振り返り、篠宮は歩き始めた。少年を背にして、住宅街を抜けていく。

 

「さっき、『精神疾患は何よりも恐ろしい病』だと言っただろう」

「えぇ」

「僕は有効活用できるとも考えていてね。ほら、毒は薬になり得るし、薬は毒になり得るというやつだね。病は一種の強みになるとすら考えている」

 

 精神科医としての例を彼は挙げた。ナントカの病は、極端に視野が狭くなり、ある事柄に対する思考だけに支配されてしまう。その結果として、場違いな発言や脈絡のない言葉を発してしまうことがあるが、その場の空気に流されることなく発言ができると言った。

 その内容は、いつもの譬え話と比べて難解なものであり、少年自身にもよく理解できていなかった。

 

「ふむ、じゃあわかりやすくしよう。原子力という力の話だ。核分裂反応を使ったあの力は、原子力発電として利用すれば莫大なエネルギーを作り出すことができる。国によってはその殆どを賄えるくらいに。だが、反対に原爆として利用すれば、そのエネルギーは全てを塵にして、歴史と被爆した人たちの記憶に凄惨さを刻む」

 

 極端な例ではあったが、その極端さを篠宮は認めつつ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()と語った。

 

「はじめはそんなこと思ってもいなかったけどね。きみをみて考え方がまるで変わったよ」

「ぼくを、ですか」

 

 ここからどのように自分の不幸につながるのだろう──そんな、期待のようなものを抱きながら、少年は彼へついていく。

 

「きみの病の本質は、不幸を不幸として認識できなくなることだ。それもある種甘美な響きであるとは思うんだけどね」

 

 どこか、医者というよりも研究者のような視点の話をしながら、篠宮は続ける。

 

「より大切なのは、その先の段階──ようは心の死が重要だと考えているんだ」

 

 住宅街を抜けた先。更に建物が減ってきた。人気はより少なくなり、時間も時間だから照明を点けている家も少ない。道沿いにポツポツと差し込む光は、灯籠のようでもあった。篠宮が視線だけを少年に向けている。

 

「僕は、きみときみの病に価値を感じている」

 

 無表情で、平坦な声で篠宮は言った。人間的な情はあまり感じられない。

 

「きみを不幸にできると言ったのは、そこだよ。僕は、はじめからきみの病を搾取するために家に招いた。その、完全に破綻した病をね」

 

 篠宮は、振り返らない。どのような表情をしているのか想像もできないが、それを気にする様子もなく、至って冷静に少年は聞き届けている。

 

「きみの毒は、僕にとって薬になると思ったんだ。そうだな、少し、僕のことについて話してみようか」

 

 普段、篠宮は自分のことについて語ろうとはしない。語る必要がないというふうに、少年が質問を繰り出さない限りは、あらゆることについて話さない。好物や誕生日についても、少年が聞くまでは一切わからなかった。その期間約三ヶ月にもなる。

 わざとなのか、無意識的になのか、自分の話題を避けていた男は、やけに上機嫌に話し始めた。

 

「まず、はじめに──僕は死ぬことに憧れがあってね。幼い頃から、なんとなく死にたいと思っていた」

 

「人はだれでも心に病を持っているのかもしれないね」と言うと、更に続ける。

 

「死にたいと言っても、健全な希死念慮とは少し違うかもしれない。人が当たり前に生きたいと思うように、僕は当たり前に死にたかった。特に人生に樹自由があったわけじゃないけれど、それでもどうしてか死にたかった」

「……まわりは、なんと?」

「特に何も言われないよ。誰かにこのことを言ったことがなかったからね。とは言え、僕はどうにも矛盾を抱えていたんだ。不自由な人生でないのに、死にたくてしょうがない。だから、ある時から僕は自分が不幸になるように努めていた」

 

 その話は、少年と重なった。幸福となるために不幸を求めている少年とは、その動機が異なるが、不幸を求めているという点で。先ほど彼は、価値を見出した少年の病の搾取のために招いたと言ったが、案外、そういうところに親近感を抱いていたのかもしれない。

 矛盾を解消するために、不幸を求める。その性質になってから、人生がとても澄んだものになったようだと彼は語った。

 

「死にたがった僕は、死に方をずっと考えていたよ。それは、今でも変わらない。ずっと、どんな死に方をするのがいいだろうかって思っていた」

「そこで、精神的に死んだぼくが現れた」

「正解。僕は、きみに惚れ込んだんだよ。いろんな死に方がある中で、心の死というのは僕の心を揺り動かした」

 

 やはり彼は、多くを語らない。譬え話や他の話なら喜んでするが、彼の人生や人生観については、とてもあっさりとした解説だけだった。だが、それこそが彼の人生の根幹であると言いたいようだった。

 ──他人と違う死生観。生きることを目標とするのではなく、どんな死に方をするか、ということに対して労力を費やす生き方。常人が見れば意味のわからないものだが、少年はそれに一定の理解を示しているようだった。

 

「人生は、死をもって終了する。物語はそうやって終わり、あとがきすらなく背表紙が映ることになる。だが、きみは違う。死という幕引きを克服して、あろうことかまだ動き、思考し、意思がある。感情という人間性を犠牲にしているけれど、素晴らしいことだ」

 

 精神科医らしからぬ興奮を見せる。

 

「僕は感動したんだ。死につつも、その先の物語を見届けることができる。後日談を、その目で見られる。きみには世界がどのように写っているんだ? 死んだ人間は、生に執着するこの世界をどう見ている? 感情のないきみは、どうやって動く意思を捻出している? 他人に対して羨望を抱くことは──いや、その感情すらないのか。だが、だとしたら、そうだというのなら──」

 

 灯籠のような光があたっている彼の顔は、わずかに紅潮しているようにも見えた。彼の人生における──根幹。死をテーマにしている研究者のような、あるいは哲学者のような彼は、よほど『不可逆性不幸不全症』に思い入れがあるようだ。

 ──それは、同時に少年そのものには興味がないと言っているようでもあった。重要なのは病であり、()は重要ではない。

 

「ともかく、きみの病は美しいと思ったよ。澄んだ毒──そういう言葉が似合うかな。緩やかに、不幸を感じることなく死んでいく。僕とはいえ、死ぬことに全く恐怖がないというわけじゃないからね。安楽死という観点でも、きみのその病は優秀だった」

 

 あろうことか、篠宮は『不可逆性不幸不全症』の()()()の可能性すら示唆してきた。

 

「安楽死を望んでいる人は大勢いるから、その層にはもちろん売れる。それに、()()()()()()()()()()()()()()から、不幸を感じなくなる能力──なんて、そういう売り込み方もできそうだろ?」

 

 だんだんと、少年は目の前の男が何を考えているのか理解してきた。

 おそらく、本質は自分の探究心のためだ。その飽くなき好奇心を満たす。歪んだ死生観から生まれた、死を超えたその先──そのために、少年の病を分析しようとした。そして、その研究者根性は、一般化すら示唆する。もはや、世界征服だ。精神疾患の中でも、不治の病と彼が診断したその病をばらまく未来の提示。

 健常者は、心の痛みを正しく理解できない。想像でしか理解できない。だから、病というラベルではなく薬として不幸を取り除くことができるという名目で売り出せば、買う人はいるだろう。

 ばらまかれ、治療できず、感情の死んだ社会があとに残る。それすらも、彼の探究心の中なのだろう。彼は、異常だ。生まれたその時から、死に憧れる精神。ばらまくのも、一般人を対象にどのような経過をたどるのかを見たいだけなのかもしれない。

 

「まぁ、そうだな──あぁ、きみを不幸にできるって話か。そうか、そうだ」

 

 少年のことをたった今思い出したかのように、視線だけを背後に向けた。田舎道に入り、街頭すらほぼ無くなる。月明かりに反射する彼の瞳が、どす黒く光った。黒い宝石が、鈍色に光っていた。

 

「まぁ~……きみのことだし、勘づいているとは思うけどね──僕は、『不可逆性不幸不全症』を()()()()()()()()()()()()()()

「はじめから、ぼくの治療には一切の興味がなかった」

「半分正解」

 

 興味がないわけじゃないかと言えば、そうじゃないと篠宮は言った。

 

「結局、可逆性は欲しかったんだよね。回復できるという担保があれば、いろいろ大っぴらにできるし。けれど、さすがの『不可逆性』だ。どうやら、一度発症すると手に負えないらしい。免疫が機能しない新種のウイルスみたいに、きみの病は不幸を取り除くものだからね。異物として心が認識してくれない」

「先生にとって、可逆性はおまけみたいな機能でしょうからね。大事なのは、むしろ──」

「そう、その再現性だ」

 

『不可逆性不幸不全症』は、とても稀有な病だ。いわばメンタルのスクラップアンドビルドにより、あらゆる不幸に適応できるだけの精神を作成した。その結果が、不幸を一切合切感じ取れなくなるという異常性を備えた。

 その再現に必要なのは、常軌を逸した不幸の背景。そして、その状況下から逃げられない条件。どれだけの痛みや苦しみにさらされようとも逃げられない。拷問にも近い環境下で、発症するかしないか。

 篠宮の想定した手法は、実際拷問と大差はなかった。しかし、思考実験では『不可逆性不幸不全症』が発病する前に、被験者の人格が保たないことが明白になる。「無限に水の入るコップを作るようなものだ」と篠宮は語った。

 

「だが、まぁ、諦めきれないよね。僕の本質はそこにあるんだから。素晴らしい死の形──まだ動いて、考えているというのに、死んでいる。そんなゾンビのようなきみに、僕は心底憧れているんだ」

 

 話が終わり、数秒の間が空いた。篠宮が橋を渡り始める。大きな川を渡るための、幅の広い橋だった。あたりは暗いが、月明かりが水面を照らしている。川の輪郭が、光の反射で掴めた。

 

「……まさか、その程度で、ぼくを不幸にできると」

「思ってないよ。まぁ、この話をしてもきみは不幸を感じないことはわかりきっていたからね。そもそも、僕に裏切られたと思って悲しむだけの感情は、きみに残されていないだろう」

「じゃあ、どうやってぼくを不幸にするんですか」

「ふーむ、そうだなぁ……いや、僕としてはあまりやりたくはないんだけどさ」

 

 ぽん、と篠宮は少年を突き飛ばした。風が、強く吹いている。それに乗せられるかのように、細身で軽い少年の身体が浮く。再度、篠宮は少年の腰を掴んで、持ち上げるようにして回転させる。世界が反転する。黒い空と、黒い水面。入れ替わり、水面が少年の頭上に映る。はっきりと輪郭を持っていた空の月はおぼろになる。冷たい空気が頭上から通り抜けて、重力に引っ張られ柵を超えきった。

 

「よし、じゃあ、実験だ」

 

 ──人はだれでも心に病を持っているのかもしれない。

 少年は、大きな病を抱えていた。彼のルービックキューブは、全面灰色で中空構造。少しも回らないし、キューブがただ積まれているだけの脆弱さ。

 

(だったら、あなたのルービックキューブはどんな構造をしているんでしょうか)

 

 少年は、下を覗き込む篠宮の顔を見た。人間を突き落としたにしては、あまりにも普段と変わらない表情。いや、動くだけの死体である少年だからこそ、何も思っていないのかもしれない。

 ──恐ろしいと、少年は思った。感情をなくした彼が抱いた、感情というよりも本能による拒絶に近い反応。環境が少年のルービックキューブを壊してしまったのと違って、篠宮のキューブは最初から壊れていた。環境が整っていたのにもかかわらず、初期不良を抱えていた。

 だが、果たしてそれは壊れていると言えるのだろうか。

 人の心に、絶対的に正しい形はない。十人十色で、どれもが正しいとも言える。歪んでしまったらそれは正しくはない。初期状態こそが、その人にとって()()()状態だ。

 だから、篠宮はこの()()()()()こそが正しいのかもしれない。はじめから狂ったルービックキューブを渡された子どもは、それこそが正しいルービックキューブの形だと信じて疑わないように。

 

 ──少年は、揺らめく暗闇に溶けて消えた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。