※作者も投稿後に推敲するので物語に少しの変更がある可能性があります。
一筆の人格の転換は、リミットがある。残り数回。それが、篠宮から告げられた最後通告だ。
彼からそのことを知らされる一週間ほど前のことだった。三連休を目前にした金曜日の放課後だ。人格の転換を察知したのは、一筆が学校に来ていなかったから。心配になった葉山は放課後すぐに学校を飛び出し、彼女の家へとむかった。インターホンを鳴らしても、玄関扉を叩いても返事がない。彼女の両親は共働きだ。この時間には家にいない。
嫌な予感が葉山の脳裏をよぎる。普段から自己管理が良くできている一筆だ。体調を崩すということも滅多にない。仮に今回がそうだとして、呼び出しに応答しないのはおかしい。すぐに葉山は電話をかける。数回のコールも虚しく、画面は不在を表示する。
「まずい」
乾いた言葉が口から出た。一回「まずい」という度に、頭の中にはそれが反響するかのようにして数十聞こえてくる。
──まずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずい。
なんとかその気持ち悪い言葉を吐き出そうとしてまた口に出してみるが、それでも不安は拭えない。擦っても落ちないそのシミが、葉山の思考をがんじがらめにする。祈りながらもう一度電話をかけても応答なし。インターホンを鳴らしても出てこない。いてもたってもいられなくなった彼女は、すぐに走り出した。嫌な思考を否定しつつ、高所を巡る。
草をかき分け、小枝に腕を引っ掛けながら葉山は進む。ミミズ腫れも作りながら、うろ覚えの獣道を抜けると、ようやく一筆を見つけた。すでに日が沈んでしまっている。
「……あぁ、あなた」
一筆のもう一つの人格は、葉山をほとんど知らない。たった一度、葉山は別人格の方に相対しているが、そのときの彼女は葉山を見て「離れて」が第一声だった。ソレに比べれば、今回はわずかに葉山と会ったときの記憶を保持している分、柔和になっているのかもしれない。
星が冷たく彼女を照らすが、その瞳に光はない。すでに葉山が知るような一筆はそこにいない。いるのは、二つ目の人格を作り出さなければならないほどの、重い過去を背負わされた少女。一筆といつ人格の転換が起こったのかわからないが、確実に家からここまでは別人格の方が主導権を握って歩いてきたはずだ。時間は、すでにある程度経っている。
──葉山が見た、前回の転換が終わるまでよりも、ずっと長い時間。
前回を基準にしてよいのなら、とっくに元の人格に戻っている。それを、葉山は期待していた。探し回っているうちに彼女は入れ違いで家に戻っているかもしれない。だが、現実は未だこの一筆とは呼べないような異様な雰囲気を纏う彼女が主導権を握っている。
「また、あなた。私を元に戻そうって、また、前みたいに説得でもするの?」
「そうだけど」
「あぁ、そう」
眼の前の一筆は、自身が二重人格であることを自覚している。もともと地頭の良い彼女だ。おそらく、二重人格に関する知識とトラウマ体験から、現状を推理して自身が二重人格であることを理解した。そして、実際彼女は前回の転換の際にその推理を当ててみせ、答え合わせを葉山で行っている。心が読める彼女なら造作もないことだ。
超人的な雰囲気。そして、異様なまでの圧力。威嚇。睨みつけられているわけでもないのに、どうしてか身体がすくんでしまう。とうとう塩をかけられたナメクジのように縮みきった身体は消えてしまうのではと心配にすらなる。
だが、葉山は引かない。その一筆に対して、一歩踏み込んだ。
「わかってるよ。私の知る一筆は──あなたが受けた痛みから逃げるための場所だったんでしょ。それが、あなたの作り出したもう一つの人格……だから──」
「返してっていうのはおかしいと思わない?」
人格が変わって、口調が変化しているせいだろうか。いつもよりも、ずっと、ずっと力強く恐ろしく感じる声音だった。葉山の言葉を遮り、その一切を受け付けないという意思表示でもするかのよう。
「あなたは……確かに、もう一人の方が『一筆茜』なのかもしれない。けれど、私からしたら今の私こそが『一筆茜』。いわば、今こそが
それは、葉山があまり考えないようにしていたことだった。建前としては、一筆が悲しむ姿を見たくないから。それも、もちろん嘘ではない。そもそも葉山の知る一筆は、もう一人が作り出した逃げ場所だ。その逃げ場をなくして、苦しんでいる一筆が引きずり出されている。苦しくないわけがない。だから元に戻してあげたい。
だが、それと同じくらい
──私のやろうとしていることは、一筆を助けることじゃない。
薄々感じていた、自分の欲望。根っこにあるのは、元の一筆を、自分のよく知る──そして自分をよく知ってくれている一筆を取り戻したかった。浅ましさすら感じるようなソレを感じ取りながら、葉山は言葉を返せずにいた。見て見ぬふりができていたが、本人に直面させられてしまった以上は無視できない。どうにか言葉を出そうにも、一筆が繰り出すほうがずっと早かった。
「私は、いくら苦しくても
──けれどあなたは私という、一筆の親友を覚えていない。
「えぇ、覚えてない。当たり前でしょう。けれど、知ってはいる」
心を読む能力。葉山の記憶を読み取れば、その先にあるもう一人の一筆がどのような人物なのか。そしてどのような関係を築いてきたのか知ることができる。その上で、彼女はそれを否定する。
「正直、うざったいよ。私はこんな思いをしてるのに、なんでもう一人の方はあんなに能天気なんだろうって。同じ私なのに、
それに、と追い打ちをかけるように一筆は続ける。
「あなたは、そんなお気楽な方の私を好いている。こんな、ムカつくことはないよね」
ついに、葉山はそれを否定できなかった。言葉が出なかった。反論の余地がなかった。いや、それ以上に──
「私は、誰からも必要とされてない。あの時、やっぱり死ぬべき人間だった」
◆◆◆
一筆は、人格転換時のことを覚えていない。もう一人の方──つまり、元々の主人格の方は別だ。彼女は心を読む病が強く症状として現れているため、他人の記憶を超高精度で読み取れる。その影響もあり、人格転換時のことは他人を通して知ることができる。
だが、葉山の知る方はその方法を使うことができない。まだそこまで悪化していないのだ。しかしそれも時間の問題だろう。今は表層の記憶を読み取るだけでも、そのうち深層まで読み取れるようになる。もしかしたら、もうなっているのかもしれない。今回の人格の転換がきっかけになって、一気に病が悪化している可能性が高い。
篠宮の提示したタイムリミットが近い。だが、止められない。いくら葉山が説得しても、一筆が歩みを止めることはなかった。彼女はすべてを知ろうとしている。自分の異常を修正するためにだ。もう、篠宮が彼女に催眠をかけたかのようだった。彼の言葉にはいやに説得力があった。餌を垂らして食いつかせ、糸で望む方向へと引っ張る。それを容易くやってしまう不思議な力がある。彼こそ、人の心が読めるんじゃなかろうか。
──もしかしたら、もうほとんど気づいているのかも。
一筆は心が読める。その能力も、限りなく強化されているはずだ。正しくは悪化、だが。いくら葉山が意識しないよう努めていたとしても、説得するときに深層心理まで迫ったのなら絶対に葉山の狙いを把握しているはずだ。むしろ、その方が葉山としては納得がいく。
彼女の知る一筆は少なくとも友人を大切にする人だ。葉山自身が一筆の二重人格について葛藤し、解決しようと奮闘している。そんな事実を知れば根本から解決しようとするに違いない。自分の落ち度で他人に迷惑をかけるのを極度に嫌う彼女らしい理由だ。ともすれば、一筆は早い段階から真実に到達していたのだろう。どの段階から、というのを心が読めない葉山が知る術はないが、おそらく葉山が意識しないように意識していた努力が無駄になるくらいには。
「ちょっと、中学校まで行ってみる」
一筆は、唐突にそんなことを言い始めた。彼女の健忘の時期を考えれば、中学に
「大丈夫だから」
葉山を制した。有無を言わせない、大きな壁を作る言葉だった。ここで強い言葉で葉山をどかそうとしたのなら、彼女も対抗できただろう。しかし、一筆は至っておおらかに葉山を制した。まるで、祈りのようにも見えた。頼むから、この先を邪魔しないでくれと。そう言っているようにも見える。目の前にいるのに、どこか遠くに行ってしまったような疎外感。葉山は、一人過去に向かえないでいた。一筆は、きっと葉山が想像している以上に事情を知ってしまっている。篠宮の記憶を読み取ることはできないだろうから、すべてを知り尽くしたというわけではないだろう。それでも、篠宮と一筆が知っているようなことを自分が何も知らないことに無力感を覚えるしかなかった。
だが、ここで止めなければすべてが終わる。このまま中学校で何かを掴んでしまったのなら、人格の転換は免れない。その先に待っているのは篠宮の提示したカウントダウンの終了だ。彼女の人格は、すべて消え去る。
──それを知ったうえで、なのだろう。
少なくとも、葉山の知る一筆はそういう人だ。自己犠牲的なのかもしれない。いや、そのような幻想は夢想は少し違う。やはり、彼女を言い表すのならただただ友人に対して優しいと言うか、甘いとでも言うべきところだ。葉山が、一筆の二重人格について悩んでいることを知っていたのなら、絶対にそれを解決しようとする。それに、彼女はきっと
一筆は問答無用で他者の気持ちがわかってしまう。主人格の気持ちを考えれば、今の状況は気に食わないはずだ。現実問題、彼女もそう言っていた。返してと葉山は口にしていたが、彼女からしてみれば主人格が表出している間はそれがありのまま。葉山に否定されるのは──一筆茜のアイデンティティの否定。それが別人格たる一筆であろうと、影響は及ぶ。主人格を護るのが、彼女の役割。それこそが彼女のアイデンティティたり得る。ドミノ倒しのように、主人格への攻撃が別人格まで及ぶことを、葉山は直感的に理解できていなかった。
カウントダウンは、あとどのくらいだ。
一筆が目の前にいるが、葉山はそんなことを考え始めた。もう、一筆にはほんとうの意味で何も隠さない。隠せない。篠宮は言った、残り回数は一桁くらい。もしかしたら、次はもうないのかもしれない。それに、今回はこれまでと違う。突発的に、発作的に思い出してきた今までと違って、今回はおそらく本質に触れる。中学の記憶。それが、篠宮の言っていた忘れていた記憶。それを、一筆の意志で掘り起こす。何が起こるのかわからない。篠宮に言えば、彼は笑うだろう。命を削るような行為だというのだろう。そのくらい、危険な行為だ。揺らめく炎に身を投げる。
「葉山に、話しておこうと思っておいたことがあります」
そう言って、彼女はスマホを取り出した。ブックマークを掘り起こして、一つのネット記事を表示する。
「これ……」
葉山は、言葉を失った。そこに表示されていたのは、ある中学校の記事。それも、女生徒が投身自殺を図ったというものだ。玄関近くの写真も載っている。キレイに清掃はされていたが、確実にそこになにかがあったようなシミがあった。身を投げた少女の名前は記載されていない。
──否定したかった。
葉山は、喉元まで出てきた言葉を飲み込んだ。「その人は、きっと一筆とは関係ないよ」そう言いそうになってしまった。言ってはならないと、飲み込んだ。そんなわけがないとすぐに理性が働いてくれたからだ。解離性を患うほどの仲だ。関係ないわけがない。葉山が否定してしまっては、彼女と一筆の関係を否定するのと似たようなものだ。絶対に、深く関係がある。だが、一筆は心が読めてしまう。わずかに彼女の瞳に涙が浮かんだのが見えた。
「ごっ、ごめっ……!」
「わかってる。葉山が、何を言いたいのかも」
その瞳は、決意に満ち溢れていた。これからやることに、なんの迷いもない。その決定に、なんのゆらぎもない。彼女は心が読める。葉山が抱いている不安や恐怖は伝播しているはずだ。それでも、ものともしない。
「……あは、なんだ。ちょっと、私が杞憂だっただけか」
おどけたように、葉山は笑ってみせた。そうだ、一筆は強い。今一度、過去に向き合おうとしている。その先に待ち受けているのが、人格の消滅だとしても──それよりも、過去の精算を求めた。他ならぬもう一人の一筆に対する最大の敬意として、最後の最後にチャンスを与えた。もう、彼女はすべてを知ってしまっている。葉山の知っていることを、すべて。それでもなお止まらない。
──まだ、『彼女』をつなぎとめる方法はある。
人格の消滅は、彼女の主人格がどっちつかずの状態になるからだ。篠宮のシャトルランや振り子の例のように、やがてどちらの人格も表出させることができなくなって消失する。ならば、どちらかに定義すればいい。
「だから、絶対に戻ってきて。”今”生きているあなたこそ、紛れもない一筆なんだから」
言葉には力がある。一筆は、その心を読む力で膨大な量の言葉を読み取ってきた。人の内側に内包する言葉を、ずっと飲み込んできた。だからこそ、ここでその武器を使う。迷うことなどない、今の一筆が葉山にとっての一筆茜だ。それがエゴだとしてもだ。もう一人の一筆を否定はしない。だが、今の一筆を最大限に肯定する。それがきっと、最後にここへと戻って来る命綱になると信じて。あるいは、それが極楽の蜘蛛の糸になることを祈って。
□□□
「やぁやぁ、思ったよりも早かったね」
一筆は、母校である中学校の校門で篠宮に声をかけられていた。振り返れば、そこに彼がいる。能力が強化──否、心が読めるという病が悪化した彼女でさえ、彼の心は一切が不透明だった。末恐ろしいほどに、何も見えない。心が読める読めないに関係ないとしても、至って常人的な感性でその男が異質であることを理解できた。
「急に連絡が来たかと思ったらいきなり核心たる中学校とはね。やっぱり、葉山さんは転換を隠していたみたいだ。でなきゃ、こんな展開が早くなるわけないしね」
面白くもなさそうに、篠宮は呟いた。
「で? なんで僕を呼んだの? 正直、僕から話すことはそうないよ。そこまで病が進んでいるんだったら葉山さんの頭の中を見たんだろう。それが全てだ。よくて二回。普通なら次の人格転換できみの人格は消失するよ。僕に遺言か恨み言でも言いに来たの?」
「そんなんじゃありませんよ。まして、感謝を述べるわけでもありませんけど」
苦笑する口元を、手で隠しながら語り始める。
「私は、ついこの間までこの力について考えようともしませんでした。当たり前のように備わっているもので、私にとっては揺るぎないものだったから」
生まれたときからあると思っていたのだ。そこに、疑問を抱くわけがない。だが、篠宮がその当たり前を破壊した。彼の登場で、一筆は自分の記憶と能力についてようやく疑えるようになった。結果として病は悪化し、葉山の記憶のほとんどを読み取れるようになった。人格の破綻も予感した。
「だけど、それで私は結構満足しているんです。もう一人の私のこととか、葉山に迷惑をかけていたことを知らないで生きていくより、ずっと満足」
「そう。だから、人格が消失するのも怖くないと」
「あぁ……そうですね。だけど、満足してるのそういう理由じゃないかも」
美しい笑い方だった。健気で、儚くて、高校の教室の一ページをそのまま切り取ってきたかのような笑顔だ。
「夢を見るんです。私が、心を読む力を持っていない夢。人のことを見ても、うるさくない。勝手に声が聞こえてくることもないし、変なのが見えることもない。普通の女の子として、普通に人のことを信じて、普通におしゃべりする夢です」
「良い夢そうじゃない」
「起きたら、全部夢物語ですけどね。まぁ、何が言いたいかと言うと……」
その笑顔を、一筆は篠宮へと向けた。
「最後にいい経験をもらえました。あなたはなんでもないことでしょうけど、私にとっては、あなたとの会話こそが
一筆の瞳は澄んでいた。一切の曇のない瞳。そこに反射して篠宮の姿が写ってしまうのではないかと思うくらいだった。明鏡止水。彼女は、何かを掴んでいる。一体、今彼女は何を考えているのか。
「……聞かせてください。あなたが、私の記憶を思い出させたかったのはなんでですか」
「それを教えるほど──」
「お願いします。それだけは、怖いんです。満足ならないところ。私はあなたの心だけ読めない。私の前に現れたのが、私を憎んでいたからなのか別の理由なのか、知りたい」
篠宮は、つかの間少し下を見た。自分の足元より少しだけ先。遠くを見るかのように、地面を見透かすかのようにそこを見つめていた。
「……過去を、清算するためだよ」
「…………」
「僕はきみの担当医だったからね。ほんの少しばかり、遅れてしまったけれど」
篠宮は、一筆に背を向けた。
「少し前に学校とは話をつけてある。宮野という先生に会いに行こう。その人と会えば、全部終わりだ」
それ以上を語る必要はないと言いたげに、篠宮は足早と学校の中へ向かっていった。それを追うように、一筆は走る。懐かしいはずの校門も、久方ぶりの校舎も、記憶のない彼女には無機質な塊に見える。口を開けている来賓玄関。恐ろしい雰囲気で、獲物を待っているかのよう。躊躇せずに、篠宮は中に入る。すぐに、一人の女教師が彼のことを出迎えた。さっぱりとした見た目の女性。気弱そうではあるが、芯の強さが感じられる。ここだけは譲れない、という場面では頼もしいだろうという不思議な感覚があった。
「お待ちしておりました。精神科医の篠宮先生……ですよね」
「えぇ、この見てくれだから高校生に間違われやすいんですけどね」
笑いながら、篠宮は靴を履き替える。彼の背に、なんとなく隠れていた一筆があらわになり、女教師と目があった。一瞬だから、表層の思考しか読み取れていない。記憶までを深く探るには、もう少し相手を深く観察する必要があるのだ。
(焦り、悲しみ……恐怖?)
彼女が女教師から読み取った感情はそのくらいのものだった。同時に、納得したように一筆は頷く。来賓として招かれている篠宮がもてなされるのは当然かも知れないが、同伴している一筆には一言もなしだ。篠宮があらかじめそう言っているのか、あるいは女教師が避けているのかは定かではないが、そこに何かしらの人の意思が介在しているのは明白だった。
すぐに客室まで案内された。来賓玄関からの距離は近い。中に入ると同時に、篠宮から目隠しを渡される。つけろということらしい。逆らうこともできず、素直に一筆はそれを着用した。ほぼ光すら通さない、真っ暗な世界に包まれる。心を読む力を抑えるためだろう。相手を深く観察しなければ、深層心理や記憶までは読み取らない。そういう性質を逆手に取った。目の見えない彼女を支えつつ、篠宮たちは女教師の対面へと腰を降ろした。
お茶を汲みに行こうとした教師すら制止して、すぐに篠宮は話し始める。
「さて、宮野さん。早速で申し訳ありませんが、今回は一筆さんの精神疾患に関しておうかがいしに参りました。先も申し上げました通り、どうか、他言は無用でお願いいたします」
珍しく、丁寧な態度の篠宮に一筆は内心苦笑した。二人の声だけに耳を傾ける。平坦な調子の篠宮。震えるような声音の宮野。視界を塞がれていても、表層心理は見える。一筆が読み取り続けるが、やはり不安や怯えと言った感情が見え隠れしている。
「精神疾患って……まさか、二年前の……」
「えぇ、あなたがこの学校へ配属されてまもなく。そして、一筆さんが中学三年生のときの事件が関係しています」
少女の投身自殺事件。そう彼は言った。目隠しをされているからか、一筆にはその事件の内容がとても大きく聞こえるようだった。彼は淡々と話し始める。一人の少女が、屋上からの投身。遺書が見つかっていることから、自殺だと断定され、その内容は切実たるものだった。
家族に向けた感謝や謝罪が滔々と語られているもので、どちらかといえば親不孝で申し訳ないという謝罪の色が強かった遺書。警察やその関係者は内容にいじめなどの告発やその他要因が見受けられないことから、自殺の明確な理由は明らかになっていない。メディアでは受験ノイローゼと揶揄されていた。
「そして、その投身自殺の第二発見者で、遺書を回収したのが宮野さんですよね?」
「はい……だけど……」
「第一発見派で、遺書を最初に見つけたのは一筆さん」
その内容に、一筆は耳を疑った。自分が、投身自殺を図った少女の第一発見者。記憶を失くしていることを考えれば、その出来事がトラウマとなり、記憶を喪失したのだろうが──
「先に行っておくけど、一筆さん、きみが健忘状態になったのはその出来事が直接的な原因じゃない。決定的といえばそうだけど、間接的に関わっているからね」
ならば、直接的な原因は何なのか。それを聞こうとしたところで、宮野が「えっ」と声を出した。
「健忘……? まさか、一筆さんはあのときのことを忘れてしまったんですか?」
「えぇ、全く覚えていませんよ。そして、今回ここへ来たのはその健忘を解消するためであり、もう一つの精神疾患を治療するためでもあります」
「もう一つの精神疾患って……」
「残念ながら、それにお答えすることはできません」
ただでさえ、心が読めるという特殊な病だ。説明も大変だろうし、そもそもあまり外部に漏らすべきじゃないのだろうと一筆は隣で考察していた。
「とにかく、今回は彼女をあなたとお話させるためにここへきました。それで、ほぼすべて解決します」
「ちょ、ちょっとまってくださいよ。急にそんなことを言われても……」
「大丈夫。宮野さんにやってもらうことは、事件当時のことをよーく思い出してもらうことだけです。わざわざ話してくださる必要すらありません。それで、彼女の病は完治します」
まぁ、そうだな……と篠宮は考える素振りをした。
「……すこし、ここで段階を踏みましょうか。一気に彼女の記憶を掘り起こすのは、少々忍びない」
「段階を踏む? 私が、少しずつ思い出せばいいんですか?」
「あぁいえ、違いますよ。一筆さんに少しでも当時のことを想起してほしいと思いまして」
篠宮は、スマホを机においた。画面が上になるようにして、見せる。一筆は画面を見られないが、そんなことはどうでもいいように彼は話し始めた。
「まず、宮野さんにお聞きしたい。この記事に、少女の自殺の理由については触れられていないが、あなたとしては何が理由だと思うのかを」
「正直、わかりません。当時の彼女は順風満帆なように写ってもいました。確か、一時期彼女の恋人が話題になっていたりして……教師である私は詳細を知りませんが、元気で明るい子だったと記憶しています。それこそ、騒がれているみたいに受験ノイローゼだったんじゃ……」
「その当時、ある人物に対していじめが横行していたのでは?」
その言葉に、宮野は言葉をつまらせた。心を読んでいる一筆には、篠宮の質問に対する答えが明白に見えている。
「あなたは、それを止めることができなかった。えぇ、そうだ。見て見ぬふりとまでは言わないが、とても些細なものに見えてしまっていた。なまじ頭の良い生徒を担当すると大変ですね。いじめが分かりづらいし、指摘しようにも決定的な証拠がない」
「だけどっ、そのいじめは──」
「えぇ、件の少女が対象ではありません。あ、一筆さんにはまだかの少女の名前を伝えたくないので、ぼかしてくださいね。ここでは落命少女としましょう」
みるみるうちに宮野が青ざめていく。目の前の男は、なぜかすべてを掴んでいる。当時いじめがあったことなど、学校関係者しかわからない。なのに、完全に部外者であるはずのこの男は知っている。落ちて命を落とした少女だから、落命少女。あまりにも薄情な名前をかの少女に命名しながら、彼は続ける。
「落命少女がいじめの対象ではなかった。けれど、無関係ではないはずですよ。だって、いじめられていたのは落命少女と深く関係のある人だったんだから」
「それは……」
「ところで──変だと思いませんかね」
彼は記事を指さした。ある一文を示しながら、続ける。
「この記事、遺体の発見場所は昇降口付近だと書かれています。時間は放課後。嘘でもあるまいし、事実そうだったんでしょう。ですよね、宮野さん」
「……えぇ、私が見つけたとき、その子と隣で立ち尽くしている一筆さんを見つけました」
「でも、おかしいですよね。中学生が自殺するのに、昇降口直上から飛び降りるでしょうか」
「どういう意味です?」
その質問を待っていた、と言わんばかりに彼は回答する。
「だって、昇降口って誰の目にもつくような場所ですよ? 自殺理由がいじめだったのならターゲットに対する最期の復讐だと納得はできますが、落命少女はそうじゃない。別の理由で死んでいる。自殺するなら、もう少し人目につかない場所とか、暗い時間にするはずです。放課後、生徒たちが下校するような時間に、昇降口で、これじゃあまるで、
まだ、彼はまくしたてるように続ける。
「しかも、第一発見者はまさかまさかの落命少女と関係の深い人だった。そんな偶然、ありえると思います?」
よしんば昇降口直上になってしまったのはたまたまだったとしても、時間帯までが下校時間と重なるのは落命少女の意思を感じざるを得ない。放課後、生徒が帰る時間、昇降口直上、第一発見者──偶然が重なれば、それは必然。絶対に、落命少女は何らかの意図があった。散らばっていた点が、一筆の中で線になっていく。
「結論から言いましょう。落命少女の自殺理由は
「そんな! あの子はいじめをするような人じゃ……!」
「間接的に加担してしまったんですよ。そして、それが取り返しのつかないことだと彼女は感じた。だから身を投げた、第一発見者であり、当時いじめの対象になっていた──一筆さんへ向けた贖罪としてね」
一筆の耳には、声が聞こえていた。自分の声。何度も聞いた、憎むようで、殺意のこもっている声。幻聴とは思えないくらいに、鮮明に彼女の脳内で鳴り響いている。やがてその音は攻撃となり、彼女の頭を締め付けるように痛めつける。
「一筆さん!? 大丈夫なの!?」
「ご安心を。万事順調に治療は進んでおります」
「あなた……それでも医者ですか!」
「えぇ、残念ながらね」
駆け寄る宮野を見下ろしながら、篠宮はなおも続ける。
「落命少女が贖罪のために、一筆さんの目の前で死んでみせた。昇降口直上から、彼女が出てくるのを見計らってね。そして一筆さんは──ある病を患った。あなたに教えることができない、もう一方の方ですよ」
つまり、心が読めるという病。だが、何を要因として? 友人の死を目の当たりにしてしまったのは悲劇だろうが、それが病と結びつけることができない。割れそうな頭を回転させ、一筆は声を絞り出そうとする。しかし、できない。割れそうな痛みが喉を締め上げ。息だけが我先にと通り抜ける。ひゅうひゅうと、喉笛が鳴っていた。
「そう、一筆さん、きみの病はその時に発症した。落命少女の死を目の当たりにして、きみは全てを
そっと、彼は一筆の目隠しに手をかけた。そっと、帽子を取り上げるかのように軽く。その目隠しを外す。
明るい、明るい、眩しい。うるさい、うるさい、自分の声が。破裂しそうな頭、張り裂けそうな胸、つんざくような痛み。視点の定まらない瞳は、無意識に宮野へと吸い込まれていく。
「さぁ、全てを思い出すといい。落命少女──小鳥遊さんのことも含めて、中学を全て」
限界まで悪化された病は、宮野の記憶を即座に読み取る。尋常ならざる読心スピード。これまでにないほどの、解析速度。まるで人混みに突っ込まれたときのように、声が、情景が溢れ出す。そこにいたのは──過去の一筆。彼女は、記憶の中の人物の心を読める。さながらマトリョーシカのように、記憶の中の記憶すら読み取る。
追憶とも呼べるその行為は、最上の追体験。本を読む、映像を見る。それを凌駕する、心理へと直接叩き込まれる経験。人格の境目が曖昧になる。今の一筆は、過去の記憶を喪失しているからこそ彼女の体裁を保てていた。両者ともその記憶を保持したのなら、両人格は等価値に。擦り切れるような痛みと、遥か彼方へ飛ばされそうな意識の中、一筆は記憶をたどる。
どこまでも、遡る。中学生の、あの頃まで。
「──戻ってきてよ。じゃなきゃ、僕がここにいる意味がない」
果てしない、後悔へ。