閲覧記録 閲覧者:志渡郁彦
捜査資料 第〇号
■■一族惨殺事件
ぱらり、ぱらり。
ファイリングされた資料のページを
記された日付は一九九四年のもの。
今から五年も前に起こった事件であり、既に解決済みの案件だ。年がら年中忙しなく働き詰めの公安警察――そこに勤める郁彦のような人間が、改めて目を通さなければならないような代物ではない。
公安零課。
公共の安全と秩序を護るため、『怪異』と呼ばれる化け物を駆除する者達。その歴史は浅く、創設されてからまだ三年しか経っていない。
元々、日本には怪異退治を専門として運用されていた特務機関があった。
異常なまでに怪異の発生が相次いだ江戸時代。当時にどのような馬鹿げた話し合いが持たれたのかは不明だが、江戸幕府は秘密裏に■■家を中心として対怪異専用の特務機関を創設。それからというもの、彼らは日本を脅かす化け物を影ながら祓い続けていたという。
しかし、それも五年前に潰えた。
■■家とその一族はとある怪異によって皆殺しにされ、結果として日本の怪異共はそのまま野放しとなった。故に公共の安全と秩序の守護のため、国は警察組織に新たな対怪異専用の部署を設立しなければならなかったのである。
それが公安零課結成の由来だ。
■■家滅亡が五年前、公安零課創設が三年前。
二年のブランクが存在するのは、怪奇事件が『怪異』として表面化し認知されるまである程度の期間を要したこと、そして単に会議や書類の処理やらなにやら、諸々の雑事にそれほどの時間を費やさねばならなかったというだけのことだ。無理もないと郁彦は思う。
怪異などという胡乱なものを警察が――曲がりなりにも公安である以上、その存在と活動は秘匿されるとはいえ――公的に扱うなど、正気の沙汰ではない。むしろよく創設まで漕ぎ着けられたものだと、他人事のように感心すらした。
けれど郁彦にとって、怪異の存在は決して他人事などではなかった。
手にした捜査資料の紙面を、ゆっくりと指先で撫でる。
黒いインクで印刷されているのは、■■家で発見された遺体の名前だ。五十七あるその内の一つ――■■
■■侑子。
旧姓を志渡。二十五年も前に■■家に嫁いだ、郁彦の実姉だった。
彼女もまた怪異によって殺されている。他の五十六人の被害者と同様、体を切り開いた痕跡がないにも拘わらず消化器官が丸ごと抜き取られており、そして四肢のいずれかを喪失していた。
資料には遺体の写真も添付されている。
血塗れの骸だ。血反吐を吐いて苦しみ、手足と内臓を失った激痛でのた打ち回った様子が容易に見て取れる。首には荒縄で絞められたような赤い跡があるが、その正体は細かな
あまりにも凄惨な――しかし怪異事件には珍しくもない――光景だった。
事件当日――桜が散り、早くも夏の気配が顔を覗かせつつあった五月八日。
あの日の出来事を、郁彦は覚えている。
嫁いで以来、音信不通だった姉からあった唯一の電話。彼女はただ、狂ったように同じ言葉を繰り返していた。
―――ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい―――
そして最後に。
―――フミちゃん、たすけて
一言たりとて差し挿む余地がなかった。直後に通話は途絶え、それから間もなく、■■家諸共に姉が死んだことを現地の警察伝いに知らされた。
何故、姉が死んだのか。
何故、姉が死ななければならなかったのか。
何故、姉が――あんなにも狂った彼女の様子は、一体なんだったのか。
今となっては知る由もない。
郁彦には、ただ意味もなく資料を眺めていることしかできなかった。
だが――もし。
もしも、知る手段があるとすれば―――
「名無し。お前は一体、何を見た?」
能面じみた無表情のまま、口輪筋だけ動かしてぽつりと呟く。
死傷者:五十七名
行方不明者:一名
行方不明者名:■■■■
それは甥の名前。実姉である侑子の忘れ形見――その本名だ。
しかし今の“彼”は記憶喪失で、自分の名前すら認識できないという不可解な状態である。医者には症状の回復は絶望的と診断された。しかし――逆に言えば。それはもしも、“彼”が自らの記憶を取り戻すことが叶ったのなら。事件の真相もまた明らかになるということに他ならない。
「…………」
無言で紙面を睨み続ける。
郁彦に親はいない。幼少期の彼にとって、家族とは歳の離れた姉だけだった。
姉は真面目で優しく、郁彦はそんな彼女を心の底から慕っていた。
その姉が遠方へと嫁ぎ、以来、音信不通となった事実は思春期の郁彦の精神を甚く傷付ける結果となった。
自分は捨てられた。そう思い込んだ彼は、通っていた学校の窓を割って回ったり、盗んだバイクで走り出したりするなど――当時としてはそう珍しくもない、ありきたりな非行少年になってしまったのである。
愛情の反転による暴力衝動。
それも月日が経つにつれ治まり、やがて彼は立派な警察官となった。結婚し、子供も産まれた。人並みの幸福な人生を送ってきた。
だからこそ知らねばならないのだと、郁彦は思う。
(どうして姉貴が死ななきゃならなかった。死ななきゃならないほどのことをしたってのか、糞が)
心中で吐き捨てた悪態は――果たして、誰に向けられたものか。
郁彦の脳裏にとある人物が浮かぶ。
それは子供の姿をした
曰く。
人を呪わば穴二つ。
怪異に殺されるような人間は、まず間違いなく、殺されるに足るだけの罪を犯しているのだと。
(そんな訳がねぇ。姉貴に限って、そんな訳が……―――)
能面じみた顔にほんの小さな亀裂が走る。
眉間に皺を寄せ、物思いに耽っていた。だからだろう、彼は背後から近付いてくる気配に気付かなかった。
「―――おい、志渡。そんな所でなにしてる?」
「………………………………………………
肩越しに振り返ると、見慣れた同僚の顔が視界に映り込んだ。
簡素な黒いパンツスーツに、咥え煙草が印象的な美女。
肩口で短く切り揃えた髪に縁取られた、氷を思わせる美しい顔立ち。あの切れ長な鋭い目に睨まれて震え上がらなかった者は一人としていない。―――頼もしい相棒だ。
「資料室は禁煙だ。それに煙草をやる女はモテねぇらしいぞ。消せ」
「ハッ、こちとら当の昔に女なんぞ捨てた身だ。どうでもいいね。仮に媚びるにしたってさ、他人の趣味嗜好に難癖をつけるような奴、こっちから願い下げだ。お前だって下らん規則なんぞ無視して吸えばいいだろう。ほら」
「…………」
差し出された煙草を受け取り、口に咥える。
そこに同僚女がライターを点火し、郁彦が咥えた煙草に火を着けた。橙色の光が灯り、灰色の煙が上へ上へと流れていく。
肺一杯に紫煙を吸い込む。
心地よい痺れに酔いながら、郁彦は尋ねた。
「それで、何の用だ」
「そりゃもちろん仕事だとも。
「『DD』は検査じゃ検出されねぇからな。もしもあの薬をキメてんなら、本当に化け物に命令されてやったのかもだ。―――怪異が関与している可能性がある以上、それを調べるのも俺達零課の仕事……か」
「その通り。ほら、行くぞ相棒」
「……ああ」
踵を返し、さっさと歩き出す同僚女。
その背に返事を投げてから、郁彦は手にしていた資料をテーブルに放る。そして床に灰を落としながら、彼女の後を追った。
時は一九九九年、二月。
それは、まだ少しばかり平和だった、在りし日の出来事―――――