酒呑あとらの怪異事件簿   作:瑞雨ねるね

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第七話 ギルマン・ハウス・ホテル 1

 程なくして目的地――ギルマン・ハウス・ホテルに到着した。

 

 丸天井が特徴的な、黄色い塗装の剥げた襤褸(ぼろ)屋だ。歴史は古く、江戸時代からあった宿を大正時代に建て替えたものだという。その際に西洋の建築様式を取り入れ、今の形になった。

 五階建てと、宿としてはそこそこの規模である。

 かつてこの地が観光地として栄えていた時分には客でごった返していたことだろう。しかし今となってはまさしく見る影もない有り様だった。

 

 駐車場はない。

 

 昔はあったのだろうが、客足が途絶えたことで潰され、何かしらの建物を建てるための土地として使われたようだ。よって、名無しは渋々ながらライトバンをホテル付近の邪魔にならない場所に路上駐車した。

 

 エンジンが停止したことを確認してから、鍵を抜く。

 

 見計らって、郁彦が口を開いた。

 

「部屋は昨日の内に予約してある。荷物を下ろすぞ」

「了解です!」

「うーッス。……見た感じ、ほんとに今も営業してんのか疑問ッスけど」

 

 ライトバンのドアを全て開け放ち、次々に荷物を下ろしていく。

 男性陣に交じって非力な鳴子も尽力しているが、しかし当然の如く酒呑あとらは手伝わない。遠巻きに、気怠げな眼差しを寄越すだけだった。

 

 荷物をまとめ終えた所で、名無しはライトバンのバックドアに札を貼る。

 

「? なんスかそれ?」

「うーん……泥棒除けのお呪いみたいなものです。お気になさらず。―――さあ、行きましょう!」

 

 それ以上の追及を阻むように、名無しは荷物を抱えてずんずんと歩き出す。彼は先にホテルへ向かっていた郁彦達にさっさと合流した。

 なんだか釈然としない。

 首を捻りつつ、筍介も渋々ながら彼らの後に続く。

 

 西洋造りの両開きの扉は木製で、ペンキが剥げ大きく色褪せている。真鍮のドアノブも同様に風化しており、錆と手垢と細かな傷によって光沢が失せていた。

 

 郁彦がドアノブを掴み、押し開ける。

 

 耳障りな軋み。悲鳴にも似た甲高い音が響く。

 

 誰もいない。

 躊躇なく、郁彦を先頭に名無し達は無人の建物に踏み込む。

 

 ロビーは吹き抜け構造になっていた。一階に居ながらにして、最上階の天井まで見上げることができる。頭上を覆うなだらかな半球はステンドグラスで造られており、差し込む陽光が様々な色に変化して床へと落ちていた。

 室内は不吉なほど薄暗く、照明の類は見受けられない。明かりは太陽の光に依存しているようだ。

 建物内の空気は澱のように濁っている。

 ここに長居していると病気になってしまうのではないか――と本能的な危惧を抱くほど、この建物は古く傷んでいて、尚且つ不衛生だった。

 

 (かび)(ほこり)の臭いに辟易しながら、名無し等一行は奥へ進む。

 

 途中で、鳴子が足を止めた。

 

「あれは……―――」

 

 頭上のステンドグラスを見詰め、少しだけ目を見開く。

 

 色ガラスが描いているのは、海に関する森羅万象を戯画化したありきたりな光景だ。漁村らしい趣きの代物だといえる。特に不自然なものではない。現に、名無し達も興味深そうに見物こそすれ、怪しむ様子は微塵(みじん)もなかった。

 ただ、酒呑だけは例外だ。

 酒呑は鳴子よりも明確に、ステンドグラスが描いたものの正体を看破している。

 

「―――『()()()()()()()()()()()――万事に叶い給う天地を創り給いて、御親“()()()”の其の御一人児、我等が御主“()()()()()()”を信じ奉る』。

 三年前のだいだらぼっち以来かいな。

 ふふっ、これも()かいねぇ。わざわざこぉして、遠路はるばるやって来ただけの甲斐はありそうやないの。こないなら、またえろぉ珍しい怪異を拝めるんやないかって、期待してまうわぁ。ふふ、愉快、愉快。ほんの(すこ)ーぅしだけやけど、楽しみになってきはったね。()()()()()?」

 

 艶めかしく、小さな紅い舌が色素の薄い唇を舐める。

 

 酒呑は懐から盃を取り出すと、腰に提げた蒼い瓢箪の栓を抜いて傾けた。とくとくと透明な液体が注がれる。独特な酒精の臭いが洪水のように溢れ、黴臭く埃っぽい空気を洗い流した。

 月見でもするように。

 並々と満たされた盃を宙に掲げて乾杯し、酒呑は酒を呷った。

 

「…………」

 

 鳴子は答えることはせず、ただ無言で天井のステンドグラスを見詰め続けている。呆けた表情。完全に()()()()()()()

 

 今この時――彼女と、その他の全てが隔絶されている。

 

 あらゆる音が遠ざかり、他人事になる。確かなものは降り注ぐ光だけ。その碧い輝きは、水面から暗い深海へと伸びる淡い日差しのようだった。

 それを浴びていると、体が大量の水に包まれているかのような錯覚を抱いてしまう。心地の良い浮遊感。まるで羊水に浸る胎児だ。そのまま浮き上がってステンドグラスに吸い込まれてしまいそうだった。

 

 目を見開いたまま、鳴子は呆然と天空を仰いでいる。

 

 耳に届くのは、潮騒にも似た己の鼓動のみ。やがて、彼女の周囲にのみ俄かに蒼褪めた霧が立ち込め始め……―――

 

「―――ナルコちゃん?」

 

 唐突に、現実に引き戻された。

 霧も、深海じみた静かな世界も――その全てが、一瞬にして消え失せている。

 目の前には見慣れた青年の顔があった。間抜けなほどに人が好さそうな表情で、彼は心配そうに鳴子の顔を覗き込んでいる。

 

「……あれ。名無し、先輩?」

「どうしたの、ぼーっとして。具合悪いの? 酔い止め、要る?」

「ああ、はい。ありがとう、ございます……」

 

 錠剤が入ったピルケースと、蒸留水のペットボトルを差し出される。それを受け取って、鳴子は意味もなく酔い止めを嚥下した。

 一気に多量の水が食道を滑り落ちる。

 何故か喉が渇いていた。夏だからだろうか、海でひと泳ぎした後のように全身が汗でびっしょりと濡れている。塩気と水分が恋しかった。

 

 一先ず満足した所でペットボトルから口を放し、どうにか空元気を吹く。

 

「あ、あはは。すみません。なんだか、眩暈がしちゃって……」

「顔色が悪いね。慣れない旅行で疲れちゃったのかな? 後ろは乗り心地も悪かっただろうし、無理もない。やっぱりシュテンに席を換えさせればよかったね。部屋に着いたら横になるといいよ。仕事のことは気にせずゆっくりお休み」

「はい……」

 

 体調が悪い自覚もあり、鳴子は素直に頷いた。

 

「……とは、言ったものの」

 

 名無しが気まずそうにひとりごちる。

 ロビーの奥を見やると、受付と思しきカウンターで呼び鈴を連打している郁彦の姿が目に入った。無人の廃屋に、錆び付いたベルの音が虚しく響く。

 

「すんませーん! 誰かいないんスかー!?」

 

 痺れを切らした筍介が、カウンターの奥に向かって大声で呼びかける。

 (しばら)くして、ホテルの奥から足音のようなものが聞こえてきた。こちらへ向かってきているようだ。

 

「はいはい……だギョ。すいませんギョねぇ、ちょっとお待ちくださいだギョ」

「……ギョ?」

 

 従業員と思しき人間の声。

 その奇妙な語尾に、筍介や鳴子、名無し等が首を傾げる。

 

 ―――とん、とん

 ―――ずる、ずる

 

 足を悪くしているのか。杖を突き、重い肉を引き摺る音が闇の中から聞こえてくる。やがて小振りなランタンを携えた人影が戸口から現れた瞬間――筍介は、本能的な嫌悪感から顔色を真っ青にして、息を呑んで後ずさりした。

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