「おかわり、いいですかっ!」
その子の声は、食堂の空気をひとつ明るくする魔法だった。
スペシャルウィーク。入学式から数日でその名前を覚えてしまったのは、あの笑顔のせいだったと思う。
ほぼ毎日、昼時の学食に響くその声にふと頬を緩ませる。『カレー』の3文字がぶら下がったカウンターから、私も応える。
「いらっしゃい、ちょっと待っててね」
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トレセン学園の食堂に務めるようになって、気がつけば十年以上経っていた。三十代も後半に差し掛かり、今ではハツラツと夢見る子どもたちを眩しく感じることさえあった。
「はじめはそんなこともなかったのになぁ」
年々感情の起伏が少なくなっていることに自覚を持ちつつ、ひとりごちる。
長い間、ここで食事を作っていると思うことがある。ここは苛烈な場所だと。
まだ年若い娘たちが自分の夢をぶつけ合い、競い合う。夢を叶える子もいれば、道半ばで折れてしまった子も数え切れないほど見てきた。
みんな等しく応援はするけれど、だからこそそういう子がいつの間にか学園から去っていることが耐えられなかった。
こちらから子どもたちに話しかけることが少なくなっていったのも、自己防衛なのだろう。
……深入りすると、あとが苦しいから。
そんな考えが、この子の声を聞いた日から、少しずつ揺らぎはじめた。
「お姉さ〜ん! トレセンカレー、特盛でっ! お願いしますっ」
「あなた、本当によく食べるね。ちょっと待っててね」
にへらっとだらしなく笑うこの子は、スペシャルウィーク。
日本一のウマ娘になると公言して、地方から上京してきたこの子の活躍は目覚ましかった。
デビューしてからは怒涛の入着、そして1着の山。シニア級に入ってもなお、その勢いは衰えることを知らない。
同期のお友達もみんな結果を残していて、いつしか彼女たちは"黄金世代"なんで呼ばれるようになっていた。
朗らかで、ちょっと天然そうなこの子が、その中心で走っているのだから、勝負の世界というのは分からないものだなと思う。
初めてこの子がカレーを食べた日、ふと漏らした言葉があった。
「お母ちゃんのカレーとちょっと似てるんです。だから、食べると、お母ちゃんにそばで応援されてるような気がして……」
そのあと、ぱっと顔を明るくして言った。
「私、ここのご飯、大好きです!」
「……そっ。食べ過ぎないようにね」
たしか、そんなそっけない返しをした気がする。
それに対して気を悪くすることもなく、「はいっ!」と元気よく笑って、友人の輪の中に戻っていった――そんな姿に、私は勝手に惹かれてしまったのかもしれない。
そんな子が、明確に調子を崩したのは、秋だった。
ライバルに負けたことで大きく自信を喪失する子はいる。
けれど私には、そんな弱い子には見えなかった。
どうしてそれほど落ち込んでいるのかは察せられるほど、深い間柄ではない。
ただ、元気、ひたむき、純真を形にしたようなあの子が、何かに迷っている。それだけは分かった。
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食事の提供は私達の仕事であり、唯一の生徒との接点でもある。
この子はこういう料理が好きなんだな、これくらいの量を食べるんだなと自然に覚えていく。
ごく少数ではあるものの厳しいチームに所属している子なんかは、トレーナーから食事量、内容の照会がされることもある。
そういう子に対しては、すぐ答えられるように私たちも普段から気をつかっている。
そうでなかったとしても「よく食べる子」と、共通の認識を持たれているスペシャルウィークの食事量が減っていることは、みんなが気づいていた。
その日も、彼女はカレーを頼まなかった。
代わりに選んだのは、控えめなうどんと小鉢。
「いただきます」と笑った顔は、よく出来た仮面のようで――そのままうつむいて、静かに箸を進めていた。
かといって周囲と距離を取っているわけでもない。自然と近くのテーブルに集まる友人たちから話しかけられれば普通に応答している。
そんな“普通”が、どこか痛々しくて。
「元気に見せよう」とする気配が、隠しきれずに滲んでいた。
おかわりもせず、食堂を出ていく背中を、私は、カレーの暖簾の奥から眺めることしかできなかった。
……なにか、できないかな?
誰に頼まれたわけでもない。
けれど、彼女の笑顔を思い出すだけで、胸がきゅっとなる自分がいた。
どうして?
スペシャルウィークのことを気に入っているから?
少なからずそれはあるとは思う。
ただ、大切なのはそこじゃない。
「あぁ、そっか……」
「私、頑張ってる子が好きなんだ」
きっとこれはただエゴ。わがままな私の願い。
勝負事の世界で淘汰されるのは仕方がないことだと思う。けれどその先でいろんな夢を見て、この学園での日々を振り返ったときに「苦しかったけど楽しかった」って思ってほしい。その思い出のなかで「学食が楽しみだった」なんて思ってくれたらもっと嬉しい。
あの子は、きっと「夢」そのものを見失ってるのかもしれない。
もしもこのまま、レースから退くことになったら、きっと彼女は後悔する。
華々しい戦果も、これまでの日々も無意味なものに感じてしまうかもしれない。
それがたまらなく嫌なんだ。
だから力になりたいんだと思う。
――でも、それだけだった。
厨房の中で、私はただいつも通りに手を動かしていた。
何かしたいと思っても、何をすればいいのかなんて分からない。
食事を用意することしかできない私に、あの子の力になれることなんて、あるんだろうか。
そう自分に言い聞かせながら、庫内の整理をしていたときだった。
パン生地。
試作用にとっておいたものが、冷凍庫の隅に残っていた。
「……たしか、甘口のカレーが好きって言ってたっけ」
気づけば、あの子の言葉が頭をよぎっていた。
お母ちゃんの味に似ている――そう言って、笑っていた顔を。
……これくらいなら。
そう、誰かに頼まれたわけでもない。これは私がしたいこと。
私がいま届けられるものなら、ここにある。
さっき仕込んだビーフカレーを溢れないよう丁寧に包む。
頑張れ。
負けるな。
折れないで。
どうか、もう一度、あの笑顔が見れますように。
辛さは控えめ、とろみ強め――スペシャルウィークが「これが好きです!」って言ってくれた、あの日の味。
毎日作り続けてきた私の誇り。
全部全部、卵とパン粉で閉じ込めて、カラッと揚げる。
このカレーパンは、私なりの応援歌。
揚げ網を持つ手はまるで十年前のように強張っていた。
包み紙を用意して、冷めないようにしっかり包む。
けれどそれだけじゃ、なんだか足りない気がして。
備品棚の奥にあった付箋を一枚。
……少し迷ってから、ボールペンを取る。
「がんばって」
たったそれだけの言葉を、くしゃっとならないよう丁寧に貼りつけて。
昼休憩の少し前。トレーナー室へ通じる廊下を歩く。
通りかかったスペシャルウィークのトレーナーに、声をかけた。
「すみません、これ……よかったら、あの子に渡してもらえませんか?」
自分で渡せればいいのだけれど、それは少し、踏み込みすぎてしまう気がしたから。
だから、ほんの少しのわがままを、トレーナーという“特別な人”に託すことにした。
半ば押し付けるように差し出した紙袋を受け取ったトレーナーは、ほんの一瞬だけ驚いた顔をした後、小さく笑って頭を下げた。
「……ありがとうございます。必ず」
それだけのやり取りだった。
後から思った。"あの子"だけで伝わるわけがない、と。
私はただの一スタッフ。彼女と特別な関わりがあるわけじゃないし、ましてやこのトレーナーの私の印象なんて「食堂で見たことある」くらいなものだろう。
けれど、それでも。
彼の一言には「ちゃんと伝わっている」と思わせる何かが、確かにあった。
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数日後、彼女が再び挑むレースの日がやってきた。
食堂の厨房にいる同僚たちは、たいていモニターの音をBGMのように聞き流している。
《天皇賞・秋――まもなく発送です!》
皿を洗いながら、私は少しだけ手を止めた。
――あの子が、走っていた。
まっすぐ前を向いて、大きな瞳に闘志を燃やして。
画面の中の芝は、光を弾いて眩しかった。
馬群に包まれて、一頭の栗毛がその中を駆ける。
《直線コースに入った――!スペシャルウィークが外から来る!スペシャルウィークが外から来る!怒涛の追い込みで上がってきた!》
実況が高鳴る。
思わず、濡れた手のまま拳を握る。
《スペシャルウィーク!スペシャルウィーク、最後は先頭、一着ーっ!》
《勝ちタイム1分58秒0! レコードタイムでの勝利となりました!》
手の中の皿がカシャンと音を立てた。
その音にハッとする。よかった、割れたわけじゃない。
もう一度、少しだけモニターに目を映す。笑顔で観客に手をふるあの子を確かめて、ふぅと一息ついた。
静かに、胸の奥が温かくなるのを感じた。
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夜練に勤しんでいた子たちがお腹を満たして帰寮する頃、どこか寂しさを覚える食堂にその子はいた。
カウンターの脇からひょっこり顔を覗かせるスペシャルウィーク。その細い指先は、見慣れた食券と、油染みた付箋を摘んでいた。
「えへへ…どうしても今日食べたくてきちゃいました」
立場を逸脱した行い、余計なお世話だったかもと不安に思うことはある。
彼女の勝利があの差し入れの成果だとは思わない。
「いらっしゃい、ご注文は?」
けれどーー
「トレセンカレー! 特盛でお願いしますっ」
ーー今日くらい彼女の笑顔を見て「少しは力になれたかなと」思ってもいいでしょう?
私はただの調理師。この子たちの夢を支えるサポーター!
次回、エアグルーヴと教師の話。