ようこそ、トレセン学園へ。   作:茶介

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歩くような速さで(エアグルーヴ・教師)

 

 あの先生は、怒らない。

 

 生徒指導担当の肩書を持ちながら、声を荒げる姿を、少なくとも私は知らない。

 

 優しく諭すように注意をすることはあるが、その時も常に理知的だ。

 

 中庭にある年季の入った木製のベンチ。そこにいつも座っているのは、古文も担当するおばあちゃん先生。

 

 白髪をきっちりと結い、シンプルなカーディガンに身を包んだ姿。いつもにこにこと飴玉を配っている姿が印象的だった。

 

「なんかさ、あの先生って本当のおばあちゃんみたいだよね」

 

「怒らないし、見守られてる感じ?」

 

生徒たちのそんなやり取りも何度も聞いたことだろう。

 

 そう、あの先生は、ただ“優しい”のではない。

 人を見ている。ごく自然に、当たり前のように。そして、見守っている。

 

ぽつりと、目が合った。

 

「エアグルーヴさん、あなたもお一つどうぞ」

 

 

 生徒たちが練習へ向かって駆け出す放課後。

 職員室へと戻る廊下の途中で、ふと立ち止まり、中庭を見下ろす。

 

 わたしは、この時間がとても好きだ。

 

 一日の大半の仕事を終えた安堵もある。ただ、それよりも彼女たちが目標へと走り出すこの瞬間を愛おしく思う。

 転びかける中等部の子。それを笑って支える高等部の子。制服のまま芝生に寝転がっているあの子は……今日はオフなのかしら。それでもターフの近くに居たいのね。

 それぞれが違って、それぞれの眩しさがある。

 

 この光景を見る度に、わたしもまだまだ頑張らなくちゃと思わされる。

 

 ふと視線を戻すと整然と歩くウマ娘の姿が目に止まった。

 

 エアグルーヴ。

 

 遠目に見ても、彼女の姿勢は美しい。凛と伸びた背筋、きれいに手入れされた尾。乱れた制服姿は見たことがない。

 「女帝」と呼ばれるのもわかる。

 みんなの手本であろうとする彼女なりの矜持は、その振る舞いにありありと現れていた。

 

「でも、なにかしら……?」

 

 規則正しく地面を踏みしめるその足取りに、ほんの少し違和感を覚えた。

 

 この仕事を長く続けていると、自然とわかることもある。

 

――それなら。

 

 私はほんの少し、口角をあげる意識をして、ポケットから一つ。お気に入りのお茶飴を取り出して、彼女が向かうであろう生徒会室へと足を運ぶ。

 

「おひとつどうぞ」

 

 その一言をかけるために。

 

 

 生徒会室は、まだほんのりと夕焼けに染まっていた。

 窓を開ければ、遠くからグラウンドの掛け声がかすかに届く。皆、それぞれの研鑽に励んでいる。

 走る足音、誰かの笑い声、風の揺らす木々の音。それらが、まるで景色の奥に溶けてゆく。

 

 机に並んだ書類に視線を落とす。

 掲示板に貼り出すプリント、今月の生徒会費の内訳、来月のイベント計画……どれも滞らせてはならない。

 誰かがやらなければならない仕事。ならば、私がやるべきだ。

 

 そう思うのは、もうずっと前から変わらないことだった。

 

 背筋を正し、ペンを手に取る。

 紙の端をそろえ、書類を丁寧に一枚ずつ確認する。

 

 ……だが、今日は――どこか、息がうまく入ってこない。

 

 数字を三度見返す。直したつもりなのに、また同じ箇所に目が留まる。

 細部が気になっているのか、それとも単に“進められない”だけなのか。

 その違いを判断する余裕すら、今はない気がした。

 

 いつの間にか、ペンを握る指に力が入りすぎている。

 気づいてそっと手を離すと、中指にはペンと同じ太さの小さな凹みができていた。

 掛け時計に目を向けると、また始めてから半刻も経ってない。

 

 (……集中力が、落ちている)

 

 頭では理解している。けれど、認めたくはなかった。

 それはつまり、今の自分に不備があるということ。足りていないということ。

 そんな現実は、できれば見ないふりをしていたかった。

 

「私もまだ未熟ということか……」

 

 窓の外に視線をやると、後輩たちの声がまだ響いている。

 

 自分には自分の道がある。そう選んできたはずだった。

 

 そうあるべきと、私自身も思って歩んできた。

 

 どこかで、立ち止まってしまったら崩れてしまう気がした。

 だから、歩く速度を緩めることを、ずっと拒んできたのかもしれない。

 

 “女帝”としての姿勢。振る舞い。語尾の重さ。所作。

 それらすべてが、誰かの背中を支えるためのもので、後に続く後輩たちの指標となる。

 

 けれど、いつもなら気にも留めないような手の震えや、時間の流れの重さ――その歩みに紛れ込んだ、僅かな歪み。

 

 それを「疲れ」と呼ぶには、自分に負けるようで嫌だった。

 

 ペンを置き、ふぅ、と目頭を抑えたとき何かが肘にあたった。

 

 コロンと音を立てたそれは、一粒の飴。

 

 つい数分前「あら、今日はエアグルーヴさんだけなのね」と生徒指導担当の女教が差し入れにと持ってきたものだ。

 

 透明な小袋に包装されたそれは、濃い緑色をしている。

 どこか贔屓にしている茶屋で定期的に購入しているそうだが、どこにあるのかは聞いたことがなかった。

 

 何か彼女なりの基準があって配っていそうではあるが、欲しいと言えば貰えるほど曖昧なものらしい。

 

 彼女のトレードマークとも言っていいほど、有名になったそれを、封を開けることなく、カバンのサイドポケットにそっと仕舞い込んだ。

 

 

 その週の古文の授業。

 先生はいつものように教壇に立ち、いつものように授業を進めていた。

 ひとつだけ違ったのは、その終わり。

 

「少しだけ早いけれど、今日はここまで」

 

――そのかわりに、ちょっとお話しましょ。

 

 そう切り出した。

 

「もうすぐ、レースの多い季節ですね。皆さん、調子はいかがですか?」

 

 教室の空気が、わずかにざわめいた。

 午睡を誘われていた顔も、『レース』の一言で次第に真剣さを取り戻していく。

 

 迫る節目を想起した。緊張の混じる季節を眼の前に、誰もが少しずつ、肩に力が入る。

 

 そんな様子を見渡して、先生はふっ、と笑ってチョークを手にした。

 

「これは板書しなくて結構よ。みんなも知っている人が詠んだ歌なの」

 

たどる道 しづかさひとつ 胸にして

それもまたよし 風のなかゆく

 

 教室に、和歌の余韻がしんと満ちる。

 

 聞き覚えのあるフレーズはあるものの詩としては初めて聞くものだった。

 その字面を追いながら、私は息を吸った。

 

 和歌は、まるで誰かが背中を撫でているような、優しい響きを持っていた。

 

「この詩は、“立ち止まる”ことで初めて見える景色を詠んでいます。走ることは大事。でも、たまには“ゆっくりすること”も、大切だと私は思います」

 

 先生は、ポケットから飴玉を取り出して見せた。

 

「こういう小さな甘さで、一息つく。焦っているときこそ、そういう余裕が“本当の品位”を守ってくれる。貴女達の強さになる。私は、そう思いますよ」

 

 エアグルーヴは、その言葉に目を伏せた。

 

 “品位”――誰よりもそれにこだわり続けてきた自分の胸に、その言葉は静かに落ちてきた。

 

 ひとつ、穏やかな時間が流れたあと、誰かが手を挙げて尋ねた。

 

「先生〜、これって結局誰の詩なんですか?」

 

先生は小さく首を傾け、いたずらっぽく笑った。

 

「これ? これはね……」

 

 うふふ、と目を細めて言った。

 

 

「わ・た・し」

 

 

 教室を出たあと、ほんの少しだけ校舎の外を歩いた。

 夕方の風が制服の裾を揺らす。秋のにおいが、どこか懐かしかった。

 それでも胸の奥には、まだ張りつめたものが残っていた。

 

 生徒会室に戻ったのは、授業が終わってすぐのことだった。

 教室に響いた和歌の余韻は、まだ胸の奥に残っている。

 

『ちょっと一息。それだけで、見えるものが変わることがあります。焦っているときほど、ふっと深呼吸してごらんなさい。それじゃあみんな――頑張ってね』

 

 先生が、教室を去る直前に言った言葉。

 それはどこか遠くの話のように聞こえていた。けれど、あの静かな口調が、なぜか耳の奥に残って離れない。

 

 机に向かって再びペンを取る。

 けれど、いつかと同じように手は止まってしまった。

 

 無理に進めても、また同じ行をなぞってしまうとわかっていた。

 

 ふと、カバンに手を差し入れた。

 ざらりとした包みの感触が指先に触れる。

 

 飴――先生からもらったもの。

 

 飴も久しく食べていなかった気がする。

 

 包みをほどくと、かすかにお茶の香りが広がった。

 そっと口に含むと、ほんのりとした苦味と、やわらかな甘さが舌の上に滲む。

 

 それだけのことだった。

 

 けれど、不思議と肩の力がふっと抜けた気がした。

 あんなにも重く感じていたペンの感触が、少しだけ軽くなる。

 

 ただ、飴を口にしただけなのに。

 

 (これが……“一息”)

 

 小さく息を吐くと、胸の内に少しだけ隙間ができたようだった。

 そこに風が吹き抜けるように、先生の言葉が、ゆっくりと染みこんでいく。

 

 そういえば、入学したての頃にも一度、貰ったことがあった。

 

 そういえば、幼いころに母も飴をくれた。

 

 少し古い記憶が脳裏をよぎる。

 思えば、あれもわずかな苦みがある、お茶飴だった。

 

 苦くて、でもなぜか安心した。

 

 きっとあの時も一息という優しさを貰っていたのだろう。

 

「それもまたよし……」

 

 舌先の甘味を感じながら、一度目を閉じる。

 ゆっくりと、深く、呼吸を感じる。

 

 目を開けてペンを握ったその先に、もう淀みはなかった。

 

 

 翌日の夕暮れ。

 

 昇降口で靴を履き替えていたエアグルーヴは、ふと、あの先生が門の前に立っているのを見つけた。

 

「あら、エアグルーヴさん。今日もお疲れさまでした」

 

「ありがとうございます。先生もお疲れ様です」

 

 互いに言葉を交わしたあと、、先生は静かに尋ねた。

 

「今日は品位を、保てましたか?」

 

「ええ。……いつもより、少し余裕のある品位ですが」

 

 私の返答に、やわらかく目を細めて頷いた。

 

「それは、たいしたものです」

 

 夕暮れの風が、校舎の影を長く伸ばしていた。

 先生とこうして並んで話すのも珍しい。

 

 いつも胸のどこかに引っかかっていた疑問が、ふと浮かんだ。

 

「先生に、ひとつ聞いても?」

 

 声に出すことはなく、ひとつ頷いた。

 

「先生は、“生徒指導っぽくない”と言われているのはご存知ですか? 私も怒声を聞いたことがありません。その……生徒指導というとどうしても――」

 

 問いに、先生は少し笑ってから言った。

 

「なにも、厳しく律するだけが指導ではありません。生徒指導とは、“生き方”を見せること。」

 

「生き方、ですか」

 

「ええ。私は走り方を教えることはできないけれど、日々の歩き方を教えることはできます。それが私の“お仕事”なんですよ」

 

 中庭の風が、葉を揺らした。

 そのやさしい音の中、エアグルーヴは、ほんの少しだけ口元を緩めた。




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