あの先生は、怒らない。
生徒指導担当の肩書を持ちながら、声を荒げる姿を、少なくとも私は知らない。
優しく諭すように注意をすることはあるが、その時も常に理知的だ。
中庭にある年季の入った木製のベンチ。そこにいつも座っているのは、古文も担当するおばあちゃん先生。
白髪をきっちりと結い、シンプルなカーディガンに身を包んだ姿。いつもにこにこと飴玉を配っている姿が印象的だった。
「なんかさ、あの先生って本当のおばあちゃんみたいだよね」
「怒らないし、見守られてる感じ?」
生徒たちのそんなやり取りも何度も聞いたことだろう。
そう、あの先生は、ただ“優しい”のではない。
人を見ている。ごく自然に、当たり前のように。そして、見守っている。
ぽつりと、目が合った。
「エアグルーヴさん、あなたもお一つどうぞ」
▼
生徒たちが練習へ向かって駆け出す放課後。
職員室へと戻る廊下の途中で、ふと立ち止まり、中庭を見下ろす。
わたしは、この時間がとても好きだ。
一日の大半の仕事を終えた安堵もある。ただ、それよりも彼女たちが目標へと走り出すこの瞬間を愛おしく思う。
転びかける中等部の子。それを笑って支える高等部の子。制服のまま芝生に寝転がっているあの子は……今日はオフなのかしら。それでもターフの近くに居たいのね。
それぞれが違って、それぞれの眩しさがある。
この光景を見る度に、わたしもまだまだ頑張らなくちゃと思わされる。
ふと視線を戻すと整然と歩くウマ娘の姿が目に止まった。
エアグルーヴ。
遠目に見ても、彼女の姿勢は美しい。凛と伸びた背筋、きれいに手入れされた尾。乱れた制服姿は見たことがない。
「女帝」と呼ばれるのもわかる。
みんなの手本であろうとする彼女なりの矜持は、その振る舞いにありありと現れていた。
「でも、なにかしら……?」
規則正しく地面を踏みしめるその足取りに、ほんの少し違和感を覚えた。
この仕事を長く続けていると、自然とわかることもある。
――それなら。
私はほんの少し、口角をあげる意識をして、ポケットから一つ。お気に入りのお茶飴を取り出して、彼女が向かうであろう生徒会室へと足を運ぶ。
「おひとつどうぞ」
その一言をかけるために。
▼
生徒会室は、まだほんのりと夕焼けに染まっていた。
窓を開ければ、遠くからグラウンドの掛け声がかすかに届く。皆、それぞれの研鑽に励んでいる。
走る足音、誰かの笑い声、風の揺らす木々の音。それらが、まるで景色の奥に溶けてゆく。
机に並んだ書類に視線を落とす。
掲示板に貼り出すプリント、今月の生徒会費の内訳、来月のイベント計画……どれも滞らせてはならない。
誰かがやらなければならない仕事。ならば、私がやるべきだ。
そう思うのは、もうずっと前から変わらないことだった。
背筋を正し、ペンを手に取る。
紙の端をそろえ、書類を丁寧に一枚ずつ確認する。
……だが、今日は――どこか、息がうまく入ってこない。
数字を三度見返す。直したつもりなのに、また同じ箇所に目が留まる。
細部が気になっているのか、それとも単に“進められない”だけなのか。
その違いを判断する余裕すら、今はない気がした。
いつの間にか、ペンを握る指に力が入りすぎている。
気づいてそっと手を離すと、中指にはペンと同じ太さの小さな凹みができていた。
掛け時計に目を向けると、また始めてから半刻も経ってない。
(……集中力が、落ちている)
頭では理解している。けれど、認めたくはなかった。
それはつまり、今の自分に不備があるということ。足りていないということ。
そんな現実は、できれば見ないふりをしていたかった。
「私もまだ未熟ということか……」
窓の外に視線をやると、後輩たちの声がまだ響いている。
自分には自分の道がある。そう選んできたはずだった。
そうあるべきと、私自身も思って歩んできた。
どこかで、立ち止まってしまったら崩れてしまう気がした。
だから、歩く速度を緩めることを、ずっと拒んできたのかもしれない。
“女帝”としての姿勢。振る舞い。語尾の重さ。所作。
それらすべてが、誰かの背中を支えるためのもので、後に続く後輩たちの指標となる。
けれど、いつもなら気にも留めないような手の震えや、時間の流れの重さ――その歩みに紛れ込んだ、僅かな歪み。
それを「疲れ」と呼ぶには、自分に負けるようで嫌だった。
ペンを置き、ふぅ、と目頭を抑えたとき何かが肘にあたった。
コロンと音を立てたそれは、一粒の飴。
つい数分前「あら、今日はエアグルーヴさんだけなのね」と生徒指導担当の女教が差し入れにと持ってきたものだ。
透明な小袋に包装されたそれは、濃い緑色をしている。
どこか贔屓にしている茶屋で定期的に購入しているそうだが、どこにあるのかは聞いたことがなかった。
何か彼女なりの基準があって配っていそうではあるが、欲しいと言えば貰えるほど曖昧なものらしい。
彼女のトレードマークとも言っていいほど、有名になったそれを、封を開けることなく、カバンのサイドポケットにそっと仕舞い込んだ。
▼
その週の古文の授業。
先生はいつものように教壇に立ち、いつものように授業を進めていた。
ひとつだけ違ったのは、その終わり。
「少しだけ早いけれど、今日はここまで」
――そのかわりに、ちょっとお話しましょ。
そう切り出した。
「もうすぐ、レースの多い季節ですね。皆さん、調子はいかがですか?」
教室の空気が、わずかにざわめいた。
午睡を誘われていた顔も、『レース』の一言で次第に真剣さを取り戻していく。
迫る節目を想起した。緊張の混じる季節を眼の前に、誰もが少しずつ、肩に力が入る。
そんな様子を見渡して、先生はふっ、と笑ってチョークを手にした。
「これは板書しなくて結構よ。みんなも知っている人が詠んだ歌なの」
たどる道 しづかさひとつ 胸にして
それもまたよし 風のなかゆく
教室に、和歌の余韻がしんと満ちる。
聞き覚えのあるフレーズはあるものの詩としては初めて聞くものだった。
その字面を追いながら、私は息を吸った。
和歌は、まるで誰かが背中を撫でているような、優しい響きを持っていた。
「この詩は、“立ち止まる”ことで初めて見える景色を詠んでいます。走ることは大事。でも、たまには“ゆっくりすること”も、大切だと私は思います」
先生は、ポケットから飴玉を取り出して見せた。
「こういう小さな甘さで、一息つく。焦っているときこそ、そういう余裕が“本当の品位”を守ってくれる。貴女達の強さになる。私は、そう思いますよ」
エアグルーヴは、その言葉に目を伏せた。
“品位”――誰よりもそれにこだわり続けてきた自分の胸に、その言葉は静かに落ちてきた。
ひとつ、穏やかな時間が流れたあと、誰かが手を挙げて尋ねた。
「先生〜、これって結局誰の詩なんですか?」
先生は小さく首を傾け、いたずらっぽく笑った。
「これ? これはね……」
うふふ、と目を細めて言った。
「わ・た・し」
▼
教室を出たあと、ほんの少しだけ校舎の外を歩いた。
夕方の風が制服の裾を揺らす。秋のにおいが、どこか懐かしかった。
それでも胸の奥には、まだ張りつめたものが残っていた。
生徒会室に戻ったのは、授業が終わってすぐのことだった。
教室に響いた和歌の余韻は、まだ胸の奥に残っている。
『ちょっと一息。それだけで、見えるものが変わることがあります。焦っているときほど、ふっと深呼吸してごらんなさい。それじゃあみんな――頑張ってね』
先生が、教室を去る直前に言った言葉。
それはどこか遠くの話のように聞こえていた。けれど、あの静かな口調が、なぜか耳の奥に残って離れない。
机に向かって再びペンを取る。
けれど、いつかと同じように手は止まってしまった。
無理に進めても、また同じ行をなぞってしまうとわかっていた。
ふと、カバンに手を差し入れた。
ざらりとした包みの感触が指先に触れる。
飴――先生からもらったもの。
飴も久しく食べていなかった気がする。
包みをほどくと、かすかにお茶の香りが広がった。
そっと口に含むと、ほんのりとした苦味と、やわらかな甘さが舌の上に滲む。
それだけのことだった。
けれど、不思議と肩の力がふっと抜けた気がした。
あんなにも重く感じていたペンの感触が、少しだけ軽くなる。
ただ、飴を口にしただけなのに。
(これが……“一息”)
小さく息を吐くと、胸の内に少しだけ隙間ができたようだった。
そこに風が吹き抜けるように、先生の言葉が、ゆっくりと染みこんでいく。
そういえば、入学したての頃にも一度、貰ったことがあった。
そういえば、幼いころに母も飴をくれた。
少し古い記憶が脳裏をよぎる。
思えば、あれもわずかな苦みがある、お茶飴だった。
苦くて、でもなぜか安心した。
きっとあの時も一息という優しさを貰っていたのだろう。
「それもまたよし……」
舌先の甘味を感じながら、一度目を閉じる。
ゆっくりと、深く、呼吸を感じる。
目を開けてペンを握ったその先に、もう淀みはなかった。
▼
翌日の夕暮れ。
昇降口で靴を履き替えていたエアグルーヴは、ふと、あの先生が門の前に立っているのを見つけた。
「あら、エアグルーヴさん。今日もお疲れさまでした」
「ありがとうございます。先生もお疲れ様です」
互いに言葉を交わしたあと、、先生は静かに尋ねた。
「今日は品位を、保てましたか?」
「ええ。……いつもより、少し余裕のある品位ですが」
私の返答に、やわらかく目を細めて頷いた。
「それは、たいしたものです」
夕暮れの風が、校舎の影を長く伸ばしていた。
先生とこうして並んで話すのも珍しい。
いつも胸のどこかに引っかかっていた疑問が、ふと浮かんだ。
「先生に、ひとつ聞いても?」
声に出すことはなく、ひとつ頷いた。
「先生は、“生徒指導っぽくない”と言われているのはご存知ですか? 私も怒声を聞いたことがありません。その……生徒指導というとどうしても――」
問いに、先生は少し笑ってから言った。
「なにも、厳しく律するだけが指導ではありません。生徒指導とは、“生き方”を見せること。」
「生き方、ですか」
「ええ。私は走り方を教えることはできないけれど、日々の歩き方を教えることはできます。それが私の“お仕事”なんですよ」
中庭の風が、葉を揺らした。
そのやさしい音の中、エアグルーヴは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
次回 ジェンティルドンナと器具管理スタッフ