"優しさ"の檻   作:多聞町

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"優しさ"の檻

 六月の頭、某市役所のロビー。

 

 転入手続きというのは、どうしてこうも面倒くさいのか。書類を三枚提出したかと思えば、同じような内容を別の用紙にもう一度書かされる。待たされ、呼ばれ、また待たされる。休暇を1日追加してまで来たというのに、まだ番号札のディスプレイは点滅していなかった。

 

 ──吉野川亮彦(あきひこ)、三十二歳。

 

 都会の喧騒に嫌気が差し、梅雨に入る前にはと、都内某市の外れにある落ち着いた住宅街へと引っ越してきたばかりの独身男。

 

 隣席の赤ん坊が甲高く泣き叫び、若い母親があやす声が空回りしている。

 手元のスマホでメールをチェックしながら、亮彦はため息をついた。引っ越しの荷解きも終わっていないし、明日はもう出社日だというのに。

 小さく振動するスマホに目をやると、同僚からのスケジュール変更通知。返信しようとした、そのとき──

 

「──二十七番の番号札をお持ちの方。市民課窓口七番までお越しください」

 

 耳に心地よく響く、女性のアナウンス。

 不意に感じた、胸元を撫でるような涼やかな声の余韻に、亮彦は思わず顔を上げた。

 

 七番窓口に向かいながら、彼は自分が思っていた以上に都会の喧騒に毒されていたことを実感する。平凡な静寂が、これほどまでに心を癒すものとは。そんなことを考えているうちに──

 

「あっ、吉野川亮彦さんですね。本日はご転入の手続き、お疲れさまです」

 

 柔らかく整った声とともに、そこにいたのは──

 黒髪セミロング、白のブラウスに紺のスカート。いかにも市役所職員然とした、清楚な雰囲気の女性だった。整った顔立ちに、微笑む口元。まっすぐ見つめる瞳は、少しだけ強く光っているように見えた。

 

堂ノ木(どうのき)若菜と申します。本日はわたしが担当させていただきます」

 

 ペコリと頭を下げた仕草が、妙に印象に残る。

 年齢は自分よりも少し若いか、同じくらいだろうか。声も、見た目も、どこか"普通以上"に整っている。

 だが、それ以上でも以下でもない──本来なら、そう思うはずだった。

 

「……よろしくお願いします」

「はい。それでは、こちらの書類にご記入をお願いできますか」

 

 滑らかにペンと用紙を差し出してくる彼女。受け取った亮彦は、一瞬だけ彼女の指先に視線を落とした。白く、細い──そして、少しだけ震えていたように見えた。

 

 ──いや、気のせいだ。

 

 淡々と記入を進めていくうちに、若菜──堂ノ木さんは、必要最小限の言葉を的確に返してくれる。形式的な確認と説明の繰り返し。事務的な応対。

 だが、何かがおかしい。

 

 妙に視線が合う。

 いや、違う。こちらが彼女を見るとき、彼女はすでに"見ていた"。

 

「……ちなみに、何かお困りのことはありませんか? ご近所付き合いとか、粗大ゴミの出し方とか。うちの市、ちょっとややこしいんですよね」

 

 唐突な言葉。雑談のようでいて、手元の書類はすでに処理が済んでいるのに、彼女はそれを片づけようとしない。

 

「いえ、特には……これから慣れていこうと思います」

 

「そうですか。それなら、なにかあれば、わたしがサポートしますから」

 

 ──今、彼女、何て言った? 

 

 市役所の職員としてのサービス、という意味だろう。だが、その言葉の端々に、"個人的な何か"が滲んでいるように思えてならない。

 

「市民課って、どこか堅い印象ありましたけど……丁寧に応対してもらって、ちょっと安心しましたよ」

 

 亮彦は、苦笑しながら言葉を継ぐ。

 

「本当にありがとうございました。堂ノ木さんみたいな人がいてよかったです」

 

 ──それは、本当に、ただの社交辞令だった。

 

「…………っ」

 

 一瞬、若菜のまなざしが凍ったように動きを止める。口元は笑っているのに、眼だけが、何かを深く、深く、射抜いていた。

 

「……そう、ですか。ふふ、ありがとうございます」

 

 ──ああ、やってしまった。

 

 亮彦の中で、微かな警鐘が鳴り始めたのは、このときだった。

 

 

 

 

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 五日後──日曜日。午後四時過ぎ。

 

 亮彦は自宅の2DKアパートで、ようやく落ち着いた時間を過ごしていた。荷解きも八割がた終わり、仕事用のPCも設置済み。近所のスーパーで買ってきた冷凍パスタをレンジで温めながら、テレビのワイドショーにぼんやりと目をやる。

 

 ──ピンポーン。

 

 インターホンが鳴った。

 

 こんな時間に? 宅配便の予定も、友人の訪問もないはずだ。

 

 パスタの温め時間をキャンセルし、ドアに向かう。

 ドアスコープから覗くと──そこにいたのは。

 

「……えっ?」

 

 思わず声が漏れた。

 そこに立っていたのは、数日前に市役所で対応してくれた、あの女性──堂ノ木若菜だった。

 

 白いカーディガンに、春色のスカート。手には紙袋。

 

 どうしてここに? 

 ──なぜ、住所を? 

 

 問いを発する間もなく、彼女はドアの向こうで、微笑んでいた。

 

「すみません、吉野川さん。ちょっとだけ、お時間いただけますか?」

 

 その微笑みは、どこまでも穏やかで。

 けれど、ほんの一滴、黒い染みのような違和感が──確かに、そこにあった。

 

「……堂ノ木さん……?」

 

 亮彦が玄関を開けると、若菜はにこやかに、どこか嬉しそうにこちらを見上げている。

 

「こんにちは、吉野川さん。いえ、もうこんばんは、でしょうか? 突然ごめんなさい。偶然通りかかって……あれ? ここ、もしかして……」

 

 あくまで“今気づいたふり”で、彼女は視線を上に泳がせる。

 

「ちょうど真上の部屋なんです。私が住んでるの。びっくりしちゃった」

 

 微笑みの奥に、ぴたりと張りついた何かがある。

 亮彦は、彼女が持つ紙袋に目をやる。スーパーのロゴ入り。

 

「あ……えっと、引っ越してきてまだ日が浅いって仰ってたから、もし必要な物とかあればって。ご挨拶代わりです」

 

 差し出された袋の中には、インスタントの味噌汁、パックご飯、洗剤のミニボトル──生活感にあふれたラインナップだ。

 

「えっ、あ、ありがとうございます……わざわざすみません」

 

「いえいえ。市役所では立場上あまり私的なこと言えないので……」

 

 そこで、彼女は意味深に笑った。だがすぐに笑顔は柔らかく修正される。違和感、というには些細すぎる歪み。だが確かにそこにある。

 

「じゃあ、また。何かあったらいつでも声かけてくださいね」

 

 ぺこりと頭を下げ、若菜は階段を上っていく。

 彼女の背が、視界の上から消えたその瞬間。玄関の空気が、すっと軽くなった気がした。

 

 ……偶然? 本当に? 

 

 嫌な予感が、心の奥でうっすらとしこりを作った──

 

 

 

 

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 時間は五日巻き戻る。

 それは火曜日。都内某市役所・市民課窓口。

 

「本当にありがとうございました。堂ノ木さんみたいな人がいてよかったです」

 

 その言葉を聞いた瞬間、若菜の心の中で“スイッチ”がカチリと音を立てた。

 優しい目、真面目そうな声。自然に出たであろうその一言が、乾いた心に染み込むように入り込んだ。

 

 ……今度こそ、もう逃がさない。

 

 デスクに戻ると、彼女は何気ない顔でPCを開いた。

 職員端末にはアクセス権限がある。だから、そこから一歩踏み込むには──正規のルールを破る必要がある。

 

 ほんの数十秒。指先は迷いなく、市民情報サーバーに接続した。

 画面に表示されたのは、つい先ほど手続きを終えたばかりの男の名前──吉野川亮彦。

 

(32歳。独身。実家は四国。緊急連絡先は空欄。保証人は、勤務先の上司)

 

 なるほど。都内には頼る家族も、知人もいないらしい。

 不動産の欄にはアパート名と部屋番号まできっちり記載されている。

 

 その直後。彼女は自席でスマホを取り出す。

 素早い指捌きで不動産サイトを検索。目的の物件はすぐに見つかった。──良かった……空き部屋がある。

 今度は電話アプリを開くと、静かに番号を押した。

 

「……はい、翌檜不動産さんですか? 御社のアパートで、希望の物件があると伺ったのですが──」

 

 すでに情報はある。後は、契約するだけ。

 その電話は、およそ7分で終わった。入居日は明後日の木曜。手配完了。

 

 次に引越し業者に電話。以前、総務にいたときに使ったことのある零細業者だ。

 幸い、閑散期であるためか、すんなりと予約が取れた。

 

 続いて彼女が開いたのは、SNSアプリだった。

 “吉野川亮彦”で検索。過去の投稿、プロフィール、タグ、すべてを精査する。

 好きなアニメ、職場の飲み会、たまに出てくる元恋人の影──彼の生活の輪郭が、少しずつ浮かび上がってくる。

 

(清潔好き。自炊は少なめ。異性の好みは、やや保守的)

 

 若菜の口元が、わずかに吊り上がる。

 時間はまだ勤務時間内。目立たぬよう、それでも確実に、彼女は“距離”を詰めていた。

 

 

 

 

 その日の退勤後。彼女はスマホの地図を頼りに、彼の住むアパートの前に立った。

 2階建て。軽量鉄骨のよくある構造。1階の彼の部屋には明かりが灯っている。ベランダにかかった洗濯物の種類、電気メーターの回転速度──観察は徹底している。

 

(これなら、夜勤じゃなければ……午前8時過ぎには出る)

 

 彼の勤務先まで、ここから小一時間ほどかかるはずである。

 彼の生活サイクルが読み取れたところで、彼女は帰路についた。

 

 

 

 

 翌々日の木曜日。朝9時。

 

 亮彦が出勤して数十分が経った後、引越し業者のトラックが静かに到着。

 荷物は段ボール数個と家電が少々。搬入は手際よく、30分もかからず終了した。

 

 若菜の“新居”は、亮彦のちょうど真上。音も気配も筒抜けにできる絶好のポジション。

 その日の夜には、前の入居者が置き忘れていったと思しきベランダの植木鉢の影に、小さな集音マイクが据え付けられた。

 

「──……明日、弁当でも買って帰るか」

 

 ベランダ越しに聞こえる独り言。

 録音された音声は、彼の生活を彼女に逐一伝える。

 

(寂しそうな声……一人暮らしに疲れてきてるのかも)

 

 若菜の思考は、どこまでも前向きだった。

 

 

 

 

 土曜の朝、ゴミ集積所。

 近隣住民がまだ動き出す前、彼女は分別された袋の中から、亮彦のものを選び取った。

 

 部屋に持ち帰り、中身を広げる。空になった弁当パック、歯ブラシの包装紙、ティッシュの箱、使い切ったコンタクトレンズの容器。

 

(……ちゃんと磨いてる。これならキスしても……)

 

 浮かぶ妄想に、頬を赤らめる。

 袋は丁寧に畳み、破棄した。痕跡を残さぬように。

 準備は万端。あとは──タイミングを見て、“偶然”を演出するだけ。

 

 

 

 

 そして迎えた日曜日の午後。

 若菜はあらかじめ用意した物一切合切を詰めた紙袋を持ち、慎重に足音を殺して階段を下りる。

 

(驚いてくれるかな。きっと、喜んでくれる)

 

 ピンポーン。

 インターホンの奥で、彼が気配を動かす音がした。

 

 

 

 

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 ──六月中旬、水曜日の夜。

 梅雨入りして間もないというのに、空には星が散っている。

 仕事を終えた吉野川亮彦が、いつものようにアパートの部屋へと戻ると、部屋の扉の前に見慣れた姿が立っていた。

 

「こんばんは、吉野川さん」

 

 手にはタッパーを包んだ風呂敷、柔らかく笑う彼女の名は、堂ノ木若菜。市役所の臨時職員、そして彼の部屋のひとつ上の階の住人。

 

「また来たんですか、堂ノ木さん……」

 

「ふふ。水曜日はノー残業デーですから。こういう日こそ、自炊が難しい単身者の方に手作りの料理をお届けしたいなって」

 

 彼女はまるでボランティア活動でもしているような物言いで、自然と玄関の中までついてくる勢い。

 亮彦が鍵を開けると、当然のように後ろから覗き込む若菜。風呂敷をほどいた彼女の手には小鍋とタッパー。今日の献立は筑前煮と、ひじきの煮物らしい。

 

「じゃあ、ここに置いておきますね」

 

 玄関先にしゃがみ込み、丁寧にタッパーを並べる若菜。

 

「……いつもありがとう。でも、あんまり無理しないでくださいね」

 

「はい。私がしたくてやってることですから」

 

 にこり、と笑う彼女の瞳が、どこか熱を帯びている。

 

 

 

 

 それから週に三度。若菜は水曜、土曜、日曜。そのいずれかの夜、あるいは日中、律儀に訪れるようになった。最初はタッパーに入った手作りの煮物やカレー、あるいは余ったという手土産の菓子など、ごく自然な差し入れだった。

 それが次第に、「市の広報誌にこんなイベントが載ってて」などと誘い文句が増え、広報誌を二人で読むこと自体が目的のようになり、果ては何の用事もなく、ただ訪れては世間話をしていくようになった。

 

 その間に、彼女は着実に“境界線”を侵食していた。

 彼の反応が鈍いことも手伝ってか、あるいは最初から反応など度外視していたのか──。

 

 ──ついに、彼女は部屋に上がり込んだ。

 

 

 

 

 最初はほんの些細なきっかけだった。

 

「広報誌、一緒に読んでもいいですか?」

 

 そのまま彼の返答を待たず、自然と靴を脱ぎ、上がり込んでいた。

 

「市のイベント、こういうの好きですか?」

 

「こないだのお饅頭、口に合いました?」

 

 柔らかい笑顔と、屈託のない会話。

 

 だが、亮彦の心にはいつしか靄のような違和感が立ちこめていた。

 

 ──何かがおかしい。

 

 

 

 

「すごい……やっぱり男の人の部屋って、掃除が行き届いてませんね」

 

 ある日は、彼が少し目を離した隙に、彼女はエプロン姿でリビングとして使っている部屋の掃除機をかけていた。

 

「いや、勝手に入らないでくださいって言ったじゃないですか……」

 

「お掃除しないとダニが繁殖しますよ。吉野川さんが身体壊したら、私、困ります」

 

 困る、という言葉に妙な重みを感じながらも、亮彦は曖昧に笑ってやりすごす。

 

 

 

 

 またある日は、彼女は洗濯まで始めていた。しかも、いつの間にか彼の下着のサイズまで把握していた。

 

(……なぜそこまで……?)

 

 亮彦は思わず天井を仰ぐ。

 とはいえ、若菜の行動は表面的には“親切な隣人”の枠を決して逸脱してはいない。警察に相談するには根拠が弱い。それが一層、亮彦を不安にさせた。

 

 

 

 

 若菜が亮彦の部屋に上がり込むようになって3週目。彼がトイレに立った際、彼女は玄関に置かれていた小皿の中から、部屋のスペアキーを指先でつまみ取っていた。

 目の前の男性の部屋を、まるで当然のように管理下に置こうとする彼女の行動には、微塵のためらいもなかった。

 

 

 

 

 ──六月最後の週、火曜日。

 仕事から戻った亮彦が部屋のドアを開けると、部屋の中から美味しそうな出汁の香りが漂ってきた。

 

「おかえりなさい。味噌汁、ちょうどできたところですよ」

 

 キッチンに立つ若菜。

 エプロンを着け、箸を手に、炊き立てのご飯と焼き魚まで用意されている。

 

「ちょっ、ちょっと待ってください、なんで中に……鍵閉めてったはずなのに……」

 

「え? ああ、合鍵です。前に落ちてたのを預かって、作っておいたんです。いつ返そうかなって迷ってたんですけど……」

 

 にこにこと笑う若菜の声が、妙に耳にまとわりついた。

 

「……返してください。合鍵なんて、勝手に作るもんじゃ……」

 

「もう食卓に並べちゃったから、冷める前に食べましょ? いただきます、って一緒に言いましょうね」

 

 若菜は彼の手を取り、椅子を引いて、テーブルの前に座らせた。

 彼女の笑顔が、ますます濃く、深く、無垢なほどに怖い。

 

 亮彦はこの夜、自分の中で何かが微かに崩れる音を聞いた。

 

(これって、普通じゃない……よな……)

 

 

 

 

 この日を境に、亮彦のアパートは“彼の部屋”から“若菜が通い詰める先”へと変貌していく。

 

「おかえりなさい」と迎えられ、「ご飯にする? お風呂にする?」と問われ、「今日は洗濯物が少なかったね」などと日々の生活の実況を報告される日々。

 

 在宅中に彼女がいつの間にか背後に現れ、気がつけば掃除を始め、料理を作り、合間に見つけた読みかけの本を手に取り、「この続き、どうなるんでしょうね」と他愛ない感想をこぼす。

 

 ──おかしい。

 ──どう考えてもおかしいのに、彼女の行動は日常に深く入り込みすぎて、否定する術がない。

 

 異常が常態化すると、人は次第に麻痺する。

 亮彦の精神は、鋭い警鐘と、彼女のやわらかな声色の間で、綱渡りのように引き裂かれていた。

 

 彼女の声はやさしく、言葉は穏やかで、態度は控えめに見えた。

 しかし、彼のプライバシーはすでに風化した砂丘のように、なすすべもなく削られていく。

 

 ──なぜ、誰にも相談しないのか? 

 

 亮彦自身、そう自問することが増えた。

 だが、誰かに打ち明ければ「それって単に好かれてるだけじゃ?」と言われるのが目に見えていた。

 

 ──好かれている? これが? 

 ──いや、これは何か違う。

 

 そう思いかけた時には、彼の思考はすでに疲弊しきっていた。

 

 玄関に差し込まれる合鍵の音、風呂掃除中に呼びかけてくる彼女の声、食卓に並ぶ料理と、自分がそれを無言で口に運ぶ光景──。

 

「……そろそろ、私、合鍵返した方がいいですか?」

 

 何の悪気もない顔で、彼女は言った。

 だが、亮彦にはその言葉が「返すつもりはない」という宣言にしか聞こえなかった。

 

 ──限界だ。

 

 彼はついに思い立つ。

 誰かに話そう。誰かに、この異常を伝えよう。

 

 だが、彼のその行動は、すでに手遅れだったことを、彼はまだ知らなかった──。

 

 

 

 

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 異変は、ある夜ふと気づいた。

 

 洗面台の上に、見覚えのない白い歯ブラシが一本。隣に置かれた淡いピンクのコップ。

 その日はやけに疲れていて、見なかったふりをして風呂に直行した。

 

 だが翌日、今度は冷蔵庫のドアポケットに「私が買っておいたから」とでも言いたげに置かれたドレッシングや無糖ヨーグルト。ご丁寧に賞味期限は余裕を持って選ばれていた。

 

 その翌週には、玄関に女性用のレインブーツ。風呂場の隅に、淡い色の石鹸とロクシタンのシャンプー。リビングのローテーブルには、小花模様のティッシュカバーと「今月のおすすめ」なんて文字が躍る市の広報誌。

 あの日、初めて彼女が部屋に勝手に上がり込んだそのときから、徐々に、じわじわと。

 

 亮彦の部屋は、侵されていた。

 

 まだ直接的な危害はない。警察に通報すれば、きっと対応はしてくれる。

 だが、「彼女が合鍵を勝手に作って入ってくるんです」などと説明して、果たして信じてもらえるのか。

 彼女は外面がいい。職場でもきちんとしているし、近所でも笑顔で挨拶をしている。

 

 そんな女がストーカー? 本当に? 

 

 自分が被害妄想に取り憑かれているだけなのでは。

 そんな疑念すら頭をもたげる。

 まるで、罠にかけるように、巧妙に、さりげなく。彼の生活空間は、まるで最初から共有物だったかのように、既成事実で塗り替えられていった。

 

 ──限界だった。

 

 このままではいけない。

 

 

 

 

 亮彦はスマートフォンを手に取り、大学時代からの親友、福田の番号をタップした。

 

「もしもし? 福田か? ……ちょっと、聞いてくれ」

 

 夜十時過ぎ。眠そうな声が返ってきたが、亮彦は早口でまくしたてた。

 

「今、ヤバい女に付きまとわれてる。毎日家に来て、勝手に入って掃除して、飯まで作って、しかも俺のいないときにだぞ。俺、鍵なんか渡してないのに!」

 

「え、なにそれ、マジで? 通報案件じゃんそれ……っていうか誰なんだよ、その女」

 

「堂ノ木若菜。市役所に勤めていて……」

 

「……ああ? 若菜ちゃん? なんだよ、お前また喧嘩したのか?」

 

 亮彦は一瞬、言葉を失った。

 

「……は?」

 

「いやいや、お前さ、あんなに仲良さそうだったのにさ。喧嘩してんのかと思って」

 

「……何の話だよ。俺は一度だって、アイツと付き合ったことなんか──」

 

「え? だってSNSとかにも、お前ら一緒にイベント行った写真とか出てたぞ。ほら、花火大会とか、動物園とか」

 

「SNS……?」

 

「……あれ、お前が載せてんじゃないの? 俺、なんかで見たんだけど……」

 

 福田の言葉は続いていたが、亮彦の思考はその場で凍りついた。

 すぐに自分のSNSアカウントを開き、タイムラインを確認する。そこにそんな投稿はない。だが、福田の言う通りなら──どこかに、それが存在している? 

 通知欄に、見慣れないタグ付きの投稿が一件ある。震える指でタップすると、リンク先は、まるで自分専用のファンアカウントのようなページだった。

 

「吉野川亮彦くんと、堂ノ木若菜ちゃんの幸せな日常」

 

 ……何だこれ。

 

 投稿は二年前から続いていた。花火大会の夜。冬のイルミネーション。春の桜並木。──どの写真にも、満面の笑顔の自分がいる。隣には彼女が寄り添い、恋人のような距離感で笑っている。

 

 だが、そのどれにも心当たりがなかった。

 少なくとも、そんな日にそんな場所へ彼女と行った記憶は一切ない。

 

 フォトショか? いや、角度も光も不自然なところがない。本人でさえ違和感を覚えないほど、巧妙に作られている。中には明らかに自分の部屋で撮られたと思しきカットもある。カメラの位置は──

 

 ……どこだ? 

 

 彼は髪を掻き毟った。頭の中で、「嘘だ」「違う」「こんなの、俺じゃない」と叫ぶ。だが、現実は否応なく迫ってくる。福田の声が遠くに聞こえた。

 

「この前、駅で偶然会ったよ。若菜ちゃんに。すっげー丁寧に挨拶されてさ。『亮彦のこと、よろしくお願いします』ってさ。いやー、あれは良い彼女だよ。大切にしないと、罰が当たるぞ?」

 

 その瞬間、亮彦の中で何かが音を立てて崩れた。

 現実の地盤が、静かに、しかし確実に傾き始めていた。

 

 

 

 

 福田との通話を終えたあとも、亮彦はしばらく画面を眺め続けていた。

 

 そこには、“誰か”の手によって構築された、完璧な虚構が並んでいた。──いや、もはや虚構とは言い切れない。見た者が現実だと信じれば、それは“事実”として機能してしまう。

 

 福田が懐柔されていた。

 それなら、次は。

 

 亮彦は徳島の実家に電話をかけた。時間はすでに深夜十一時を回っていたが、関係なかった。助けが欲しかった。声を聞きたかった。せめて、家族だけでも。

 

 亮彦は震える手でスマートフォンを取り上げた。

 実家の番号をタップする。呼び出し音が数回鳴った後、父親の声が出た。

 

「もしもし? どうした亮彦、珍しいな」

 

「……父さん、ちょっと頼みがある」

 

 亮彦の声はくぐもっていた。

 

「今、変な女に付きまとわれてる。毎日のように家に来て、勝手にメシ作ったり掃除したり……。俺、何度も言ってるんだ。やめてくれって。でも、全然通じない」

 

「……は? おまえ警察には行ったのか?」

 

「行ってない。行っても信じてもらえるはずがない。あの女、警察に言えるような証拠はなにも残してなくて……」

 

「どんな女なんだ? 名前は知ってるのか? その女、なんて言うんだ」

 

「堂ノ木若菜って女」

 

 電話口の向こうで、ふと沈黙が落ちた。

 

「──ん? ……あの娘のことか?」

 

 その父の言葉に、反応に、亮彦の背中に怖気が走った。

 

 ──まさか、福田と同じように……? 

 

「若菜さんなら、こないだ、うちに来たぞ。ほら、お前が急なシステム障害で来れなかった、あの日だよ。彼女、丁寧に謝ってた。『亮彦さんが来れなくなったのは急な仕事で……』って。感じの良い子だったな。菓子折りまで持ってきてさ。わたしたちに、気をつかってるなあと思ったもんだ」

 

 亮彦は息を止めた。頭の中で何かが軋む音がする。

 

「……俺、そんなの、全然知らない」

 

「でも、本人がちゃんと挨拶に来たんだぞ? ああ、そうか。二人で来る予定が急に狂ったけど、休める日の都合で彼女だけ来たんだったな。聞いてないのか?」

 

「そうじゃない、ちがう……ちがうんだ」

 

「まあまあ、落ち着け。よく気の利く、いい娘だったぞ。母さんも喜んでたよ。やっとしっかりした彼女ができたって。お前、良かったなあ」

 

 ──いつ。いつそんなことが? 

 

 そんな約束をした覚えもなければ、実家の住所すら彼女に教えた記憶がない。

 

「おにーちゃーん?」

 

 電話の向こうから、明るい妹の声が割り込んでくる。

 

「うそでしょ、彼女めっちゃ美人さんじゃん。いつ捕まえたの? 私より先に結婚したら怒るからねー」

 

 冗談めかした声が、まるで刃物のように突き刺さる。

 

 

 

 

 思わず電話を切った。

 胸が苦しい。息ができない。

 

 ──ダメだ。もう、どこにも逃げ場なんて……。

 

 冷静になれ。まだ他に信じられる場所が──

 否、その思考はすぐに吹き飛ぶ。脳裏に浮かんだのは、あの課長の顔。

 

「最近元気ないな、吉野川くん。彼女と何かあったのかい?」

 

 当時は何気ない言葉だと思った。でも今は違う。

 

 ──知っている? 何かを……彼女から聞かされていた? 

 もしかして、職場も……? 

 

 他の同僚が、以前「お幸せそうですね」と声をかけてきた時の笑顔。

 

「いやあ、羨ましいですよ」

 

 ──あれも、何かを知っていた? 

 

 この世界の誰が、自分の味方で、誰が“あっち側”なのか。

 コンビニのレジでさえ、

 

「いつも仲良さそうですね」

 

 そんな他意のない一言が、恐ろしくて仕方がない。

 

 

 

 

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 部屋に戻ると、世界の色がどこか薄れて見えた。

 鍵は、もう意味がない。ドアの音がして、若菜がいつものように入ってくる。

 花柄のエプロン。片手に紙袋、もう片方には鍋の入った保冷バッグ。

 

「遅かったね。お疲れさま、亮彦くん」

 

 彼女は台所に向かい、手際よくシチューを温め始める。

 テーブルには既にサラダとバゲット。カトラリーも二人分、きれいに並べられている。

 

 亮彦はソファに沈み、虚ろな目で天井を見上げていた。

 何も考えたくない。何も、感じたくない。

 

「……できたよ」

 

 若菜がトレイを持ってやってくる。笑顔はやわらかく、温度があるのに、どこか怖い。

 彼の隣に腰を下ろすと、スプーンを手に取った。

 

「はい、あーん」

 

 亮彦は反応できなかった。ただ口を開ける。

 スプーンが口に差し込まれる。熱くも冷たくもない味。

 

 若菜は彼の頭を撫でた。

 

「疲れたでしょう? もう、何も考えなくていいんだよ」

 

 その声は優しくて、暖かくて、そして──逃げられない。

 

 亮彦の目は、ただぼんやりと、彼女の笑顔を映していた。

 

 

(了)

 

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