"優しさ"の檻   作:多聞町

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幸せの輪郭 ― “優しさ”の檻 続編 ―

 窓の外が白み始める。目が覚めていたのか、ただ目を閉じていただけなのか、自分でもわからなかった。隣に気配はないが、まだ布団にはぬるく温もりが残っていた。自分の動かぬ腕に、冷えた血液が鈍く脈打っているのを感じる。

 

 食卓へ向かうと、既に朝食の香りがしていた。味噌汁、焼き魚、出汁巻き卵。昨日と似たような献立。テーブルの端には、アイロンのかかったシャツが重ねられている。

 

「おはようございます、亮彦さん」

 

 若菜が振り向く。エプロンの紐を結び直しながら、当然のように笑った。

 

「お味噌汁、少し薄めにしました。塩分、気にしてらっしゃいましたよね?」

 

 返事はしなかった。ただ椅子に座り、箸を取った。目の前の食事を口に運ぶ。味も食感も、遠くで鳴っている誰かの話のようだった。

 

 食後、洗面所に立つと、髭剃り、整髪料、歯ブラシ──どれも若菜が揃えてくれた物が所定の位置にある。洗濯済みの靴下を引き出しから取り出す。シャツに袖を通す。もうそれだけで、朝の支度は完了していた。

 

「いってらっしゃい」

 

 玄関で、若菜が優しく微笑んだ。

 

「夜ごはん、カレーにしようと思ってるんです。亮彦さん、甘口が好きでしたよね?」

 

 ドアを閉めた。返事はできなかった。職場へと向かう足取りが、自分のものではないように感じる。

 

 

 

 

 会社へ着くと、タイムカードを押し、パソコンを立ち上げた。マウスの動きがぎこちない。画面のフォルダが開き、前日の業務ファイルが表示される。自分が作成したもののはずなのに、初めて見るような錯覚に陥った。

 

 メールを読み、簡単なバグ修正をこなす。コードの記述ミス。スペルの訂正。処理速度の調整。指は動いていた。思考は動いていなかった。

 

 隣席の同僚が「あのさ」と話しかけてきたが、返事は曖昧だった。

 

 昼休み、食堂に行くこともなく、自席でコンビニのパンをかじった。咀嚼し、飲み込む。その感覚だけが唯一、現実との接点だった。

 

「吉野川くん、ちょっとミーティング」

 

 上司の声に、はい、と返した。誰にも疑われない程度には、問題なく働けているらしい。自分でも驚くほど、スムーズに口が動いた。議事録を取り、議題をまとめ、要点を報告する。

 

 午後、タスクの進捗を報告書にまとめながら、ふと気づく。視界の端が、妙にぼやけていた。何かを見落としている気がしてならない。だが、思い出せない。思い出したくもなかった。

 

 

 

 

 その頃──

 

 若菜はリビングのソファに腰掛け、スマートフォンをいじっていた。通販のベビー用品のページを眺めながら、ふと手を止める。

 

「……まだ、暴れるんです。半年も経つのに」

 

 独り言のように、ぽつりと呟いた。

 

 手帳の隅には、排卵周期が丁寧に記録されている。タイミングは正確だった。彼の仕事帰りの疲れた顔を見て、夕飯を工夫し、寝室の照明を調整する。気配りは万全だった。

 

 だが、亮彦は拒絶した。

 

 布団に入っても、背を向けたまま。触れようとすれば、肩が跳ねる。腕に触れれば、振り払われる。彼の体は、恐怖で硬直していた。

 

「どうして……こんなに愛してるのに」

 

 若菜は、スマホを伏せて目を閉じた。胸の奥にひたひたと湧いてくる感情。不安、焦燥、そして……孤独。

 

 彼を想えば想うほど、距離が遠くなるような錯覚に陥る。

 

 だから、優しくする。もっと優しくする。怖がられないように、少しずつ、心を溶かしていく。

 

「子どもができれば、きっと変わる……亮彦さんも、わたしも……」

 

 呟きは自分自身への言い聞かせだった。

 

 

 

 

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 冷たく乾いたシーツの上、硬直した身体に、若菜の体温がじわじわと這い寄ってくる。ぴったりと寄り添うように、彼女の指が掌に触れた。ふるり、と、亮彦の肩がわずかに震える。

 

「……亮彦さん」

 

 耳元で囁く声は、柔らかくも執拗だった。抵抗の色を浮かべる彼の頬に唇を寄せながら、若菜はゆっくりと身を重ねていく。

 

「今日は、大丈夫です。ちゃんと……つけてあげますから」

 

 ナイトテーブルの端に置かれた、小さな銀色の箱。未開封のコンドームがそこにある。視線でそれを示しながら、若菜は笑った。

 

「怖くないですよ。私、亮彦さんの望まないことは、しません」

 

 亮彦は返事をしなかった。ただ、顔を背けて、息を詰める。

 

 

 

 

 長い時間をかけて、少しずつ慣らされていく日々だった。拒絶と萎縮を繰り返しながら、それでも破綻はせず、彼はベッドに留まり続けた。求められるたびに、手を取り、唇を重ね、身体を預けた。義務のように。逃げ道を封じられた囚人のように。

 

 若菜は丁寧に優しかった。食事も、寝具も、気遣いも。すべてが“負担にならないように”という配慮に満ちていた。怒りも悲しみも決して見せず、穏やかに、静かに、忍耐強く、亮彦の感情が戻るのを待ち続けた。

 

 そして、ある晩。小さく微笑んだまま、若菜は包装から取り出したコンドームをそっと指に取り、いつものように、彼の上に跨った。

 

「今日も、大丈夫ですから……」

 

 暗闇の中で、コンドームはきちんと装着された。亮彦は目を閉じ、されるがままに任せた。

 

 だが、それがいつもと同じものではなかったことに、彼は気づかない。

 

 

 

 

 それから二ヶ月が経った。静かに、何の異変もなく、日々が過ぎた。亮彦は、夜の行為の前後に、何かを語ることもなく、ただ心を閉ざしていた。若菜もまた、それを責めることはなかった。

 

 ──ある夕方。

 

「亮彦さん、おかえりなさい。今日は……ちょっと、報告があるんです」

 

 いつものように迎えに出た若菜が、玄関で鞄を受け取りながら、妙に上気した表情で告げた。

 

「リビングで、お茶にしますね?」

 

 亮彦は無言で頷き、若菜に荷物を渡し、靴を脱いで、一歩ずつ歩く。

 

 テーブルの上には、見慣れない小さなスティックが置かれていた。白地にピンク色の線が二本。

 

「これ……妊娠検査キットなんです。今朝、試したら……陽性、だったんです」

 

 声が震えていた。喜びに満ちたそれが、部屋全体に満ちていく。

 

「できちゃいました……私たちの、赤ちゃん……」

 

 若菜は胸元で両手を組み、小さく、でも確かな震えをこらえるように立ち尽くしている。そこにあるのは、まぎれもない本心だった。演技でも策略でもなく、心の底からの歓喜。

 

 亮彦は、目の前が白くなった。

 

 息が吸えない。肺が拒絶反応を起こしている。喉の奥に何かが張り付いて、声が出せない。

 

「亮彦さん?」

 

 視線を上げると、若菜が一歩近づいてくる。妊娠検査キットを握ったまま、涙ぐむ彼女の表情には、不安も恐れも、微塵もなかった。

 

「大丈夫。ちゃんと育てます。私、絶対に守りますから」

 

 心臓がひどく鈍く打った。

 

 逃げられない。

 

 もう、何をしても、どこへ行っても、どれだけ叫んでも。

 

 終わった。

 

 世界が音を失い、輪郭が溶けた。現実が現実でなくなる。足元が崩れていく。自分という存在が、別の誰かの操り人形になったように思えた。

 

 喜びに染まった声が、遠くで響いている。

 

「ありがとう、亮彦さん。本当に、ありがとう」

 

 唇にキスを落とされ、肩を抱きしめられても、彼の両手は動かなかった。心も、動かなかった。ただ、虚無だけが、彼の胸を静かに侵食していた。

 

 

 

 

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 

 

 

「お義父さんたち、びっくりするかな」

 

 駅前で手をつなぎながら若菜が言った。まだ梅雨のはずだが、真夏のような日差しが、彼女のワンピースの白地を眩しく透かしていた。亮彦は無言で歩いた。重く湿った空気が、じっとりと首元にまとわりつく。

 

 徳島の実家。和風建築の玄関を開けた瞬間、亮彦の母が満面の笑みで迎えた。

 

「まあまあ! 若菜さん、遠いところをようこそ」

 

 ぴったりと亮彦に腕を絡めていた若菜が丁寧に頭を下げる。その姿を見た亮彦の妹──葉月が、廊下の奥からひょっこりと顔を出した。

 

「あれ? おにーちゃん、ほんとに連れてきたんだ。まさか、逃げられたんじゃないかな~って思ってたのに」

 

「やだ、葉月。若菜さんに失礼でしょ」

 

 冗談交じりの葉月の声に、亮彦は乾いた笑いも浮かべられない。座敷に通され、冷茶と菓子を並べた席に着く。若菜が深く頭を下げた。

 

「……お義父さま、お義母さま。妊娠、しました。結婚したいと思っています」

 

「……そうですか」

 

 厳格そうにしていた父は、しばらく無言だった。その目が亮彦を射抜く。

 

「亮彦、ちゃんと責任、取るんだな?」

 

「……はい」

 

 絞り出すように答える亮彦。身体の芯が冷たくなった。どんな罵声よりも重い一言が、脳内で何度もリフレインする。“責任”──それは檻の鍵であり、足枷だった。

 

 

 

 

 それからの展開は、亮彦にとって現実感が希薄だった。

 

 婚姻届の記入。判を押す手が震える。提出。市役所の窓口で、若菜が受け取った書類を見て、口元を押さえた。目元が潤んでいた。

 

「わたし、吉野川若菜になれたんですね……」

 

 亮彦の耳には届いていなかった。ただ、血がすっと引いていくのを感じていた。目の前が一瞬、真っ白になる。すでに婚姻届の控えを受け取ってしまっている現実。市民課の職員が無邪気に「おめでとうございます」と言った瞬間、膝が崩れそうだった。

 

 

 

 

 その日から束縛は、どういうわけか少しずつ緩んでいった。若菜は、食事の準備や掃除など、これまで通り全力でこなすが、「何してるの?」「どこ行くの?」といった監視のような言葉は、明らかに減っていった。

 

「亮彦さん、今日はお仕事順調でしたか?」

 

 彼女の問いかけも、以前より柔らかい。笑顔に棘がなくなった。

 

 亮彦は気づいた。若菜は今、満たされている。結婚という外枠が、彼女を一時的に“普通”にしているのだと。

 

 ただ、それが終わらないとは限らない。心の底ではわかっていた。これは“束縛の一時休止”でしかないと。

 

 ソファに座ってテレビを眺める若菜の横顔。膝に手を置き、少しだけ膨らんできたお腹にそっと手を当てる。静かな目。やけに穏やかに見えるその表情に、亮彦は何も言えなかった。

 

 彼女が自分に注ぐ愛情。それは、氷のように透き通っていて、溶けることはなかった。

 

 亮彦の心には、常にその冷たい檻が残っていた。

 

 

 

 

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 ゆっくりと服をめくり上げ、膨らんだ腹に手を添える。臨月を迎えた若菜は、穏やかな笑みを浮かべながら、その丸みにそっと頬を寄せた。あたたかい。確かに、この中に命がある。──この世にたったひとつだけ、自分と亮彦の繋がりが、形になっている。

 

 静かな昼下がり、アパートの窓辺で、風に揺れるカーテンを眺めながら、若菜は何度も同じようにお腹を撫でた。赤子の動きに驚き、愛おしさに目を潤ませることもあった。

 

「もうすぐ、会えるんだよ」

 

 小さく囁く声には、不安よりも確信に満ちた母性の響きがあった。

 

 

 

 

 白い光に包まれた分娩室に、鋭い産声が響いた。

 

 看護師が声を上げて笑い、「元気な女の子ですよ」と言いながら、その小さな命を丁寧に拭いて、毛布に包む。若菜は意識が朦朧としながらも、視線を外さずにその動作を見守っていた。

 

「はい、お母さん」

 

 差し出された赤子を腕に抱いた瞬間、若菜の中で、なにかが確かに切り替わった。

 視界が揺れ、心が静まり、これまでずっと彼だけを見ていた執着の糸が、すっと弛んだ気がした。代わりに胸の奥に芽生えたのは、もっと大きくて、温かくて、無条件に与えたいという想いだった。

 小さな息づかい。温かい体温。細く握った指先。

 

「……ありがとう」

 

 呟いたその声は、夫に向けたものではなかった。目の前にいる、命そのものに対して、自然と漏れた言葉だった。

 

 

 

 

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 堂ノ木若菜という女性は、こと恋愛に関しては一途で尽くすタイプだった。それは、特に悪いことではない。問題は、男性への依存心も強かったということだ。

 ある種の男性は、そういう女性をとことんウザがった。また、ある種の男性は、都合の良い女として搾取し続けた。見た目に恵まれていたことが、かえって彼女の不幸となった。高校時代からの恋愛は、尽く、文字通り、彼女が“捨てられる”形で終わった。

 “捨てられたくない”。“必要とされたい”。それが彼女の強迫観念となって渦巻いた。

 

 

 

 

 ある日、好みのタイプの男性に優しい言葉を掛けられた。

 

 ……今度こそ、もう逃がさない。

 

 それは、“今度こそ、もう捨てられたくない”。その思いの裏返しだった。

 

 

 

 

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 その日を境に、若菜は少しずつ変わっていった。

 

 亮彦の動きに逐一反応することがなくなった。スケジュール帳のメモは、夫の行動予定ではなく、娘の予防接種や保育園の連絡事項に取って代わった。

 家庭内の会話も、以前のような緊迫した雰囲気は減り、「今日、なに食べたい?」「あの子、今朝はパン食べたよ」といった、淡々としたやり取りに落ち着いていった。

 

 亮彦に対する感情が消えたわけではない。

 むしろ、彼を愛していることには、今も変わりなかった。

 

 けれど、昔のように“自分を見て”、“逃げないで”と縋ることはなくなった。

 ただ、彼が隣にいてくれることを、ありがたいと思うようになった。

 

 それが、自分にとっての“愛する”の正しい形だったのかもしれない。

 そう、いつからか思うようになっていた。

 

 

 

 

 時は流れた。

 あれから五年。

 

 若菜は二人目の命を宿し、ゆったりとしたワンピースの裾が風に揺れている。

 右手には、小さな手を繋いだ女の子──五歳になった娘。左手には夫、亮彦。三人で並んで歩くその姿は、どこから見ても自然で、当たり前で、幸福そうだった。

 

 娘は時折、「あれなに?」「あっち、いきたい」と声を上げ、若菜はそれに優しく応える。彼女の表情には、かつての張り詰めた感情や、内に秘めた焦燥の影はなかった。すべてが自然体で、穏やかで、日々を積み重ねる人間の顔だった。

 

 そして、隣を歩く亮彦もまた、微笑を浮かべていた。

 

 無理をしているようには見えない。ほんの少し口元を緩め、娘が何か面白いことを言えば肩をすくめて笑い、若菜が手を引き直せば素直に歩調を合わせる。

 

 空は高く、風は暖かい。

 日常の片隅にある、特別ではない一瞬。けれど、それは間違いなく──かけがえのないものだった。

 

 この光景を、かつて想像できただろうか。

 答えは、否だ。けれど、いま、ここにある。

 確かにここに。

 

 そんな幸福の風景の中で、若菜はそっと腹を撫でた。

 また新たな命が、ここにいる。

 今度も、きっと大丈夫。そう思える自分が、少し誇らしかった。

 

 あの頃の自分には、戻れない。戻りたくない。

 今の自分が、ようやく“まとも”になれた気がしていた。

 

 

 

 

 彼女は微笑む。

 そして、亮彦も、微笑んでいた。

 

 

(完)

 

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