千里件の人間原理   作:茶蕎麦

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 呪いこそ、寿がれよ。
 そう、彼女が願ったから。


第七話 取れない紫

 悪意というものは、残酷である。痩身が発する飢えの悲鳴をその本質と語りたくはなけれども、実際それだ。

 授受こそ生きることであり死ぬための呪いであるからこそ、善意の反対は存在しうる。

 好きで嫌いで、それに過ぎれば悪化はしばしば起こった。

 

「世界の生存こそ無慈悲であるならば、私はなるほど害だ。しかし、私がそれを願うのを辞められはしない」

 

 ならば、何もかもを愛したい私は全てに対して悪意を持つ可能性があるのかもしれない。

 そう。例えば今現在ルイという子犬としては大きめな雑種犬を抱きながら、誰彼の生存の永劫を願い続けることだって、過ぎて誤れば無理を強いる羽目になるだろう。

 とはいえ、私にとっての命は記録では決してなければカプセルの中で培養液に浸っているのが理想でもなかった。

 

「皆、幸せであってほしい」

 

 そんな夢想を思うことの快楽によってしか生きられないのが、私。

 昨今の自然という名の慣例に流れることばかりを尊ぶ愚かだと捉えられたところで、仕方ない。

 

「ふふ」

「くぅーん」

 

 だが、日々の懊悩の直ぐ隣に明白な現実は寝っ転がっている。

 バイアス無しの認識が考えられなくとも、しかしそもそも私は傾倒に過ぎた。

 愛の中で、愛を思い、多幸の中で多幸を願う。肌こそ自他の境界であるのかもしれないが、きっと私はその感覚のみに意識を委ねきっているのに違いなかった。

 だから、私の手のひらは子犬の体毛の上を滑りながら探り、彼の快いところばかりを目指して動く。

 掻くというのは、分ける意味と強く縋る意味が重なっているような気がするが、どちらにせよ今回においてそれは正解。

 

「くん……」

「おや?」

 

 好きだから、撫でる。そんなお父さんお母さんが教えてくれた、手っ取り早い愛の伝達方法。

 それによってメロメロになったワンちゃんは度々私の膝の上で身震いして。

 

「粗相しちゃったか」

「くーん」

「何。大丈夫だよ」

 

 小水が、今日もフローリングに溢れる。

 犬のそれは大して臭くもなければ、早く処理さえすれば被害も少ない。

 ルイは申し訳無さそうにしているが、実際人にも効くのかと試しに撫でてみた小路ちゃん曰くゴッドハンドな私が悪いのだ。

 彼を床に安堵させてから尿の片付けのためにと私は、ウェットティッシュを取りに向かう。

 

 

「……やれ」

 

 しかし、そこで私はどうにもくらりとした感を覚えてしまうのだ。

 立ち眩みにしては明確なそれこそ、空の揺らぎと私は識っていた。

 

 それこそ令和レトロを通り越して平成ロマンレベルに古式な一軒家。

 見回すに贅沢な木製建築に、古好みの机と椅子の上に今風の電子機器が乗っかり、役割をこなしていた。

 先と今のこの場の違いは、朧である。だが熱量としては確かに異なった。

 

「ルイ」

 

 振り返る。しかし返事はなくそこには茶褐色の雫が広がるばかり。

 聞こうとしてみればなんの生きものの音もなく、愛犬だってこの場にない。

 それを好しとして、私は見上げて唯一の生き物としてこの事態の元凶の名を音として奏でるのだった。

 

「紫鏡」

 

 返事の代わりにカラン、とそれは視線の先の板張りに落ち込んで顕れる。

 つい床に傷が付いてしまったか不安になる音だったが、しかしここが()()()()()()と思えば無事であるだろう。

 

 とはいえアリスには向いていない私が数歩で近寄り、見下ろしたのは紫色の絵の具の塗布により反射を忘れた鏡の成れの果て。

 つまり、この世の青から終わりの赤へと変遷する間の色を表す死そのものだった。

 大人では憶えているだけでも害となりうる都市伝説を、私は気にせず拾ってこう問う。

 

「……あなたは私をそんなに容れたいの?」

 

 死に変じただけの器物から返事はない。

 冗談のように塗り込められた、油性はねとりとした感触を指先に覚えさせてくるが、それがどうしたことだろう。

 私は、悪意達のゴミ捨て場でも極めて危険とされたコレだって嫌いではなく、むしろその呪われた行く末を心配していたたった一人。

 

「あなたの呪いは何時か解されるべきだと思うよ」

 

 紫鏡とは終わりを誘う死と不幸を望むこの世の悪意を映して凝らせて、鏡としての役割をすら失ってしまった器物。

 不幸の言葉にすらなってしまった恐るべきこれは、だがしかし私にとっては敵じゃない。

 

 そもそも物語を見つめるばかりの第三者に、至る呪いも不幸もなく。フィクションは現実に届かなければ心を動かすばかりが精々。

 故に、第四の壁からの閲覧者たる千里件、私にはこの子の悪意だって可愛らしいものでしなく、でもだからこそそれが辛くって。

 

「ごめんね……」

 

 つい、紫を私は指で躙る。

 好きだからこそ、撫でるというのは私の好む愛の伝達方法。

 だがこれは少し強かっただろうか。でも、きっとこれだって脈動すらしていないこの子には足りず感じず、届ききっていないに違いない。

 

「ああ……」

 

 私は、鏡の中の世界にてしばらく取れない紫を擦ってた。

 

 

 

「わん!」

「あ、ルイ……」

 

 そうして気づけば私は現に戻れていたようで、足元に響く愛犬の声に私は彼のふさふさボディに目を向ける。

 彼は、小水の傍でウエットティッシュの到着を今か今かと待ちわびている。

 だから、私は家の中の短い距離を歩もうとしたら。

 

「はい!」

「あれ?」

 

 すると、私とルイの間をぱたぱたと小さな小さなアリスが通る。

 髪は一つの尻尾を作り、紫色のヘアゴムがそれに埋もれてる。

 目にした幼気に覚えた感慨は、不明。とはいえそれが愛に似ているとは思ったから、私は。

 

「ありがとう、ゆかり」

「どーいたしまして!」

 

 お利口さんにも私のお手伝いとして先んじてルイの下の世話をしてくれた()()()()()に感謝の言葉をかけるのだった。

 

「よーしよーし!」

「くぅん……」

「あれ?」

 

 一方的な撫でに、しかし尻尾は上がっているルイ。

 仲良くしている妹と愛犬の様子に、しかし私は首を傾げる。

 

「妹が元気なのは嬉しいけれど……」

 

 

 本当に、これで良かったのか分からなくって。

 

「あははっ!」

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