―――桜佳高付属中学校
2学期末の期末テスト週間が終わり、桜佳中の生徒が校門からぱらぱらと出てきた。
「よし! テスト終わり!」
光は校門を出るなり、大きく伸びを打った。
その横で、獅子堂星羅は光に深々と頭を下げた。
「ホンマ、今回のテストはありがとな……おかげで赤点も多分全回避できた……」
「どういたしまして。まあ、こういう時でないと、溜まっていた借りも払えないしね」
光が「借り」と言っているのは、代わってもらった掃除当番、サボった授業のノート等、共同生活でルームメイトにいろいろ世話になった事である。
光は骨髄浮腫により練習制限されて空いた時間で、今まで星羅に世話になった分を返しにかかっていた。また、今まで授業までちょくちょくサボっていた勉強も普通にやり、今回のテストでは何気に中学で初めてテスト対策までやった。その過程で、ルームメイトの星羅の勉強も手伝った。
「ホントありがたいわ。ごめんな」
「いいわよ。そっちはそっちでスピードスケートの全日本ジュニア大会近いでしょ? フィギュアの全日本選手権と同じ週よね?」
「おう! ショートはな。あと、ロングが年明けや」
星羅は意気込んで胸を叩いた。その手には既に大きな練習バッグがある。
獅子堂星羅はショートトラックの選手、と校内では思われているが、彼女の目指すのはロングトラック選手である。
しかし、ロングトラックの練習には「オーバル」と呼ばれる呼ばれる400mの氷のトラックコースが必要で、これは星羅がスケートをやっていた西日本にはない。まして通年営業している屋内オーバルとなると、長野と北海道帯広の2箇所しかない。だから、ロングトラック選手の多くはこの2箇所のいずれかを練習拠点にする。
だが、生まれた広島でスピードスケートを始めたものの、一時期フィギュアに転向し岡山に、中学からスピードスケートに再転向の彼女にはスピードスケートの競技歴と言えるものがなく、長野や帯広の学校への推薦は敵わなかった。そもそも、スピードスケートで中学生選手を入れる寮自体極めて珍しいもので、長野にはわずかにあるものの「ほぼ未経験者では寮枠を与えるほどではない」と見なされてしまったのである。ロングトラックを諦めてショートトラックの選手のみを目指すなら広島の両親の元に戻り、ショートトラックの名門八戸の出身のスター広島FSC伊太刀コーチに師事する選択肢もあったのだが……
進路に悩む彼女であったが、東京の桜佳高付属中はフィギュアスケートの競技歴だけで推薦が取れて、入寮ができた。ここからならかろうじてオーバルにも行く事ができる。そうして彼女は東京の地からまずはショートトラック等で鍛えつつ、ロングトラック選手を目指すことになった。
険しい道だった。春から秋にかけては月に1〜2回、冬でも月に3〜4回の週末、それ以外は長期休みにしかオーバルが使えない。それ以外の練習は陸トレ、インラインスケートでの練習や、フィギュアスケートリンクでのショートトラック練習になる。スターフォックスリンクにもよく来ていたが……
土曜の5時前に起きてオーバルに向かう彼女と、平日の放課後に使える長野や帯広の選手。その練習環境の違いによる力の差は歴然としていた。
昨シーズンの彼女のロングトラックの成績は、東京都の選考会ではぶっちぎりの1位だったが、全日本ジュニアでは13〜14歳のジュニアBに限っても下から数えた方が早かった。その年の全日本ジュニアの上位も長野や北海道の選手ばかりで、たまに屋外オーバルのある栃木や群馬、青森等が混じる、といった程度だった。
フィギュアスケートで培ったエッジワークはショートトラックでは生きて、都大会優勝、関東3位、全中50人中11位と、中1としてはかなりの好成績ではあったのだが……
大会後、ベッドで微かに啜り泣く彼女の声と涙の匂いを、光は今でも覚えている。
「今年はいいところいけそうだね」
「そうだね……」
先月まで行われていた全中予選での1000mのタイムは全国18位、1500mで14位だったらしい。
「全日本ジュニアでいい成績なら、長野の高校の推薦も……あ、いた!」
校門の外に白いハイエースが待っていた。星羅がスポーツバッグと共に跳び乗ると、運転席から壮年の男性コーチが確認した。
「靴下は?」
「入れました!」
「前回とその前、立て替えた靴下代は?」
「……全ジュニの試合結果で返します!」
「意味わからん。まあ、行くぞ。獅子堂」
「じゃあ、光ちゃん。行ってくるわ! 留守番よろしくな! 帰りは月曜の夜な!」
窓から元気よく手を振る星羅を、光は小さく手を振り返して見送った。
微かに脚が痛んだ気がした。その惑いを振り切るように、光は急ぎスターフォックスに向かった。
―――立川市立西第三中学
「テスト終わりー!」
「よっしゃー!」
いのりと萌栄の「8回転コンビ」はテスト終了の声を上げた。
推薦全日本を控えたいのりと違い、萌栄にはしばらく、
3月の全中まで試合はないのだが、2人ともスターフォックスへと足早に自転車を走らせる。なお、本来西三中は自転車通学禁止だが、この2人他数名のトップ選手には「トレーニング器具」という名目で自転車通学が黙認されている。
間もなくスターフォックスに到着すると、通学自転車のカゴにヘルメットを叩き込み、すぐに練習着に着替えてトレーニングルームに向かう。
「ライリー先生! よろしくお願いします!」
元気よく挨拶する2人に、ライリーは笑顔を崩さず問いかける。
「テストどうだった?」
「バッチリです!」「バッチリやよ」
予想外に元気よく答える2人に、ライリーは一瞬「おや?」という顔になったが、嘘ではなさそうなので表情を作り直した。
「そう……良かったわ。リンクの方は2時半までシンクロの子が使っているから、陸トレから始めるわね」
「はーい。先生、質問です」
「なあに? いのりん」
「シンクロの子のチーム名の『キッツ』って何ですか? 『キッズ』じゃないんですか?」
「うん。『キッツ』は英語で『子狐』という意味ね。日本語だと『こぎつねさんチーム』とか『こんこんチーム』くらいの意味かな」
「へぇ。わかりました。ありがとうございます」
「ふんふん〜♪」
鼻唄混じりにトレーニングルームに向かういのりを見て、ライリーは満足気に微笑む。
「全日本、世界ジュニアに向けてリラックスしていて、入れ込みすぎている感はないわね。いい傾向かも」
そこに、ちょうどいのりとライリーの会話を聞いていた司がやって来て言った。
「まあ、いい具合に力が抜けているとは思いますね。こう、もう大コケしなければ世界ジュニアはほぼ確定というところでゆっくりペースを作れるというところと……」
そこで、司はリンクの隅で「キッツ」の子供たちのそばにいる光の方をチラ見して言った。
「……いつも張り合っている光ちゃんがあの様子ですし……」
光は子供たちを相手に和んでいた。
「ふむ……」
ライリーは腕を組んでひと思案した。
「気が抜けているとまでは思いませんし、普段のピリピリした関係よりはいいですが、あまり気が離れたままなのもよくありませんね……」
ライリーは光のそばに寄ると聞いた。
「ぴかるん」
「何ですか? ライリー先生」
「脚の具合も悪くないし、練習制限守れてるし。あと、今度の全日本、冬休みに入ってるし、観戦に来る?」
光は元気に即答した。
「はいっ!」
やはり、こないだのファイナルの時のような留守番は気が滅入るものだったのだろう。光は上機嫌で冗談めかした鼻唄を口ずさむ。
「ふんふんふ〜ん♪ 北海道旅行♪ 滑走前のいのりちゃんの前でバターコーン味噌ラーメン食べちゃおうかな?」
ライリーも笑いつつ返す。
「こら! 北海道旅行じゃありません。飯テロはやめたげなさい」
「え〜。ライリー先生いつも飯テロしてるじゃないですか。昨日の晩は『汁なしえびみそまぜそば』でしたよね? すごい匂いでしたよ?」
「……当たり」
ライリーも苦笑し、口を尖らせる。
「ふふふ……ライリー先生、ありがとうございます! みんなに買うお土産も考えないとな。そうだ、『キッツ』の皆にも何か買ってあげよっと」
自然な笑みをこぼして弾んだ足取りで「キッツ」のところに戻る光の背中を見て、ライリーは満足気に微笑む。
「よし、やっぱり連れて行くことにして良かったわね」
そう思っていると、後ろからやっかみの声がきた。
「えー。光ちゃんだけ連れてくの? いいなー」
萌栄がうらやましそうな目でこちらを見ている。
「萌栄ちゃんもお父さんにお願いしてみる? 飛行機やホテル代はかかっちゃうんだけど。最住さんところみたく家族で観戦に来る子もいるわよ」
「あ、そうか! 光ちゃんはなんかパトロンさんいるんやったな……後でお土産だけねだっとこ!」
萌栄は納得したような顔でトレーニングルームに向かった。
「……パトロンねぇ。まあ、あながち間違ってはいないか」
一応、光の生活費学費月謝その他諸々は、養父家から出ていることになっている。光が言うには『狼嵜のお婆様』が出してくれているらしいが、夜鷹純に預けられて以来、光も会えていない。
振込元口座も毎月変わっているし、電話で連絡しても「こちらの家のことは詮索しないで欲しい」の一点張りだった。その代わり額はほぼ青天井である。
電話等だとライリーの嘘感知センサーも働かないので、探りも入れづらい。
少なくとも「彼ら」は光が夜鷹純の姪であることは知ってて2人に隠しているものだと思われる。そうでなければ、そもそも血縁でない独身男性に年端もいかない少女を預けることはしないだろう。そういう所業は人売りの所業と見なされうる。……あながち「彼ら」の正体としては間違ってないのかもしれないが。
光の実の両親の安否についても、「彼ら」は「両親とも既に亡くなっている」とは言っているが、これも疑わしい。
シーズン終了を待って鴗鳥慎一郎と相談の上、2人の血縁関係は打ち明けるつもりではある。怪我の回復次第では全中大会も回避で光の今シーズンはほぼ終了だが、だからといって怪我で弱っているところに打ち明けられる話ではない。
「……こちらの件も頭が痛いわね……」
頭を押さえるライリーを見て、司が「どうかしましたか?」と声を掛けたが、ライリーは黙ったまま返事をしなかった。
獅子堂星羅はなぜ、スピードスケート専門の伊太刀ヘッドコーチとスピードスケート元日本代表の父のいる広島に戻らなかったかを、こう理由つけしました。