男子の練習が終わった時、リンクサイドにいたライリーの所に実叶が走ってきた。
「ライリー先生!」
「どうしたの? 実叶さん」
「光ちゃんが大変です!」
「え!?」
———
ライリーが実叶に連れられ廊下の方に行くと、スマホを握りしめて泣きじゃくる光が、鹿本すずになだめられていた。
「ひっく……五位崎さんって分家筋の人が、、ひっく……おばあさまがもう亡くなってて、、ひっく……私の両親は実は生きているって……、、、私のお母さんは、夜鷹さんのお姉さんだって、
ライリー先生にバレたから、もう全部教えるって……」
光の手にあるスマホに写ってるのは、さっきの狼嵜のおばあさまの遺言ビデオレターだ。
ライリーは青い顔になった。
五位崎って、さっきの女の方? ちょっと教えるの早すぎ! 心の準備と仕事の都合というものが……
「お父さんとお母さんはどこにいるんですか! ライリー先生、教えてください! 連れて行って下さい! すぐ!」
泣いて訴える光にライリーは狼狽えた。
「ええと……近くは近くなんだけど……」
そろそろ『狼ラーメン』も営業開始時間? さっきは店は留守電だったが……いや、そもそもこれから男子FSほか色々ありすぎてこの場を離れられない。流石に真駒内のこの会場から中島公園まで今すぐ行くわけにはいかない。
ライリーが困っていると、実叶がスマホ片手に手を挙げた。
「あの……『狼ラーメン』のスミさんのところなんですよね? 私、連れていきましょうか? 仕事の方は今、許可もらえたので……」
———すすきのの雑居ビル内
綿貫は、五位崎に文句を垂れつつスマホを取り出した。
「全く、五位崎さん仕事が早すぎますよ。ええと……夜鷹澄さんから光ちゃん引き受けた時の『分家筋』はどこでしたっけ? 五位崎さん」
五位崎もスマホ内のメモをたぐって答えた。
「確か『所さん』ですね」
「了解」
———札幌市中央区。中島公園の人気ラーメン店「狼ラーメン」
「狼ラーメン」店主の魚瀬夫婦には辛い過去があった。魚瀬正太の修行時代、まだ2人が結婚していなかった頃、2人は極貧に喘いでいた。ラーメン職人を目指す魚瀬正太は常人を遥かに超える味覚の持ち主であったが、それ故に彼が目指すラーメンへの道は荊の道であった。わずかな食材への妥協や調理の手落ちも、己の舌がすぐ見抜いてしまう。まだ只のバイト店員であった彼の稼ぎも、恋人の夜鷹澄が貢いだ金も、試作ラーメンの食材費に消えていった。
夜鷹澄が、正太に妊娠を明かす事もできずに出産し、その赤子をいくばくかの金銭と引き換えに「所さん」なる怪しい養子斡旋者に渡してしまった事も、致し方のない事だったのかもしれない。
その金を元に研鑽を積んだ魚瀬正太が世に認められる料理人となり、晴れて2人が夫婦となっても、手放してしまった子「ひかり」のことは、今も2人の心に影を落としていた。
2人が新たに元気な男児に恵まれても、名声を得て裕福になり店を持つまでになっても、その心の穴は埋まる事はなかった。せめて、「ひかり」がどこかで生きていて欲しいと願うも、所在はおろか生死もわからない。
そんな2人の心の慰めの一つが、スケートをする子供たちの姿を見る事だった。自分が子供を捨てておいて勝手な話だが、恵まれてスケートに励む子たちを見ると「ひかりもどこかでスケートをしているかもしれない」などと感じる事があった。
そんなわけだったので、昨夜、世界ジュニア候補の結束いのりが店に来てくれたのは本当に嬉しかった。ひかりが生きていたら同じ歳だったはずだというのもある。
今夜いのりが来てくれるのを、魚瀬夫婦は楽しみにしていた。
そして開店準備をしながら、そろそろ電話の自動応答を切る時間かと、澄が店の電話に手を伸ばした時、ポケットの中のスマホが鳴った。知らない番号だ。
「はい。もしもし、どなたですか」
『もしもし。夜鷹……いえ、今は魚瀬澄さんでしたね。
お久しぶりです。所です』
「と、と、『所さん』!?」
カウンターの向こうにいた正太も驚き、澄に駆け寄る。
澄は震える声で聞く。
「あの、申し訳ありません……『ひかり』は元気に生きているでしょうか? 合わせていただく事は……」
電話の向こうの声は淡々と応じた。
『はい。その話で。『ひかり』さんは元気ですし、お会いしても問題ないと考えますが、少しだけお願いが』
「何ですか!? お金は、あの時の額と同じだけ用意でき……」
慌てる澄を抑えるように、所と名乗る男は続けた。
『いえいえ、滅相もない。お願いしたいのはただの口裏合わせです。
実は、養子斡旋先の方は『狼嵜さん』という方だったのですが、3年ほど前に亡くなられています。そして、『ひかり』さんの現在の保護者にあたる方が、あなたを見つけられましたので、『ひかり』さんはまもなくあなたの前に現れると思います。
お願いしたいのは、私とあなたはただの遠縁の親戚筋で、私は、親戚からお金を集めてあなたに渡し、勝手に連絡を絶った、という事にしといて下さいということ。私が養子斡旋を生業としている事や、あなたがそれを利用して金銭を受け取っていたことは隠して下さいという事です。あのお金は親戚の方々の援助という事で、返す必要はありません』
「はい……わかりました……あの……それで、今、『ひかり』はどこに?」
『札幌市内なので、すぐ来ると思いますよ。
あと、養子に入れる時に『ひかり』ではなく『ひかる』、漢字一文字の『光』になっています。
それでは、音信の途絶えていた親戚筋の『所さん』から今連絡があり、『光』さんは、別の親戚の『狼嵜』さんに預けられていたと今しがた教えられました、という事で。
『狼嵜』さんの遺言ビデオメッセージも送るので、そちらも見てください』
「はい。こちらの番号に、ですね?」
『ええ。それではごきげんよう』
そうして通話が切れたところで、店員の一人が夫婦に声をかけた。
「店長。澄さん。何やってるんですか? 電話が留守電のままだったんで、解除しておきましたよ。
昨夜来られていた結束いのりさんのお姉さんから電話がかかっていて、何だかすごい重要な話があるみたいなんですが……」
そんな言葉も、澄の耳には届いていなかった。
「『狼嵜』さん……『ひかる』……『狼嵜』『光』……
……!?
『狼嵜光』!? まさか!? 私の娘が!?」
———再び、すすきのの雑居ビル
「これでよし、と」
しかめ面しながら通話を切った綿貫を五位崎が労う。
「お疲れ様でした。8年前くらいですか、夜鷹純に預ける時に、狼嵜光が姪だってバレるのも時間の問題だろうって言ってたのに、ずいぶんかかりましたね」
綿貫は半分呆れ顔で答えた。
「まったくです。顔だって似てきていたし、遺伝子検査すればすぐですし。
結局気づいたのは全然関係ないライリー・フォックスさんですか。夜鷹純という男はスケート以外はまったく鈍い男ですな」
そこに、高齢の着飾った老女が現れて言った。
「ちょっと、綿貫。私の推しを悪く言わないでよ」
「おや、狼嵜……いえ、元狼嵜さん。お久しぶりです」
綿貫が挨拶すると、元狼嵜と呼ばれた老女は煙たそうに手を振って言った。
「『元狼嵜』なんて呼び方やめて。『ふーちゃん』とかでヨロ」
五位崎が薄い本の包みを取り出しつつ言った。
「ふーちゃん様。狼嵜光の負傷は異常な能力発現によるものではありませんでした。明浦路司や五里誠二、岡崎いるか含め、新たに能力発現した者はいません。
ライリー・フォックスも組織等のバックはない自主的な活動者だと裏付け取れました」
老女は薄い本の包みを受け取りつつ答えた。
「私は引退した身だし、仕事の話は洛湖さんにして。私は本を受け取りに来ただけ」
「狼嵜光の事はよろしいので? 『狼嵜』の名字与えておいて今さらですが」
綿貫が確認すると、老女は答えた。
「洛湖さんの仕事の事もあるし、こちらから教えるわけにはいかなかったけど、向こうから気づく分にはね。『大した能力に恵まれなかった子も20歳までは面倒を見る』って決まりを洛湖さんが守っているならいいわよ。わたしの財布から出ている分もあるけど、それは推しに課金しているみたいなモノだし」
「はあ、狼嵜光が『大した能力に恵まれなかった子』ですか」
不思議そうに言う綿貫に、老女が返す。
「そりゃ、光ちゃんの動作の再現能力なんて、野球にもサッカーにも格闘技にも射撃にも、まして、勉強にも運転にも交渉にも詐欺にも変装にも隠密行動にも工作活動にも大して使えない。フィギュアやダンスや体操なら役立つかな、程度の能力でしょ? 誤った道、違った競技に進めば県大会がやっと程度だったでしょうね。
うちに拾ってもらえて助かったくらいでしょ。よしんば少しお金を渡したとしても、あの貧乏夫婦が光ちゃんを適齢期からスケート選手にできたとは思えないわね」
「もう、最近は貧乏夫婦とは言えなくなりましたけどね。あの男のラーメンはなかなか旨いですし」
「らしいわね。私は味噌ラーメンは嫌いだけど。せっかくの『超味覚』能力持ちなのに、味噌ラーメン以外やって欲しかったわ」
「……まあ、もともと危険な能力なら世に出せませんからね」
「強すぎたら禁止カードになってしまう。推し課金して楽しめるくらいの能力の方が人間幸せよ」
綿貫がコートを着て、帰り支度をしつつ聞いた。
「課金ならお孫さんにすればいいんじゃないですか?」
老女がとんでもないといった顔で答えた。
「フィギュア選手なんて大変なコト、かわいい孫にさせられるワケないじゃない。お金はともかく送り迎えも面倒だし。お金と共にかけられる期待の重みに耐えられない子だっている。フィギュアも蛍も離れて見るのが一番いいのよ」
そう言いつつ、薄い本の包みを破ろうとする老女に五位崎がツッコミを入れた。
「推しの関係者とか身近にいられたら、そういった本もおちおち楽しめませんしね」
老女が包みを破る手を止めて、気まずそうに応えた。
「そう、いう、ことね」
———再び「狼ラーメン」
店の前には、電話がつながった魚瀬夫婦が待っていた。
タクシーが止まると、光が一直線に飛び出して夫婦の元に駆けていった。
降る雪が3人の頭を白く染めるまで、3人は歩道の真ん中で抱き合っていた。
「あの……寒いんで店の中入れてもらっていいですか?」
辛抱し切れなくなった実叶に言われて、ようやく3人と実叶は店の中に入っていった。
まもなく、店の前に「本日臨時休業」の看板が置かれた。