「4F跳びます。手伝ってください」
ライリーのその言葉に、司は一瞬怯んだ。
というのも、ライリーは以前司が無理に吊って跳ばせた4Fで腰を抜かしてしまったことがあるからだ。
しかし、ライリーの本気の目を見て思い直した。
「わかりました」
そして、ハーネスが取り付けられたライリーがリンクに降りた。
最初は軽いジャンプで跳んでみせる。
2T、2F、そして3T、3F……
ブランクは全く感じさせない、見事なジャンプだった。
「……持ち上げる必要全くなかったですね」
感心する司に、ライリーはピリピリした表情で返す。
「ここからです。次から4Fチャレンジします。持ち上げて跳ばせてくださいね」
「はい」
そして、ライリーは助走に入った。
『違う……』
司は感じた。ライリーがオリンピックで決めた4Fの姿勢ではなかった。
ライリーが16歳で金メダルを獲った時の4Fは非常に特徴的なジャンプであった。
まず、上半身を深く倒し、背筋を使って引き起こしながらジャンプに入る。この時、肩と腕の勢いを使って上半身を、脚と股関節の筋肉を使って下半身を回すのだが、この時、上半身と下半身の軸を僅かにズラして跳び上がる。それが「猫捻り」と呼ばれるテクニックである。
上半身と下半身の軸がズレていることで生じる腰の質量の慣性を、その軸のズレを戻しながら利用することで、空中においても回転力を加えることができる。木から落ちる猫が、空中で体をひねって足を下に着地できる原理と同じである。
ただ、この「ズラした回転軸を戻しながら腰を回す動き」は、腰の負担や腰椎の消耗が激しく選手生命を削りかねない技である。特に骨盤の重さに比して支える筋力の弱い女子選手にとっては致命的とまで言えた。
今、26歳のライリーが跳ぼうとしている4Fは「猫捻り」ではなかった。身体の軸は上半身下半身一直線、「猫捻り」で稼いでいた回転力は……
「やはり首ですね」
先ほど司が体得した、首を少し捻るテクニックで補おうとしていた。
司は跳びだしでズレた軸を修正しつつ、回転と高さが足りない分をハーネスで持ち上げた。
……シュタッ
4F、着氷成功
「あ……」
ライリーは信じられないといった顔で着地の余韻に浸っていたが、やがてボロボロと大粒の涙を落としてその場にへたり込んでしまった。
「あああああ……」
「ラ、ライリー先生!?」
駆け寄る司にも構わず、ライリーは氷上に崩れたまま滂沱と涙を落としつづけた。
「あああ! このフリップさえあれば! このフリップさえあれば私は! あの時、このフリップさえあれば……」
皆もライリーの悔恨を理解した。皆も思っていたとおり、ライリーの若すぎる引退の原因は「猫捻り」4Fだった。
あの4Fがなければ、ライリーが16歳で金メダルを取ることはなかっただろう。しかし、16歳で引退することもまた、なかったはずである。
この「首捻り」修正版4Fをもし10年前のライリーが知っていたとして、これほどテクニックを要するジャンプをオリンピックに間に合うように習得できたかはわからない。習得してもそれを本番でうまく決めて金メダルを獲れたかもわからないし、そもそも何年経っても習得できなかったかもしれない。ただ、腰を痛めたりして引退することはなかったはずだ。
ただ、その時のライリーは、この修正版4Fを知らなかったから、選びようもない。この修正版4Fは今日この日発見されるまで、世界中どこにもなかった。
「この4Fを知っていれば……私は……」
しかし、もし10年前のライリーがこの4Fを知っていれば、今でもライリーは選手を続けられていたかもしれない可能性まである。皆、その悔恨が嫌というほどよくわかった。
「ライリー先生」
司がライリーを助け起こしつつ言った。
「この4Fは今できたばかりです。これを必要とする新しい選手に渡せるようにすること。それが私たち指導者の役割ではありませんか?」
「ぐすっ……そうですよね。でも、自分がなんてバカな選択をしたのかって、思ってしまって」
氷に顔を伏せたままのライリーの肩を司が引き上げる。
「胸を張って下さい。ライリー先生。
自分の過去の失敗や遠回りは指導者の勲章だって、俺がループの事で落ち込んでいた時に言ってくれましたよね?
『過去の自分の失敗を嘆く暇があったら、選手の将来の失敗を減らす糧にしなさい』でしょう?」
「……ぐすっ。キツいお言葉ですね」
苦笑するライリーに司はおどけて返す。
「世界ジュニアも近いですし、有能なヘッドコーチをつまらないことで落ち込ませておくわけにはいかないので」
「はあ……ごめんなさいね。司先生。
……すいません。また、腰が抜けてしまって」
<<<<嘘嘘嘘嘘>>>>
「えっ!? 大丈夫ですか?」
「大丈夫です。立ち上がるのでちょっと手を貸してくれます?」
「はい……」
ライリーは司の腕に絡みついて立ち上がった。
「今日はここまでですね。送ってもらえますか?」
「はい……純さん。みなさん。すいません。ライリー先生が腰の方よろしくないので、今日はこれにてお暇させていただきます」
純は寂しそうに言った。
「そう……またね。こっちは時間いっぱいまで滑ってるから」
慎一郎や匠、蛇崩も見送った。
「そうか。ライリー先生、明浦路先生。お気をつけて」
「2人とも気をつけて」
「気をつけてお帰りくださいね」
———
まもなくタクシーが来た。
「ライリー先生。タクシー来ましたよ」
「……司先生。肩貸していただけます?」
「はい」
ライリーは司の肩を借りて、一緒にタクシーに乗り込む。
タクシーの中で、2人は他愛ない会話を楽しんだ。
「そう言えば、司先生と2人でタクシーというのは初めてですね。司先生の運転で鎌倉の肇さんのところに行った事はありましたが」
「そうですね。肇兄さんもあれから続刊2冊出してますし、年明けに外伝1冊出る他、雑誌に短編書いたりと順調のようです」
「『群狼』の話も面白かったですけど、特攻崩れの大伯父さんのお話しも面白かったですね」
「ああ、あのお坊さんになった方ですね。髪を剃っても剃ってもすぐ生えてくるので、和尚さんに諦めて髪伸ばしたままで良いって言われた方」
「明浦路の血筋は毛根強いんですかね?」
「ええ。白髪になった人はいても禿げた者はいません。背が高いと男性ホルモン優位だから禿げやすいなんて言われますが、うちの家系には当てはまりませんね」
「他の遺伝的要因の方がずっと大きいようですね。あと、意外に高リスクなのが喫煙らしいですね」
「ははは。それこそ明浦路家には縁がないですね。みんな煙草嫌いで」
「……何かリスクがあれば思いとどまる要因にもなるんですけどね……」
「?」
ホテルに着くと、ライリーは司の肩を借りつつ部屋に向かった。
「部屋の中までお願いしますね」
「はい」
「ベッドまで連れて行ってくださいね」
「……はい」
深夜に女性の部屋に入るリスクは理解していたものの、もう寝ているであろう美蜂や胡荒コーチを呼ぶわけにはいかないので、司は黙って従った。
ライリーが醜聞に巻き込まれたりしないよう、人目を避けつつ部屋に向かう。
が、この場においての最大のリスクは他人に見られる事による醜聞の生起などではない事を、司は理解していなかった。
「腰、だいぶ悪いですか?」
「力が入りませんね。腰かけるまでは一緒にいてもらう必要ありますね」
<<<<嘘嘘嘘嘘>>>>
「はい。それではお部屋失礼します」
誰も見ていないうちに、さっと入り口ドアを開けると室内に滑り込んだ。カードキーをスロットに挿すと、室内に灯りがともる。
ここまでこれば安心。明日は朝食後にでも美蜂さんに来てもらうか。ライリー先生だけホテル出発遅らせてもらってもいいかな。
などと司が考えていた時の事だった。
ぎゅ。
不意に、肩に絡みつくライリーの手に力がこもった。
「えっ!?」
身体が密着する。
「ええっ!? あの? ライリー先生!?」
慌てて司が身体を退くが、絡みついたライリーの両手がそれを許さない。
「ライリー先生……!」
司はライリーの眼を見て驚いた。目が完全に座っている。
「司先生……あの4F、あなたのおかげです。そのせいで……」
ライリーは司の眼を見つめ返して言った。
「……恋に落ちるってこういうコトなんですね。運命を感じるとか沼るとかそんなのとは全然違う。真っ逆さまに落ちていって、自分が全く制御できない……」
司は慌てまくって舌が回らない。
「えええ!? あの、ライリー先生、俺と先生はその、上司と部下で……」
ライリーは熱に浮かされたように手に力を込めて答える。
「その関係、変えましょうよ。いえ、もう変わちゃってます……逃がさないですよ」
そのままライリーは司をベッドに寄り倒した。突然の事すぎて司は抵抗できなかった。力で押されたというより、おかしなほどの熱量のこもった目力で押された。
「……そんなに無抵抗だと、止まらないじゃないですか」
じっと司の眼を覗き込むライリーが、少し恨みがましそうにそう呟いた。
「正直で、誠実で、ひたむきで、スケーティングも美しくて、将来禿げる心配もない。もう、私、貴方に拒まれても止まりませんよ?」
ライリーの言葉には司への煮えたぎるような熱がこもっていた。司は、緊張しながらもなんとか言葉を返そうとする。
「……拒むなんてとんでもないです。ライリー先生とこんな事になるなんて、夢にも思ってませんでしたが……。
なんだか夢のようです。
貴女は聡明で、気高く、慈愛に満ちていて。
そして……」
やっと紡ぎ出された司の言葉にも、ライリーへの熱がこもっていた。
「4Fを跳ぶ姿も綺麗でした」
その言葉が決め手だった。
「良かった……あなたに受け入れてもらえて……」
そう言いつつ、上着のボタンを外すライリーに、司の声が上ずる。
「あの、自分、恥ずかしながら、こういった事に経験がなくて、あの、その……」
硬直する司の足元にライリーの上着が音もなく落ちる。
「大丈夫です。私も初めてですし、それに……」
ライリーの細い声が司の耳元から心臓の裏側まで滑り込んだ。
「今日は安全な日なんですよ」
<<<<嘘嘘嘘嘘>>>>
———
翌朝、ライリーは「昨夜、手稲のリンクで4Fを跳んで腰を痛めた」と皆に言って、ホテルを出るのを遅らせた。
というわけで、R-15タグ入れました
こうしてライつか関係に至るまでのストーリーを書きたくてここまで書いていたような気がします。
この章はこれで終わりです。
次章からは夜鷹純も明浦路司もライリー・フォックスもハジけていきますので、いのりや光が負けないようにします。