———カナダ、カルガリー空港
カルガリー空港に着陸したいのりたちの飛行機から、尾部に三つのエンジンが並ぶ特徴的なビジネスジェット、ファルコン8Xが見えた。
「わぁ……。司先生、あれ、アルエットちゃんの飛行機ですか?」
「そうだね。あの塗装、あのマーク、間違いないね」
「ライリー先生、オリンピックの金メダル獲ったらあの飛行機買えるんですか?」
冗談っぽく言ういのりに、ライリーは苦笑しながら答えた。
「うーん。10コくらい取らないとダメかも。パイロットとかも必要だしね」
「あはは。頑張らなきゃ」
それを聞いた朱蒴が何故か思い詰めた顔になった。
「いのりちゃん……プライベートジェット買えるくらいの男じゃないとダメなの? 要求高くない?」
亜子が呆れ顔で慰める。
「そんなわけないでしょ」
———練習リンク
いのりや亜子、朱蒴他選手が早めに現地入りするのには訳がある。カルガリーは標高1000m近い高さにある都市で、わずかに空気が薄い。高地順応は数日でできるものではないが、早めに現地入りしてフリーの後半等の調整をしておくことに越したことはない。
まあこれもケースバイケースで、世界ジュニア戦と重要度が高いから念を入れているところもある。そうでない大会、例えば今シーズンのJGPシリーズフランス戦はカルガリーより標高の高いクールシュベルで行われたが、狼嵜光は特に早めに現地入りしたりしなかった。
そういう点を考慮しても、このカルガリーに早めに現地入りさせてもらえて練習している彼女らは、相当期待度の高い選手達である。
そんな選手達がしのぎを削る中、いのりはフランスの4Sジャンパー、アルエットを見つけて、整氷タイムに翻訳アプリを使って話しかけた。
「やあ。アルエットちゃん。お久しぶり!」
「久しぶりね。イノリ」
「空港でアルエットちゃんのジェット機見たよ! かっこいいね」
「どうもありがとう。カミサキヒカルは元気?」
「うん。まだ回数制限あるけど、2回転まで跳ばせてもらえるようになって、今はシンクロナイズドスケーティングに夢中になってる。私もやらないかって誘われた」
「あはは。そうなの。カミサキヒカルはシンクロナイズドスケーティングとの2刀流めざすのね。私たちは世界ジュニアだってのに大変だね。
そう言えば、日本のカミキリアマネは来てないの? 他のクラブだからわからない?」
その質問には亜子が答えた。
「あの子は明日から。全国模擬試験……来年大学受ける人のテストがあるから遅れるの」
これにアルエットは目を丸くした。
「大学受験? ユースで銅メダルの4Loジャンパーが?」
「うん。あの子は勉強も頑張ってるの。先月の模試でもすごい成績だったって」
亜子が見せたSNSの画面には、蓮華茶のクラブメイトが上げた天音の成績表の写真が載っていた。
「3教科での成績? 全国160位? ……34万人中!? すごいね!」
「うん。医者を目指しているんだってさ」
「そっちもすごい2刀流よね。才能ある子は違うわね」
そこで、アルエットはつまらない事を聞いた。
「イノリも学校の勉強がんばってるの?」
たちまち、いのりと亜子は微妙な顔になった。
いのりは赤い顔をしてボソリと答える。
「160位……」
「イノリも160位!?」
「……こないだの学校の中間テスト。学年で」
「……1学年何人?」
「200人ちょっと」
アルエットは気の毒そうに言った。
「私たちはスケートで頑張らなきゃね」
———翌日、練習リンク
翌日のリンクでは上桐天音が来た他、いのりの知っている選手がいた。
「クン! 久しぶり!」
「イノリ! 久しぶり! 去年のJGP以来だね」
タイ代表、プロイ・セパーバン選手だった。タイ人は本名より愛称を使うことが多いので、いのりは彼女のことを「クン」という愛称で呼んでいる。「エビ」という意味らしい。
「イノリ、すごく背が伸びたね」
「そうなのー」
いのりは朗らかに返すが、クンは心配そうな顔になった。
「急に背が伸びると、ジャンプ大変じゃない?」
しかし、いのりはこともなげに返した。
「ううん。元々背の高い先生からおそわったし、先生がしっかりジャンプの見直ししてくれているから平気」
「そうなの……私も見直しお願いしようかな?」
クンは冗談っぽく言ったが、イノリは真面目な顔をする。
「スターフォックスでは部外からのジャンプ研修受け付けてるよ。上桐さんもそれで4回転跳べるようになったから」
「ええっ!? 本当? 4Loジャンパーのアマネ選手もスターフォックスで!?」
ここで、いのりは得意になってドヤ顔で言った。
「クンも私の司先生に教わったら、きっともっと上手くなるよ。司先生は世界一の先生だから」
「……」
クンは少し考え込んだ。
「この大会後に考えようかな。コーチにお願いして……」
そう言ってクンはリンクの逆側で、黙々と練習を重ねる上桐天音の方に視線を移した。
上桐天音は全く他の選手が目に入らない様子で、黙々と練習をしていた。
———
天音の側で練習していた亜子は整氷でリンクから上がりつつ文句を呟いた。
「やりにくい……」
天音は練習中あまり周りを見ていないように感じられるので、隣で練習しているとこっちの方が接触に気を使ってしまう。
そこに柄後久翔が来て言った。
「ごめんね亜子ちゃん。上桐さんの隣、練習しにくかったでしょ」
「そうね……。ねぇ、柄後くん。上桐さんはいつもあんな様子なの? クラブで優しい先輩だって言われてるとは聞いてるけど」
久翔は渋い顔をして言った。
「昨シーズンまでは『優しくて人気の先輩』って言われてたけど、今シーズンは『いつも真剣で憧れる先輩』かな。……他の選手を見なくなっちゃってね」
「それって、やっぱり4Lo覚えたから?」
「と言うより、夜鷹さんの指導を受けて練習でも試合でも、『ゾーンに入る』って言うのかな? 超集中状態になるようになってね」
「そう。大化けしたよね。彼女。4Loジャンパーなんて話題にもなって……」
少し表情を曇らせる亜子をフォローするように久翔が早口になる。
「JGP女王の亜子ちゃんに誉められて上桐さんも喜ぶよ。亜子ちゃんも今シーズンすごいよね。この大会も……」
亜子はそれを遮って返した。
「JGPはいのりちゃんがミスしただけよ。他の人が見えてない超集中状態の上桐さんも怖いけど……
集中して他の選手も自分もしっかりと見据えてくる子の方が怖い」
亜子の視線の先にはいのりがいた。
———
女子のリンク練習が終わり、男子のリンク練習前の整氷が始まるタイミングで、朱雀がいのりに話しかけた。
「いのりちゃん、お疲れ様! 何見てるの?」
いのりはタブレットから目を離さずに答えた。
「今の練習、カメラで撮ってもらってたの。スターフォックスと違ってカメラ無いから……
あ、司先生。ここです。ここのチョクトーとツイズルの所、ちょっと音も大きくなっちゃってますが……」
司もいのりのタブレットを覗き込み答える。
「そうだね。わずかに……」
その会話を聞いて、朱蒴はショックを受けたように大きく肩を落として下がってしまった。
朱蒴は移動前からひどくナーバスな様子で、練習リンクでもそれが続いている。心配したライリーが朱蒴に声をかけた。
「どうしたの? すうくん」
「いのりちゃん、ステップの理想が高いですね。
レベルは取れているのにその上の、アイスダンスレベルの技術、エッジの質を目指している。チョクトーやツイズルの踏み替えの時の重心やエッジの制御なんて、僕は『どう誤魔化したらレベルが取れるか』考えるところを、いのりちゃんは世界ジュニアの場ですら『どこまで理想が追求できるか』を考えている……」
何かにつけてくよくよとして下を向いている朱蒴に、ライリーはしゃがみ込んで視線をあわせた。
「……いのりんはアイスダンスの司先生の弟子というところでスケーティングにプライド持っているしね。
何を重視してメダリストを目指すかは選手の個性よ。そこに良し悪しも正解も間違いはないわ」
「……」
「こだわりを持つことが正解というわけでもない。すうくんはすうくんのやり方でここまで来たんだし……」
そこでライリーは、朱雀の胸に拳を当てた。
「『他人と比較して落ち込んでしまうこと』だけはやってはいけないことよ。すうくんはここまであなたなりの研鑽を重ねてきた。3Aや4Sという限られた選手にしか跳べないジャンプも手にしてきた。今あなたに足りないのは……『ハート』よ」
朱蒴はハッと顔を上げる。ライリーは続ける。
「この地に来た以上、女子も男子も、中学生もジュニシニも、強豪国の有力選手も最低技術点をやっとクリアして来た新興国の新人も、自分のハートだけで戦わなければならない……金メダルを取れそうな女子の方を見ている場合じゃない。あなたに必要なのはいのりんや夜鷹純と自分を比べる事じゃない。世界の舞台の力を借りて、自分の力を出し切る事よ」
朱蒴はそれを聞いて少し自分を取り戻したようだった。
「……そうですよね。世界ジュニアですし、世界の胸を借りるくらいで行かないと、でしたね。ちょっと気負ってたかもしれません」
「そうそう。3Aや4Sより必要な武器はメンタルよ。何せ、年上が絶対有利な男子ジュニアで年上の選手達とも当たるんだから。あなたはまだ伸び代組。強い相手も来年の自分が倒してやればいい、くらいのつもりで臨みなさい」
「はい!」
自信を取り戻してリンクに向かう朱蒴の背中にライリーはつぶやく。
「すうくん。すうくんに比べれば、いのりんや亜子ちゃん、光ちゃんの方が大変なのよ。
女子は男子に比べてフィジカルの成長が望めないばかりか、成長がマイナスに働く事が少なくない。
その程度は人によって違うけど……」
ライリーはリンクの方に目を向けた。
「苦しむ子がそろそろ出始める頃よ。ジュニア女子は」
練習時間交代でリンクから降りる女子選手達の中には、下を向いたままの選手もいた。
プロイ・セパーバンもその一人だった。