———女子フリー
亜子はリンクに向かいつつ、母親の胡荒コーチに呟いた。
「十分満足できる演技ではあったけど……」
「ええ。素晴らしかったわ。ノーミスだし、上出来よ」
母親の胡荒コーチにそう褒められても、亜子は眉を寄せたままだった。
「でも、いのりちゃんには……」
くよくよとしている亜子を諌めて、胡荒コーチはハッキリと言った。
「人と比べるのはやめなさい。狼嵜光や結束いのり、ペク・ホラン、ベリンダ・ベルガマスコは皆、素晴らしい選手。それと同時に『あなたの道と違う、独自の道を進んでいる選手』よ。あなたは自分の進歩を自分の成長ツリー上で見て、しっかりと噛み締めなさい」
亜子はキスクラに腰掛けつつ苦笑いだ。
「『成長ツリー』だと、いのりちゃんが極端におかしいのはわかるけどさ……まあ、『アレ』もすぐ見られるか。十中八九ね」
「ああ、『あれ』ね。『アレ』こそ真似する気も起きないでしょう?」
「あはは……。そうね。……おっと、点数ね」
「胡荒亜子さん。
フリースケーティングの得点144.19。
ショートプログラムとの合計、219.27。
現在、第1位です」
観客もどよめく高得点。ロビンやミーア、4Loを跳んだ上桐天音までも上回り暫定1位。だが、亜子はサバサバした顔だ。
「うん。よくできた。
自分でもよくできた点数。来シーズンに繋げよう」
「それでいいわ」
胡荒コーチもそれ以上言わない。
次の滑走、結束いのりの演技については、同じクラブで隣で練習してきていたからわかってしまう。
勝てない、と。
まもなくいのりがリンクに上がると、空気が変わった。
リンクに上がるだけで会場の雰囲気を変える、いのりは既にジュニアながら、そこまでの選手になっていた。「夜鷹純を感じさせる」と評するファンもいるが、夜鷹といのりではその魅力の根本が違う。いのりのスケートが根本的に他の選手と違うのは、かのレオニードをして「トレースひとつひとつに愛がある」と言わしめた、スケーティングに対する情熱的なまでのこだわりである。
そのスケーティング技術がジャンプでも生きていた。
まずは4S+2T、単独4Sをこともなく成功させる。跳ぶ前から成功するとしか感じられない、信じられないほどの安定感。
観客や他の選手もそれを感じる。
「いのりちゃんの4Sって、本当になんだか跳ぶ前から絶対成功する感じがあるよね」
「なんだか軌道に乗ってるような、氷の上にしっかりと土台のレールが引いてある堅牢な発射台のような跳び出しだ」
ただ、去年から今シーズン前半にかけてのいのりは、コレオシーケンスでそれほど点が伸びていなかった。スケーティングを音楽表現、独創性、全身運動といった、コレオシーケンスで必要とされる見せ場に繋げられていなかったからだ。
しかし、白鳥の湖に乗せたジュナの振り付け、ベリンダから学んだ上半身の使い方などを演技に乗せられるようになると、大きく変わった。まるで肥沃な土壌に美しい花が育つかの如く、スケーティングの技術の土台に高度な表現が積み重ねられていった。
そして、この世界ジュニアに向かうまでの練習でその積み重ねが蕾から大輪の花へと開きつつあった。それは、亜子をはじめとするクラブメイトたちも舌を巻く出来だった。
最後の2A+1Eu+3Sのコンビネーションジャンプも鮮やかに決めると、いよいよそのコレオシーケンスがはじまった。
ジャンプ着氷からフリーレッグを下ろさず、エッジを変えるとカウンターから美しい大きなカーブのスプレッドイーグルに入る。そのまま上体を大きく反らすイナバウアーへ移行。
ホランのコーチも賞賛する。
「姿勢も軌跡も美しい。荒々しい迫力のある岡崎いるかのクリムキンイーグルとは対象的な、丁寧さで魅せるイナバウアーだな。このコレオの仕上がりができていたら、全日本で岡崎いるかに勝ってたんじゃないか?」
そして、クライマックスには低いハイドロから手をつかず片足で立ち上がり、逆方向のロッカーから可憐に飛び立つような短いアラベスクで抜けた。
「最後、まるで飛び立つような動き……」
「ストーリー性まで完璧。それも、ベースとなるテクニックがしっかりしているからだな」
審査員すら見惚れて、手元の操作が一拍遅れるほどだった。
最後の、時間まで巻き取るような、高速なのに美しさゆえゆっくり見えてしまうようなスピンでプログラムが締めくくられ、会場は一呼吸後に激賞の嵐で埋め尽くされた。
ベリンダとホランが表情を固くする。
「これは……」
「なんで……」
いのりは司の元に飛び込んできた。
「先生! 出来ました!」
「やったね! いのりさん!」
いのりの背が伸びても、舞台が世界になっても、この師弟の光景は変わらない
会場の興奮も収まらない中、キスクラで待つ2人に脅威の点数が告げられた。
「結束いのりさん。
フリースケーティングの得点、147.66。
ショートプログラムとの合計、223.52。
現在、第1位です」
遂に出た220点越えに、嵐の後の土砂崩れのごとく観客席に重量のある衝撃が走った。
「220点越え出たよ! なんて事だ!」
「来てるよ、この子の時代が……今、ジュニア2年目? 再来年のオリンピックに出してあげたい……」
観客の顔に、いのりの手にある「恐怖! ミミズ人間」のキモかわぬいぐるみのような、劇画調の驚きの顔が貼り付いて剥がれなかった。
次の滑走のベリンダは、頬を叩いて気合いを入れ直した。JGPFの時と違いSPでリードして迎えたFSだが、今回のいのりはJGPFと比べ物にならない出来だ。
ベリンダも脚の復調の分、かなり伸ばしてきていたが、いのりの伸びの方が遥かに上回っている。
そして、その伸びの原因が自分にある事にも確信があった。
『私の技術が見取られている……』
このスケート歴わずか5年目の日本の怪物は、今日この日の自分の滑走をも見取り、更なる成長を遂げるだろう。しかし、ベリンダには自分の技を隠す気は毛頭なかった。車椅子の上のコーチから伝えられた芸術をリンクの上に全て具現化し形にする事が、このコーチに対する恩返しであり自分の矜持でもある。ベリンダは意を決してリンクに向かった。
『目を見開いて見てなさい! 表現は構成にこう載せるのよ!』
ベリンダの挑戦がリンクに刻まれると、観客の感動が再び渦をなした。
やがて、その七拍子の渦が止み、キスクラで待つベリンダに審判が下される。
「ベリンダ・ベルガマスコさん。
フリースケーティングの得点、145.00。
ショートプログラムとの合計、220.98。
現在、第2位です」
220点を超えた。しかし、2位という事もあり先程のような驚きの声がない。
観客からボソリと声が漏れる。
「この選手に高難度ジャンプ、単発3Aでもあれば、間違いなくあの日本人や韓国人を抜いて金メダルなのに」
「……」
ベリンダはその声を黙殺した。昨年まで脚の不調でジャンプを抑えていた彼女が高難度ジャンプに手が出せる訳がない。
次の最終滑走者のホランはいのりを遠くから睨みつけていた。
今のベリンダの滑走すら、自分の滑走の時と同じように微笑みを浮かべながら観察していた。おそらく、もう勝ったと確信しているのだろう。視線を外してもいのりの薄ら笑いが目にこびりついて離れない。
歯噛みするホランの様子を見たコーチは、ホランを呼び止めた。
「ホラン」
「何? コーチ」
短い言葉に思いをこめる。
「ホランが戦うのは結束いのりじゃない」
「わかってるわよ。世界選手権、岡崎いるかでしょ」
「違う」
「?」
「自分自身だ」
「は?」
あっけに取られつつも、コールに応じてリンク中央に向かうホランの背中にコーチは叫んだ。
「今シーズンまでの、昨日までの自分と競うと考えろ!」
「わ、わかったわよ」
ホランは慌てて返事をしつつ、演技を始めた。
組曲「生命の樹」の冒頭の潮騒の音の中、ホランはコーチからの言葉を噛み締める。
『今までの自分と競う?』
頭に疑問符を浮かべながら滑走を始めたホランだが、観客の視線を受けて演技がノッてくると、だんだんとコーチの意図が分かってきた。
『楽しい』
今シーズン初めは、こんなにスケーティングが決まらなかった。スケーティングが決まりだすと周囲からの注目が集まり、さらにエッジ感覚が磨かれていった。そうして円熟味が出てきたスケーティングスキルに、持ち前の音楽解釈力や表現力が合わさり、ぐんと点数も観客の声援も集まっていった。
『昨日までの自分を超えている事が実感できる、これより楽しい事が他にあるか?』
ホランの口元に自然な笑みがこぼれ出た。
「よし……いいぞ、表情も表現も良くなってる。このまま……」
コーチもホランの様子を祈るように見守る中、ホランは歓喜の中にあった。
『楽しい! 楽しい! なんて楽しいんだ!』
そのまま、音楽に合わせて天上に浮遊するかのような連続ジャンプも鮮やかに決めると、壮大な生命の物語を締めくくる終盤のコレオシーケンスへと繋げる。
いったん深いランジから伸び上がり、生命が成長し芽を出すような低い姿勢から立ち上がると、音楽の中に枝を伸ばすような荘厳なアラベスクを見せた。
枝が伸びきったところで高いキックを入れて区切ると、深いアウトサイドエッジに乗って大きなカーブを描き、そこからイナバウアーに繋げた。
柔軟性を見せつけるように深く反ったいのりのイナバウアーと違い、花が開くように上に伸びるイナバウアーだった。そこにホランのプログラムの芸術性が開花していた。
演技が終わると、会場はたちまち称賛の花吹雪に包まれた。
「
コーチが満足気に呟く。
清々しい気分でキスクラに戻るホランの目に、笑顔で拍手を送るいのりが映ったが、ホランはもうその笑顔に棘を立てることはなかった。
『ああ、技術の上に表現が乗るという成長を共感できたから、結束いのりはベリンダや私を見ても笑ってたんだ』
ホランも同じ笑みを返した。
「ペク・ホランさん。
フリースケーティングの得点、145.06。
ショートプログラムとの合計、223.34。
第2位です」
「惜しかったわね」
「そうだね」
僅差での敗北もホランの心に影を落とすことはなく、彼女は充実した表情のままコーチと共にキスクラを降りた。
「あ、危なかった。0.18差……」
「抜かれたかと思ってヒヤヒヤしたわ……」
点数発表まで青い顔をしていたのは、司とライリーだけだった。