———札幌、『狼ラーメン』
閉店後の店内で、狼嵜光の母、魚瀬澄は掃除をしつつ思いにふけっていた。
テレビでは、世界ジュニアで優勝した結束いのりのエキジビジョンの様子が流れていたが、澄はいのりより、自分の娘の光の方が気になった。
『あの子は大丈夫かしら……』
光は正月休みが終わると東京に戻ってしまった。再会できた両親や弟と共に過ごすという選択肢はあったが、光はやはりスケートを優先した。
スケートは光の根幹であるし、おばあさまが亡くなっても支援を続けてくれる狼嵜家に恩義もある。学校や環境諸々考えても札幌のクラブに移る選択肢はなかった。
そうして光はふたたび「狼嵜光」のまま、東京に帰ってしまった。
澄は光と毎日のように連絡を取り合っているが、それでも近くにいたい、一緒にいたい、2度と離したくないという気持ちは止まらない。
しかし、息子や夫、店を置いて、一人で光の元に向かう事ができるわけもない。それなら……
ぼんやりそんな事を考えている澄とは対照的に、店のカウンターでは張り詰めた空気が漂っていた。カウンターの中にいるのは夫ではなく、弟子の山口。店主である夫の魚瀬正太は腕を組んでカウンターにどっしり腰掛けている。
今日は弟子の山口が独立して東京に自分の店を出すにあたり、正太にそこで出すラーメンを披露する日だった。
暖簾分けではなく独立で、出されるラーメンも『狼ラーメン』の味噌ラーメンではなく、山口考案の醤油ラーメンだが、山口は試験を受けているように緊張していた。
それもそのはずで、今や『狼ラーメン』は札幌で5本の指に、いや、日本で5本の指に入るかもしれないラーメン職人の一人である。その店主に腕を認められた上で独立するのとそうでないのとでは大違いである。
たんたんたんたんたんたん……
小気味いい包丁の音がやみ、まもなく山口のラーメンが着丼した。
「どうぞ」
「いただきます」
正太は静かに箸をとり、試食を進めた。
ずっ、ずっ、ずるっ、ずるっ……
無言で食べ進む正太を山口は真剣な顔で見つめる。
やがて丼が空になると、正太は質問を始めた。
「具の刻み玉ねぎの仕事がまた良くなったな。3種類のブランド玉ねぎを刻み方を変えて入れてる。
『北もみじ』と、淡路の『ターザン』はわかるが、あと一つは?」
ブランド玉ねぎの品種を事もなく言い当てる正太に驚きながらも山口は答えた。
「は、はい。『さらり』を15パーほど」
「年末の試作ではメインに『札幌黄』を入れていたな」
「あれは通年のレシピには入れられません。9月から年末限定で」
「ふむ。4月になったら?」
「『さらり』が終わるんで、佐賀の早生です。白石あたりの新玉。水が多いから配合も変えて、55:30:15を65:25:10くらいですかね。切り方も『さらり』なら2、3ミリだったところを4ミリで」
正太の表情が柔らかくなった。
「さすが玉ねぎ農家の出身だけのことはあるな。……東京の店について聞かせてもらおうか。東京のどこだ?」
「はい。八応寺で」
「八応寺!? まさかと思ったがこのラーメンで殴り込みに行くわけか?」
正太が「殴り込み」とまで言ったのには訳がある。八応寺のご当地ラーメン「八応寺ラーメン」は、山口のラーメンと同じく、刻み玉ねぎを特徴とする醤油ラーメンである。
山口はニヤリと笑って答えた。
「玉ねぎの事をわかってない東京モンに俺のラーメンを見せてやりますよ」
山口の度胸の座った様子に正太は唸りつつ質問を続けた。
「……立地や席数を聞こうか」
「コネで、居抜きのいい物件に入れました。JRハ応寺駅から7分のビル1階。席数は16。カウンター10の2人席3で」
正太は厳しい顔になった。
「食券機は入れるんだな……お前以外の店員は?」
「まだ決まってません。これからバイト探します」
「……うーん」
腕を組んで黙ってしまった正太を見て、山口が恐る恐る聞く。
「このラーメンでいけますかね?」
正太はうなづきながら答えた。
「いける。昼夜なら日に100や150は軽く超える。200行く日も珍しくなくなるだろう」
喜ぶ山口に、正太は次の一言で冷水を浴びせた。
「だから困る。このラーメンは売れる。だが、このままじゃ店は回らねえ」
たちまち青ざめる山口に、正太は説明する。
「このラーメンの肝となる玉ねぎ、どのくらいの間隔で刻む?」
「へ、へい。1〜2時間くらいで」
「誰が?」
「もちろん俺が」
「日に200杯出る日もか?」
正太の指摘に山口は気付いた。玉ねぎの風味を保つために刻んでから2時間以内に使い切りたいが、それは2時間以内に刻み直すことを意味する。しかし、3種の玉ねぎを細かく何ミリ何パーセントと刻み分けブレンドする作業を混雑時にできるか?
「バイトの店員にはキツいし、機械には任せられんわな」
正太が言うと山口もうなづく。可能なら玉ねぎの状態も見つつ刻みたいが、バイトでは刻む大きさの調節すら怪しい。機械では玉ねぎの細胞が潰れるので論外。
正太は従業員などで調理補助を任せられる者に考えを巡らせ始めた。玉ねぎだけが問題ではない。チャーシュー切り、メンマ補充、丼準備、薬味、炊飯、洗い場、在庫確認。店が回ってくればバイトでも問題ではないが、玉ねぎの事も考えるとそれなりの『わかるスタッフ』が必要だ。
「佐藤君……は、流石に東京は嫌がるか。純嶺の親父さんに誰かいないかあたってみるか」
「佐藤君はこの店でまだ修行して独立するつもりだし、自分の店を手伝ってもらうわけには……」
悩む2人に、澄がいきなり言ってきた。
「私が行くよ!」
「!!」
「!! いえ、スミさんにお世話になるわけには……」
驚いて断ろうとする山口に澄は返す。
「なんだい。水臭いねぇ。店の立ち上げから手伝ってくれてる一番弟子の山口君の華の船出じゃないか。こっちも立ち上げを手伝ってやるのが筋ってもんでしょ。
私の腕なら問題なしでしょ。こっちの店は佐藤君や秋山君もいるし心配要らないから」
まくし立てる澄に正太がツッコむ。
「おい。はやぶさはどうするんだ?」
「当然連れて行くさ。子供のうちに東京を見せてやるのも悪くはないでしょ」
「……」
正太が黙っていると、山口が大きく頭を下げた。山口も自分の店に必要なまたとない戦力が得られるとあって、すぐ考え直したのだ。
「ありがとうございますおかみさん! お世話になります!」
「何言ってんだい。これからは山口君も一国一城の主だ。従業員である私にちゃんとお給料も払って管理して、調理補助バイトも別にちゃんと育てないとダメだよ。手伝ってやるのは店が通年の軌道に乗って、マニュアルまでまとまるくらいまでかな? それでどうだい?」
強引にまとめにかかられたが、正太も渋々同意した。
「……そうだな」
もちろん、正太は澄の裏の意図にも気付いていた。
「東京に行くんなら光の事も頼む。隣町だろ」
澄はバツが悪そうな笑みを返した。
———日乃出大学附属桜佳中学、女子学生寮
光は、神戸で行われたショートトラックの大会、ジャパントロフィーから帰って来た星羅を部屋で迎えた。中学生以上社会人までが世代を超えてしのぎを削るこの大会、星羅は1500mで8位の好成績だった。
「お帰り! お疲れ様! すごいいい成績だったね!」
「ありがと。光ちゃん。留守中すまんかったな」
「どういたしまして。……と、来週も試合のところ悪いんだけど、大事な話があるの……」
「何?」
光はもじもじと話しづらそうにしていたが、思い切って言った。
「実は、寮を出る事になったの!」
「お! おめでとう! 再会できた北海道の両親のところに戻るん?」
光は首を振った。
「ううん。お母さんが東京に来てくれる事になったの! すぐ近く、玉川上水。学校も変わらないよ。引き続きよろしくね」
「うわ。いいね! お母さんの方から来てくれるんだ」
「お父さんのお弟子さんが独立して八応寺でラーメン店出す事になって、お母さんが立ち上げの手伝いでしばらく東京に来る事になったの。弟も来て、スターフォックスに入るの!」
「おお、はやぶさ君も来るのか。引越しはいつから?」
「来週! 星羅がノービスカップに行っている間に引越しなの」
「そうかぁ。引越しの手伝いはできないなぁ。ごめんね」
「とんでもない! 星羅には色々迷惑かけちゃうけど……」
「気にしないで。寮部屋脱出おめでとう。今度、そのお弟子さんのラーメンでも奢ってね」
「うん! 来月開店の『
「あはは! そんな子、光ちゃん以外にいるわけないじゃん」
———スターフォックスリンク
光が上機嫌でスターフォックスに向かうと、萌栄が話しかけてきた。
「ねえねえ。今日練習の後に親も来て、世界ジュニアの祝勝会じゃない。その時にライリー先生からちょっと追加でお知らせあるんだって。世界ジュニア以外で何かお祝いするみたいだよ」
「お知らせ? ひょっとして私の事かな?」
「え? 光ちゃん何かあるの?」
「うん。ちょっといいことあるの!」
ライリー先生は私の退寮手続き等してくれたので引っ越しの事を知ってるが、まだクラブのみんなには伝えていない。
自分の寮生活卒業と弟のはやぶさのクラブ加入をサプライズで祝ってくれるのかもしれない。光はそんな期待をしていた。
———しゃぶしゃぶ店「しゃぶ彩」
リンクの隣のショッピングモールのしゃぶしゃぶ店で、スターフォックスの祝勝会が開かれ、いのりの金メダル、朱蒴の銅メダル、亜子の4位が祝われた。
いのりが上機嫌で感想を語る。
「今回はベストエキジビジョン賞獲れた事が一番嬉しかったです!」
「あはは! いのりんエキジビジョンめちゃ気合い入れていたもんね」
各選手の感想が終わり、ライリーが今大会の成果と課題、そして次の目標を語った。
「……という事で、次のシーズンに向けて『自分が主役だ』という心意気を持って臨んでもらいたいと思います。保護者の皆様方にも引き続きお力添えをお願いします」
そう締めくくると、ライリーは皆の席にもう一度目をやり、続けた。
「と、スケートの話はこの辺にして、次にこの場を借りてみんなに聞いてほしいちょっと嬉しい私的なお知らせをしたいと思います」
光が『いよいよ自分かな?』と思っていると、司が立ち上がり、ライリーの隣に並んだ。
そして、ライリーと司は胸の前で手の甲を客席に向けて報告した。
「私、ライリー・フォックスは明浦路司さんと」
「明浦路司はライリー・フォックスさんと」
「「婚約しました!」」
二人の左手の薬指には婚約指輪が光っていた。
たちまち店内は祝福で渦巻いた。
「おめでとうございます!」
「司先生やるじゃん!」
「ライリー先生、おめでとうございます」
「指輪、すごくキレイ!」
「なれ初め聞かせてください!」
「お二人は一緒に住むんですか?」
「結婚はいつですか?」
もちろん、いのりも大喜びだった。
「司先生、おめでとうございます! すごく嬉しい!」
その心中には『金メダリストと結婚したら、司先生も知名度上がってスケートショーにお呼ばれする確率アップ!』などと現金な計算が潜んでいたが。
「これからも、司先生やみんなと協力して、クラブを盛り立てていこうと思います」
「これからも、ライリー先生やみんなのお役に立てるよう、精一杯頑張ります」
2人が意気込みを語り、婚約発表は締めくくられた。
そんな中、光は浮かない顔だった。
「……」
ヘッドコーチと有能コーチの婚約で、クラブにとってはおめでたい事なのだが、司に夜鷹と同じような、尊敬だけでなく家族に感じるような感情を抱き始めていた光にとっては素直には喜べなかった。司がライリーと付き合い始めた事は気づいていたが、婚約までのスピードも早過ぎる。
そんな表情の光に萌栄が聞いてきた。
「光ちゃんの方も何かちょっとイイコトあるんだっけ?」
「……もう、いいわ……」