———神宮FSC
勉強会は終わり、全国のクラブのコーチや選手は帰っていった。この勉強会を機にチーム結成を図るクラブや、掛け持ちや転向を考える選手がどれだけ出るかまではわからないが、世界ジュニア女王ばかりかJGP女王、全ジュニ女王まで参加していたこともあり、全国のスケート界に与えた影響は大きい。
特に、「ジュンリンク」でのチームメンバー募集が始まっている名古屋の選手には、これを機に掛け持ちや転向を決めた選手も既にいるようだった。
他クラブの選手がいなくなった中、スターフォックスだけは残って
まず、鯨臥は亜昼美玖に聞いた。
「シンクロでの復帰、問題なさそうだね」
「はい! 前々から色々アドバイス頂いてましたおかげです。あと、蕨さんがスターフォックスにもジュニアチームできるって教えてくれたから……」
「早くチームできるといいね」
「はい!」
「ちょっと鯨臥先生、急かさないで下さいよ」
ライリーが冗談半分に文句を言う。半分は冗談だが、半分困った顔だ。
「オリンピック競技になる可能性が濃厚だからシンクロ9を始めようなんて選手は、基本的には女子シングルの選手からですからね。能力があればこそ転向や掛け持ちはそう簡単にはさせられませんよね?」
それを聞いて、鯨臥はなぜか表情を曇らせた。
「うん、そうだよね。そうなんだよねぇ……」
その様子を心配して司が聞く。
「どうされました? 鯨臥先生」
鯨臥は困った表情のまま答えた。
「ちょっとリンクで話しようか」
———リンク
リンクではシニアの16人制シンクロチーム「クリスタル・メッセンジャー」、通称「無印」の曲かけが行われていた。
ライリーや司、胡荒コーチや蕨は鯨臥のそばでそれを見ていた。いのりたち選手はリンクの反対側で、神宮FSCのジュニア選手たちと談笑しながら演技を鑑賞している。
「無印」を率いるのは鯨臥ではなく、40代の女性コーチ、
「まあ温鳩君は優秀だし選手としての経験も豊富だから、一昨年から『無印』の主監督をやってもらってるんだ。まあ、とりあえず見てもらえないかな?」
鯨臥の勧めに従い、司たちは『無印』チームの曲かけを鑑賞した。
「……凄まじい精密さだ」
まさに『一糸乱れぬ』という表現が相応しい、完璧な同調。司もライリーも息を呑む出来映えだった。
クライマックスに向けて、16人が一つの機械のように正確な動きを見せる。そして、最後のグループリフトも圧巻であった。大きく滑ってきた16人が滑走を保ったまま4人4組に分かれ、音楽の一拍で各組一人が一斉に頭上へと立ち上がる。そのまま回転しつつ姿勢を開き、氷上の一段高い位置に大きな花を描いた。
「perfect……」
ライリーも口から思わず賛辞をこぼす。
リフトから降りるところでも滑走を保っており、全くスキがなかった。先程展示されたジュニアチームの演技とは完成度が桁違いだった。
鯨臥が誇らしげに語る。
「どうだね? 素晴らしいだろう?」
「はい……」
「とても素晴らしいです……」
司もライリーもそれ以上言葉が出ない。シングルでもペアでもアイスダンスでも達成できない静かな芸術作品がそこにはあった。
鯨臥が昔語りを始めた。
「そもそも私がシンクロに目をつけたのは、スケート選手の短い選手寿命、男女比の偏り、選手数に対する練習リンクの不足、引退後のキャリアといった問題をある程度解決できると考えたからなんだよね」
「そうなんですか……」
「そして、オリンピック正式競技化の為にも動いた。ただ、16人制は厳しかったね。競技人口の少ない新興国ではそんな多人数のチーム結成は厳しいし、各国16人も出場すると、大会側もキャパオーバーする」
「そうですね」
「結局オリンピックは9人制に落ち着いた。悪くない落とし所だとは思うよ。リフト等の危険要素を減らしつつ、スピーディーでTV映えもする。16人制にはない魅力が生まれた」
そう語る鯨臥の声に何か不穏なものを感じた司は鯨臥に尋ねた。
「あの、鯨臥先生……なぜ、こちらのチームの演技を勉強会で見せなかったので?」
「これと比較できるほどのシンクロ9のチームがまだないからね。長年かけて練り上げた16人制のシニアチームと短い期間で集めた9人制のジュニアチームを並べてもね」
「あの、鯨臥先生。いいですか?」
「なんだね?」
司は胸の中に浮かんだ不安を口にした。
「16人制のチームから9人制のチームができないか考えたのですが、16人制と9人制では必要とされる要素があまりに違いますよね……今まで16人制で長くやってこられた選手は9人制への転向は厳しくないですか? ともすればシングルからよりも」
「はあ……」
鯨臥はため息を吐いた。
「そうなんだよね。これほどの完成度、選手の誰も崩したくない。アイスショーにもお呼びがかかり、なんとか収入もある。今更オリンピックを目指して9人制に転向、とはならないんだよね。チームができて10余年、オリンピックにこだわる選手はそもそも、もうチームにはいなかったから」
「……」
胡荒コーチがなぜかつらそうに目を背けた。
鯨臥は声に明るさを取り戻しつつ言った。
「まあ、僕の目的は達成できたから良いんだ。シンクロ9はスケート選手、特に女子の良い選択肢となり、選手寿命も伸ばせる。16人制を選んだ子もオリンピックは残念だが、それ以外で満足できるスケーター人生を歩めている。
ジュニアチーム『ナインレター』はできたから6年後にオリンピックで活躍してくれるだろう。
ただねぇ……」
司は言葉を詰まらせた鯨臥に尋ねた。
「何か困ったことが?」
鯨臥は上目遣いになって言った。
「2年後のオリンピック」
「? まだ正式種目になってないですよね?」
ライリーも首を傾げる。前回のオリンピック終了後の7月に発表がなかった時点で、種目が増えたり年齢制限が変わったりする事はない。
「うん。正式種目じゃないけど、オリンピック期間内に同じ会場でシンクロのテスト大会やるって事になっててね。連盟通じて『無印』に出場依頼来てたんだけど……先月『シンクロ9でやることになった』って伝えたら温鳩君に『それなら出ません』って断られちゃってね」
鯨臥はあっけらかんとして言ったが、司はそれを聞いて悲痛な顔になった。
「それは……」
司は温鳩コーチや選手たちの気持ちがよくわかった。16人制と9人制では必要とされる要素がまるで違う。例えテスト大会とはいえ、無様な演技は出来ない。しかし、9人制に対応するためにチームを鍛え直す事は、これまで16人制で培ってきたこの美しい完成されたチームを崩す事になる。ましてこれほどまでに練り上げ、アイスショーなどでも評価を得ているとなると、シンクロ9で再出発とはならなかったのだろう。
だが、長年育ててきたチームに離反に近い事をされた鯨臥の心中は察するに余りある。
「『飼い犬に手を咬まれる』というやつですね」
ライリーは気の毒そうに言ったが、鯨臥はそれをたしなめるように返した。
「ははは。ライリーさんはまだ日本語が下手だなぁ。彼らは僕の『飼い犬』なんかじゃないよ。独り立ちしたアスリートたちさ」
「……失礼しました」
「まあ、しかし、このままだと連盟も困っててね。せっかくシンクロのオリンピック競技化の為にせっせとロビー活動してくれてたのに、『言い出しっぺその3の日本さん、日本はテスト大会にチーム出さないって、そりゃないでしょう』って言われちゃう」
鯨臥の口調は冗談めかしていたが、その目は笑ってなかった。
「流石にそれだと、6年後の初回大会のシンクロ9の国内ウケも悪くなっちゃうしさ。その時の子たちのためにも、そのテスト大会では勝っておきたいんだよね」
「2年後の、テスト大会、ですか?」
ライリーの声が少し警戒の色を帯びた。
鯨臥がそのライリーの様子を見つつ、本題を切り出してきた。
「そう。社会人チームの『クリスタルメッセンジャー・トーク』からも引き抜いてる。シンクロ9は女子競技化の動きもあるけど、2年後のテスト大会ではまだ男子を排除しないから男子も入れてる。けど、まだチーム結成には足りない。そこでだ、君のところの明浦路司君に選手に復帰してもらって……」
「お断りします」
司は即答した。
「俺には、世界ジュニア女王結束いのりと、4Lzを跳んだ天才狼嵜光をオリンピックに導くという使命があります。コーチと選手の兼任はできません」
選手としての誘いは氷の世界への復帰を誓う司にとってキャストへの道を上回る望外の提案だが、いのりの指導とは引き換えにできない。
ライリーも付け加える。
「私に言ってもダメですよ。『結束いのりの指導に支障をきたすような業務は拒否できる』ことが、うちへの移籍の時の条件ですから」
鯨臥はやれやれと肩をすくめた。
「まあ、そう言うと思って交換条件を用意して来たんだ。
司君に選手として復帰してもらう代わりに、コーチの方は僕が手伝おう。結束いのりと狼嵜光が担当だったね? ジュニアのシンクロ9チームも手伝おうかな?」
この提案にはライリーも司も驚いた。
「鯨臥先生自ら、ですか!?」
「鯨臥先生!? それは……」
鯨臥は続けた。
「新しくできる『クリスタルメッセンジャー』のシンクロ9のシニアチーム『ナインノート』の指導の方は
「……」
長野五輪以降の日本選手のスケート表現力を飛躍的に伸ばし、幾多の名選手を生み出した鯨臥の手腕は疑うべくもない。最近は新たな種目の開拓に注力してシングル選手の指導はしていなかったが、『クリスタルメッセンジャー・無印』等の名チームを生み出している。
問題は指導を受けるいのりだ。
狼嵜光は問題ないだろうが、いのりはメンタルにまだ不安が残る。まだ、自分が必要だ。自分が指導のメインから外れる事で調子を崩すかもしれない。
だが、逆に違う人物からの指導を受ける事がいのりにさらなる飛躍をもたらす可能性もある。それがレジェンド級の名伯楽からとあれば願ってもない機会だ。とは言え、いのりの成長速度は既に爆速で。でもでも、ライバル選手たちも結構爆速で……
司は悩んだ末に言った。
「いのりさんと相談させて下さい」