結束いのり、スターフォックスへ   作:山倉衛

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156話 復活の道 後編

———神宮リンク多目的室

 

「ちょっといのりさん、来てくれる?」

 いのりは神宮FSCの選手と談笑していたところ、司に多目的室に呼び出された。何事かと部屋に向かうと、ライリー先生と神宮FSCの、鯨臥ヘッドコーチがいた。

「……何の話ですか?」

 少し警戒した様子でいのりが聞くと、司が答えた。

「ちょっと難しい話なんだけど……」

 司は、自分が神宮FSCの新チームの選手に勧誘されていること、そのチームは2年後のオリンピックのテスト大会を目指していること。自分が選手となるといのりに指導できる時間が減り、代わりに鯨臥(いさふし)コーチが指導してくれる事などを説明した。

 

 いのりはしばらく「訳がわからない……」という顔をしていたが、やがて、ある事に気付いたように聞いてきた。

「それって、司先生がオリンピックで滑るって事ですか?」

 

「そうだよ。テスト大会だけど、滑るのはオリンピックと同じ期間、同じリンクだ」

 鯨臥が答えると、いのりはたちまち興奮状態に陥った。「それって、2年後のケベックで司先生が滑るって事ですか!」

「そうだよ」

 

 それで決まりだった。

「絶対やって下さい! 司先生がオリンピックで滑る姿が見たいです!」

 いのりのその言葉で方針は決まった。司のスケーティングに思い入れを抱くいのりにとって、司の選手復帰は願ってもない事だった。いのりは有頂天になって司に抱きつく。

「司先生! しっかりとチームについていって下さい。予選落ちとかしたらダメですからね! メダル獲ってくださいよ!」

「ああ、もちろん。いのりさんにも負けないように頑張るよ!」

 

 鯨臥もホクホク顔だ。

「いやぁ。良かった。

 結束選手と狼嵜選手の方も、僕が指導をしっかりと手伝わせてもらうよ」

 

 これで一件落着かと思われた。しかし……

「決まりですね。では、司先生の『ナインノート』加入にあたり、雇用主である私からも一つ条件があります」

 ライリーは一つ、条件を切り出してきた。

 この条件提示で、大変な事になった。

 後のフィギュアスケート界で語られる「結束式ドミノ事件」である。

 

———神宮FSC事務室

 

 ライリーや司といのり、鯨臥が別室で話している間、胡荒コーチが事務室に寄ると温鳩コーチがいた。

「胡荒先輩……お久しぶりです」

「久しぶりね。温鳩さん。『無印』の素晴らしい演技見せてもらったわ」

 それを聞いて温鳩コーチはうつむいた。

「素晴らしい演技なんて……鯨臥先生が理論から美学から一つ一つ積み上げてくださって……私はそれに乗っかっただけです。チームも本当に一つにまとまっていて……もう、誰もこれを崩せなくなっていた」

 

「ケベックでのテスト大会辞退のことは聞いたわ。それで良いんじゃないの? チームとしての意思なんでしょ? 恥じることはないわ」

 意外そうに言う胡荒コーチに、温鳩は手で顔を覆いながら懺悔する罪人のように声を洩らす。

「でも……初代からいつか陽の目を見る日を夢見て育てて下さった鯨臥先生を裏切り、自らオリンピックの舞台への道を閉ざしてしまった。

 『始祖の12人』の胡荒先輩に申し訳ない……」

 胡荒コーチはとんでもないといったそぶりをした。

「『始祖の12人』はやめて。私がチームを去った理由は知ってるでしょう? 自分の現役期間中にオリンピック競技化される事はないとわかったから、引退して自分の子供に夢を託す事にしたの。そんな自分勝手な理由なのよ。あなたやチームには別の夢がある。それでいいと思うわ」

 

 温鳩は顔を上げ、胡荒亜子の活躍に触れた。

「亜子ちゃん。JGP優勝すごかったですね。オリンピックも出られると良いですね」

「そうね。でも、本当に素晴らしく良い子で、もう独り立ちした一人のスケーターよ。そこまで育ってくれただけで私は既に満足して報われている。あとは、自分の思うがままに成長して、自分が目指すところまで行ってほしい、と感じるわ。

 親というものはそういうもの。鯨臥先生も『クリスタルメッセンジャー』に対しては同じ気持ちじゃないかしら?」

 

 胡荒コーチが温鳩をそう慰めていると、思い詰めた表情の亜子が入ってきた。

「お母さん」

「なあに? 亜子?」

 亜子はハッキリと言った。

「私もシンクロやる」

 

「……え?」

 胡荒コーチは驚いた。この勉強会に来たのはシンクロ9の知識に触れる事が目的であって、掛け持ちをさせるつもりはなかった。もちろん、亜子もそのつもりだったはずだが……

「どうして?」

 亜子は答えた。

「司先生が選手復帰してシンクロやりだすこと聞いて、いのりちゃんまでシンクロ9やる事になったの。

 光ちゃんといのりちゃん。並んでシンクロ練習する事で足りないところをお互いに見て補い合ってきっと強くなる。大変かもしれないけど私もついていかないと、きっとシングルで差が開いちゃう」

「ええと、でも亜子はシングルに集中した方が良くない? 亜子のスタイルは隙がなく、引き出しの多い良いスタイルだと思うけど」

 胡荒コーチはそう諭したが、亜子は首を振った。

「現状に満足して守りに入ったらそこで成長が止まるわ。いのりちゃんや光ちゃんは自分の今の状態に満足せず、新しいものを取り入れて強くなっていってる。

 シンクロ9は2人にとっても刺激となるはず。私、あの2人から逃げたくない……」

 

 胡荒コーチはどうしたものかと首を捻る。娘は意外と芯が強く、こうなるとなかなか曲がらない。ライリー先生に相談しようかと思ったその時、亜子がとんでもない事を言い出した。

「あと、それとは別の話なんだけど、お母さんこれから大変じゃない? ライリー先生までシンクロやりだすと」

 

 胡荒コーチが固まった。

「え……!?」

「ライリー先生、司先生が選手復帰するなら自分もやるって。鯨臥先生に、それが条件だって」

 亜子が説明するが、胡荒コーチは理解が追いつかない。

「ええっ!? ま、まさか。な、なんてコトを……」

 

 亜子のシンクロ掛け持ちという選手人生を左右する問題の方が重大なはずなのだが、ライリーの選手復帰の方が衝撃的すぎて頭がパンクしそうになる。

 

 胡荒コーチがクラクラと目を回し頭を抱えているところに、選手から回収したウェアのダンボールを持った下蔵が現れた。

 彼はスターフォックスも御用達のスポーツ店の店長を勤めていたが、既に店長を交代、今日のウェア提供を最後の仕事として3月末で退職し、新たにスターフォックスの指導陣に加わる事になっている。

 下蔵はにこやかに言った。

「やあ、胡荒コーチ。司先生から聞きました。

 司先生ばかりかライリー先生もシンクロで選手に復帰されるなんて、ファンの僕としては嬉しいなあ。スターフォックスは盛り上がってますね」

 

 笑顔の下蔵に、胡荒コーチは冷たく釘を刺す。

「笑ってられないですよ。ヘッドコーチとナンバー2コーチが選手になるとどうなるか……遠征付き添い等はまず無理ですから他のコーチが忙しくなるわけです。

 下蔵さんも7月から3月は休みはないと思って下さいね」

「3月から7月? 僕、4月10日仕事始めと聞いてますが」

「いえ、今年の7月から来年の3月。名港杯から始まってJGPシリーズと遠征続きになると世界ジュニアまで遠征が途切れる週は少ないかと。すると、留守番でも忙しくなる訳です。7月には勧誘キャンペーンも打たねばいけませんからね」

「……最初の3ヵ月も未就学児対応で忙しいとは聞いてましたが」

「そうですね。司先生ばかりかライリー先生まで抜けるとなると、下蔵さんは未就学児だけでなくトップクラスまでのほぼ全ての選手の指導について、担任コーチが1〜2週間いない間の補佐ができないといけませんから。引き継ぎもできるように3ヵ月は最低かかると見積もられ……いえ、3ヵ月で引き継ぎできるよう休み返上で済ませてください。シーズン始まっちゃいますから。

 あと、70を過ぎてらっしゃる鯨臥先生に結束選手と狼嵜選手の海外遠征を全てお任せするわけにはいきませんし、私も亜子の指導がありますから、下蔵さんにも何回か海外行ってもらわないと……パスポートは大丈夫ですか?」

 下蔵は軽くぼやいた。

「……去年バイトしていたいのりちゃんのお姉さんからは、ホワイトでアットホームな職場だと聞いていたのになあ」

「そう言えば、うちに最初にシンクロの話持ち込んだのはカナダ帰りのあの子でしたね。シンクロに関わったばかりに……」

 胡荒コーチは半年前の実叶の事を懐かしく(?)思い出した。

 

「ああ……あと、金弓さんにも事情を説明してスケジュール相談しないと。ライリー先生はまだ腰の心配もあるから……」

 そう言って電話をかける胡荒コーチ。

 電話を受けた美蜂は、しばらく胡荒コーチから事情を聞いた後、言った。

『胡荒コーチは大丈夫ですか? ストレス度』

 

———

 

 司とライリーの選手復帰と『ナインノート』加入、いのりと亜子のシンクロ9掛け持ちの情報は全国に広がる胡荒コーチ情報網に流れた。胡荒コーチにとっては、スターフォックスの現状を知ってもらって手助けを求める意図があったのだが、全国のクラブに与えた影響は大きかった。

 

「狼嵜光が2刀流に興味を持っていることは聞いていたが、世界ジュニア女王の結束いのりとJGP女王の胡荒亜子までシンクロ9を始めるらしい」

「そればかりか、ヘッドコーチのライリー・フォックスや結束選手のコーチの明浦路コーチまでもが、『クリスタルメッセンジャー』のシンクロ9チームに参加するらしい」

「参入は意外に難しくないと見たのか? 得るものの方が大きいと見たか? トップ選手ばかりか筆頭コーチ達までシンクロ9を始めるとは……」

「『クリスタルメッセンジャー・ナインノート』は2年後のケベックオリンピックのテスト大会を目指すらしい」

「正式種目になるのは6年後と見られるか……今のうちにうちのジュニア選手に体験させておくか?」

「名城は古部多まいん選手が『ジュンリンク』でメキメキ実力を伸ばしているし、名港も八木夕凪が2刀流に踏み切るらしい」

「この時代の変化、どう読むか……いや、立ち止まるよりは動こう。トップのクラブが積み上げた成果に関わらず挑戦に出ているのに、今後どうするにせよ黙っていては変化に乗り遅れる」

 

 こうして、ジュニア世代中心に一夜にしてシンクロ9の大波が来た。後の日本フィギュア史に残る「結束式ドミノ事件」である。

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