———スターフォックスリンク
5月の「シンセン・アイステック」への出場が決まっているいのりには一つ、重要なお仕事があった。
「シンセン・アイステック」の直前プロモーション動画の撮影である。スポンサーのTJI社から頼まれた、文字どおりの「お仕事」であった。
今日はTJIのスポンサーを受けるいのりと朱蒴、あと、もう一人スピードスケートの獅子堂星羅が撮影を受ける側だ。スターフォックスのリンクが撮影場所となる。
あと、今日の『ナインノート』の練習がスターフォックスリンクで行われることもあり、ライリーや司も来ている。今日の撮影がドローンを用いて行われると聞き、ナインノートの監督の九尾塚が「ドローンで上から選手を撮るところは見ておきたい。シンクロ9は『上から隊列を見る』視点も重要だから」と、急遽練習場所を変更したのだ。
ナインノートの練習開始は撮影後なので、夜鷹純や蜻堂緋紗子ら他のメンバーはまだ来ていない。星羅も撮影順が後なのでまだだ。
撮影の立ち合いだけなら鵯の母でも誰でも良かったのだか、せっかくのいのりのお仕事とあって、司が立ち合いを引き受けてくれた。
いのりはそうしてたまたまできた撮影前の時間を司とのやり取りに使った。
いのりは5月に「シンセン・アイステック」があるので、新シーズン用の振り付けを早めに準備していたのだが、急遽司が選手復帰する事になったので、鯨臥コーチへの振り付けの引き継ぎに忙しくて、神宮での勉強会後はあまりおしゃべりができなかった。
忙しいのは仕方ない。司が選手復帰するとなればこうなるのはわかってた。司が選手復帰してくれた喜びに比べれば些細なことだった。その場の勢いで——シンクロやるという夕凪の決意を聞いた後だったこともあったにせよ——シンクロ掛け持ちまで決めてしまったが、全く後悔していない。
むしろ、目まぐるしく新しいものに触れる毎日を楽しんでいた。シンクロも鯨臥コーチも新しい振り付けも楽しい。司先生にも話したいこと、見てもらいたいことがたくさんできた。
また、そうして溜め込んだものだけでなく、司がちゃんと選手復帰できてるかや、婚約者ライリー先生との関係がうまくいってるかなど、聞きたい事もたくさんある。
「司先生は『ナインノート』でうまくいってますか?」
「うん。色々な選手がいるけど、ポジションというか役割毎でやる事がけっこう違うんだ。おかげでチーム内でやる事には事欠かないよ。ジュナ君も手伝ってくれるしね」
「良かった……ライリー先生も一緒なんですよね? ライリー先生とは一緒に住むようになったんですか?」
「いや、忙しくてなかなか引越しの計画まで立てられなくってね。でも、おうちデートはよくするよ」
「へえ……夜鷹純さんやライリー先生と一緒に滑ってみてどうですか? やっぱり金メダリストは2人ともシンクロ9でも上手ですか?」
「そうだね。まだ、軽く合わせるくらいでしか滑ってないけど、それだけでも他の人とは違う上手さを見せつけてくるね。うまく説明できないけど」
「ライリー先生や夜鷹純さんは、どうしてシンクロやろうって言い出したんですか?」
「ライリー先生、今年に入って腰が良くなってきて、『もっと滑りたい』って悩んでたんだ。そこで、目の前に滑る口実となる機会が舞い込んで来たからというのと、もう一つ、……これはナイショだよ。朱蒴君と亜子さんだね」
「朱蒴君と亜子さん?」
「そう。このシーズンで朱蒴君や亜子さんの指導をどうしていくか、ライリー先生も胡荒コーチも悩んでたんだ。もうひと伸びする為に、新しい先生を付けたかったんだけど、どうもいいコーチはいないし、俺も手一杯だった上に選手復帰になっちゃったし」
「あ! せっかく鯨臥先生みたいなすごい先生来てくれるなら、朱蒴君や亜子ちゃんも見てもらおうって?」
「御名答。2人にとって良い刺激になると考えたんだね」
「むふふ。私にとってもいい刺激になってますよ。あのおじいさん。面白いし」
「ははは。面白いおじいさんか。それは良かった」
その様子を見て司は胸を撫で下ろした。
『色々なコーチに教わり、多くの事を吸収できる』という事は、実はトップ選手に必要な資質の一つだ。夜鷹純のように取っ替え引っ換えというのも困るが、一人のコーチの言うことしか聞かない選手も困る。相性の良いコーチというのは勿論あるが、特定のコーチからだけでは吸収できるもの限られる。
自分が指導の第一線から離れてもいのりは好調を保った様子である。司が「これなら安心して『ナインノート』の方に打ち込めるな」と考えていると、いのりはツッコミを入れてきた。
「シンクロが楽しくても、私や光ちゃんの指導も忘れないで下さいね。鯨臥先生があんまりにも良い先生だからって放っておくと、指導の腕がなまってコーチに復帰できなくなっちゃいますよ」
「ははは。大丈夫だよ」
———
そうしてしばらくおしゃべりを続けていると、スポンサー企業の人が入ってきた。
TJI日本支社広報のリン女史だった。
司がこの撮影会の立ち合いを買って出た理由の一つに、今日このスポンサーに対し、「結束いのりがシンクロ9を始めた事」に対して理解を得てもらえているか確認する事がある。選手活動を縛るような契約ではないとはいえ、問題ない旨の言質を取っておいたり、義理立てしておいて置くに越した事はない。
幸い、TJI側はいのりのシンクロ掛け持ちに対して異存はないようだ。
「中国でもシンクロ9は流行りそうですしね。来年のアイステックでは種目に入りそうです。一般からの注目が高いのは良い事ですね。
欲を言えば我が社も『スイッチ』のスポンサーになってみたいくらいですが、既に日中両国の協会から『日本のジュニアに手を出し過ぎ』って釘刺されちゃいました」
笑顔で事情を話すリン女史に、司は安堵した。
「それは残念ですね。もちろんシングルでもいのりさんは活躍しますので、ご期待下さい」
リン女史は付け加えるように言った。
「あ、そうそう。紅熊選手、うちの頼みで『シンセン・アイステック』ではシングルでも出てくれるんですよ」
「え? 寧々子ちゃん、シングルやめないんですか?」
いのりが聞くとリン女史は説明した。
「いや、流石に『アイステック』までだと思いますけど。主催のシンドバット社も頑張ったんでしょうけど、シニアの選手がなかなか集まらなかったみたいで、『おたくの後援している紅熊選手を今年一戦だけ出してくれ』ってシンドバット社に泣きつかれちゃって。紅熊選手に出場を打診したところ、OKしてくれました。紅熊選手なら4Sも跳べるから話題になりますしね。やはり私ども企業人ですから一般受けが大事です」
「ああ、それで四大陸の時の寧々子ちゃんの引退インタビュー『今シーズン限りで引退』って言ってたんだ」
シーズンは7月区切りなので、アイステックはギリギリシーズン内である。いのりは納得した。
司は少し考えた。
『リンさんがこういう話をするのは、『今回のシンクロ掛け持ちを黙認するのは、中国側にもシンクロ9を盛り立ていこうという機運があるから』という事情があるという事を暗に示したいんだな。逆に言えば、今後の状況次第では『シングルに専念して欲しい』と頼まれることもありうると考えた方がいい。契約で縛られているわけではないが、スポンサーとの良好な関係のためには気をつけよう』
そんな司の考えを読んだのか、リン女史は少しおどけてこう付け加えた。
「まあ、個人スポンサーと同じスポンサーがチームのスポンサーになると、掛け持ちやるかやめるかまでスポンサーに縛られかねないから面倒でしょうね。別会社ならチームと個人の話は切り分けできますから。
……まあ、寧々子ちゃんの『もう一戦シングル出場』をねじ込んだ私が言うのも白々しいですが」
「ははは……」
「?」
司はスポンサー契約がらみのややこしい話に苦笑したが、いのりには理解できなかった。
———
しばらくすると、ライリーや鵯のところで準備をしていたカメラマンがやってきた。
30代くらいの若い女性カメラマンだった。
「グローバルドローン社の赤石麻衣です。今日はカメラマンを務めさせてもらいます」
いのりは気付いた。
「あれ? グローバルドローン社って朱蒴センパイの?」
「そうだよ。お父さんの会社の専属カメラマン。日本を代表するドローンレーサーの一人でもあるんだ」
「レーサー……かっこいい。ドローンを使ったカメラマンなんだ」
赤石カメラマンは少しはにかんで茶目っ気たっぷりに言った。
「レーサーだけだと稼げないからカメラマンもしているんですよ。今日はいい画が撮れるといいですね。昨日は名古屋でねねよしペア撮ってたんですよ。見ます?」
「見ます見ます!」
いのりたちがタブレットを見ると、ねねよしペアのツイストリフトの場面を加工した動画があった。星空を背景にツイストリフトで跳び上がる寧々子が一瞬スローモーションになると、その顔にカメラが急接近して瞳の中の星空を映した。
「わわわっ!? こんなにカメラ近づけて大丈夫なんですか?」
赤石カメラマンがニヤリと笑って答える。
「全然大丈夫ですよ。見ます?」
メイキング映像のタブレットの中には、ねねよしペアが滑走しているリンクの上空、ツイストリフトの高さより倍以上高い位置を横滑りしながら並走して飛びつつ撮影しているドローンが映っていた。途中で軌道を変え遠ざかりつつズームしていて、ツイストリフトされた寧々子がぶつかりそうな近距離から撮っているかのように見えただけだった。
「カメラワークでここまで錯覚させられるんだ……」
朱蒴も感嘆の声を上げた。
「あと、瞳の中の星空は後からの合成で、こうやってるの」
赤石が見せたメイキング映像では、輝度の高い星空を映したタブレットとにらめっこしている寧々子を、赤石が手持ちのカメラで至近距離から撮っていた。
画面の中では寧々子が『まぶしい……早く撮って』と、文句を言っていた。
「あはは! 面白い! こうやって合成しているんですね!」
「そうなの。プロモーション動画は面白ければ勝ちだからね。合成でもAIでも口パクでもなんでもするの。
最近はドローンに載せるような小さなカメラでも何億画素とかすごく細かいところまで撮れるカメラ載るから、瞳の中までズームしても画が崩れないのよね。TJIのカメラはローウェンブラッドって、モデルさんとか撮るカメラのメーカーのものだから、発色とかもすごい良くて美人さんに撮れるわよ」
「むふーっ。美人に撮ってくださいね!」
何故か興奮するいのり。
そうして撮影が始まった。