美玖は放心状態の蕨にリストを渡すと帰っていった。
「早くライリー先生に決裁もらってくださいね。曲決定まで検索もできないと色々不便なので」
残された蕨はひとりごちた。
「……何でみんな『Turn me on』通しちゃうの? わけわからない」
とりあえず、会議の録音と議事録を資料室で確認し、喘ぎ声の入るe-roticの曲が何故通ったか調べる。
幸い、それはすぐにわかった。
「……喘ぎ声の入らない『Heavenly mix』なんてあるんだ。非売品かよ。えびたいペア、どうやって手に入れたんだ?」
選手たちが選んだ理由も録音と議事録でわかった。
『turn onだから、スイッチを入れる歌? 私たちのチーム名にぴったりだね』
(〝turn me on〟だと別の意味だが……〝turn on〟は習ってるからわざわざ〝turn me on〟で辞書ひく子はいなかったのか……)
『女性が〝私はラジオ、あなたの好きな曲を歌うわ〟とか言ってるね。男性は〝僕のスキンをタッチして〟って言ってるから音楽プレーヤーかな?』
(〝スキン〟って言うと、最近の子は音楽プレーヤーの操作盤スキンの方を連想するのか……)
『〝tender spot〟って何だろ? 辞書の〝弱点、弱み〟だと、意味通らないなあ』
『〝出会い系の待ち合わせ場所〟の〝Tinder spot〟じゃない? それとも〝着火点〟?』
『やっぱりこの曲もラブソングなのかな? ま、いっか』
(そこは〝tender spot〟で良いんだよ。そこに適した訳は〝性感帯〟……)
『Barbie girl』の時と同様、この『Turn me on』もそのヤバさが看破されることはなかったようだ。
「……まあ、『ダメな歌選んじゃった時の判断はライリー先生』って言われてるしな」
蕨は曲リストに長文の状況説明と言い訳を添えてライリーに送信した。
「まさか、この曲採用されたりしないよな……しないよな? ライリー先生……」
律儀にフラグを立ててしまう蕨であった。
———神宮近くのシティホテル
「あら、曲リスト来たわね……まあ、長文」
曲リストを受け取ったライリーはスマホを見て顔をしかめた。ちょうどその時、司がシャワーから出てきて聞いた。
「何見てるんですか?」
ライリーはにっこりと笑顔をつくってから返事をした。
「ジュナさんに送るメールを書いてるの」
「……ナインノート関係ですか?」
「違うわよ。ちょっとしたお願い事」
「……」
司は黙って表情を曇らせた。
ライリーがこういう思わせぶりな言い方をするのには訳がある。司は、ジュナの話を持ち出されたりして嫉妬心を掻き立てておいた時の方が色々と燃え上がるのだ。ライリーもそれを期待してワザとしなをつくっている。
実のところはもうスマホ画面は全く見ておらず、司しか見ていなかった。
「よし、送信っと。終わったわ。
……Please Tukasa, turn me on……」
床に転がったスマホのメール転送画面には『蕨コーチには別の考えがあるようですが、私は生徒たちを信じてこのままでいきます。よろしくお願いします』とだけ書き添えられていた。
———翌日
「マジかよ……ライリーさん何考えているんだ?」
蕨はジュナからの通話で、光たちの選んだヤバ曲リストがそのまま採用されたと知り、驚愕した。
ジュナも電話越しに困惑を伝える。
『僕もリスト受け取った直後に確認メール打ったけど、本当にこれでいいって返ってきたから、もうおとなしい曲から作業進めてる。
曲自体は良いからね。メロディーはね。
蕨さんは何か言われてる?』
「いや、そのまま素通りで採用されたって、今初めて知った」
『……』
ジュナは慎重に蕨に聞いてきた。
『蕨コーチはライリーさんが生徒たちの案をそのまま通した理由に心当たりはある?』
「いや、わからない……」
ライリーがメールをロクに見ずにジュナに転送し、ジュナからの確認メールもラウンド間のインターバルに適当に返したとは、誰もわかる訳がない。
蕨は推論を口にした。
「でも……、一つ思いつくところがある」
『何だい?』
「ライリー先生はアメリカのスケート界と、最近まで距離を置いてたって知ってる?」
『うん。金メダルまで取ったのに、日本でクラブやると言ってアメリカを出たきり、ほとんど帰っていないばかりか、母国の選手団からの表敬も断ってたって』
「その理由の一つに、恩師であるデボラコーチとの不仲説が囁かれているんだ」
『……確か、バレエ出身のかなり正統派のコーチだよね』
「そう。でも、その弟子のライリーさんは真逆の、アバンギャルドなコーチだよね」
『まあ、今回の選曲とか特にね』
蕨は声をひそめて続けた。
「そんなライリー先生がほぼ初めてまともに帰国するのがアナーバーのシンクロ大会だ。僕は、これをシンクロ9の御披露目に乗じて『アメリカのスケート界、特にデボラコーチのような正統派連中にケンカを売るつもり』じゃないかと予想するんだ」
ジュナも蕨の推論を理解した。
『なるほど。
自分は日本チームのナインノートから出てアメリカとの隔意を示しつつ、ジュニアチームには〝アウトフォクシーズ・スイッチ〟を送り出し、お上品な連中を下品極まりないユーロビートで叩きのめさせて、正統派なんて新しい種目の世界では時代遅れの役立たずと知らしめてやろうとしているわけ、ということか。
確かに、この曲流してきたチームに負けたら夜も眠れないくらいダメージ倍増だね』
実際のところは、ライリーは恩師デボラとは仲は悪くないし、アメリカのスケート界とも去年色々あって関係修復しているが、そんな事を知らない2人は想像を膨らませる。
「僕も従来シンクロやってたから思うけど、いのりちゃん亜子ちゃん光ちゃん主軸でスピード特化チーム作られたら、どんな強豪チームもラッキーヒットで倒してしまう可能性がわりとある。オリンピックに向けてルール固めしている最中でもあり、うまくいけば印象強すぎるこの妙手を崩す手は今のところなさそうだしね」
『生徒が誤って選んだお下劣ソングも殴り込みには好都合、ということか』
そうして、2人で膨らませた妄想の果てに、ジュナはとんでもない事を言い出した。
『そういうことなら、僕もこの曲の採用に乗るよ』
蕨が驚きうろたえる。
「乗る? おいおい、ジュナさんまで……」
ジュナは真面目に返してきた。
『言いたいことはわかるよ。何も知らずに巻き込まれる生徒がかわいそうって言うんだろ?
理由は3つあるよ。
まず、この曲で正統派連中に勝って〝バレエの流れから来るような正統派の従来シンクロのプログラム設定を手直ししても、シンクロ9では勝てない〟と強烈に印象づけてやる必要がある。そのためには、これくらいの話題性のある曲がいい。アナーバー杯はこれからの新しい競技の位置付けを占う重要な戦いだからね。
それができれば、シンクロ9は『全く新しい者同士の戦場』になり、欧米に遅れを取ってる日本に有利で、シングルからの転向・掛け持ち選手も振付師の僕も活躍できる。
おまけにAIにも対抗しやすい。手垢のつきまくった正統派の設計と違い、高速で展開する隊列と定型的でない振り付けの美的設計はAIの苦手とするところだからね。シンクロ9がそういう表現の場となった方が、僕も将来の振付師も助かる。
2つ目の理由は、選手たちにとってのアウトフォクシーズでの活動の位置付けを〝シングルではできないことを試す場〟にすることだ。今年は幸いにも光ちゃん、いのりちゃん始めトップ選手も参加してくれたが、来年も参加してくれるとは限らない。参加し続けてもらうためにはシンクロ9に参加するメリットが必要だ。
いのりちゃんがシングルで使えなかったユーロビートを持ち込んだように、彼女たちにとってシンクロ9は〝シングルでは機会が得られなかった事ができる場〟として明確な需要がある。
例えば、いのりちゃんの逆回転ジャンプなんかだよね。
いのりちゃんが強いのは、ああいう遊び技も通じて競技へのモチベーションを維持するとともに、技術や表現の幅を広げる事ができるところだと僕は思ってる。極論すれば、遊び技はジュニア選手の成長には絶対に必要なんだ。
でもエキジビジョンというお披露目の場がなければ遊び技なんて、採点方式でガチガチに固まったシングルでは見せる場がない。見せる場がないとモチベーションも湧かない。
幸い、台乗りできる一部のトップ選手にはかろうじてエキジビジョンがあるが、ほとんどのジュニア選手にはエキジビジョンの機会なんてない。シンクロ9はそういった選手に対して代わりの〝試し場〟を与えてくれる。
そして、〝間違って下品な歌を選んでしまった事案〟なんてものは、恥かくだけで大して実害はないけど、今後何かチームで試しにやる時の心理的ハードルを大幅に下げてくれる。〝あんな事もしちゃったんだし、こんな事もしちゃえ〟となってくれるわけだ』
蕨は腕を組み、渋い顔をしつつも納得したようだ。
「まあ、ジュナさんの言う事はわかります。それで、3つ目の理由は?」
ジュナは茶目っ気たっぷりに答えた。
『僕が美玖ちゃんをからかうネタが一つできること。いつも美玖にはやられっぱなしだからね』
最後の理由は真面目ではなかった。
「……美玖ちゃんはシングルのトップ選手相手にちゃんとリーダーできますかね? ブランクありますが。僕の心配はあとそれぐらいです」
心細そうに呟く蕨にジュナは電話越しにハッパをかける。
『おいおい。あの子は君が思ってるよりもずっとタフだよ。なにせ、〝チームあひる〟の主役だったんだから。そういう訳で、蕨くんも協力お願いするや。
ハシゴ外されるのはカンベンだから、美玖ちゃんたちにも先に『これで決定、変更は受け付けないよ』って言っておいて。美玖は口が達者だし、保護者あたりに手を回してこの曲を撤回させようとするかもしれない。
僕が〝すごくいいチョイス。これでやらせてもらう〟って先に言えば美玖も諦めるだろ』
蕨も押されたようだ。
「ふうわかった。バスは走り出しちまったってことだな」
———神宮近くのシティホテル
チェックアウト手続きをしていたライリーは、ジュナからのメールに気づいた。
『ライリーさんのクソ度胸に感服しました。こちらも腹を決めましたので、もう変更なしでお願いします』
「……クソ度胸?」
ライリーは自分のメール履歴を確認し、絶句した。
———スターフォックス
美玖が蕨に文句を言ってきた。
「ジュナさんから、曲はOK、もう変更不可ってメール来ましたよ。もう、みんなに検索禁止令解除していいですよね? 本当に不便で……」
蕨はスマホをしまうと答えた。
「ああ。僕もちょうど今ライリーさんに『ジュナさんからOKの連絡受けました。これで行きます』ってメールしたよ。ライリー先生もジュナさんも君たちの選択をしっかりと受け止め、評価し、賛同してくれている。
……ただ、一言だけ言わせて。『僕は止めたかった。口出ししたかった。教えたかった』」
「……? まあ、ライリー先生から口出し止められてたのは知ってますよ」
美玖は不思議な顔をしつつ、皆のところに戻って言った。
「みんなー。検索とAI、解禁だって。曲もあれで決まりだって」
「やったー」
「曲ダウンロードしよっと」
……
……数分後
「ちょ、ちょっと! ちょっとちょっと!」
「何で黙ってたんですか!」
「え? ジュナさんも変更お断りってホント?」
「こ……こんなのあり!?」
少女たちの詰問を受け、もみくちゃにされる蕨。
そんな中、蕨は光の姿が見えないのに気づいた。
「光ちゃんは?」
「……曲ダウンロードするって言って、あっちの方に……」
「え? あそこ?」
蕨は青ざめた。リンクの向こう、ICプレイヤー片手に制御室に入る光の姿が見えたからだ。
間もなく、リンクに「Turn me on」のイントロが流れた。
「マズイ! 光ちゃん気づいてない! しかもこれ、市販版だ!」
蕨は止めようしたが周りを少女たちに囲まれていたため間に合わなかった。
余談だが昭和初期のころ、スケートリンクは「風紀のあまり良くない、ゲーセンと同じ遊戯場」というイメージがあった。
その日のスターフォックスリンクに一瞬、その頃のコンプライアンスおおらかな昭和が訪れた。