北京市内にある什刹海スケートリンクは、日本では珍しい、湖を利用した天然氷のスケートリンクであり、数々のドラマの舞台となった観光地である。
いのりの希望で、北京最後の夜のオフをここのナイターで過ごす事となった。
いのりもこの日は無邪気な中学一年生に戻って司とのオフを楽しんだ。帰れば移籍の相談という重い話が待っているだけに、今日は何もかも忘れて楽しむ事にした。
「うわ! なんかお寺の中に屋外スケートリンクあるんですね! なんか不思議!」
「これこれ! 氷上自転車、やってみたかったんです! 司先生! 競争しましょう!」
「わわわ! これはタンデムタイプですか!? 先生! 一緒に漕ぎましょう!」
「ははは。いのりさんは元気だね」
「はい! 久しぶりにお休みのお出掛けに、海外旅行後半補正までかかってますから、GOE+5の元気モリモリです! 今度はあっちで写真撮りましょう!」
「はいはい。待ってー」
司がシャッターを押してくれるよう、翻訳アプリで近くの青年に頼むと、青年が翻訳アプリで返してきた。
『日本の結束いのり選手ですか? 私はファンです。もし、よろしければ、私との写真も撮ってください』
「……だってさ。いのりさん、いい?」
「いいですよ! えっと……」
「こたらで返答するよ。構いません。応援ありがとうございます、っと。『没关系。感謝您的支持』」
司も翻訳アプリを活用して返す。
いのりは司との写真に続いて、ノリノリで青年との写真を撮る。青年が、いのりの演技で音楽が使用された映画「カンフーナルキッソス」の劇中の必殺奥義「湖鏡掌」のポーズをとると、いのりはハイキックのポーズで応えた。
『感激しました。ありがとうございます。あなたのことを永遠に応援します』と、青年は喜び去っていった。
「あはは! 外国人の、選手じゃない人も私のことを知ってるなんて不思議な感じです。嬉しい! あと、映画のポーズとか、面白い!」
「『カンフーナルキッソス』が中国では人気映画なのもあるけど、試合が放映された直後だからなのもあるかな」
そんな話をしていると、続々と他の中国人が翻訳アプリ片手に、いのりのところに集まって来た。
『私はあなたの熱烈なファンです。記念にあなたとの写真を撮りたい』
集まって来た人の多さに司がどうしたものかと考えてると、いのりは言った。
「先生! コレって『ファンサービス』ですよね? 私、凄くやってみたいです! これで時間使っちゃってもいいですか?」
ここまで乗り気なら、やらさないわけにもいかないだろう。
司は同意して、翻訳アプリで撮影の案内を始めた。
―――
長い撮影会の列が捌けると、いのりは超ご機嫌で顔をツヤツヤさせていた。ちょうど製氷車が入って来たので、リンクサイドに退避する。
「あー楽しかった!」
「ははは、良かったね。先生のスマホ、電池切れちゃったし、そろそろ帰るか」
そんな時、製氷車を避けリンクサイドに集まって来た人の中から、また写真を撮ってほしいというファンが現れた。
「……キリが無いし、もう断らなきゃね」
「はい。私のスマホの翻訳アプリで返事しますね。えっと、司先生がやってたみたいに、簡単な日本語で、今日は終わりです、応援ありがとうございますっと。『今天就到這里。感謝您的支持』」
「よくできました」
断られたファンも、笑顔で『仕方ありません。あなたの成功をお祈りします』と返してきた。司も安心して帰りの準備にかかる。
「えっと、ロッカールームのカギは、あれ? どこいったかな……」
司の注意が逸れたその時、少々図々しい女性ファンが現れた。
『私はあなたの熱烈なファンです。ここでは滑らないのですか? あなたの滑走が見たいです』
司は眉をひそめた。整氷直後でも天然氷でフィギュアスケートをやっていいわけがない。
「いのりさん。断って」
「はい。混んで人も多いからダメだから。えっと……『表演需要很大的空間。感謝您的支持』」
「よくできました」
司は背を向けたまま言った。
ここで司が、元の日本語を確認しなかったのは致命的だった。返答された女性がすぐリンクに向かって騒ぎ出したのも、気分を害したせいだと勘違いしてしまっていた。
「あ、カギはこっちのポケットだったか……あれ?」
見るとたくさんの人が、整氷後のリンクに人が入らないよう、ロープを手持ちで張っていた。
司は慌てていのりに聞いた。
「い、いのりさん!? さっき、何て返事したの?」
いのりもやらかしに気がついたようで、青ざめてプルプルと震えながらスマホを司に向けた。
『演技には広いスペースが必要です。応援ありがとうございます。>>表演需要很大的空間。感謝您的支持』