蓮華茶FSCでは、転倒等の事故に備えてプロテクターをつけた紅熊選手と蛇崩コーチによるハーネス練習が行われていた。
「よっしゃ! 今の完璧やったやろ!」
「はい。思い通りの位置に跳べました!」
紅熊寧々子の協力により、蛇崩はとうとうハーネス技術を体得した。
練習を見守っていた亀金谷ヘッドコーチが腕組みのまま評価する。
「まあまあやな。アイツは審判員のテクニカルスペシャリスト取るだけの目の良さあるからな。できんわけはないと思っとったで」
「骨を折った甲斐がありましたね。主に私の」
左手をギブスで吊ったままの家守が抗議じみた声で追従した。
家守の左手だけではない。ハーネス技術習得のために家守も蛇崩もあちこちアザだらけだった。
ハーネス技術の練習中、吊られ役の家守が骨折で脱落してしまった時に練習台に志願したのが寧々子だった。彼女の動機は「面白そう」というものだったが、並走やカップルからのサポートを受けたジャンプの経験のある寧々子は、全く怪我なく、蛇崩をハーネス技術習得まで導いた。
「スロージャンプで投げミスされたり、ツイストリフトで受け止めそこねられた時の絶望感に比べれば、蛇崩コーチの吊りミスなんてどうという事なかったですね」
「そりゃどうもや! でも、もう吊りミスはのうなったやろ?」
苦笑しながら返す蛇崩をからかうように寧々子はプロテクターを外した。
「そうですね。もうプロテクターいらないですね、私は。
蛇崩コーチももう、コケる時はちゃんと吊り終わってから一人で転んでくれますから」
亀金谷は次のステップを指示する。
「じゃあ、高難度ジャンプにも挑戦やな。寧々子、遊。そのまま4Sへの挑戦、いけるか?」
「任せて下さい! スロージャンプで成功してますから、ハーネス無しでもそれなりに感覚ありますよ」
「はは……まあ、ペアの男子選手よりはラクやと思えばイケるかな……」
「なんや、遊。返事元気ないのう。
まだまだ先はあるで。紅熊のカップルの犀川。その次は並走とか上手にできとる御古所、そしたら……」
「……すずちゃんや絵馬もいけますね」
亀金谷のハッパかけに呼応して、蛇崩のハーネスを握る手に力が戻った。絵馬の新ジャンプ挑戦まで任されるくらいに腕とスケーティングを磨かなくては、と。
―――名古屋市、合同練習会
練習会の会場では、鴗鳥慎一郎が八木夕凪を吊り役にハーネス技術練習をしていた。横では、フィギュアスケート協会のインストラクターもいる。そこに名城クラウンの竜宮ヘッドコーチが話かけてきた。
「最近、それ流行ってるね」
「はい、見よう見真似ではありますが、先日明浦路先生から御指南いただけたもので」
慎一郎がかしこまって言うと、協会のインストラクターが補足した。
「私もハーネス技術は経験ありますので、本日はご協力させていただいてます」
竜宮ヘッドコーチは笑顔の中にも鋭く目を光らせつつ、慎一郎に聞いた。
「君が現役の時、大怪我したのもハーネス練習の時だったかな? 補助者の吊りミスと仄聞しているが」
慎一郎はやや目を伏せて答える。
「……お恥ずかしながら、その通りです」
その横に立つ八木夕凪が慎一郎を庇うように立つ。
「私の慎一郎先生はそんなミスはしません。私が怪我をしたとしたら、それは私のミスです。先生、続けてください」
慎一郎がそれを訂正して言う。
「例え君がミスジャンプをしてもケガをしないように私はハーネスを持っています。危ない時にも絶対助けて見せるから、安心して跳びなさい」
再び練習に戻る慎一郎達を見て、協会のインストラクターがにこやかな笑みを浮かべる。
「いい師弟ですね。今シーズンにも八木夕凪の4回転ジャンプが見られるかもしれない」
そんな彼に、竜宮ヘッドコーチは冷ややかな言葉を突きつける。
「君は『新時代が来た』と考えるかね? それとも……『地獄の蓋が開いた』と考えるかね?」
問われたインストラクターは困ったような顔で答える。
「仰りたいことはわかります。
4回転はリスクに応じたリターンが望めない、怪我の可能性も高くなり、選手生命を縮める恐れがある……という考え方もあります。いや、もう『ありました』と、過去形で語るべきでしょう。ハーネス技術以外の指導理論や技術、ケガに対する意識や対策も格段に進歩している」
竜宮は煙たそうな顔をした。
「ハーネス技術にせよリスクが形を変えただけだろう?」
協会インストラクターはこれにも立板に水と答えた。
「ハーネス技術は確かに難しい。並走技術に、氷上で竿を安定させた上で瞬時に操作し、正確に競技者を持ち上げる技術。ちょっとしたペア男子競技者程度の難易度、ですかね?
ですが、そんな難易度なら、元全日本やオリンピッククラスの才能の塊が引退してできた、元選手のコーチたちが挑んだのならば、遠からず少なくない者達が習得してしまうでしょう」
黙ったままの竜宮に、インストラクターは続ける。
「もちろんリスクはあります。現にハーネス技術練習中の骨折事故もしばしば聞くようになりましたし、諸外国ではリスクとリターンを鑑みて人力式を諦め、やや効果は落ち、高価にもなりますが、リンク外からの固定機械式ハーネスを使っているところの方が多い」
そこで、インストラクターはリンク内の選手達を指して言った。
「しかし、もう皆なりふり構っていられないでしょう。ノービスの狼嵜光が4Lzを跳んだ上に、ジュニアに上がる今年4回転封印するときました。しかし、JGP選考会ではいささかも怪我等の影響は見られなかった。いずれ何種類か戻してくることは確実です。
誰もが思ったでしょう。『狼嵜光が4回転を封印しているこの機に4回転を習得して、磨きをかけていかないと、未来永劫、狼嵜光には勝てない』とね。
誰も届かない高みに登った天才と、その天才の見せた隙。皆、明日のために今日の狼嵜光に勝とうとしている」
そして、インストラクターは手にスマホをとりだした。
「最近の4回転動画ラッシュはご存知ですよね?
すでにあちこちでハーネス練習による4回転習得の知らせが上がってる以上、はっきり分かれたのです。ここでリスクを取らないものが負け、リスクを取った者が残る、と」
竜宮ヘッドコーチはここで苦虫を噛み潰したような顔をして言った。
「狼嵜世代には重大な問題がある。わかってるのかい?」
首を振るインストラクターに竜宮は語る。
「長過ぎるのだよ。オリンピックまで6年。特に女子選手達がジャンプを維持していくには、な」
インストラクターは鼻白んだような顔をした。
「先程言いましたかね?
JGP選考会では4回転を封印した狼嵜光にはケガ等の影響は感じられなかった。間違いなくオリンピックまでに何種か封印解除してくる。それが皆を4回転に急きたてる、と。
しかし、それだけではないですね。
4回転で去年のJGPを戦った結束いのり。幸か不幸か、その急激な身長の伸び。しかし、その体型変化の影響を全く受けないばかりか、更なる磨きのかかったあの分厚い野太刀のような4S。
狼嵜光のカミソリのような4Lzはもしかするともう見られないかもしれない。しかし、結束いのりの4Sは6年後も絶対的脅威としてあると、誰もが確信した。
一人の天才だけでは時代は開かれなかったかもしれませんが、二人が、三人、いや……」
インストラクターは指折り数え始めて、途中で数えるのをやめた。
「……もはや何人もの眠っていた天才が目覚め、腕を錆びつかせかけていたコーチ達に求めるのです。早く4回転への扉を開けさせろ、とね。
おや? あれはおたくのアシスタントコーチじゃないですか?」
竜宮が見ると、慎一郎の所に何人かコーチが集まっていた。ルクス東山の鴨川コーチ、グラビティ桜通の那智コーチ、名城クラウンの千羽コーチもいた。
「あいつ……何してるんや?」
竜宮が聞きに行くまでもなく、千羽の方から竜宮のところにやって来た。
「へへへ……ヘッドコーチ。今日は良い日和で……」
千羽が手揉みをしながら伺ってきた。
「最近流行りのハーネス、クラブ費で購入してはいかがっスかねぇ?」
ため息を吐く竜宮をよそに、インストラクターはニヤニヤ笑って言った。
「いいですねぇ。その調子で中部ブロック、盛り上げて欲しいですねぇ」
―――アイスリンク仙台
仙台スクエアFSC西猯ヘッドコーチは習得したハーネスを軽く振りつつ言った。
「思ったより簡単だったな。さて、ひと釣りしてみようかな?」
九猪桃子は待ちきれない様子だった。
「お願いします! ……絶対いのりちゃんに追いついてみせる。光ちゃんにも!」
―――さいたまアイスアリーナ
……シュタッ
蝉丸ひまりの4Sハーネス付き着氷が成功した。
「やりました! コーチ!」
荒川グローFSC蜻堂ヘッドコーチは首を横に振った。
「今のは結構持ち上げた。まだまだだね。
今年の東日本。スターフォックスに表彰台独占させないよ。続けるよ」
「はいっ!」
―――アイスアリーナ福岡
蕨一ヘッドコーチが兎太に檄を飛ばす。
「ほら、こんなの簡単じゃろ? ペアの選手に負けてちゃあかんぞ?」
兎太はブツクサと聞こえないように文句を言った。
「言ってくれるわ……」
布袋野兎太コーチは人形を使ったハーネス練習をさせられていた。ハーネスをつけた人形を他の者が回転をつけて投げ上げ、兎太がそれを空中でバランスを取るように吊る。
投げ上げる人手が足りないので、この日は生徒にまで手伝ってもらっていた。
「兎太コーチ。上手くなったら蘭ちゃんより先に私吊ってくれる約束ですからね」
―――東京、スターフォックスリンク
各地のFSCからのハーネスについての問い合わせに胡荒コーチが電話対応していた。
「はい、それは動画のとおりです。近日中にアクセルジャンプの練習動画も公開予定です。
……司コーチからのハーネス技術レッスンを希望ですか? 当リンクの枠と、試技者のご用意が必要ですね。平日早朝枠は比較的取りやすくなってます……」
電話を終えたライリーは胡荒コーチに聞いた。
「どう、忙しい?」
胡荒コーチは少し考えてから答えた。
「……忙しいですが、何か新しい時代の幕開けに携わっている感じがします」
1/22 14巻情報より微修正