梅雨寒の中、冷房の効いた会議室内で、ライリーは司と胡荒コーチに言った。
「日本の夏は暑いですね」
「そうですね。これから暑くなりますね」
ありがちな返答を返す司。
「フィギュアには好都合ですね」
ライリーの意図を解した返答を返す胡荒コーチ
「まあ、胡荒コーチの言うとおりで、つまりは勧誘シーズンという事です。ショッピングモール横の冷房の効いたリンクも使いようと言うことで……司先生、胡荒コーチ。どうぞ」
そう言って、ライリーは夏の児童向け体験コースの企画書を渡した。
「小さい子の勧誘を怠るとフィギュアスケートのクラブはたちまち干上がりますからね。うちのようなシングル女子中心のクラブはなおさら」
少し渋い顔をしつつ話すライリーに、司はやや無神経な質問をした。
「確かに関東の他のクラブに比べても男女比がかなり厳しく、中部並みですね。これはクラブの方針ですか?」
ライリーは少し間を置くと、立ち上がった。
司たちはギョっとした。ライリーは一度座ると滅多な事では立たない。
続くライリーの言葉には少し怒気が混ざっていた。
「そんなわけないでしょう。アシスタントコーチ陣も女性ばかりで、ヘッドコーチは若すぎる外国人女性金メダリスト。不本意ながら『フィギュアは女の子のスポーツ』という固定観念をクラブの姿が体現してしまっているのです。
出来て間もないクラブとは言え、この状態は不本意なだけではなく、有害であるとすら思っています。
司先生。アイスダンスの全日本出場経験もある男性コーチである貴方に期待するところは大きいのですよ。現状には危機感を持ってもらわないと」
ライリーの言葉はそれほど強くなかったが、司は痛切に受け止めた。
「すいません。金メダリストであるライリー先生に頼っている現状についてあまり考えが及んでいませんでした」
ライリーは一度腰掛けて続ける。
「女子スケーターはノービスやジュニアで辞めてしまう子の率も高く、男子スケーターがいないことにはペアやアイスダンスもできません。男子生徒はなんとしても増やしたいのですよ。体験予約枠も男子分確保していますが、去年もあまり埋まりませんでした」
司は思い出したように言った。
「そう言えば、無くなる前の新潟の十南町FCSは亜昼選手以外に、週一ですが男の子7人もいたなぁ」
「洸平コーチのところでしたね。もったいない。うらやましい……男の子は男の子呼ぶんですよ。うちは体験に来た男子生徒が定着しない理由が『クラブに男子がほとんどいない』『女子の方が上手くて嫌になる』とかで悪循環です……」
ライリーも表情を曇らせる。
男子生徒について、司とライリーの会話が続く。
「そう言えば、ルクス東山に短期で理緒君来てくれたのも、『犬飼君がいるから』でしたね。中部は女子が多すぎて、すぐアイスダンスやペアに勧誘されてしまい、ノービス男子シングルの参加選手がブロックで2名とかありました……犬飼君も親はアイスダンスやらせたがってましたが、本人がマイペースなものでシングルでやってまして」
「スケートができるくらいイイところのお嬢様でペアやアイスダンスをやろうとするくらいスケートにこだわる熱心な同年代女子からカップルに誘われたら、並の男子シングル選手なら転向断る方が難しいですよね。そうなるとますます男子シングル選手が減って、男子選手全体も増えにくくなる。ただでさえ5才神話で新規の子が入りにくいスポーツなのに。
というわけで、この歪な男女比はクラブにもスケート界にも百害あって一利なしなんですよ。
幸い今年からは司先生がいますからね。特に男子の勧誘には期待したいところです」
そこで、ライリーは新たに別資料を取り出した。
「あと、夏休みのバイトで臨時アシスタントを希望している大学生がいるのですが、この子採用しますので今月中に研修計画お願いします」
「それも俺ですか。いや、忙しいなあ」
改めて資料をめくり、司は驚いた。
「実叶さんじゃないですか!」
ライリー先生もニヤけつつ答える。
「優秀な子ですね。愛知智徳大学人間情報学部の4年生。夏だけ来てくださるようです。ノービスまでは選手だったということで」
「ええ。驚きました。就職の内定ももらって、名古屋と東京の2拠点生活とは聞いてますが。そっかあ、実叶さん来てくれるのかあ」
「詳しいですね。教育係を胡荒コーチにとも思っていたのですが、司先生のお知り合いとの事でやはり司先生にお任せしようかと。夏休みまでまだ期間ありますが、教育実習や内定者向けインターンなどで研修にも期間調整必要ですので。
一応、昨年までの夏企画や臨時アシスタント研修のデータお渡ししますね。あと、やりたいことやわからないことありましたら、いつものように仰指どうぞ」
司も任されて意欲が湧いてきた。
「任せてください! 期待に応えてみせます!」
―――ミーティングルーム
司は採用の知らせを聞いてやってきた実叶と打ち合わせをしていた。実叶はリクルートスーツ姿だった。今日は都心で内定者向けの懇談会があったらしい。
「そうなんだ。忙しいのにバイトまで大変だね」
「いえ。学生のうちにしか出来ない事ってやっぱりあるじゃないですか。内定者向けの講習やインターンを詰めてスキルアップや業界内での人脈作りを図るのも大切ですが、スケートクラブで働く経験とか、社会人として働きだしたら絶対できないでしょ? 他の人と違う強みを持っておく事が重要だって、今日の懇談会で社員さんにも後押ししてもらえました」
「そうなんだ。いい会社なんだね。差し支えなければどこか聞いていいかな?」
司の質問に、実叶は耳打ちして答えた。
「ライリー先生にもお伝えしていますが、N*Kのアナウンサーです」
司の目が点になった。マスコミ業界に疎い司でもN*Kのアナウンサーがどれだけ花形職で狭き門なのかは知っている。
「す、すごいね……あの、本当に就職までうちのバイトなんかしてていいのかな?」
なぜか急にかしこまってしまった司に、実叶は苦笑いして答えた。
「いえ、むしろフィギュアスケート経験が内定獲得にも役立ったかなと思うくらいで。
スポーツ経験のあるアナウンサーでも、フィギュアのジャンプの種類や回転数、ステップの種類まで瞬時にわかる人は貴重なんですって。大学の放送部でもフィギュアの技の見極めは体操やスノーボードとかと比べても難しいって言われてました。あと……」
ここで、実叶は少し声を落として続けた。
「JGPで大活躍した結束いのりの姉、というのも影響したかもとは、今日の懇談会でも言われましたね。
でも、このバイトに応募した1番の理由は、社会人になる前にフィギュアの世界に少しでも触れ直しておきたいと思ったからです。
ほら、こんなに立派なスケートリンクがあるのに、フィギュアの靴も買わずに社会人になって転勤することにでもなったら、本当に今年がフィギュアの世界に触れていられる最後の機会になるかもしれないじゃないですか」
フィギュアの世界に触れていられる最後の機会、か。
司は実叶の言葉を重く受け止めた。
「そうか……。でも、ごめんね。実叶さんにお願いしたいのは子供向けの体験コースのアシスタントなんだ」
申し訳なさそうに言う司を実叶は笑い飛ばす。
「あはは。流石にノービスまでの経験で選手指導とかとてもできませんよ。私、教員免許もこれから取るくらい、子供相手も好きで大得意です。なんでもやりますよ。
司先生は体験コースとか経験豊富ですよね?」
司は少し気まずそうに答えた。
「いや、そりゃルクスで少しやってたし小さい子の指導もしたけど、恥ずかしながら勧誘活動について深く考えたことはなくて。
アイスダンス出身の男性コーチとして、特に男子生徒の獲得を期待してるなんて、ライリーさんからは言われてるんだけど……」
実叶は興味津々に聞いてきた。
「へえ……詳しく聞かせていただけませんか?」
―――翌日、マネージャールーム
ライリーは司から提出された企画書に目を通し、感嘆の声を上げた。
「よくできてますね。わかりやすいし内容もすごく筋が通っている」
そして、苦笑いと共に言った。
「私や胡荒コーチ、そして、司先生の作る資料よりずっといい」
これには、司の隣にいた胡荒コーチも苦笑いだ。
司も目を伏せながら言った。
「いえ、自分も正直、今の学生はここまで有能なのかと驚きでした。自分が書いたところはほとんどありません……」
マスメディア就職予備校などの講習も受け、インターンでも働き、超難関の試験を何十社と受け、千倍を超える倍率を潜り抜けてアナウンサーの内定を勝ち取った実叶の作成した企画書は、内容も、書類としての体裁も、共に素晴らしいものだった。
試験のワークショップ等で書かされた模擬企画書だけでも枚数を合計すればゆうに3桁になるのだから、むべなるかなである。
若く会社勤務経験のないライリーや司はもちろん、パート経験が少しあるだけの胡荒コーチの書類も比べものにならなかった。
「いや、本当に臨時雇いなのが残念なくらいですね。
ともあれ、この企画書の内容は全採用です。
司先生も、このとおりで研修と夏の体験コースの準備やっていただけますね?」
そう確認するライリーに司は問い返す。
「あの、ライリー先生や胡荒コーチの方もよろしいので?
自分は神宮の視察くらいやっておこうかなと思いますが、広報関係とかの方は……」
胡荒コーチが代わって、冗談めかした笑顔で答えた。
「広報や施設関係は私が担当ですよ。
司先生も忙しいのに、なんでもお任せはしませんよ。
実叶さんと一緒になって私の仕事まで取らないでくださいね」
そんな2人の様子を見て、ライリーは満足気だった。
「日本の夏はいつも暑くて大変だと思ってたけど、今年の夏はアツいだけじゃなく、面白い夏になりそうね」