実叶はシングルのシューズを買いに、リンクの隣のらららぽーとのスポーツ用品店に来ていた。
スケートコーナー担当の下蔵が鮮魚店かと疑うくらい威勢のいい声で迎える。
「いよっ! 実叶さん。今日は何が御入用で?」
「どうも、下蔵さん。今日はいよいよ私もシューズを買おうかと」
そう答える実叶も気合いが入っていた。
下蔵はキラキラと目を輝かせた。
「いいねえ。お姉ちゃんもシューズ買うんだ。10年ぶりくらい?」
「……そうですね」
ジュニアに上がる前にやめ、以来、スケートリンクとは距離をおいていた。貸靴で少し滑ったことぐらいはあるが……
「あの、実はスターフォックスでバイトをすることになって、それでシューズを買おうかと」
「うんうん。それならスターフォックスの従業員割しておくよ。サイズいくつ? いのりちゃんと同じメーカーとかどう?」
実叶の前に2足のスケート靴が並べられた。
一つは中級者用のモデル。もう一つはいのりと同じ最上級モデル。
カナダのメーカーが職人技の粋を凝らして作り上げ、最新テクノロジーを惜しげもなく詰め込んだその靴は、いざ、自分のサイズのモノを目前に並べられると、いのりのとお揃いだとかそういうレベルでなく、実叶の魂に働きかける輝きを放っていた。
しかし、値段は倍以上違う。バイトで稼ぐ額を超えてしまうかもしれない。
実叶も流石に値段に気後れする。
「……下蔵さんはどちらがおすすめですか?」
実叶の質問に、下蔵は穏やかに答えた。
「ノービス時代の事とはいえ、中部であれほど評価の高かった選手に最上位モデルをお見せしないなんて失礼なことはできませんから、これもお出しさせていただきました」
つまりは、裏返して言えば、流石にスタッフのバイトだけのために買うのはおすすめできないという事だろう。
グレードの高い靴は硬く履きこなしにくい。それくらいは実叶もわかっている。1Aや2回転程度までなら中級者用の靴で十分。それもわかってる。バイトではジャンプを飛ぶ事は無い。それもわかってる。そもそも10年もの長いブランクを埋めて2A以上のジャンプを飛ぶ事は難しいし、そこまでの上達をしたいわけではない。
だが、「この靴が欲しい」と思ってしまったその欲求。それに勝つ事はできなかった。
「こちら下さい。熱成形の調整もお願いします」
―――スターフォックスリンク
平日の午前、がら空きのリンクで実叶は絶望していた。
「1Tも跳べない……」
リンクに入って、ステップやターンをしてみたところ、やはりブランクの影響は感じたものの、初歩的なものに限っては割と何の問題もなく滑れた。調整してもらったばかりの靴もよく馴染んでいるように感じられた。
しかし、いざジャンプをしてみるとブランクどころか全く身体の歯車が噛み合わなかった。「ちょっと上手くいかなかった」どころではなく、成功のイメージが全く掴めない。
ジャンプはもう諦めようか。初心者向けシューズでもよかったな……
そう思ってたその時、
「やあ! 実叶さんじゃないですか」
司がリンクに入ってきた。
「あ、司先生。おはようございます。
今日はちょっと新しくシューズを買って、働く前にちょっと滑っておこうと思いまして」
「……いのりちゃんと同じシューズ、最高グレードモデルじゃないですか! 仕事以外でも跳ぶ気満々じゃないですか?」
「そうなんですけど、やってみたら1Tも跳べなくて……」
苦い表情をする実叶に、司はそれ以上に気の毒そうな顔をした。
「ブランクの間に身体も大きくなってしまいましたし、もうジャンプは跳べないのかもしれませんね」
この実叶の言葉に司は火でもつけられたかのように過剰な反応をした。
「そんな事は絶対にありません! 手伝いますから諦めないでください」
「え、ええ……」
これには実叶も驚いた。
『身体が大きくなればジャンプは跳べない。諦めた方がいい』
司が最も忌み嫌う言説だ。
そんな事はありえない。
身長が2倍に大きくなれば、体積は縦横高さで3乗の8倍なので体重は8倍になってしまうが、筋力は筋肉の断面積分、つまり2乗の4倍にしかならない……というのは実はただの単純計算である。
身体の大小で跳び方は違うが、小さい身体での跳び方は確かに格段に習得しやすく、大きい身体での跳び方はやたらと高度な技術も必要とする。
しかし、成長した長く丈夫な手脚を活用し、摩擦のない氷上の有利を活かして質量のある身体に運動エネルギーを蓄積することこそ、成長した者にしかできないフィギュアスケートのテクニックである。
これも単純計算に過ぎないが、8倍の質量の身体は同じスピードで動いただけで運動エネルギーは8倍乗せられる。大きくなった脚による一歩の距離が倍でスピードが倍なら、スピードはエネルギーに2乗でかかるので、質量増加合わせエネルギーは8倍の4倍で32倍。と、いう具合に大きな身体を有利に使える言説も枚挙にいとまがない。
第一、身体が小さい方が有利ならもっと多くの競技で男子の年少者も活躍するはずである。
極端に太った訳でなければ、跳びにくい事はあっても跳べない事は無いはず。これは司の考えというか、執念や怨念にも近い信念であった。
司は実叶から、普段の運動、体育測定成績等の聞き取りや、スケーティングの確認をしたが、こちらは問題がない。
単にジャンプ感覚の喪失の問題だと推測できた。
司はすぐにでも実叶の直面している壁を打ち破ろうと、荒っぽいが手取り早い手段を提案した。
「ちょっと提案があります。
ペアのスロージャンプの要領で、俺が補助して飛ばすやり方で一回飛んでみましょう。
なぁに。何回か跳びさえすれば、身体が跳び方を思い出してくれますよ! 」
昭和のブラウン管テレビは壊れても叩いて部品の接触を取り直せば直ることがあったというが、まさにそんな感じの、「とりあえず無理矢理飛ばせて身体感覚を取り戻す」荒療治である。
しかし、実叶は乗った。いのりのコーチである司を信頼していたからだ。
「いいですね。やってみてください」
少し考えれば、この司の提案は1Tだからと舐めて掛かった行為で少しもよろしくなかった。せめて焦らずハーネスを取り出した方がよかった。
司はアイスダンスの元選手であり、ペアの技であるスロージャンプの経験はほとんどない。
ここ数年に至っては、先日のシンクロナイズド・スケーティングのエレメンツでスロー2Sを少し、それもほとんど女性側で飛んでいるようなものを軽く補助しただけだった。
さらに、「身体が大きくなったら跳べない」という言説に対する反駁心が司の手に込めた力を無意識に倍化させていた。
「いきますよ」
「はい」
スーッ、シャッ!
助走と共に実叶のジャンプに合わせて投げる刹那
司は盛大に投げミスした。
『あ! まずい!』
実叶のジャンプに合わせて投げる力が明らかに大きい。
司は慌ててまだ実叶の身体に掛かっていた片手を引き寄せてジャンプ力を相殺しようとする。
ちなみに、スロージャンプの投げ方に、投げる途中で引き寄せて回転数を稼ぐ投げ方があり、司が偶然やってしまったのがそれである。
『え、怖!?』
実叶は1Tに必要な回転スピードを遥かに超え、光の線しか見えない世界に文字通り放り込まれた。
……シュタッ
実叶は奇跡的に着氷成功した。
スロージャンプの3Tを。
「……」
実叶は3回転を跳べた喜びに自然と笑みがこぼれたが、同時にそれ以上の怒りの青筋を顔中に浮かべた。
そして、凍りついたままの司に近づいて言った。
「……危なかったですよね?」
「いや! 流石は実叶さん! 3回転まで……」
誤魔化そうとする司に、実叶は繰り返した。
「危なかったですよね!? 1Tって言ってたのに投げミスしてましたよね!」
「はい。すいません」
身体の小さいうちにジャンプを習った方がいい明確な理由が一つある。
危険度と痛みが段違いだ。
身長2倍なら、身体の重さが8倍として落ちる高さも2倍だから、転倒の衝撃は16倍である。
身体の耐久性は骨や筋肉の断面積分4倍強くなっているとしても、痛みはプライスレス。
一つのジャンプ覚えるのに100回は転ばなきゃならないなら、その100回は痛くも危なくもなく回復力も高いうちに転んだ方がいいというのが、スケートを幼いうちから習った方がいいという理由の一つだ。
「……高い靴にしてて良かった」
最先端の熱成形素材や衝撃吸収素材をふんだんに使った実叶のシューズは着地に必要な足の力を正確にブレードに伝え、3Tの衝撃もやすやすと受け止めた。
貸し靴だったら最悪、複雑骨折コースだったかもしれない。
「いのりには優しく指導してあげて下さいね」
「はい……」
しゅんとしてしまった司をよそに、実叶は自力1Tを試してみた。
……シュタッ
本当に跳べてしまった。
たった一回、投げミスのスロージャンプによる大ケガの危機にさらされたショックで、実叶の身体は「ちゃんと跳べないとヤバい」と無理矢理感覚が繋ぎ直され、ジャンプが跳べるように対応「させられた」。荒療治極まれりである。
「……いのりには優しく指導してあげて下さいね」
大事なことなので実叶は2度繰り返した。
そんな所に、狼嵜光がリンクに入ってきた。
「あれ? 新しいスタッフ……いのりちゃんの言っていた実叶お姉さん?」