―――名古屋市、合同練習会
五里コーチは珍しい客を迎えていた。
「魚淵先生。こちらです」
魚淵は五里と話しつつリンクに向かう。
「いるかさんの失声症はどんな具合ですか?」
「日によって違いますが、全く出ない日が週に1、2日といったところです。今日は幸い声がわりと出る日みたいで。
ところで、『合同練習会なら岡崎いるかに4T指導をしても良い』ということで、ありがたい話ですが、わざわざ合同練習会の場を指定したのはなぜですか?」
魚淵はニコニコしながら答えた。
「二つ理由がありますね。
一つは営業活動です。
最近、なかなか手強い商売敵ができた上に、自力でハーネスジャンプ指導を取り入れるクラブも増えまして。
まあ、商売敵の方は競い合う相手欲しさにわざと作ったようなものですし、どこも自分のクラブの選手は自分の手で指導したいのは当然で、高難度ジャンプなら尚更人任せにしたくないものだから仕方ないんですが。
とはいえ、自分の今シーズンの目標はあと8人ほど4回転を飛ばせる事なんで。
合同練習会の場で良くも悪くも今注目の岡崎いるかさんに4T習得成功させれば良い宣伝になりますから」
五里は半ば呆れたような顔になった。
「それはどうも。
こちらも個別レッスン料割引してもらった上、成功報酬との事で、ありがたい限りなのでそれはいいのですが。
もう一つの理由は?」
魚淵は少し目を細めて答えた。
「鴗鳥慎一郎先生です。
僕、実は鴗鳥慎一郎先生のジャンプが好きなんですが、鴗鳥先生、現役時代にハーネスが元で大怪我された事あったので、ハーネスの事を嫌ってらっしゃるかと思ってたんですよ。
ところが、中部の強化委員の方から伝え聞いた話では、先月から鴗鳥先生自らハーネスを持たれての指導を始めたとの事じゃないですか。
これは見ておかねばと」
―――
いるかはリンクサイドのベンチでスマホを眺め上機嫌だった。
「あー。あの嘘つき女。3T跳んだとかフいてるよ。ふふふふ、うふふ」
その、笑みがふと消えた。
「あ。……ああん? これ、大丈夫なのか?」
そこへ五里コーチと魚淵先生が来た。
「おう。いるか。魚淵先生来たぞ。
……何見てるんだ?」
「あ、五里先生。……そういや、先生はJGP選考会でいのりちゃん見てるんだっけ。
コレ。いのりちゃん、背、デカくなり過ぎじゃね? って心配になって」
いるかは狼嵜光からラインで送られた、いのりの2Lzと光の3Lzを見せながら言った。
「いのりちゃん、光ちゃんの身長越してるよね?
去年のJGP合宿でもまだ5〜6cm下だったと思うけど、1年弱で追い越した?
しかも、光ちゃんの3Lzに合わせて2Lzって……3Lz跳べるの? って思うよね」
急激な身長増加でジャンプが跳べなくなる選手は多い。
加えて、光に異様な敵愾心を燃やすいのりが、光の3Lzに合わせて2Lzしか見せないとなれば、3Lzがもう跳べないのではないかと心配するのも無理はない。
動画に反応したのは魚淵だった。
「いのりちゃん、確かに前会った時より背が伸びてるね。まあ、司先生いるからジャンプの修正は……このルッツはまさか、鴗鳥式の錐揉みルッツ!?」
いるかからスマホを奪わんばかりに食い入るように見つめる魚淵に、いるかが若干気後れしつつ問う。
「何、その鴗鳥式の錐揉みルッツって?」
魚淵が魔王のような笑みを浮かべ、狂人の如き強火の熱量で語る。
「鴗鳥慎一郎が現役時に跳んだ高難度のルッツで、彼を銀メダリストにしたルッツと言えるものです。
助走の勢いとトゥの突きを逆方向にぶつけて、あたかも錐揉みのように回転数を稼ぐルッツで、理論上は4Lzも狙えるフォームですが、回転軸を作るのが恐ろしく難しい。
右足のトゥと左足のエッジで竹とんぼをまっすぐ飛ばすような、一筋縄ではいかないジャンプです。
夜鷹純の4Lzに対抗し金メダルを目指して編み出され、夜鷹への執念と慕情が込められた、言わば彼への恋文のようなルッツですが、慎一郎氏の現役時に4Lzまで磨き上げることは叶いませんでした。
この高難度ルッツに拘らず同じ熱量を他の4回転への挑戦にあてていたら、鴗鳥慎一郎は金メダルを取れていたかもしれないとも言われます。
彼を銅でも金でもなく、銀メダリストにしたルッツ、それがこのジャンプです」
「へえ、このヘンテコなルッツがねぇ」
怪訝な顔でそんな事を言ういるかに魚淵は噛み付く。
「ヘンテコなルッツとは何ですか!?
『他人のルッツと性行為を笑うな。Non ridere dei Lutz e del sesso degli altri.』なんてイタリアの選手の格言まであるくらい、ルッツは恋愛と同じくらい人それぞれなものなのです!」
若い娘の前で口にするのは憚られるような妄言を吐き散らす魚淵を五里コーチがなだめる。
「まあ、それは置いておいて下さい。今日はいるかに4Tを指導してくれる、そうでしょう?」
魚淵はわずかに正気を取り戻した。が、元々の本性が浮き出たままだった。
「そうでした。我が好敵手、司先生に負けてはいられませんね。
『骨を折った復帰のシーズンに4回転』程度の鴗鳥伝説は今日この日にでも再現しておかないと」
いるかはため息を吐いた。
この魚淵という男はさすらいのスナフキンのようななりをして、その本性はスケート界の高難度ジャンプ競争の過熱を喜び、糧とする武器商人だ。
しかし、もう自分も火のついた戦場に立つ一人の戦士であり、今年の全日本にも推薦で上がって来るであろう狼嵜世代を叩き潰しておかねば未来はない。そのためには手段は選んでいられない。
後輩ヅラして日和って梅雨見舞いなんて送ってくるジュニア達には思い知らさなければならない。私の原動力は怒りだ。
「観客もいる事だし。始めようか。五里先生。魚淵先生」
―――スターフォックス、トレーニングルーム
光はいるかからの返信に添付された動画に驚愕した。
「4回転トゥーループ……」
いるかの体躯から放たれる4Tは迫力が一味も二味も違った。もう誰も、いるかの完全復活を疑うものはいないだろう。
いのりちゃんにも見せてあげようと見回したが、見当たらない。
「あれ? いのりちゃんは?」
他の子から帰ってきた返事は驚くものだった。
「ついさっき、亜子ちゃんと平新谷ちゃんが救護室の美蜂先生のところに連れて行ったよ」